すべての骨が鳴る前に
一
桐生葉月が弟の声を聞いたのは、弟が失踪してから百八十七日目の夜だった。
宅配便の箱には差出人がなかった。中に入っていたのは、古い携帯型録音機と一本の磁気テープ、それから獣脂のようなものが染みた紙片だった。
紙片には、弟の湊の字でこう書かれていた。
〈最初から最後まで、必ず一度だけ再生して。
二度目は、向こうがこちらを聞く〉
葉月は警察に電話をかけなかった。
半年前、大学院で数理物理を学んでいた湊は、山間の廃村を調査すると言って姿を消した。捜索は一か月で縮小され、二か月で打ち切られた。最後に送られてきたメールは、たった一行だった。
〈ラプラスの悪魔は目を持っていない。耳だけだ〉
葉月は都内の音響鑑定会社で、裁判資料や事故記録の音声を解析している。人の声に混じった空調音から録音場所を割り出し、銃声の反響から発射位置を推定し、編集された無音と自然な無音を聞き分けるのが仕事だった。
だから、紙片の警告を迷信だとは思わなかった。
迷信なら、もっと曖昧な言葉を使う。
彼女はカーテンを閉め、録音機を机に置いた。ヘッドフォンをつけ、テープを挿入する。表示窓には再生時間が出なかった。数字の代わりに、細い横線が一本だけ浮かんでいる。
再生ボタンを押す。
しばらく、何も聞こえなかった。
ただし、無音ではない。
十六ヘルツ前後の低い振動。遠くで巨大な機械が眠っているような周期音。その上に、滴る水、金属の軋み、かすかな呼吸が重なっている。
やがて湊の声がした。
「姉ちゃん。この録音を聞いている時点では、僕はまだ生きている」
声はひどく痩せていた。喉の奥に血が絡んでいる。
「でも、午前零時十七分に、姉ちゃんは僕の首を折る」
葉月は再生ボタンに指を置いた。
テープの中で、湊が急に早口になった。
「止めてもいい。止めなくてもいい。どっちを選んでも、その指の動きはもうここに入ってる」
葉月の指が止まった。
直後、ヘッドフォンの左側から、かすかな衣擦れが聞こえた。
今、自分の袖が机の角に触れて立てた音と、まったく同じだった。
続いて、窓の外を救急車が通った。
テープの中でも、同じタイミングでサイレンが遠ざかった。
葉月は立ち上がり、ヘッドフォンを外した。
それでも再生を止めなかった。
音漏れするほどの音量ではないはずなのに、机の上の録音機から、彼女自身の声がした。
「音だけなら、未来は偽造できる」
葉月はそんなことを言っていなかった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、なぜか自分がいつか必ずそう口にすることだけはわかった。
テープの最後に、湊が場所を告げた。
「時雨谷。旧・楢崎蛋白処理場。来るなら、録音したものを持ってきて。機械は未来を見るんじゃない。未来を、同じ音にする」
録音はそこで途切れた。
停止ボタンを押すと、表示窓の横線が数字に変わった。
残り時間、二十七時間四十一分。
午前零時十七分までの時間と、一秒も違わなかった。
二
翌朝、葉月は録音をコンピューターに取り込んだ。
波形を拡大し、周波数ごとに分解する。湊の声の背後には、山間部特有の長い残響があった。空間の広さは体育館ほど。壁の一部はコンクリート、一部は薄い金属板。床下に空洞があり、十八・四ヘルツで共振している。
録音には編集痕がなかった。
時間軸の乱れも、磁気転写も、生成音声の特徴もない。
ただし奇妙な点が一つあった。
まだ鳴っていないはずの音が、主音より先に、極小の振幅で記録されている。
葉月が机を指で叩くと、録音の中では、その一・七秒前に同じ衝撃音の影が現れた。救急車のサイレンも、袖の衣擦れも同じだった。
未来の音が、予告編のように先行している。
彼女はその部分だけを増幅した。
ノイズの底から、子どもの合唱に似た声が浮かび上がった。
〈いま起きる。いま起きる。いま起きた〉
葉月は解析を中断した。
時雨谷は、県境近くの山中にあった。二十年前の土砂災害で住民の大半が移転し、地図上では無人集落になっている。旧・楢崎蛋白処理場は、家畜の骨や内臓を飼料に加工していた施設で、十六年前に労働災害を起こして閉鎖された。
