同じ三億二千四百万
遠雷データの買収決裁会議で、針生律は相手企業の買掛金を確認する若手調査員だった。
買収対象の暁路マーケティングは、三月末に大型顧客から三億二千四百万円の売上を計上し、黒字へ転じていた。入金も三月三十一日午前九時三分に済んでいる。
「現金まで確認できた。売上の実在性に問題はない」
買収責任者が言った。
律は銀行明細を一行下へ動かした。上司からは、入金確認までで調査を終えろと言われていた。だが明細の残高が、入金直後に元へ戻っている。黒字を生んだはずの現金が、八分しか会社にいなかった。
午前九時十一分、暁路マーケティングから同じ顧客へ、三億二千四百万円が「広告協力金」として送金されていた。
「同額が八分後に戻っています」
対象会社の社長は笑った。
「別契約だ。大型キャンペーンの前払費用だよ」
会議室の壁には、買収成立まで残り一時間と表示されていた。期限を過ぎれば競合へ案件が移る。それでも律は、同じ数字を二度見落とす方が高くつくと思った。
「広告契約書を見せてください」
出てきたのは一枚の注文書だった。顧客の署名はあるが、発注時刻は三月三十一日午前九時六分。売上代金が入った三分後、送金の五分前である。
「迅速な取引だ」
「広告の内容が空欄です」
「後で決める包括契約だ」
律は売上契約と広告注文書を並べた。顧客側の署名画像は、傾きもかすれも完全に同じだった。さらにPDFの作成者欄には、二枚とも暁路マーケティングの財務部長名がある。
「顧客が作った注文書ではありません」
買収責任者の表情が変わった。
律は最後に口座番号を示した。入金元と送金先は同じ七桁。売上代金は顧客の資金ではなく、暁路マーケティングが前日に貸し付けた金だった。三億二千四百万円は、三日間で二周している。
「買収後に本物の売上を作ればいい」
対象会社の社長が言った。
「買うのは会社です。数字を作る時間ではありません」
律が答えると、買収委員長は最終契約書の署名欄からペンを離した。
そして、三億二千四百万円の企業価値加算欄に一本の線を引いた。
「決裁を停止する。買収価格は、最初から調べ直す」