風速十五メートル
《風速八メートル》
矢代木湊の補強図は、現場事務所のごみ箱に入った。
高層棟の外周足場。台風は翌夜に接近する。養生シートは、弱い風でも大きな帆のように膨らんでいた。湊は柱間隔と固定金具を測り直し、北面へ筋交いを追加する計算を出した。
「予定にない資材は使わない」
現場代理人の壬生川啓三は図面を二つに折った。
「怖がる新人に現場は任せられん」
《風速十メートル》
湊は資材置場の鉄管で模型を組み、養生シートへ風が当たる角度を示した。年長の鳶が「嫌な揺れだ」と言う。
壬生川は模型を靴で崩した。
「職人まで不安にさせるな。遅れはお前の評価で埋め合わせる」
湊は作業員を足場へ上げず、危険報告を電子日報へ残した。報告には模型の写真、気象台の予報、鳶の証言を添えた。壬生川は添付を削除し、本文へ《過剰判断》の印を付けて返した。
《風速十二メートル》
発注者の安全確認が予定より早く始まった。
壬生川はごみ箱から補強図を拾い、机へ広げる。
「念のため、私が追加案を作成しました。若手には難しい計算です」
足場の下では、作業員がヘルメットをかぶったまま待っていた。壬生川は、湊が止めたせいだと聞こえる声で言った。
発注者の技術責任者が、図面右下の番号を端末へ入力する。
クラウドに初版が開いた。作成者は矢代木湊。風向、シート開口率、固定金具の余裕まで計算されている。壬生川の変更は二件。作成者名を自分へ替え、資材数を減らしただけだった。
「最終責任者として調整した」
《風速十四メートル》
事務所の窓が低く鳴り、外のシートが一斉に持ち上がった。作業員の一人が無線で、北面の固定金具が軋んでいると告げる。
現行図と湊の案が並ぶ。現行図には北面の倒壊余裕がない。
《風速十五メートル》
警報が鳴った。
元請会社の工事部長は、代理人用の電子鍵を壬生川から受け取り、湊の図面へ《緊急承認》を付けた。
「壬生川の現場代理人権限を解除し、矢代木案で補強を開始します」