事故報告書では、作業員三名が骨粉砕機に巻き込まれて死亡。
だが当時の地方紙には、別の記事が残っていた。
〈事故の三日前、楢崎家は棺を三つ注文していた〉
葉月は昼前の列車に乗った。
携帯録音機、指向性マイク、接触マイク、予備電池、音源再生用の小型スピーカー、位相反転機能のある現場用ミキサー。仕事道具を一式、車輪付きのケースに詰めた。
護身具は持たなかった。
彼女に扱える武器があるとすれば、音だけだった。
三
時雨谷へ続く県道は、夕方には霧に沈んでいた。
最後のバス停から先は徒歩だった。杉林の間を縫う道には、濡れた骨のような白い石が埋まっている。風が吹くたび、山のどこかで金属板が鳴った。
集落の入口に、赤錆びた標識があった。
〈これより先 午前零時十七分まで通行可〉
時刻を限定した道路標識など存在しない。
葉月が写真を撮ろうとすると、背後から声がした。
「撮らないほうがいいよ」
振り返ると、十歳ほどの少女が立っていた。黄色い雨合羽を着て、両手に牛の耳標をいくつも握っている。
「どうして?」
「写真の中でも、同じことが起きるから」
少女は葉月の足元を見た。
「あと八秒で、右の靴紐が切れる」
葉月は反射的に右足を引いた。
その瞬間、道端の有刺鉄線に靴紐が引っかかり、乾いた音を立てて切れた。
少女は笑わなかった。
「逃げても、逃げた音になるだけ」
「あなた、名前は?」
「もう使わないから忘れた」
少女は霧の中へ走り去った。
後を追うと、古い家々の間に出た。どの家の軒にも、同じ形のスピーカーが吊られている。黒いラッパ型の拡声器。配線は山の奥へ延びていた。
十七時三分。
拡声器から、女の声が流れた。
〈来客、橋を通過〉
葉月が顔を上げると、数十メートル先の木橋に自分の姿があった。
正確には、橋の欄干に取り付けられた古いブラウン管テレビに、自分が映っていた。今より十二秒ほど先の映像。画面の中の葉月は、左を向き、立ち止まり、ケースの取っ手を握り直した。
葉月は意地でも正面を向いたまま歩いた。
だが橋板の隙間から、何かが腕を伸ばした。
青白い指が足首をつかむ。
葉月は悲鳴を飲み込み、反射的に左を向いて立ち止まり、ケースの取っ手を握り直した。
テレビの映像と同じになった。
橋の下を覗く。
水は涸れていた。
代わりに、家畜の頭蓋骨が何百個も積まれていた。その隙間から突き出ていたのは腕ではなく、白い電線だった。先端に五本の金属端子があり、指のように葉月の足首へ絡みついている。
彼女は端子を蹴り落とした。
橋を渡り切ると、テレビは砂嵐になった。
その砂嵐の中から、弟の顔が一瞬だけ浮かんだ。
口の形で、こう言った。
来るな。
四
旧・楢崎蛋白処理場は、集落の最奥にあった。
巨大な平屋の工場と、そこに食い込むように建てられた木造住宅。煙突は途中で折れ、屋根には黒い鳥が数十羽、等間隔で並んでいる。
門を開ける前に、玄関が開いた。
「十八時十二分。予定どおりだ」
出てきた男は六十代半ばに見えた。白い作業着に、革の前掛け。髪も眉もきれいに剃られている。
「桐生葉月さん。私は楢崎旭彦。弟さんを預かっている」
「湊は生きているんですね」
「今は」
旭彦は腕時計を見た。
「中へ。十八時十三分に雨が強くなる」
葉月が玄関をまたいだ瞬間、屋根を叩く雨音が一段大きくなった。
居間には四人いた。
旭彦の妻らしい碧子。太った長男の岳。目の見えない老女。そして、先ほどの雨合羽の少女。
少女は雨合羽を脱いでいた。下には灰色の病衣を着ている。首筋から細い電線が伸び、壁の端子につながっていた。
「座って」
碧子が言った。
テーブルには六人分の食事が並んでいた。白い汁に浮かぶ骨髄、黒ずんだ肉、赤い米。空いた一席には、弟の名前を書いた札が置かれている。
老女が鼻を鳴らした。
「都会の耳だねえ」
「何ですか、それは」
「聞こえすぎる耳。だから呼ばれた」
岳が葉月のケースを持ち上げようとした。
「触らないで」
葉月が手を伸ばす。
そのとき老女が言った。
「十八時十五分二十二秒。皿が二枚、割れる」
葉月はテーブル上の皿を見た。
岳も碧子も動かない。
