靴を脱ぐまで
引っ越しの日、母は息子を急かした。
祖母から受け継いだ古い家を売り、駅に近い部屋へ移る。
息子は玄関で靴を履かず、
「ここがいい」
と繰り返した。
荷物の山で、自分たちの靴が入れ替わっていた。
母は息子の小さな運動靴へ、息子は母の大きな靴へ足を入れた。
そのまま同時に敷居を越えると、二人の魂が入れ替わった。
靴を脱ぐまで戻れない。
息子の体になった母は、家が急に巨大になったと感じた。
大人たちは頭上で引っ越しの相談をし、本人へ聞かず箱を運ぶ。
壁の身長線を残してほしいと言っても、
「写真に撮ったでしょう」
と軽く返される。
写真と、毎朝指で触った傷は同じではなかった。
母の体になった息子は、大きな靴でよろめいた。
腰が痛く、電話が鳴り続ける。
売却の手続き。
新居の費用。
祖母の施設から届く書類。
母はこの家が嫌いだから出るのではなく、一人で守れなくなったことを誰にも言えず、決断を急いでいた。
二人は玄関の外で立ち止まった。
靴を脱げば元へ戻る。
けれど息子の体の母が言った。
「まだ、さよならしてないね」
引っ越し業者へ三十分待ってもらった。
二人は互いの体で家を一周した。
息子は母の手で柱の身長線をなぞった。
母は息子の短い足で、祖母の部屋から庭まで歩いた。
子どもの頃には長い道だったことを思い出した。
息子が残したかったのは家全部ではない。
階段下の隠れ場所。
庭の石。
祖母が朝座った窓辺。
三つだけだった。
母が残したかったのは、祖母に家を売ると伝えた日の罪悪感だった。
物ではないので、どこへ持っていけばよいか分からなかった。
二人は窓辺の板を小さく外してもらい、庭の石を一つ拾った。
身長線は紙へ写し、新居の壁へ貼ることにした。
隠れ場所は持ち出せない。
代わりに新居で、息子が自分で一つ作る。
玄関へ戻り、靴を脱いだ。
元の体へ戻る。
母は息子を抱こうとして、先に尋ねた。
「今、抱いていい?」
息子はうなずいた。
新しい部屋は狭く、最初は他人の家のようだった。
窓辺の板を棚にし、石を玄関へ置き、段ボールで隠れ場所を作った。
家を手放せば、そこで見た高さまで失うわけではない。
相手の靴で一度歩いた道は、新しい敷居の向こうにも続いていた。