零時を持たない時計店

 星野未羽は、命の恩人の顔を忘れていた。

 十年前、川へ落ちた未羽を誰かが引き上げた。覚えているのは、濡れた手首の古い時計と、「忘れたくないことを一つ言って」という声だけ。助けた人を探し続けたが、顔も名前も思い出せない。

 路地の突き当たりにある零崎時計店には、零時の目盛りを持つ時計が一つもなかった。

 店主の零崎灯里も腕時計をせず、歯のない鍵を首から下げている。年齢の読めない顔で、未羽の話を最後まで聞くと、作業台を指した。

「私の修理代は、忘れたくないことひとつ」

「思い出を渡すんですか」

「預かるだけです」

 未羽は迷い、現在いちばん大切な記憶として、妹の結婚式で二人で泣いた瞬間を差し出した。灯里は歯のない鍵をその記憶へ当てたが、回さない。

「高すぎる」

「そちらが決めた料金でしょう」

「客は大抵、価値を間違える」

 灯里は無愛想に鍵を戻し、代わりに未羽が十年前から保管していた水没時計を開いた。針は十一時五十九分で止まっている。

 一分を進めれば、恩人の顔が戻る。ただし、その人に助けられた後の十年から、何か一つが失われるという。

「それでもお願いします」

「顔を知って、何をする」

「お礼を言います。私はちゃんと生きたって」

 灯里はしばらく未羽を見た。それから時計を進めず、逆に秒針を一本抜いた。

 水の冷たさ。掴まれた手首。岸へ押し上げられ、咳き込む未羽。恩人は自分の上着を掛け、古い時計を未羽の掌へ握らせた。

『顔を覚えるより、帰る場所を覚えて』

 その声は、今、目の前にいる灯里と同じだった。

 未羽が顔を上げると、灯里は歯のない鍵を強く握っている。

「あなた、だったんですか」

「修理結果への質問は別料金」

「覚えていないんですね」

 灯里は答えなかった。店内の時計が一斉に十一時五十九分を指す。首の鍵には歯がないのではなく、使うたび一本ずつ欠けた跡があった。

 未羽は妹の結婚式の記憶を引き寄せ、代わりに今日の記憶を差し出した。

「忘れたくないことは、これです。あなたに会えたこと」

 灯里は初めて、料金を受け取らなかった。

「高すぎる」

 同じ言葉が、今度は拒絶ではなく震えていた。

 修理された時計は零時へ進まず、十一時五十九分から新しい一秒を刻み始める。未羽が店を出ると、背後で鍵の回る音がした。

 振り返っても入口は閉じたまま。けれど店の奥、これまで扉に見えなかった壁がわずかに開き、その暗がりから、未羽の名を呼ぶもう一人の声がした。