魔王の威圧を消す無害香
薬屋《日だまり》へ魔王が来た日、店先の花が全部しおれた。
黒い角を持つグラウスが一歩進むたび、薬瓶が震え、壁の鼠まで気絶する。
店主アゼリアは乳鉢を押さえながら尋ねた。
「何を治したいのです?」
「我が威圧だ」
魔王は戦争を終わらせるため、今夜、人間の将軍へ降伏条件を提示するつもりだった。
だが彼の魔力は強すぎる。近づいた者は恐怖で膝をつき、話を聞く前に剣を抜く。昨日の使者も、魔王が「和平」と言う前に窓から逃げた。
「弱くなる薬を寄越せ」
「体を弱らせる薬なら、会談で殺されます」
「では威圧だけを消せ」
「一時間なら」
アゼリアが取り出したのは、薄桃色の香油だった。
「無害香。あなたから漏れる殺気へ、害意がないという匂いを被せます」
「花の香りか」
「焼きたてのパンです」
「魔王にパンの匂いをつけるな」
「嫌なら戦争を続けてください」
グラウスは長い沈黙の末、角の付け根へ一滴塗った。
甘く香ばしい匂いが広がる。
震えていた瓶が止まり、気絶していた鼠が目を覚ました。しおれた花も一本ずつ顔を上げる。
何より、店の隅に隠れていた野良猫が出てきて、魔王の靴へ頬を擦りつけた。
グラウスは固まった。
「我を恐れぬ」
「今は、温かいパン棚くらいに思っています」
「威厳がない」
「和平に威厳は必要ですか?」
魔王は猫を追い払おうと手を上げ、途中でやめた。代わりに不器用な指で頭を撫でる。猫は喉を鳴らした。
「一時間、確実だな」
「鐘が六十回鳴るまで」
グラウスは黒金貨を一枚置いた。国庫を買える額だったので、アゼリアは銅貨一枚だけ受け取り、残りを返す。
「薬一滴の値段です」
「我から取らぬのか」
「最初の客だけ安くする趣味はありません。誰にでも同じです」
魔王は銅貨の価値を初めて知った顔をし、香油を懐へ入れた。
「会談が成立したら、同じものを百本注文する。兵が互いに剣を抜かず、帰還できるように」
そう言って店を出る。花は枯れず、猫も後を追った。
一時間後、遠くの城壁に白旗が上がった。
アゼリアが『無害香・残り五瓶』と札を書き換えた、そのとき。
ちりん。
扉の曇り硝子に、白旗を肩へ掛けた人間軍の将軍の影が映っていた。