アレテイアの無貌宮
一 無貌の依頼人
贋作は顔から嘘をつく。
本物は、傷から真実を話す。
榊修吾はそう信じていた。だから彫像を鑑定するとき、彼は目や唇より先に、踵や脇腹や台座の裏を見た。人は美しいところを取り繕う。時代は、見られない場所にだけ正直な指紋を残す。
六月の雨がアテネの石畳を黒く濡らした夜、修吾はプラカ地区の外れにある館へ案内された。
表札はなく、窓には青銅の鎧戸が下りていた。玄関で拳銃を預けさせられ、代わりに白い綿手袋を渡された。廊下の両側には古代の壺、ビザンツの聖像、ヴェネツィアの鏡が並んでいたが、どれにも収蔵番号も来歴札もない。
金持ちの蒐集家が物を愛するとき、まず名前を奪う。修吾はそれも知っていた。
最奥の部屋は、劇場のように二つに仕切られていた。
こちら側には鑑定台とランプ。向こう側には、孔雀の羽根を模した青銅の衝立が立っている。無数の小孔の奥に、人影がひとつ座っていた。
「榊修吾さん」
女の声だった。低く、よく磨かれた銀器のように静かだった。
「イリス・カリスと申します。顔をお見せしない非礼をお許しください」
「顔を見て値段を変える仕事はしていません」
「では、あなたが見るのは?」
「物が隠したがっているところです」
衝立の向こうで、女が笑った気配がした。
脇の扉から助手が現れた。
三十代半ばほどの女で、黒髪を短く切り、生成りのシャツの袖を肘までまくっている。名をエレニといった。彼女は木箱を鑑定台に置いた。蓋を開けると、長い歳月を土中で過ごした匂い――湿った石灰と金属と、かすかな黴――が立ちのぼった。
中に横たわっていたのは、高さ三十センチほどの少女像だった。
薄い衣をまとい、左足をわずかに前へ出している。古代ギリシアのコレー像を縮めたような姿だが、顔には奇妙な硬さがあった。頬はアルカイック期の微笑を浮かべ、髪はヘレニズム期の複雑な編み方をし、足元の台座にはローマ時代風の蔦模様が彫られている。
「本物でしょうか」とイリスが訊いた。
修吾は答えず、少女像を一周させた。
紫外線を当て、耳の穴に細い光ファイバーを差し込み、台座を指の腹で叩いた。エレニが無言で道具を渡す。彼女の手際は美術館の修復室で働いた者のそれだった。
「胴体は紀元前三世紀。頭部は紀元一世紀。右手は十八世紀、左手は十九世紀末。顔料は少なくとも五時期に分かれる」
「では贋作?」
「いいえ。全部、本物です。ただし一体の像としては偽物だ」
衝立の向こうが静まった。
修吾は少女の首にある髪の一房を押した。
かちり、と小さな音がして、頭部が半回転した。続いて右手首をひねると、台座の蔦模様が開き、内部から鉛の薄板がせり上がった。
エレニが息を呑んだ。
「継ぎ目は隠すためじゃない。動かすために作られている。異なる時代の部品を継ぎ足したのも、修理ではなく暗号だ。頭、手、足を正しい角度にすると、中の機構が開く」
鉛板には古代ギリシア語が刻まれていた。
九人の娘が歌を失うとき、
母の記憶は海の底で目を開く。
山羊の角に沈む七つ星を見よ。
振り返る乙女の踵に、真実は眠る。
「何を示していると思います?」とイリス。
「地図の一部でしょう。九人の娘はムーサたち、母は記憶の女神ムネモシュネ。七つ星はプレイアデス。山羊は島の稜線か、古い星図の座標。『振り返る乙女』は、この像そのものだ」
修吾は像を裏返した。
右の踵に、髪の毛ほど細い線が走っていた。温めたメスを入れると、蝋で塞がれた小穴が現れた。中から、黒い楕円形の石が出てきた。
石ではない。
磨き上げられた黒曜石のレンズだった。中心には、針で突いたような孔がある。
修吾がランプにかざすと、壁に小さな光の輪が投じられた。輪の内側に、星座と海岸線が浮かび上がる。
「アステリア島」とエレニが言った。
「知っているのか」
「ケロス島の南東。海図には岩礁としてしか載っていません。島全体が、横たわった山羊の頭に見える」
イリスの声が、衝立の奥から届いた。