二十秒。
二十一秒。
二十二秒。
何も起きなかった。
老女の顔から、笑みが消えた。
岳が立ち上がり、台所へ行った。棚から皿を二枚取り出し、床に叩きつける。一枚は粉々になったが、もう一枚は転がっただけだった。
岳はそれを拾い、額に打ちつけた。
皿が割れ、額の皮膚も裂けた。
血が鼻筋を伝って落ちる。
「これでよし」
旭彦が言った。
葉月は立ち上がった。
「予言じゃない。あなたたちが合わせているだけ」
老女が首を傾けた。
「先に鳴った音はね、今でも鳴らしてやらないといけないんだよ」
「なぜ?」
「違えば、もっとひどい音になる」
まるで返事を待っていたように、床下から低い振動が湧き上がった。
少女の体が硬直した。首の電線が引かれ、口が大きく開く。
少女の喉から、男の声が出た。
「姉ちゃん」
湊の声だった。
「下にいる。早く」
岳が少女の頬を殴った。
少女は椅子ごと倒れた。鼻血を流しながら、それでも笑った。
「十九時四十分、みんな走るよ」
五
葉月がケースから小型スピーカーを取り出した瞬間、岳がテーブルを蹴り上げた。
食器が飛び、汁が壁に散った。
葉月はスピーカーを最大音量にして再生した。
高周波の校正信号。
人間の可聴域ぎりぎりの鋭い音に、岳が耳を押さえてよろめく。老女だけは笑っていた。
「そんな音、もう聞いた」
碧子が包丁を投げた。
葉月は身を伏せた。刃は背後の柱に刺さった。柱の中から、人の歯が何本もこぼれ落ちた。
旭彦は動かなかった。
「あと二十七秒で、君は廊下へ逃げる。岳が追う。碧子は転ぶ。私はここに残る」
「従うと思う?」
「従うという言葉は、まだ選択がある者のためのものだ」
葉月は窓へ走った。
窓には外側から鉄格子がはまっている。
廊下へ向きを変える。
岳が追う。
碧子は床の汁で足を滑らせ、転んだ。
旭彦は動かなかった。
すべて、言ったとおりになった。
廊下の先には、工場へ続く防火扉がある。葉月が押すと、錆びた蝶番が悲鳴を上げた。
暗い加工場。
天井から、巨大な黒い袋が何十個も吊られている。
どの袋も、呼吸していた。
葉月はケースから懐中電灯を出し、一番近い袋を照らした。表面はゴムではなく、縫い合わせた家畜の皮だった。内側で何かが身をよじり、細い管から赤黒い液体が床へ落ちている。
袋の下には、それぞれ古い電話機が置かれていた。
一斉にベルが鳴った。
葉月は耳を塞いだ。
その間に岳が追いついた。
右手に、食肉用の打撃銃を持っている。銃口を額へ押し当て、火薬ではなく圧縮空気で鉄の杭を打ち込む道具だ。
「止まれ」
岳の額から、皿で切った血がまだ流れている。
葉月は止まらなかった。
電話の一つを蹴り上げた。
受話器が外れ、声がした。
〈岳、三歩前。右肩を下げる。発射〉
岳が三歩進み、右肩を下げた。
葉月はその瞬間を先に知った。
身をひねる。
打撃銃の杭が、背後の黒い袋を貫いた。
中から悲鳴が上がる。
人間の悲鳴だった。
袋が裂け、骨のない肉塊のようなものが床へ落ちた。皮膚には無数の接触電極が縫いつけられ、胸元だけが激しく上下している。
岳が慌てて銃を引く。
肉塊の腕が伸び、岳の手首をつかんだ。
葉月は脇をすり抜けた。
加工場の奥で、床に開いた搬入口が見えた。下へ続く鉄階段。弟の声はそこから聞こえる。
「姉ちゃん!」
葉月は階段を駆け下りた。
背後で打撃銃が二度鳴った。
一度目は肉を打つ鈍い音。
二度目は骨に届く硬い音だった。
六
地下は、工場より広かった。
壁一面に、蝋管と磁気テープが並んでいる。古い録音機、真空管、歯車式計算機、地震計、心電計。年代の異なる機械が、血管のような配線で結ばれていた。
中央には巨大な円筒がある。
直径四メートル、高さは天井まで。表面に無数の小孔が開き、その一つ一つから骨伝導端子が伸びている。端子は床を這い、壁を抜け、工場と集落と山中へ広がっていた。
円筒の内部から、何千人もの囁きが聞こえる。
その前に、湊が縛られていた。
両足は細い鉄棒に固定され、頭蓋の左右に金属端子が食い込んでいる。頬は落ち、右耳が半分なくなっていた。
「遅いよ」
湊は笑おうとした。
