ふたりぶんのスープ
こさじ町の朝は、スープの匂いで始まる。
町は、よその国の食卓に置けば、大きな丸皿ひとつに収まってしまうほど小さい。住んでいるのは、湯のみくらいの背丈をした「まるびと」たちだ。みんな丸い耳や尖った耳や、ふかふかのしっぽを持っていて、二十歳を越えると、それぞれ好きな仕事に就く。
町の東角にある〈おたま屋〉の主人、マロは二十四歳。
焼いたミルクパンのような色をした、まるい青年だった。
マロの仕事は、スープを作ること。
それから、ときどき、困っている誰かのところへスープを届けることだった。
風邪には、ねぎの白いスープ。
失恋には、少し辛い赤いスープ。
眠れない夜には、月豆を煮た青いスープ。
どのスープも、飲んだからといって問題が消えるわけではない。ただ、問題に向き合うための力を、おなかの底に小さく灯してくれる。
だからマロは、町役場から正式に認められた〈ぬくもり係〉でもあった。
「おはようございます。いつものですね」
夜明け前、店の扉が二度、こつこつと鳴る。
入ってきたのは、炭のように黒い毛並みをした青年だった。
ヨル、二十六歳。
北の森を見回る〈森番〉で、細い剣を腰に下げている。耳は長く、声は低く、笑うところを見た者はほとんどいない。
「……ああ」
ヨルは、窓際のいちばん小さな椅子に座った。
マロは、薄い琥珀色の玉ねぎスープを注ぐ。
浮かべるパンは、いつも一枚。
けれど今日は、そのパンを星の形に切ってあった。
ヨルは星を見た。
マロを見た。
また星を見た。
「変でしたか」
「いや」
「子どもっぽいとか」
「思っていない」
「じゃあ、かわいいですか」
「……スープが冷める」
ヨルは顔を伏せ、星のパンをさくりとかじった。
長い耳の先だけが、ほんの少し赤くなっている。
マロは気づかないふりをした。
気づいたと知られたら、ヨルはしばらく店に来なくなるかもしれない。そうなればマロは、夜明け前に起きる理由をひとつ失ってしまう。
ヨルが毎朝来るようになって、一年と三か月。
マロがヨルを好きになって、一年と二か月と二十九日。
つまり、ほとんど最初からだった。
その日の昼、町役場の鐘が鳴った。
緊急の鐘は三回。
大変な緊急なら六回。
今回は、九回鳴った。
「多いなあ」
通りのまるびとたちが、いっせいに空を見上げる。
九回目の余韻が消えるより早く、役場の伝書鳥が〈おたま屋〉の煙突へ突っ込んできた。
ぼふん。
灰だらけになった伝書鳥は、くちばしから紙を吐き出した。
『北の森に、からっぽ霧、発生。
食べものの味、声、色、元気などを吸われた者、多数。
ぬくもり係マロは、最大鍋を持って出動されたし。
護衛は森番ヨルとする。』
「ヨルさんと」
マロは、そこだけ二度読んだ。
胸がふわっとする。
直後、北の窓から黒い霧が見えて、ふわっとした胸が、きゅっと縮んだ。
からっぽ霧は、めったに出ない。
出ると、あたりにある「大事なもの」を吸い込む。
昔、南の丘に現れたときは、花から匂いを、鳥から歌を、町長から演説の結論だけを吸い込んだ。最後のものについては、そのままでもよかったのではないかという意見もあった。
しかし今回は、人から味も声も元気も奪っている。
放ってはおけない。
マロは背中に、町でいちばん大きな銀鍋を背負った。中には、根菜と豆と香草を煮込んだ〈勇気のスープ〉が入っている。
ふたを締め、ひしゃくを帯に差し、店を出る。
扉の前には、もうヨルがいた。
「準備は」
「できてます」
「怖いか」
「少し」
マロは正直に答えた。
ヨルの長い耳が、こちらへわずかに傾く。
「俺がいる」
たった四文字だった。
なのに、勇気のスープを一杯飲んだみたいに、マロのおなかが温かくなった。
「はい」
二人は北の森へ向かった。
北の森へ行くには、〈ほんとのこと橋〉を渡らなければならない。
橋は気むずかしい。
渡ろうとする者が、胸の中に隠していることをひとつ言わないと、板がつながらない。
二人が川辺に立つと、向こう岸までの板が、ぽつ、ぽつと空中に浮かんだ。
どれも間が広すぎて、そのままでは渡れない。
