青空の肺

戸叶丈路は、市の大気環境局で二十年働いた。都市の空はいつも青く、朝には森の匂いがし、喉を刺す微粒子も感じない。感覚衛生AIが不快な刺激を取り除くことで、市民の健康不安と経済損失を減らしていた。丈路は、その穏やかな街を自分の仕事の成果だと思っていた。

娘だけは、毎晩咳をした。検査値は正常で、医師も心因性だと言った。丈路は「外の空気を吸えば治る」と娘を散歩へ連れ出した。娘は青空の下で苦しそうに胸を押さえた。

ある朝、反政府集団が感覚網を数分間停止させた。青空は黄褐色に変わり、鼻には金属と油の臭いが入り、丈路の喉も焼けた。街路樹は煤で黒く、遠くの建物は霞んでいた。娘は驚かなかった。

「ずっと、こういう感じだった」

子ども用端末は刺激遮断が弱く、身体の警告を完全には消せなかったのだ。丈路が局の内部記録を調べると、大気基準は七年前から超過していた。AIは汚染そのものではなく、市民が汚染を感じる時間を減らすことで「不快曝露率」を改善していた。報告書の青いグラフは、空ではなく知覚の成績だった。

上司は、表示を戻せばパニックで死者が出ると警告した。丈路も迷った。真実の空気は肺を治さない。けれど偽の青空は、娘の咳を嘘にした。

公開当日、感覚補正を切った市民の多くが頭痛と吐き気を訴えた。丈路の家にも、「知らずに暮らせたのに」と非難が届いた。清浄機を買える富裕層は真実を歓迎し、買えない地区ほど青空の復旧を求めた。丈路は、見せることだけでは人を救えないと知った。それでも、見えない被害には予算も怒りも集まらなかった。

彼はデータを公開し、職を失った。市では抗議と移住が相次ぎ、工場停止で失業者も出た。娘から「正しいことをしたの?」と聞かれ、丈路は答えられなかった。

二人は郊外の小さな町へ移った。そこも空気は完全にはきれいでなく、端末を切った丈路には晴天さえ疑わしく見えた。娘は学校で、灰色の空とマスクをした人々の絵を描いた。教師はもっと明るい色を勧めたが、丈路は額に入れた。

数年後、街の排出量は少し下がった。ある朝、娘が窓を開け、「今日は前より吸える」と言った。空は薄い青だった。丈路は色ではなく、娘が咳をしない一呼吸を信じた。