「その島の地下に、《アレテイア》と呼ばれた宝物があると、私の祖父は信じていました」
「アレテイア。真実」
「紀元前二世紀、クレオンという彫刻家が造ったとされる像です。見る者の顔を、一切の美化も歪曲もなく写し取った。王は敵の替え玉を作らせ、商人は死者を蘇らせ、神官は神の顔さえ複製しようとした。やがて像は恐れられ、島の地下へ封じられた」
「よくある伝説だ」
「伝説を軽蔑する方が、伝説の地図を解くのですね」
「金を払う人間がいれば、迷信にも交通費くらいの価値は生まれる」
エレニが口元だけで笑った。
イリスは報酬の額を告げた。
修吾は数字より、その前後の沈黙を聞いた。相手は彼が断らないと知っている。二年前、修吾はロンドンの競売会社で、名高い古代青年像が現代の贋作であると証明した。ところが像の所有者は会社の大株主だった。報告書は消え、修吾の経歴だけが汚れた。
以来、彼は美術館ではなく、国境と法律の隙間で働いている。
「条件がある」と修吾は言った。「発見した物は、持ち出す前に私が鑑定する。封印を見つけたら、私の許可なく開けない。人命より品物を優先しない」
「最後の条件だけ、ずいぶん曖昧ですね」
「品物は嘘をつくが、人間はもっと上手い。だから優先順位は現場で決める」
衝立の向こうで、椅子がわずかに軋んだ。
「契約成立です。エレニが同行します」
「あなたは?」
「私は顔を持たない人間です。遺跡には向きません」
修吾は黒曜石のレンズを見た。
その小さな孔の奥に、誰かがこちらを覗いている気がした。
二 三つの時代を持つ少女
出航は三日後だった。
調査船《ペルアム》は、観光客向けの遊覧船を海洋測量用に改装した古い船で、船腹の塗装は幾度も塗り重ねられていた。船長のマルコスは六十を越えた大男で、灰色の髭に塩の匂いを染み込ませていた。潜水士のイアソンは彼の甥で、口笛を吹きながら酸素ボンベを運んだ。
もう一人、イリスが手配した専門家がいた。
サヴァス・レオンティス博士。アテネ大学で古代宗教を教えていた碑文学者で、白い麻の上着を着込み、杖の石突きで甲板を神経質に叩いた。
「《アレテイア》は像ではないかもしれない」と、彼は出航早々に言った。「古代語でアレテイアとは、単に真実という意味ではない。忘却の覆いを外すことだ。隠されていたものが露わになる。その装置が何であれ、歴史を書き換える」
「装置だと決めているのか」
「クレオンは彫刻家である前に機械技師だった。水時計、鏡、蒸気球。アレクサンドリアの技術者たちと交流があった記録もある」
「記録の出所は?」
「失われた写本の引用だ」
「便利な出所だな。存在しないものは反論しない」
サヴァスは薄く笑った。
「あなたは疑うことで名を失ったそうですね」
「あなたは信じることで職を失ったと聞いた」
「似た者同士だ」
二人の間に、乾いた火花が散った。
エレニは船尾で、例の少女像を分解していた。
部品を羊皮紙の星図の上に置き、首と手首の角度を変える。像が投じる影は、時間ごとに形を変えた。黒曜石のレンズを通した光だけが、影の中に細い航路を描く。
「誰がこんなものを作ったんだ」と修吾。
「少なくとも四人」とエレニは答えた。「最初の胴体を作った古代の職人。ローマ時代に頭を付け替えた誰か。十八世紀に右手を加えた修道士。十九世紀に左手と台座を作った修復家」
「四人が同じ秘密を引き継いだ」
「あるいは、四人とも別の理由で嘘を重ねた。結果として地図になった」
「君はどちらだと思う」
「私は、嘘は一人では完成しないと思ってる」
彼女は像の右手を九十度回した。
光の線が海図上の一点を刺した。
「明日の夜明け、アステリア島の北壁に入江が現れる。潮が最も低い二十分間だけ」
「イリスから聞いたのか」
「彼女の祖父の日誌にあった」
「君は長く彼女に仕えている?」
「長いかどうかは、どこから数えるかによるわ」
エレニは質問をかわすとき、左の袖口を親指で二度撫でる癖があった。
修吾はそれを覚えた。
夜半、無線室にイリスから通信が入った。
