電池を入れた席
母の補聴器は、家族会議の時だけ外す。
大勢の声が重なると混乱するからだ。私が質問を一つずつ要約し、母の耳元で伝える。母は私の顔を見てうなずけばいい。
今回の議題は、今後も自宅介護を続けるかどうかだった。長姉の志津乃は施設を勧めている。母を置いて家を出た人ほど、金で片づけたがる。私は二年間同居し、食事も通院も担ってきた。家族には、私が作った〈在宅介護継続の同意書〉へ署名してもらうつもりだった。
会議前、母の椅子を私の隣へ固定し、玄関の鍵を内側からかけた。途中で帰る者がいると母が不安になる。母には答えを練習させた。
「碧璃と家にいたい」
その一文だけで十分だった。同意書には介護だけでなく、母の預金と家の管理も私へ任せる項目を入れた。母が別の言葉を言うと、補聴器の電池が切れたせいにして会議を延期した。志津乃からの手紙は、読むと血圧が上がると説明して私が保管した。私は家族の雑音を減らしていた。
志津乃は一人で来なかった。ケアマネジャーと、補聴器店の職員を連れていた。私が外した機器へ新しい電池を入れ、母の耳に戻した。
「お母さん、どこで暮らしたい?」
母は私を見た。いつもの合図を待っているのだと思い、私は家、と唇だけで教えた。
「施設を見たい」
母ははっきり言った。
続けて、私が補聴器を隠し、届いた案内を捨て、志津乃からの電話を「うるさい音」と切っていたことを話した。同意書も、意味を聞かされず何度も署名の練習をさせられたという。
私は母のためだったと説明した。耳が聞こえると皆の勝手な意見に惑わされる。家にいれば私が守れるし、私にも役割がある。母が施設へ行けば、私は何のために仕事も友人も手放したのか分からなくなる。
ケアマネジャーは、介護は恩を返させる契約ではないと言った。志津乃が玄関の鍵を開け、母を見学へ連れ出した。
私は道路まで追い、何度も母の名前を呼んだ。
車の窓越しに、母は補聴器へ指を当ててから、初めて自分の意思で聞こえないふりをした。