魔王の威圧とやさしいクッキー

菓子店〈小さな冠〉の扉が開く前に、窓硝子が震えた。

黒い鎧の魔王ヴァルグが立っている。彼が一歩進むだけで石畳に亀裂が走り、向かいの店はすべて戸を閉めた。生まれつき威圧が強すぎて、買い物をしようにも店員が気絶する。明日は娘の誕生日なのに、自分の手で菓子一つ買えないことが、どの敗戦より悔しいらしい。

手甲の隙間から、小さな買い物袋が見えていた。娘が渡した銅貨三枚と、丸い菓子の絵が入っている。部下に買わせれば済む。それでも今年は『父上が選んだものがいい』と言われた。国を震わせる力が、たった一人の願いの前では何の役にも立たなかった。

「入れば、そなたも倒れる」

店主キアンは扉越しに答えた。

「倒れる前に、一枚食べてください」

小窓から差し出したのは、笑顔の形をした素朴なクッキーだった。剣も呪符も使っていない。

「やさしいクッキーです。食べた人の威圧を、一時間だけ温かさへ変えます」

「我の力を封じる菓子か」

「力はそのままです。周りへ出す形だけ変わります」

ヴァルグは二本の指でクッキーをつまんだ。大魔法でも砕けない手甲なのに、菓子は割れなかった。ひと口かじる。バターと黒糖の香りが広がった瞬間、店を押し潰していた空気がふっと軽くなった。

石畳の亀裂から、小さな草が一本起き上がる。

ヴァルグは恐る恐る扉を開けた。ドアベルは壊れず、普通にちりんと鳴った。キアンも立ったままだった。

「恐ろしくないのか」

「少し大きなお客さまに見えます」

魔王は店内を見回し、椅子へ座った。椅子も床も砕けない。掌に残った半分をゆっくり食べ、長い沈黙のあと、小さく言った。

「娘と並んで店へ入れる」

値段は銅貨三枚だった。ヴァルグは魔王国の大金貨を一枚置いた。

「同じものを百枚。余りは、我を見ただけで逃げる部下たちに配る」

「釣り銭がありません」

「では次の百枚の前金だ」

彼は扉を自分の手で静かに閉め、亀裂を増やさず帰っていった。

キアンが巨大な金貨を両腕で起こした、そのとき。

ちりん、と二度目のドアベルが鳴った。