鯛茶漬けの湯

閉店時刻ちょうど、店主が暖簾を外すと、その向こうに若い客が立っていた。ネクタイはほどけ、目の下に薄い影がある。

「食事、もう終わりですよね」

店主は厨房を振り返った。

「鯛茶漬けなら。飯が一膳、残ってる」

客は何も言わず、深く頭を下げた。

丼の白い飯へ、胡麻だれをまとった鯛が並べられる。店主が熱い出汁を注ぐと、鯛の縁がゆっくり白くなり、海苔と胡麻の香りが湯気に乗った。出汁が米の隙間へ入る音は、さらさらと小さかった。

客は広告会社で働いている。三週間、毎日終電近くまで残った。明日の午前には企画書を提出しなければならないが、画面を見ても言葉がつながらない。上司へ休みたいと書いては消し、「若いうちは無理が利く」と言われた声を思い出した。

今夜も帰宅して続きをするつもりだった。鞄には会社の端末が入り、充電器まで持ち帰っている。

鯛を一切れすくうと、表面は出汁で温まり、中心はまだ刺身の冷たさを残していた。

「これ、時間を置くと全部火が通りますね」

客が言うと、店主は急須を片づけながら答えた。

「湯は戻せません」

叱る声ではなかった。

客は匙で米をすくった。胡麻だれの濃さが出汁でほどけ、鯛の脂が薄く広がる。熱いところと冷たいところが一口の中にあり、どちらもやがて同じ温度になっていった。

スマートフォンで会社の連絡画面を開く。明日の朝、上司へ送る文面を作った。

《体調が戻らないため、午前休を取ります。企画書の現状版は共有フォルダへ置きました。午後に進め方を相談させてください》

一日全部を休む勇気は出なかった。上司が認めるかも分からない。企画書は未完成で、締切も消えない。それでも、眠れない頭へさらに湯を注ぎ続ける前に、半日だけ火から外すことにした。

送信予約を朝六時半に入れ、会社の端末を鞄の底へしまった。

店主が入口の灯りを消した。丼の最後には、出汁を吸って柔らかくなった米が残った。匙でゆっくり飲み込むと、鯛と胡麻の淡い熱が、冷えていた腹の底へ静かに広がった。