黎明の代金

東の塔が白み始めたとき、避難民はまだ半分しか地下道を抜けていなかった。

夜が明ければ、包囲軍の鏡砲が出口を照らし、谷を渡る者は一人残らず焼かれる。アルネクは塔の最上段で砂時計を伏せ、暮色王と呼ばれる悪魔へ夜の延長を願った。

契約は、夜明けを一刻遅らせるごとに、アルネクの身体から色を一つ奪い、その色に結びついた記憶も消すというものだった。

「まず赤を」

昇りかけた太陽が地平線の下へ戻る。

アルネクの血から赤が消え、傷口を流れる液体は透明になった。母の赤い肩掛け、初めて見た火事、戦友の血。その色を含む記憶が穴になる。

一刻後、伝令の少女メサラが階段を駆け上がった。

「まだ三百人」

「青を払う」

空の青が彼の瞳から抜け、目は灰色になる。川、夏空、愛した人の瞳を思い出せなくなった。

三刻目は緑。故郷の森も、薬草の見分け方も消える。

四刻目は金。貨幣、麦畑、朝日に光る髪。アルネクの皮膚から温かな色が失われ、蝋のように白くなった。

メサラが戻る。

「あと百人です。子どもが多くて」

地平線は再び明るい。暮色王が囁く。

――残る大きな色は黒と白。黒を渡せば、文字、影、夜そのものの記憶が消える。おまえの名を書いた墨も、心から読めなくなる。

アルネクは腰の名札を見た。黒い文字で自分の名がある。

「黒を」

世界からではなく、彼の中だけから黒が抜けた。髪は無色になり、瞳孔は薄く透ける。名札の線は見えるのに、それを文字として結べない。夜という言葉の意味も失った。

鏡砲の兵たちは、来ない朝に混乱している。

五刻目の終わり、メサラが最後の報告を持ってきた。

「あと一人。歩けない老人です」

空は限界まで白んでいた。

残る色は白。

――白を渡せば、おまえの骨、歯、目の光、その輪郭を世界が見分けられなくなる。

アルネクは砂時計へ手を置いた。

「払う」

最後の一刻が夜へ継ぎ足された。

彼の身体から白が消えた。黒も白もない身体は、塔の石を透かす薄い影になる。骨の境がなくなり、指が何本あるか自分でも分からない。

やがて谷の向こうで、メサラが松明を三度振った。全員が地下道を出た合図。

アルネクは砂時計を割った。

夜明けが一気に来る。鏡砲が谷を焼いたが、そこには誰もいない。避難民は山陰へ消えていた。

メサラが塔へ戻ったとき、部屋は空に見えた。

「アルネクさん?」

呼び声に、窓辺の透明な輪郭が振り向く。

その者は、自分が呼ばれたことを理解できなかった。黒い文字を失い、名を読めない。白い骨を失い、身体の境界も保てない。

朝日が差すと、輪郭は光に溶けた。

床には色のない名札だけが残った。メサラはそこに誰の名が書かれていたのか思い出そうとしたが、文字は透けたまま、どの色にも戻らなかった。