葉月は駆け寄り、拘束具を調べた。
「誰がこんなことを」
「みんな。僕も含めて」
「しゃべらないで。外す」
「先に聞いて」
湊は円筒を見た。
「これが全聴機。楢崎の曽祖父が作った。あの人は物理学者じゃない。電話交換手だった。山中の音を同時に聞けば、事故も火事も、誰が嘘をついているかも全部わかると思った」
「それで未来まで?」
「最初は一秒先だけ。機械の摩耗、空気の流れ、人の呼吸。今この瞬間の情報をできるだけ集めて、次の状態を計算する。ラプラスの悪魔の貧乏な真似だよ」
湊の唇が震えた。
「でも足りない情報を、こいつは生き物で埋めた。脳は曖昧な入力から続きを予測する。犬、豚、牛、人間。怖がらせた神経を並列につなぐと、予測距離が伸びた」
葉月は黒い袋を思い出した。
「上の袋は?」
「計算素子。死なせないように削られてる。山の中にもいる。集落全部が一個の耳なんだ」
「でも、未来を計算できたとしても、皿を割る必要はない」
「そこが逆なんだ」
湊は咳き込み、血を吐いた。
「未来を正確に当てたから従うんじゃない。従うから、予測が正確になっていく。楢崎家は録音された音を必ず再現する。外れた未来を、現実のほうで修正する。何十年も続けたせいで、この谷では予測と命令の区別がなくなった」
床下の振動が強くなった。
「違うことをすると?」
「低周波が神経を叩く。筋肉が勝手に動く。吐き気、幻覚、衝動。最後は、自分で合わせたほうが楽になる」
葉月は湊の頭部端子を外した。
湊が絶叫する。
金属針の先に、白いものが付いて抜けた。
岳の声が階段上から響いた。
「十九時四十分」
金属製の大扉が開く。
「みんな走る時間だ」
湊が葉月の腕をつかんだ。
「姉ちゃん。テープは?」
「持ってきた」
「零時十七分まで、あれに入ってる?」
「そう表示されていた」
「じゃあ使える。予測は音だけだ。こいつは世界の意味を知らない」
葉月は、録音の中の自分の言葉を思い出した。
音だけなら、未来は偽造できる。
「湊。あなた、最初からそのつもりで私を呼んだの?」
「うん」
「私があなたを殺す録音も?」
「それが一番、楢崎を騙せるから」
階段を岳が下りてくる。
片手に打撃銃。もう片方には、黒い袋から切り取った人間の腕を持っていた。手首から先がまだ動き、指で床を掻いている。
「二人とも走れ」
湊が言った。
「録音どおりに」
七
十九時四十分、二人は走った。
全聴機の周囲を回り、奥の配管通路へ逃げる。
岳が追う。
天井のスピーカーから、二秒先の足音が流れ始めた。右、左、右。岳の重い靴音。葉月は音を聞き、曲がり角に着く前に身を伏せた。
打撃銃の杭が頭上の蒸気管を穿つ。
白い蒸気が噴き出し、岳の顔を焼いた。
岳は叫ばなかった。
スピーカーから先に、自分の叫びが流れていなかったからだ。
皮膚を赤く剥がしながら、口を閉じたまま突進してくる。
湊が鉄扉を閉める。
岳の左腕が挟まった。
葉月は扉脇のレバーを倒した。
空気圧式の締め具が作動する。
扉はゆっくり、しかし止めようのない力で閉じた。岳の腕が肘から潰れ、骨が皮膚を突き破る。岳は歯を食いしばり、喉の奥だけで泣いた。
その無音の苦痛が、葉月にはいちばん恐ろしかった。
やがて腕がちぎれた。
岳は反対側へ倒れた。
ちぎれた腕だけがこちらに残り、指がいつまでも扉を叩いていた。
「先を聞いて」
湊が言った。
葉月は録音機を再生し、片耳だけヘッドフォンを当てた。
テープには、今いる配管通路の残響が記録されている。
自分たちの荒い呼吸。
遠くで碧子が呼ぶ声。
その十二秒後、天井から液体が落ちる音。
「止まって」
二人が立ち止まる。
直前までいた場所へ、天井配管から熱い脂が降り注いだ。
湊が笑った。
「便利だろ」
「笑うところじゃない」
「半年ぶりに姉ちゃんに怒られた」
その言葉も、テープから一秒先に聞こえた。
湊の笑みが消える。
「全部入ってる」
「今は考えない」
テープの中で、碧子の声が近づく。
〈湊。母さんの声を聞きなさい〉
実際の通路にも、同じ声が響いた。
「湊。母さんの声を聞きなさい」
碧子が現れた。