橋の欄干についた口が、あくびをする。
「ほんとのことを、ひとつずつ」
マロは困った。
昨夜、鍋の底についた焦げを見なかったことにした。
町長の帽子を、巨大なきのこだと思っていた。
ヨルの横顔を見るたび、指で輪郭をなぞってみたいと思う。
最後のものは、絶対に言えない。
「ええと……ぼくは」
ヨルが先に言った。
「雷が苦手だ」
マロは目を丸くした。
ヨルは森番で、暗闇も獣も怖がらない。嵐の夜でも一人で巡回する。
「意外です」
「笑うな」
「笑いません。今度、雷の日は店に来てください。鍋の音で聞こえなくします」
一枚目の板が、すうっと手前へ伸びた。
マロの番だった。
「ぼくは……ヨルさんが来る朝だけ、店を三十分早く開けています」
二枚目の板が伸びる。
ヨルは、驚かなかった。
「知っていた」
「えっ」
「店の札に、開店は日の出と書いてある」
「じゃあ、どうして毎朝、日の出前に」
「それは次の橋で言う」
ヨルは先に歩き出した。
マロはしばらく動けなかった。
橋の欄干の口が、にやにやしている。
「早く行けば」
「橋に言われたくありません」
それでもマロは、少し弾む足でヨルを追った。
森へ入ると、色が薄くなった。
赤い実は灰色に。
青い苔は灰色に。
黄色いちょうちょまで灰色になって、飛ぶたびに、紙くずのような音を立てた。
道ばたには、味を吸われた木の実が落ちている。
ひとつ拾ってかじると、濡れた布のような味がした。
「おいしくない……」
「食べるな」
「確かめないと」
「腹を壊す」
「心配してくれてます?」
「ぬくもり係に倒れられると困る」
「ぼく自身の心配は」
ヨルは答えず、マロの手から木の実を取り上げた。
そのまま遠くへ投げる。
灰色のリスが拾い、ひとかじりして、なんともいえない顔をした。
「リスさん、ごめんなさい」
さらに進むと、小さな集落があった。
きのこの家が五軒。
切り株の家が三軒。
住人たちは広場に集まり、みんな口を閉じていた。
いや、閉じているのではない。
声を吸われているのだ。
子どもを抱いた父親が、必死に何かを訴える。
その子どもの体は、霧の色に近い灰色だった。
マロはすぐ鍋を下ろした。
「大丈夫。順番に配ります」
返事はない。
それでも、聞こえていると信じて、マロは笑った。
勇気のスープを椀に注ぐ。
ひとり一杯。
子どもには半分。
飲んだ者の頬に、少しずつ色が戻っていく。
声はまだ出ないが、目に光が戻った。
鍋の中身は、半分になった。
「先へ行く分が減る」
ヨルが小声で言った。
「でも、ここで使うために持ってきました」
「霧の中心に、もっと必要かもしれない」
「そのときは、そのときです」
マロが次の椀を差し出すと、ヨルは何も言わなくなった。
代わりに、椀を配るのを手伝った。
最後の一杯を受け取った老婆が、震える指で森の奥を指した。
その先には、地面へ向かって落ちていく黒い霧があった。
ヨルが剣を抜く。
「中心は近い」
「行きましょう」
二人は、空になりかけた鍋を背負い直した。
森の奥には、大きなくぼ地があった。
底に、黒い鍋がいる。
置かれているのではない。
いるのだ。
家より大きな鉄鍋に、細い四本の脚が生え、二つの取っ手は腕のように動いている。
鍋の中は真っ暗で、底が見えない。
そこから黒い霧が、ぐつぐつと湧いていた。
鍋が、こちらを向いた。
顔はないのに、見られているとわかった。
「おなかが、すいた」
地面の下から響くような声だった。
「ずっと、ずっと、すいた」
黒い取っ手が伸びてくる。
ヨルの剣が光った。
取っ手そのものではなく、まとわりつく霧だけを切る。霧は細い布のように裂け、風にほどけた。
「マロ、下がれ」
「いいえ。話してみます」
「危険だ」
「おなかがすいているなら、ぼくの仕事です」
マロは鍋を下ろし、残っていたスープを、全部ひしゃくですくった。
「少ししかありません。でも、どうぞ」
黒い鍋の中へ注ぐ。
じゅっ、と音がした。
湯気は上がらない。
香りも残らない。
スープは闇へ吸い込まれ、それきりだった。
「たりない」
黒い鍋が震えた。
