『最後のセルは空ではない』

次期社長を決める取締役会で、最有力候補は席を外されていた。

競合会社との密会記録が見つかり、就任案は撤回。代わりに財務担当役員が推薦されていた。

議長が採決へ進もうとしたとき、社長室の元秘書が退職時に残したファイルが開かれた。名前は「最後のセルは空ではない.xlsx」。

財務担当役員は穏やかに言った。

「退職者の私見で取締役会を遅らせるべきではありません」

表には、役員会議と来客予定が十年分記録されていた。最有力候補が競合と会ったとされる日、予定欄は空白だった。

財務担当役員は、密会だから記録がないのだと指摘した。

監査役が一番右端、通常は使わない列までスクロールした。退職した秘書は、削除された予定の履歴を自動保存していた。問題の日には、会議室予約が一件作られている。作成日は密会の翌日ではなく、三か月後。社長選考が始まった翌朝だった。

予約を作成したのは財務担当役員の秘書アカウント。

「秘書が誤って過去日で登録しただけです」

その秘書は否定した。作成時刻には空港におり、会社への接続履歴もない。使用端末は財務担当役員室だった。

財務担当役員は、代理で予定を整理したと説明を変えた。

監査役は添付メールを表示した。架空の予約通知は最有力候補へ送られず、財務担当役員と調査会社だけにCCされていた。その二分後、調査会社から「密会記録を確認した」と返信がある。

「日付の入力ミスを、調査会社が誤解した」

退職者のファイルの最後のセルには、音声ではなく短いメモが入っていた。

――過去の予約は通知されない。通知を受けたと主張する調査会社は、予定表を見る前から結論を知っている。

さらに支払記録が添付されていた。調査会社への特別報酬を承認したのは財務担当役員。摘要は「後継者適格性調査」。送金時刻は架空予約の作成より前だった。

議長が尋ねた。

「密会の証拠は、この予約だけですか」

監査役はうなずいた。最有力候補は当日、海外拠点の全体会議に出席し、接続記録と録画が残っていた。

財務担当役員の推薦書が閉じられた。

「就任案の撤回を撤回します」

議長は採決画面を戻し、最有力候補の名を再表示した。賛成票が過半数を越える。

最後に更新されたセルは、次期社長欄だった。

そこへ入ったのは、消されたはずの候補の名だった。