白い服は脂と血で濡れている。両手に湾曲した解体包丁。首から、少女と同じ電線が伸びていた。電線の先は引きずられ、壁の端子へつながっている。
「あなたは二十時六分、左の肺を刺されるの」
碧子が言った。
「それまで逃げてもいいのよ」
「母さんじゃない」
湊が呟いた。
「母さんは僕が十歳のときに死んだ」
碧子の口から、何人もの声が重なって出た。
「死んだ音は、残っている」
彼女が走る。
葉月はヘッドフォンで二秒先を聞く。
右から一撃。
避ける。
左から逆手。
湊が配管レンチで受ける。
金属音が重なった。
碧子の動きは人間の関節の範囲を無視していた。肩が外れ、腕が一回転して背後から刃が戻る。膝が逆に曲がっても止まらない。電線が筋肉を直接引いている。
テープの中で、湊が呻いた。
左の肺。
葉月は次の動きを聞くより先に、ヘッドフォンを碧子へ投げつけた。
碧子が反射的に刃で払う。
ケーブルが包丁に絡まった。
葉月は現場用ミキサーの出力を最大にし、低周波を流した。
ヘッドフォンの振動板が破裂する。
碧子の耳元で、未来の音と現在の音がずれた。
彼女の全身が痙攣した。
右腕は刺そうとし、左腕は止めようとし、脚は前後へ同時に進もうとする。関節が一つずつ、乾いた枝のように折れた。
最後に首が横へ曲がった。
碧子は倒れた。
それでも口だけが動いていた。
「二十時六分。左の肺」
葉月が時計を見る。
二十時五分五十八秒。
湊の胸元で何かが光った。
葉月は彼を突き飛ばす。
二人の間を、天井から落ちた細い鉄棒が貫いた。
鉄棒は床に突き刺さり、湊の上着だけを裂いた。
二十時六分。
左胸の布地に穴が開いた。
肺は無傷だった。
湊は息を呑んだ。
「意味は違っても、音と形が合えばいい」
葉月は言った。
テープの中で、同じ声がした。
「音だけなら、未来は偽造できる」
ついに彼女は、録音されていた言葉を口にした。
八
二人は地下の整備室に入った。
そこには全聴機の図面と、長年分の予測記録があった。蝋管には日付と時刻が刻まれている。
〈落石〉
〈出産〉
〈飢饉〉
〈三名死亡〉
〈一名来訪〉
〈観測範囲拡張〉
最後の一行は、今日の日付だった。
「私を呼んだせいで、範囲が広がる?」
葉月が訊く。
湊は答えなかった。
壁に、山全体の配線図が貼られている。全聴機から伸びた線は集落内だけでなく、電話回線、旧防災無線、廃止された光ファイバーへ接続されていた。
「湊」
「最初は、姉ちゃんに止めてもらうつもりだった」
「最初は?」
「この谷だけなら壊せる。でもテープを外へ出した時点で、機械は東京の音も聞いた。姉ちゃんの部屋、会社、電車、駅。録音を再生した場所が、新しい耳になる」
葉月は録音機を見た。
「じゃあ、持ってきたのは間違いだった」
「持ってこなければ、僕が死ぬ」
「今夜、あなたが死ぬ録音になっている」
「だから、どっちにしても僕を選んだ」
湊は笑った。
「姉ちゃんは昔からそうだ」
床が揺れた。
遠くで岳が扉を叩いている。片腕を失っても、まだ追ってくる。
整備室の奥には、円筒を載せた除振台の設計図があった。工場の巨大な粉砕機が地面へ振動を伝えないよう、空気ばねで隔離する装置。
葉月は図面を指でなぞった。
「全聴機は振動で人を追う。足音、心拍、呼吸」
「そう」
「完全に振動を切れば、そこにいる人は一時的に消える」
「除振室は上だ。旧計量室」
葉月はテープを早送りした。
午前零時十七分の部分。
三度の謝罪。
〈ごめん。ごめん。ごめん〉
硬い骨が折れる音。
六十キロ前後の物体が床へ落ちる衝撃。
葉月の嗚咽。
その後、旭彦の声。
〈予測成立。中枢を開く〉
湊が言った。
「僕の首を折ったと思わせれば、旭彦は全聴機の中枢を開ける。中からなら止められる」
「首の音は作れる。落下音も」
「心拍は?」
「除振室へ隠す」
「旭彦が目で確認したら?」
「ラプラスの悪魔は目を持っていない」
葉月はテープを止めた。
「耳だけなんでしょう」
九
午後十一時五十二分。
旧計量室は、工場二階の突き出た箱のような部屋だった。床全体が厚いゴムと空気ばねで支えられ、壁には吸音材が貼られている。
葉月は湊を中へ入れた。