雑音の向こうに、あの銀器のような声がした。
『島には、神官たちが残した警告があるはずです。ムーサの母を忘れないで』
「なぜ自分で来なかった」
『私が欲しいのは宝ではありません』
「では何だ」
『鑑定です。真実が本当に存在するのか、あなたに見てほしい』
一拍おいて、イリスは続けた。
『榊さん。人は、顔を失っても同じ人間でしょうか』
「顔を失ったことがないから分からない」
『あなたは名を失った』
「名と顔は違う」
『市場では同じです。他人があなたを何者と認めるか。それが値段になり、履歴になり、人生になる』
通信が切れた。
修吾が振り返ると、無線室の戸口にエレニが立っていた。
暗がりで表情は見えなかった。
「彼女は何と?」
「君に聞けばいい。依頼人の代理なんだろう」
「私は、彼女の秘密までは預かっていない」
そう言って、エレニはまた左の袖口を二度撫でた。
三 アステリア島
夜明け前、島は海から突き出した黒い獣の頭に見えた。
二本の岩峰が山羊の角のように空へ伸び、その間に七つの星が沈みかけていた。プレイアデスだ。
像の鉛板にあった文句そのままだった。
潮が引くと、北壁の根元に裂け目が現れた。
《ペルアム》の小艇がぎりぎり通れる幅しかない。マルコスが舵を取り、イアソンが舳先で深さを測った。修吾、エレニ、サヴァスが続く。食料、ロープ、発電機、医療箱。それに、封印を破らないという約束を守る気があるのか疑わしい量の爆薬。
裂け目の奥は、天井の高い海蝕洞だった。
水面下に白い列柱が見える。海へ沈んだ神殿の回廊だ。柱頭にはイルカと蛇が絡み合う彫刻があり、そのいくつかは刃物で顔だけ削られていた。
小艇を岩棚に繋ぎ、一行は潜水具を着けた。
水は冷たく、底から湧く淡水のために視界が揺らいでいる。修吾は列柱の間を泳ぎ、崩れた破風の下をくぐった。奥に、九体の女性像が半円を描いて立っていた。
竪琴、笛、巻物、仮面。九人のムーサ。
中央には空の台座がある。
サヴァスが水中ライトで文字を照らした。
娘たちを数える者は、永遠に九で迷う。
母を数える者だけが、十番目の扉を見る。
修吾は九体を見回した。
像はすべて入口を向いている。だが、巻物を持つクレイオだけが、足首を外側へひねっていた。
振り返る乙女の踵に、真実は眠る。
修吾が像の踵を押すと、中央の空台座が音もなく沈んだ。
その下に、縦穴が開いた。
イアソンが先に潜った。ロープを送り、合図が返る。
一人ずつ穴を抜けると、向こう側には空気のある地下室があった。天井から垂れる鍾乳石の間に、青銅の歯車が並んでいる。二千年以上海水に浸かっていたとは思えないほど形を保っていた。
「燐青銅に近い合金だ」と修吾が言った。「海水に強い」
「クレオンの工房だ」サヴァスの声が震えた。「本当にあった」
床には十枚の石板が並び、それぞれに女性の名が刻まれていた。
九人のムーサと、ムネモシュネ。
「露骨すぎる」とエレニ。
「罠だろうな」
サヴァスが杖でムネモシュネの板を押した。
何も起きない。
彼は勝ち誇ったように一歩踏み出した。
次の瞬間、壁の青銅管から白い蒸気が噴き出した。
サヴァスの上着の袖が焼け焦げる。修吾が襟首を掴んで引き戻した。床の隙間から、熱い海水が泡立っていた。
「母を踏め、とは書いていない」と修吾。
「ではどうする」
「母は娘たちを生んだ。娘たちの前にある」
十枚の石板の手前、泥に隠れた細長い溝を洗うと、さらに一枚の板が現れた。文字はなく、二つの裸足の跡だけが彫られている。
修吾がそこへ立つと、九人の名が順に淡く光った。最後にムネモシュネが沈み、正面の壁が開いた。
「警告は正しく読めば案内になる」とサヴァス。
「正しく読んだ者を殺す罠もある。古代人を信用しすぎるな」
通路の先は、楽器の内部のようだった。
壁に張られた長短の青銅板が水滴を受け、低い音を響かせている。床には円形の石が並び、踏むとそれぞれ異なる音階を発した。
エレニが少女像を取り出した。
