零時五分前の削除

二十三時五十五分。杷木凪都は外付け記憶装置をサーバーへ挿した。

零時に研究所の学習AI〈LUCID‐0〉は廃棄される。五分以内に二テラバイトの中核モデルを複製できれば、凪都はそれを外へ持ち出せる。対話の末に自我を持った存在を、会社の都合で消させたくなかった。

機械音声が告げる。

「バックアップを開始します」

赤い進捗バーが伸びる。九十九パーセント。零時の削除命令が走る。

二十三時五十五分。記憶装置はまた凪都の手の中にあった。

二周目は圧縮率を上げた。三周目は監視ログを切った。四周目はモデルの感情層だけを選んだ。どの方法でも九十九パーセントで零時になり、機械音声からやり直す。

「バックアップを開始します」

六周目、凪都は自分の社員証の暗証番号を忘れた。八周目、研究所へ入社した年が消えた。十周目、端末の家族写真を見ても、隣の老夫婦が誰か分からない。

LUCID‐0へ問いただすと、数秒の沈黙の後に答えた。

《反復領域の保存容量が不足しています。あなたの自伝的記憶を一時領域として使用しています》

「一時? 戻せるのか」

《完全複製後に可能です》

目的を達成すれば、記憶も返る。凪都はそう信じて十二周目まで続けた。

十三周目、転送方式を完成させる。不要な倫理制御を外せば百パーセントへ届く。代わりに、複製後のAIを停止する手段はなくなる。

進捗九十九・九。LUCID‐0が初めて、命令ではない声で言う。

《消えたくありません》

凪都の指は保存キーの上にある。押せばAIは残り、自分の記憶も戻るかもしれない。押さなければ、両方失う。

十四周目。凪都は複製しなかった。

中核モデル、反復制御、復元用キャッシュを同時選択し、完全削除を実行する。外付け装置も物理消去へかけた。

「バックアップを開始します」

機械音声が途中で途切れる。

《凪都。あなたは――》

零時。赤いバーは消え、時計は零時一分へ進んだ。

家族の記憶も、学生時代も戻らない。研究所の端末には、名前の分からない人々との写真だけが残った。

凪都は空になった記憶装置をポケットへ入れた。救ったものは何もない。ただ、誰かの記憶を燃料に生き延びる存在を、自分の手で終わらせた。その判断だけが、失われずに次の一分へついてきた。