黒い袋から回収した家畜の頸椎を布で包む。骨粉の袋を六十キロに調整する。接触マイクで衝撃音を測り、テープの波形と照合した。
誤差は〇・七デシベル。
まだ大きい。
袋から骨粉を三百グラム抜く。
再度落とす。
誤差〇・一デシベル。
「仕事みたいだね」
湊が言った。
「仕事よ」
「僕が死ぬ音を作る仕事?」
「あなたが生きる音を作る仕事」
湊の目に涙が浮かんだ。
葉月は見ないふりをした。
午前零時まで十五分。
工場の拡声器が一斉に鳴った。
〈最終予測を開始します〉
旭彦の声ではない。
何百人もの声が、一つの文章を読んでいる。
〈観測対象、二名。誤差、拡大。補正を実行〉
床下から低周波が突き上げた。
湊が膝をつく。
葉月の右手が勝手に動き、弟の顎へ伸びる。左手は後頭部をつかもうとする。
首を折る形。
「姉ちゃん!」
葉月は自分の右手を床へ押しつけ、接触マイクの針を手の甲へ突き刺した。
痛みで動きが止まる。
全聴機がさらに強く唸った。
扉の外で、重い足音がする。
岳だ。
午前零時九分。
扉が打撃銃で撃ち抜かれた。
鉄杭が吸音材を裂く。
二発目。
三発目。
扉に穴が開き、岳の目が覗いた。蒸気で焼けた顔の皮膚が垂れ、片腕の断面には工場のホースが差し込まれている。ホースが脈打つたび、血ではなく黒い脂が吹き出していた。
「零時十三分」
岳が言う。
「俺は中へ入る」
四発目で蝶番が外れた。
葉月は小型スピーカーを床へ置き、テープから岳の足音を再生した。
部屋の右側から、岳自身の歩行音がする。
岳は一瞬、そちらを向いた。
葉月は左から鉄の計量棒を振るった。
棒は岳の膝裏へ入った。
岳が倒れる。
湊が除振台の空気弁を開いた。
床が傾き、岳の巨体が計量用の投入口へ滑る。岳は残った右手で縁をつかんだ。
投入口の下は、骨粉砕機へ続いている。
機械は止まっていた。
だが岳の首から伸びた電線が壁の端子へ触れた瞬間、粉砕機が回り始めた。
「予測では、俺は死なない」
岳が言った。
葉月はテープを確認した。
零時十四分。回転音。肉が裂ける音。だが岳の声は続いている。
死なないのではない。
声だけが残る。
葉月は岳の指を一本ずつ計量棒で叩いた。
最後の指が外れた。
岳の体が投入口へ落ちる。
最初に脚が巻き込まれた。
骨を砕く回転音の中で、岳は笑った。
「ほら、俺の声は止まらない」
粉砕機のスピーカーから、岳の録音が流れ続けていた。
体がなくなっても、予測された声だけが残る。
葉月はスピーカーの電源を切った。
笑い声が途絶えた。
全聴機が、初めて苦しむような音を立てた。
十
午前零時十六分五十秒。
湊は除振室の中央に横たわった。
空気ばねを最大まで膨らませる。床の接触振動は測定限界以下。呼吸も心拍も、全聴機へは届かない。
葉月は扉の外に立った。
手に、布で包んだ家畜の頸椎。
足元に、六十キロの骨粉袋。
ヘッドフォンから十秒先の音を聞く。
〈ごめん〉
「ごめん」
〈ごめん〉
「ごめん」
〈ごめん〉
「ごめん」
葉月は頸椎を両手で捻った。
硬い破裂音。
テープの波形と一致する。
骨粉袋を床へ落とす。
衝撃音。
一致。
葉月は録音されていたとおりに泣いた。実際に涙が出た。偽の死を演じているのに、その音だけは本物だった。
午前零時十七分。
全聴機が静かになった。
地下から、旭彦の声が響く。
「予測成立。中枢を開く」
葉月は除振室の扉を閉め、地下へ走った。
全聴機の円筒は縦に割れ、内部を露出していた。
中にあったのは計算機ではない。
人間の頭蓋骨だった。
何百、何千という頭蓋骨が、内側を向いて円筒を埋めている。耳の穴には真鍮の管が差し込まれ、中央の空洞へ集まっていた。
空洞の底に、目の見えない老女が座っている。
頭頂部を切り開かれ、脳へ直接、無数の端子を刺されていた。
「やっと来たね、都会の耳」
老女が言った。
「弟は死んだ。次はお前がここへ座る」
旭彦が背後に立っていた。
手には長い骨切り鋸。
「君の聴覚なら、観測範囲は県境を越える。電話も電波も、すべて未来の一部になる」
「それが目的?」
「目的ではない。もう記録されている」
旭彦が鋸を引く。
葉月は現場用ミキサーを全聴機の出力端子へつないだ。
