『最後のBCC』

執行役員選考会で、候補者の北原岳人は匿名通報を一笑した。

〈北原は重大不具合の試験結果を削除するよう部下へ命じた〉

添付は短いメールの画像だった。

〈赤判定を消し、提出版を作り直せ。責任は現場判断とする〉

北原は椅子にもたれた。

「差出人欄がない。昇進を妨害したい者の捏造です」

選考委員長の秋月篤志も、証拠として弱いと認めかけた。

コンプライアンス責任者の牧瀬伶が、メール配送記録を開いた。

画像と同じ本文の原本が存在した。送信者は北原、宛先は品質課長。CCは空欄だった。

北原は、端末を乗っ取られたと言った。

「その時間は役員会議室にいた。送れるはずがない」

牧瀬は会議室予約を表示した。確かに北原は出席中。ただし予約の添付資料を更新するため、北原のタブレットが社内ネットワークへ接続している。送信端末番号も同じだった。

「秘書が操作した可能性がある」

「では、BCCを見ましょう」

配送記録の折り畳まれた欄が開く。BCCには北原の私用メールアドレスが入っていた。会社の端末を離れても命令の証拠を握り、必要なら部下だけを切れるよう、自分で控えを送っていたのだ。

さらに匿名通報の添付画像は、その私用受信箱から作成されていた。投稿端末も北原の役員用タブレット。事故が公表される直前、北原は自分で通報し、命令文だけを見せて〈現場が勝手に実行した〉という説明を用意していた。

「内部告発まで自作したのか」

秋月の声が低くなる。

北原は、会社を守るための危機管理だったと言った。

牧瀬は、処分予定だった品質課長の申立書を机へ置いた。彼は命令に従わず、削除前の試験表を保全していた。

秋月は執行役員の推薦票を破いた。

「北原岳人の昇進を否決する。品質課長の解雇案は撤回し、保全行為を正式に評価する」

牧瀬は品質課長が保全した原本のハッシュ値を示した。北原の命令メールが送られる前後で、赤判定だけが消され、提出版の作成者は北原の秘書権限になっている。しかし秘書の社員証はその日、海外支社にあった。権限を代理使用した端末は北原のタブレットだった。北原が〈部下の暴走〉と題した説明資料を作り始めた時刻も、匿名通報の五分前。選考会は昇進審査から、証拠保全の立会いへ変わっていた。

最後のBCCは、未来の保険ではなく、北原の職歴に打たれた終止符になった。