開店前のベル

牧野澪都は、喫茶あさつゆの会計台に置かれた真鍮のベルを見つめていた。丸い頭を押すと、少し掠れた高い音が鳴る。亡くなった恩師は、会計のたびにそのベルを一度だけ押した。

恩師は大学で近代文学を教え、授業のない日はこの店へ通っていた。澪都が就職に迷ったときも、論文を捨てようとしたときも、答えを言わず、ここで珈琲代だけ払って帰った。亡くなってから、澪都は恩師なら何を選ぶかを考える癖がついた。

彼女には、古い本を読める小さな喫茶店を開く計画があった。駅裏に空き物件を見つけ、事業計画も作った。だが保証金を振り込む期限が来ても、口座の画面を閉じてしまう。会社を辞めて失敗したら、恩師の期待を裏切る気がした。そもそも期待されたのかさえ、今では確かめられない。計画書を見せた日も、恩師は赤字を一つ入れただけで、賛成とも反対とも言わなかった。

あさつゆも今月で閉店する。店主は備品を少しずつ処分し、ベルにも値札を付けていた。澪都が買うと告げると、店主は台座の裏を見せた。そこには何年分もの細い傷があり、恩師が鳴らした回数など数えられそうになかった。

店主は研磨剤を布へ取り、ベルの頭だけを磨いた。台座の傷は残し、内部のばねを交換する。試しに一度押すと、今度は掠れず、短い音が店内へ伸びた。

包装紙を広げた店主は、ベル全体を包もうとして手を止めた。底だけを厚紙で保護し、押す部分は外へ出したまま、紐を台座へ結ぶ。持ち帰る途中でも鳴らせる形だった。会計票の品名には「装飾品」ではなく、「店舗用ベル」と記した。

澪都はその文字を見て、恩師の形見として棚へ飾るつもりだった自分に気づいた。これは思い出すための物ではなく、客が店主を呼ぶための道具だ。

店の隅で銀行アプリを開き、空き物件の保証金を振り込む。名義と金額を確かめ、実行を押した。

完了画面が出たあと、澪都はベルの頭へ指を置いた。恩師がしていたように一度ではなく、自分の店を開ける合図として、二度鳴らした。