零時の破談メールは来ない

奈央は午前零時に婚約を終わらせた。婚約者の朔也が海外転勤を受けたという噂を同僚の結城から聞き、置いていかれる前に自分から別れようと、破談メールを送信予約したのだ。翌朝、朔也が転勤を辞退していたと知った。しかしメールは既読になり、彼は何も弁解せず去った。

十年後の眠れない夜から戻った奈央は、会社のラウンジで時計を見た。二十三時五十六分。

開けられていない小瓶のシャンパン。送信予約画面。結城は前と同じ台詞を囁く。

「送るなら今だよ。捨てられる前に捨てなきゃ」

一度目の奈央は頷き、零時を指定した。今度は予約欄の《削除》を押す。

「捨てられるかどうか、本人に聞いてから決める」

結城の笑顔が止まった。

「でも、もう空港へ向かったって」

「それも本人に聞く」

奈央は朔也へ電話をかける。呼び出し音が一度、二度。前回は怖くて、その音さえ聞かなかった。

『奈央? ちょうど会社へ戻るところだ』

「海外へ行くの?」

『行かない。今日、辞退届が受理された。先に話したかったけど、正式決定まで期待させたくなくて』

胸の奥に十年分の後悔が押し寄せる。けれど泣いて謝るだけでは、同じ自分のままだ。

「黙っていたことは怒ってる。私も、噂だけで破談を決めかけた。だから今夜、二人で話したい」

電話の向こうで息を吐く音がした。

『分かった。逃げずに話す』

結城が立ち上がる。

「奈央のためを思ったのに」

「私のためなら、私に選ばせて」

そのとき結城の端末に、転勤辞退を取り消させるよう人事へ送ったメッセージが表示された。焦って画面を伏せたが遅い。奈央は内容を見てしまった。噂ではなく、彼女が作ろうとした未来だった。

二十三時五十九分、ラウンジの扉が開く。朔也が空港パンフレットを握って立っていた。

零時。前の人生なら《送信しました》と鳴った端末は静かなまま。代わりに朔也のスマートフォンへ人事から通知が届く。

《海外転勤辞退――正式受理》

彼は画面を奈央へ見せ、初めて言った。

「今度は、決める前に君と話す」

破談メールの来ない零時から、二人の婚約はようやく始め直せた。