OPENを包む
舟生奏絵は、喫茶「栞木」の最終営業日に、入口の札を買うことにした。
木の板の片面に「OPEN」、裏面に「CLOSED」。白い文字は擦れ、吊り紐は何度も結び直されている。四十五年間、朝と夜を分けてきた札だった。
閉店まであと十分。店内にいる客は奏絵ひとりだ。
彼女のスマートフォンには、小さな空き店舗の申込画面が開いている。週末だけ古本と珈琲を出す場所を作りたいと、三年言い続けてきた。貯金は十分とは言えず、会社を辞めるつもりもない。だから「今ではない」と何度も閉じた。
見つけた物件は、駅から遠い六坪の部屋だった。毎週二日なら借りられる条件で、申込期限は今夜。落ちても失うものは少ない。それでも、審査に通ったあとの責任を想像すると指が止まる。
「この札も売りますか」
店主は入口から札を外した。長年の日焼けで、CLOSEDの面は濃く、OPENの面だけ少し白い。昼の光を受けた時間の差だった。
店主は濡らした布で両面を拭いた。文字の剥げを塗り直しはしない。乾かすあいだにレジを打ち、最後の売上として帳面へ記す。
包装紙へ載せるとき、店主はOPENの面を上にした。吊り紐は包みの外へ出し、結び目をほどかなかった。受け取った人が、紙を全部外す前でも壁へ掛けられる形だった。
奏絵は会計台の端で、申込画面を開き直す。
業種欄へ「古書・喫茶」と入力する。営業予定日は土曜と日曜。店名の欄だけで迷い、目の前の札を見た。
まだ名前は決めず、「仮称」と書いて先へ進む。
申込を送信すると、完了画面が出た。開業が決まったわけではない。審査も契約も準備も残っている。夢が叶う物語なら、今はまだ最初の一行にも届いていない。
店主は何も尋ねず、奏絵へ包みを渡した。
それから入口の灯りを消す。札を失った扉には、開いているとも閉じているとも書かれていない。
奏絵は外へ出て、包みから伸びた吊り紐を握った。紙の下では、OPENの文字が上を向いている。
閉まる店から受け取ったのは、続けろという言葉ではなかった。
自分で開ける日を決めたら、その日に裏返せる一枚の札だった。