「何をする」
「予測された音を、予測された時刻に逆位相で鳴らす」
旭彦の顔から、初めて余裕が消えた。
葉月は二台のスピーカーを円筒内部へ向けた。
一台には全聴機が出した未来音。
もう一台には、その波形を反転させた音。
「機械が音を予測すれば、私はその音を消す。沈黙を予測すれば、回路の自己雑音を増幅して鳴らす。どちらを選んでも、予測と現実は一致しない」
「止めろ」
「止めることも、記録に入っている?」
葉月は再生ボタンを押した。
最初は何も起こらなかった。
次に、頭蓋骨の一つが歯を鳴らした。
別の頭蓋骨が応じる。
円筒全体へ、乾いた震えが広がる。
全聴機は未来の音を出そうとする。
スピーカーがそれを打ち消す。
打ち消された沈黙を予測し直す。
回路のノイズが増幅される。
ノイズを消そうとして、さらに強い信号が出る。
出口のない因果の輪が、円筒内部で膨れ上がった。
老女が叫ぶ。
「音が先にない!」
彼女の両手が勝手に頭を叩き始めた。
「今の前に、音がない!」
爪が額を裂く。指が眼窩へ入る。自分で自分の顔を壊しながら、それでも彼女は耳を澄ませていた。
旭彦が葉月へ斬りかかる。
鋸の動きは遅かった。
これまで彼は、自分で相手の動きを読んだことがなかった。
葉月は身をかわし、接触マイクのケーブルを旭彦の足に巻きつけた。
旭彦が倒れ、円筒の中へ片腕を突っ込む。
頭蓋骨の顎が一斉に閉じた。
指、手首、前腕。
骨の歯が肉へ食い込み、旭彦を引きずり込む。
「これは記録にない!」
旭彦が初めて悲鳴を上げた。
老女が笑った。
「今、鳴った。なら、先にもある」
円筒の奥で何かが反転した。
葉月の録音機が勝手に再生を始める。
そこから、まだ起きていない旭彦の断末魔が流れた。
全聴機は壊れながらも、新しい未来を作っている。
旭彦の体が頭蓋骨の群れへ飲み込まれた。
予告された断末魔と、現実の断末魔が重なる。
今度は一致した。
円筒が満足したように低く鳴った。
次の瞬間、すべての真空管が白く光った。
十一
爆発は音より先に来た。
圧力が葉月の胸を押し潰し、その後から轟音が追いついた。
円筒が裂け、頭蓋骨が四方へ飛ぶ。真鍮管が鞭のように暴れ、老女の体を細切れにした。
葉月は床を転がり、配線棚へ叩きつけられた。
耳が聞こえない。
世界から音が消えている。
それでも床の振動で、工場が崩れ始めたことはわかった。
葉月は立ち上がった。
口の中に血の味がする。左耳からも温かいものが流れていた。
除振室へ戻らなければならない。
階段は途中で崩れていた。加工場では黒い袋が次々に落下し、中のものが床を這っている。脚を失った人間、皮膚を縫い合わされた家畜、声帯だけを残された塊。
全聴機から切り離され、彼らは未来を失っていた。
だから、好き勝手な方向へ動いていた。
あるものは壁へ。
あるものは火へ。
あるものは葉月へ。
葉月は血で滑る床を走った。
背後から、少女が追ってきた。
首の電線はちぎれている。雨合羽の代わりに炎をまとい、笑っている。
少女は葉月を追い越し、除振室への階段を指した。
口が動く。
音は聞こえない。
それでも葉月にはわかった。
早く。
階段を上る。
扉を開ける。
除振台の上で、湊が倒れていた。
首はつながっている。
胸も上下している。
葉月は彼を抱き起こした。
湊が何か言う。
聞こえない。
葉月は弟の喉へ手を当て、振動を読む。
「姉ちゃん」
もう一度。
「姉ちゃん、後ろ」
葉月が振り向く。
少女が扉の前に立っていた。
その背後で、天井が崩れ落ちる。
少女は逃げなかった。
落下する鉄骨の向こうで、初めて自分の名前を言ったように見えた。
だが葉月には聞こえなかった。
鉄骨が少女を押し潰す。
その衝撃で除振台が傾き、外壁が割れた。
霧に包まれた夜の山が見える。
葉月は湊の腕を肩に回し、割れ目から外へ出た。
背後で工場が沈んでいく。
煙突が倒れ、木造住宅を真二つに割る。地中の配線が蛇のように跳ね、一本ずつ火花を散らして切れた。
集落の拡声器が最後に一度だけ鳴った。
葉月の耳には届かなかった。
湊だけが振り返った。
「何て言ったの?」
