非常階段に残すもの
避難時に十三階の踊り場へ着いた者は、戻る場所を証明する物を一つ残す。
借り物は認められない。鍵なら自分が開ける扉、写真なら自分が写る家、社員証なら自分の席がある職場のものに限る。何も置かなければ、十二階と十四階の間を歩き続ける。置いた物は取り戻してはいけない。
宵野岳は、火災報知器が鳴ったとき十二階にいた。
実際の火事か訓練か、社内放送は言わなかった。社員たちは慌てず非常階段へ並び、十三階の踊り場で一人ずつ物を置いた。結婚指輪、子供の写真、家の鍵、食べかけの弁当。置くたび下り階段が一段増えた。
宵野には戻る場所がなかった。
会社はその日が最終出勤だった。部屋も月末で解約する。故郷の家は売られ、両親はいない。財布の中の写真には、自分ではなく、五年前に亡くなった恋人だけが写っている。
列が進み、宵野の番になった。
ポケットの底に、片方だけの手袋があった。恋人が編んだ灰色の手袋。右手用は葬儀の日になくし、左手用だけ捨てられず持ち歩いていた。戻る場所を証明する物ではない。むしろ、戻らなかった人の形だった。
後ろの同僚が急かした。
宵野は左手袋を踊り場へ置いた。
階段は現れなかった。
規則どおりである。宵野は手袋を拾い直せない。十四階へ戻ろうとしても、扉は壁になっていた。十二階へ上っても、十三階へ戻る。何周しても、灰色の手袋が同じ場所にある。
十三周目、手袋の中で何かが動いた。
失くしたはずの右手袋が、左手袋の指先から裏返るように出てきた。二つは並び、誰もいない手を包む形になった。
踊り場の壁に、古い部屋の扉が現れた。恋人と暮らした部屋だった。鍵穴の周りには、引っ越しのとき二人でつけた傷がある。
宵野は開けなかった。
戻る場所を証明したのは手袋であって、戻らなければならないとは規則にない。
彼は二つの手袋を残し、新しく現れた下り階段を進んだ。地上へ出ると、報知器は止まり、会社のビルには十三階の窓が一列増えていた。宵野の元の席だけが、その窓の向こうで明るい。
踊り場では、灰色の手袋が左右から重なり合っていた。
中に手はないのに、十本の指が古い部屋の扉を何度もノックした。十三回目だけ、扉の内側から同じ手袋が一つ、静かにノックを返した。