馬の吐息と根菜カレー
乗馬クラブの片隅に、食堂「蹄の音」がある。
窓のすぐ外は放牧場で、栗毛の馬ルウがよく柵越しに店内を覗く。客がカレーを食べていても欲しがらず、ただ大きな息を吐いて硝子を白く曇らせる。
門倉志帆は、実家を売った日の帰りに立ち寄った。
父母を亡くしてから五年、誰も住まない家の庭を手入れし、月に一度窓を開けてきた。維持できないと分かっていても、売買契約へ判を押すと、自分から故郷を消したような気がした。
鍵は不動産会社へ渡した。鞄の中には、古い表札から外した小さな釘が一本だけある。
「根菜カレー、辛さは普通で?」
店主の欧介が訊く。
「甘口にしてください」
「珍しいですね」
「今日は、強い味が無理みたいです」
皿には、大きく切った蓮根、牛蒡、人参、里芋が入っていた。香辛料の匂いは穏やかで、すりおろした林檎の甘さが湯気に混じる。
志帆は里芋を匙で割った。ねっとりした中身へカレーが絡み、噛むと土の匂いに似た甘さが広がった。
「根っこばかりですね」
「冬は地面の下が頼りになります」
「掘り出されたら、根っこじゃなくなる」
「料理にはなる」
窓の外でルウが片脚を休め、三本脚で立っている。
「倒れないんですか」
「馬は片方ずつ休むんです」
「立ったまま?」
「完全に眠るときは横になります。でも、少し休むならこれで足りる」
欧介は福神漬けの小皿を足した。
「帰る家がなくなった気がします」
「今住んでる部屋は?」
「家というより、寝る場所です」
「なら、これから匂いを増やせばいい。カレーでも、洗濯物でも」
志帆は実家の台所を思い出した。母の煮物、父が焦がした秋刀魚、雨の日の畳。家を家にしていたのは壁ではなく、何度も染みた匂いだったのかもしれない。
食べ終える頃、志帆は欧介に根菜カレーの作り方を聞いた。完璧な分量ではなく、「牛蒡は先に炒める」「林檎は最後」という二つだけをメモした。
外へ出ると、ルウが鼻先を寄せてきた。温かな息が志帆の手の甲へかかり、すぐ白い霧になった。
鞄の中の釘は小さく、もう何も留められない。それでも捨てずに持ち帰ろうと思った。
今夜、新しい部屋で牛蒡を炒める。油と土とカレー粉の匂いが壁へ残ったとき、そこは少しだけ、帰る場所になる。