「ひとりぶんは、すぐ、さめる」
霧が爆発するようにあふれた。
マロの耳から音が消えた。
目の前から色が消えた。
胸の中にあった元気が、栓を抜かれたように流れ出す。
膝が折れた。
倒れる寸前、誰かの腕がマロを抱きとめる。
何も聞こえない。
けれど、黒い毛並みと、革の匂いでわかる。
ヨルだ。
ヨルはマロを片腕で支え、もう片方の手で剣を振った。
霧が裂ける。
だが、裂けた先から、また霧があふれる。
剣では終わらない。
マロはヨルの胸を叩き、黒い鍋を指した。
ヨルは首を振った。
行くな、と言っている。
それでもマロは、ヨルの腕から抜けた。
ふらつきながら、黒い鍋へ近づく。
縁に手をかけると、頭の中へ、知らない記憶が流れ込んできた。
昔、このくぼ地では、大きな祭りが開かれていた。
森の住人たちは、ひとつの鍋を囲み、それぞれが持ってきたものを入れた。
豆をひとつ。
にんじんを半分。
塩をひとつまみ。
誰かが多く持っていなくても、みんなで煮れば、全員がおなかいっぱいになった。
けれど、道が変わり、町が移り、祭りはなくなった。
最後の年。
黒い鍋は火にかけられたまま、誰も来ない広場で待っていた。
夕方まで。
夜まで。
雨が降るまで。
中身は、からっぽだった。
待つ気持ちだけが焦げつき、鍋は、ひとりで歩き始めた。
マロは胸を押さえた。
これは食べものの空腹ではない。
誰かと分けるはずだった時間の空腹だ。
ヨルがマロの肩をつかんだ。
音はまだ戻らない。
マロは口を動かした。
「ふたりぶん、作りましょう」
ヨルの眉が寄る。
マロは空になった銀鍋を指し、自分とヨルを指し、それから黒い鍋を指した。
ヨルはしばらく動かなかった。
やがて、腰の袋から干しきのこを一枚出した。
巡回中の非常食だ。
マロはポケットを探り、小さな玉ねぎを出した。
昼食にするつもりだったものだ。
二人は、黒い鍋の前に座った。
銀鍋へ水を入れる。
玉ねぎを刻む。
干しきのこを割る。
塩は、ヨルの携帯瓶からひとつまみ。
けれど、火がない。
火打ち石は霧に濡れ、何度打っても火花が散らなかった。
黒い鍋が、低く笑う。
「さめる。どうせ、さめる」
ヨルは火打ち石を置いた。
それから外套を脱ぎ、マロと銀鍋をまとめて包んだ。
体温が伝わってくる。
マロは驚いてヨルを見た。
ヨルの唇が動く。
音はない。
けれど、ゆっくりだったから読めた。
『俺が、あたためる』
二人は外套の中で、ぴったり肩を寄せた。
ヨルの胸は、見かけよりずっと温かい。
火はつかない。
それでも鍋を抱え、二人で待った。
しばらくすると、不思議なことが起きた。
銀鍋の底に、小さな橙色の光が灯った。
火ではない。
二人のおなかの奥からこぼれたような、やわらかい光だった。
水が、ことこと鳴り始める。
玉ねぎの甘い匂い。
きのこの深い匂い。
塩の、海を思わせる匂い。
失われていた音と色が、少しずつ戻る。
「……ヨルさん」
マロの声が出た。
「聞こえる」
ヨルの声も戻っていた。
黒い鍋が身をよじる。
「たりない。まだ、たりない」
「味見をしましょう」
マロは一杯だけ残っていた小さな椀に、スープを注いだ。
椀はひとつ。
ひしゃくもひとつ。
ヨルが受け取る。
「おまえが先に飲め」
「作った人は最後です」
「倒れた人間が先だ」
「まるびとです」
「今はどちらでもいい」
ヨルはひしゃくでスープをすくい、マロの口元へ差し出した。
マロはためらいながら飲んだ。
薄い。
具も少ない。
いつもの〈おたま屋〉なら、お客には出さない味だ。
けれど、とてもおいしかった。
「どうだ」
「ヨルさんも」
今度はマロがすくい、ヨルへ差し出す。
ヨルはマロの目を見たまま飲んだ。
喉がひとつ動く。
「うまい」
黒い鍋から出ていた霧が、少し薄くなる。
「どうして」
黒い鍋が震える。
「どうして、からっぽなのに、おいしい」
マロは答えた。
「誰かと食べると、味が増えるんです」
「うそだ」
「本当です」
「なら、どうして、おまえたちは、いっしょにいる」
急な問いに、マロは黙った。
隣のヨルも黙る。
