鯛の頬に残る熱
春日井岳人は、明日から競合会社の社員になる。勤めていた部品商社が倒産し、取引先だった会社に拾われた。
倒産説明会の日、岳人は最後まで事務所に残り、顧客へ謝罪の電話をかけた。その声を聞いていた取引先の部長が、後日、採用面接を用意してくれた。働き方を見てくれた結果だと思いたい一方、仲間の席をまたいで先へ出た感覚も消えない。
元の同僚十五人のうち、採用されたのは岳人を含め三人だけだった。声をかけられなかった仲間からは「お前は先方に気に入られてたからな」と言われた。冗談の調子だったが、岳人は笑えなかった。
明日の席は、以前なら価格交渉で向かい合っていた営業部の隣だと聞いた。顔を知る人ほど、何を話せばいいのか分からない。
新しい会社からは、旧社の顧客情報や資料を持ち込まないよう厳しく言われている。当然だと思う。それでも机を片づけたとき、古い社章だけは捨てられず、財布へ入れた。明日それを持っていけば、未練がましい。置いていけば、十年を裏切るような気がする。
居酒屋「潮目」で、店主は鯛のかぶと煮を小鍋から出した。醤油色の煮汁がふつふつと音を立て、魚と生姜の濃い匂いが湯気に混じる。頬の身へ箸を入れると、白い肉が骨からほろりと外れた。
「食べるところ、まだありますか」
「頬に残ってる」
店主は鯛の向きを少し変えた。
岳人は新しい名刺の画像を開いた。社名の下に、自分の名前がある。明日の自己紹介で「旧社では」と何度も言えば、周囲は扱いに困るだろう。かといって、何もなかった顔もできない。
財布から古い社章を取り出し、内側の小さなポケットへ移した。明日は新しい社員証を首から下げる。古い社章は見せないが、家へ置いてもいかない。出社前、元同僚のチャットへ『初日、行ってくる。落ち着いたら求人情報を送る』とだけ書くことにした。助けられる保証はないから、紹介するとは言わない。
新しい会社で歓迎されるか、旧社のやり方を嫌われるかは分からない。岳人は頬肉を噛んだ。甘辛い煮汁の奥に生姜の熱があり、骨のそばだけ、ほかより濃い味が残っていた。