葉月が訊く。
湊は答えなかった。
十二
三日後、葉月の聴力は右耳だけ戻った。
警察は時雨谷で二十三人分の遺体と、数百体の家畜を発見した。生存者は葉月と湊だけと発表された。
楢崎蛋白処理場の地下設備は、火災と崩落でほぼ失われていた。
全聴機の存在は、事故で損壊した旧式通信設備として処理された。
湊は県立病院に入院した。
体重は三十六キロまで落ちていたが、命に別状はなかった。ただし彼は、救出後ほとんど口をきかなかった。
葉月は東京へ戻った。
会社の解析室で、時雨谷から持ち帰った機材を一つずつ確認した。
録音機は焼けていた。
磁気テープは溶け、黒い塊になっている。
だが、出発前にコンピューターへ取り込んだ音声データが残っていた。自動バックアップによって、社内サーバーとクラウド上に複製されている。
葉月はすべて削除した。
ローカルデータ。
共有フォルダ。
バックアップ。
復元履歴。
削除を終えた時刻は、二十三時四十八分だった。
解析室には葉月一人しかいない。
それでも、背後でキーボードを打つ音がした。
振り返る。
無人の端末に、新しい音声ファイルが作成されている。
〈観測範囲拡張.wav〉
容量は増え続けていた。
一ギガバイト。
十ギガバイト。
百ギガバイト。
ファイルの長さは表示不能。
葉月はネットワークケーブルを抜いた。
増加は止まらない。
電源を落とした。
画面は消えない。
スピーカーから、低い振動が流れ始めた。
十八・四ヘルツ。
時雨谷の地下で聞いた、全聴機の呼吸。
画面に文字が現れる。
〈観測対象 一〉
数字が増えた。
〈観測対象 二〉
〈観測対象 十六〉
〈観測対象 三百二十八〉
〈観測対象 九千四百一〉
社内のあらゆる端末が、同時に起動した。
廊下の電話が鳴る。
葉月は受話器を取らなかった。
留守番電話が自動で応答する。
スピーカーから、病院にいるはずの湊の声がした。
「姉ちゃん。工場が最後に何て言ったか、聞きたい?」
葉月は携帯電話を取り出し、湊へかけた。
呼び出し音は一度で切れた。
「もしもし」
湊の声。
だが、受話器と携帯電話の両方から、まったく同じ声が、まったく同じタイミングで聞こえる。
「工場はね、壊れる前にこう言った」
解析室のスピーカーが一斉に音量を上げた。
「出口を記録した」
葉月は携帯電話を床へ投げた。
画面が割れる。
割れた画面にも、波形が表示された。
細い線が左から右へ進んでいる。
その先に、まだ起きていない音が並んでいた。
葉月の呼吸。
エレベーターが止まる音。
警備員が鍵を落とす音。
街を走る車。
地下鉄。
飛行機。
海。
誰かの産声。
誰かの断末魔。
無数の生活が、一つの巨大な録音へ取り込まれている。
葉月は右耳を塞いだ。
左耳はまだ聞こえない。
それでも、骨を通して声が届いた。
〈二十三時五十九分五十秒。桐生葉月は窓を開ける〉
葉月は窓から離れた。
〈五十一秒〉
動かない。
〈五十二秒〉
机の脚をつかむ。
〈五十三秒〉
解析室の外で、悲鳴が上がった。
湊の声だった。
葉月は窓を見た。
〈五十四秒〉
「偽物だ」
〈五十五秒〉
「湊は病院にいる」
〈五十六秒〉
窓の向こう、十二階の外側に、湊が立っていた。
裸足で、血まみれで、ガラスを叩いている。
助けて。
口がそう動く。
〈五十七秒〉
葉月は目を閉じた。
〈五十八秒〉
窓を開けなければいい。
〈五十九秒〉
しかし彼女の手は、すでに鍵へ伸びていた。
筋肉を動かしているのが自分なのか、低周波なのか、弟を助けたい気持ちなのか、もはや区別できない。
午前零時。
葉月は窓を開けた。
外には誰もいなかった。
冷たい風だけが吹き込む。
向かいのビルで、一つの窓が開いた。
その隣も。
上の階も。
下の階も。
夜の街じゅうで、窓が順番に開いていく。
窓辺には人が立っていた。
誰もが耳元に電話を当て、何かを聞いている。
解析室の画面に、最後の文字が現れた。
〈観測対象 接続完了〉
続いて、新しい波形が描かれ始めた。
それは未来の音ではなかった。
未来が従うべき、最初の音だった。
乾いた、短い破裂音。
人間の首が折れる音に、よく似ていた。