魔法が解ける前に
卒業前の最後の教室掃除で、誰かが言った。
「電気つけないで」
窓から差す夕日だけで、教室は十分明るかった。
黒板も、机も、制服も、全部オレンジ色に染まっていた。普段なら気づかない傷や埃まで、きれいに見えた。
三年間使った教室ではない。
このクラスになって一年だけ。
それでも、席替えのたび一喜一憂し、文化祭で徹夜し、受験前には誰もが静かになった場所だった。
一人が黒板へ書いた。
『あと五分』
マジックアワーが終わるまでの時間らしい。
みんなで掃除をやめた。
窓際へ集まり、オレンジ色の街を見た。校門から伸びる影、駅へ急ぐ生徒、屋上のフェンス。見慣れた景色なのに、明日からは思い出としてしか見られない気がした。
「写真撮ろう」
スマートフォンを教卓へ置き、タイマーを設定した。
けれど誰も顔を向けなかった。
黒板へ映る影を撮ることにした。
三十人分の影が、長く伸びて重なる。誰が誰か分からない。
「これ、卒業アルバムに使えないね」
「顔ないし」
「だからいいんじゃない」
シャッターが切れた。
残り三分。
誰かが泣き始めた。
誰かが笑った。
担任は教室の後ろで、窓を閉めるふりをして目をこすった。
残り一分。
黒板の『あと五分』を消そうとする人はいなかった。
夕日が校舎の向こうへ沈む。
オレンジ色が一気に薄くなり、教室が青くなる。
「終わった」
誰かが言った。
その瞬間、下校時刻の放送が流れた。
蛍光灯をつける。
魔法は解けた。
机は傷だらけで、床には掃除し残した埃があり、黒板の字も白く戻った。
それでも、さっきまでの色を全員が覚えていた。
卒業式のあと、クラスの共有アルバムに影の写真が上がった。
誰かが一人ずつ、自分の影だと思う場所へ印をつけ始めた。
意見が割れた。
同じ影を三人が自分だと言い、誰にも選ばれない影もあった。
最後には、印を全部消した。
誰が誰でもいい。
あの五分間、私たちは同じ教室の光の中にいた。
終わりの予感は、終わりそのものではなかった。
魔法が解けたあとも、同じ色を覚えている人がいること。
それが、学校を出た私たちに残った、いちばん確かな続きだった。