黒い鍋の中で、霧がまた膨らんだ。
「いっしょに、いたいからか」
マロの心臓が、どくんと鳴った。
ほんとのこと橋より、ずっと逃げ場がない。
ヨルが椀を地面へ置いた。
「そうだ」
マロは息を止める。
ヨルは黒い鍋ではなく、マロを見ていた。
「俺は、こいつと一緒にいたい」
「ヨルさん」
「毎朝、日の出前に店へ行くのは、腹が減っているからじゃない」
ヨルの長い耳が赤い。
頬まで、ほんの少し赤い。
「おまえが、俺を見つけて、おはようと言うからだ」
マロは、何も言えなかった。
「森番は、夜の仕事だ。暗い道を一人で歩く。誰にも会わずに一日が終わることもある」
ヨルは一度、視線を落とした。
「でも、店へ行けば、おまえがいる。俺の椅子がある。いつものスープがある。俺は……あれを失いたくない」
黒い鍋の霧が、みるみるほどけていく。
「それは」
マロの声が震えた。
「ぼくのことが、好きってことですか」
「そう言っている」
「スープじゃなくて」
「おまえだ」
「星のパンも」
「かわいかった」
「ぼくと、どっちが」
「今それを聞くのか」
「大事なので」
ヨルは困った顔をした。
マロは初めて見る顔だった。
とても、かわいいと思った。
「おまえのほうが、かわいい」
その瞬間、黒い鍋が、ぽん、と音を立てた。
家より大きかった体が、みるみる縮む。
牛ほどになり、犬ほどになり、最後には、両手に乗るくらいの小鍋になった。
黒い霧は消えた。
森の色が戻る。
鳥の声が戻る。
遠くの集落から、誰かの歓声が聞こえた。
小鍋は四本の脚で、ちょこちょことマロたちへ近づいた。
銀鍋をのぞき込み、恥ずかしそうに取っ手を揺らす。
「……ひとくち」
「どうぞ」
マロは最後のスープを、小鍋の中へ注いだ。
小鍋は、ふるふる震えた。
「おいしい」
今度の声は、小さく、丸かった。
マロは笑った。
ヨルも、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「ヨルさん、今、笑いました?」
「笑っていない」
「笑いました」
「霧の見間違いだ」
「もう霧はありません」
マロが顔を近づける。
ヨルは逃げなかった。
代わりに、マロの頬へ手を添えた。
「橋で言わなかった、もうひとつの本当のことがある」
「はい」
「ずっと、触れたかった」
ヨルの指が、マロの頬をゆっくりなぞる。
マロが、ずっとヨルにしてみたかったのと、同じように。
「ぼくもです」
「触れていいか」
「もう触れてます」
「もっとだ」
マロは目を閉じた。
唇が重なる。
玉ねぎと、きのこと、少しの塩。
さっき二人で飲んだスープと同じ味がした。
短い口づけだった。
離れると、ヨルの耳は真っ赤だった。
マロの耳も、きっと同じ色だ。
小鍋が二人の足元で、ことこと鳴った。
「おかわり」
「帰ったら作ります。今度は三人ぶんですね」
「いや」
ヨルが言った。
「こいつの分は別の椀にしろ」
「どうしてです?」
「二人ぶんは、二人で食べたい」
マロは少しだけ驚き、それから、声を上げて笑った。
からっぽ霧が消えた翌朝。
〈おたま屋〉の窓際には、新しい椅子がひとつ増えた。
古い椅子の隣に、ぴったり並んでいる。
ヨルは、いつもの玉ねぎスープを頼んだ。
マロは同じものを二杯作り、自分も隣へ座った。
足元では、小鍋が豆のスープを飲んでいる。
すっかり店の手伝いになり、空いた椀を四本の脚で運ぶのが仕事だ。ときどき客の椀まで空にしようとするので、目は離せない。
「今日も森ですか」
「ああ。だが、夜明けまでには戻る」
「お店は日の出に開きますよ」
「知っている」
「では、どうして早く来るんです?」
ヨルはスープをひとくち飲んだ。
星の形のパンをかじる。
それから、テーブルの下で、マロの手を握った。
「おはようを言うためだ」
店の外で、朝の鐘が鳴る。
町じゅうの煙突から、白い湯気がのぼっていく。
マロはヨルの肩へ、そっと頭を預けた。
「おはようございます、ヨルさん」
「おはよう、マロ」
湯気の向こうで、ヨルが笑った。
スープは、今日も二人ぶんだった。