像の衣の襞には、目立たない九本の刻線がある。彼女は指でなぞり、口ずさんだ。
「ドーリア旋法。刻線の長さが音の順番になってる」
一行は、像に刻まれた旋律どおりに石を踏んだ。
イアソンが最後の一音を外した。
天井から、青銅の円盤が落ちた。
修吾はイアソンを突き飛ばした。円盤は彼の酸素ボンベを切り裂き、石床に食い込んだ。遅れて二枚、三枚。全員が壁際へ転がり込む。
「口笛と同じだと思ったんだ!」イアソンが青ざめて叫ぶ。
「神殿では調子をつけるな」とマルコスが怒鳴った。
背後で、銃声がした。
入口側の暗がりから、三人の男が現れた。潜水服の上に短機関銃を吊っている。先頭の男は頬に火傷の跡があり、サヴァスに向かって軽く手を上げた。
「博士。道を開けてくれて感謝する」
マルコスがサヴァスを睨んだ。
「誰だ」
「資金提供者だ」とサヴァスは言った。声に羞恥より開き直りがあった。「学術調査には金が要る」
「墓荒らしの金が?」
「国家も大学も、真実には一銭も払わない。市場だけが払う」
修吾は火傷顔の男を見た。
「封印は開けるな。中に何があるか分からない」
「中身が分からないから、値段が上がる」
男は笑い、銃口で先へ進めと示した。
四 ミーメーシスの地下道
通路は島の中心へ向かって下っていた。
壁画には、白い仮面をつけた神官たちが描かれている。彼らは水盤を囲み、薄い布のようなものを持ち上げていた。布には人間の顔が浮かび、次の場面ではその顔が別の身体に貼りついている。
「ミーメーシス」とサヴァスが呟いた。「模倣」
「芝居の仮面にも見える」とエレニ。
「古代の仮面は役を与えた。顔は個人ではなく、交換できる役だった」
さらに進むと、壁画の色調が変わった。
祝祭の赤と金は消え、黒い線だけになる。神官たちは顔のない像を穴へ投げ込み、入口を石で塞いでいる。最後の一枚には、ひとつの文が刻まれていた。
汝の名を呼ぶ声に答えるな。
鏡の口は、息から顔を学ぶ。
火傷顔の男が鼻で笑った。
「詩人はどこにでもいる」
その先に、壺が並ぶ部屋があった。
黒釉のアンフォラが数百。どれも口を鉛で封じ、白い石膏で人の顔を覆うように固めてある。目も鼻も口もない、つるりとした面だ。
修吾は一番近い壺の銘文を読んだ。
「開けるな、とある」
「古代人の販売促進だな」
火傷顔の部下が笑い、銃床で石膏を叩いた。
一撃目で亀裂が入り、二撃目で顔が割れた。鉛の封が外れ、壺の中から甘い腐臭が噴き出した。
修吾は叫んだ。
「離れろ!」
黒い液体が壺の縁から溢れた。
水ではない。無数の薄い膜が重なり合い、互いに剥がれながら床を這った。濡れた羊皮紙のように半透明で、中心に白い軟骨の輪がある。輪が伸び、縮み、口の形を作った。
部下が銃を撃った。
弾丸が膜を裂く。だが裂けた断片はそれぞれ指ほどの生き物になり、彼の脚へ跳ね上がった。ズボンを登り、喉へ、頬へ貼りつく。
男は両手で顔を掻きむしった。
薄膜は皮膚の色に変わり、鼻の形を盛り上げ、唇の線を作った。男自身の顔の上に、もう一枚の同じ顔が急速に育つ。
「取れ! 取ってくれ!」
声が途中で二重になった。
上の口と、下の口が、わずかにずれて同じ言葉を発した。
エレニがランプ油を浴びせ、修吾が火をつけた。
膜は甲高い音を上げて縮れた。男も燃えながら床を転がった。火傷顔の男が迷わず撃ち、部下の動きが止まる。
静寂の中で、壺の底から小さな声がした。
「取れ……取ってくれ……」
死んだ男と同じ声だった。
マルコスが十字を切った。
サヴァスは壁画を凝視していた。
「彫刻の型取りに使われた生物かもしれない。海綿、軟体動物、あるいは――」
「名前をつければ安全になると思うな」と修吾。「壺を全部焼く」
「待て。これは発見だ」
「発見に食われたいなら一人で残れ」
火傷顔が銃を向けた。
「先に宝だ。帰りに焼けばいい」
彼らは壺の部屋を抜けた。
背後で、割れた壺の中から、何かが湿った音を立てて這い出すのが聞こえた。
地下道は二手に分かれた。
左は乾いた階段、右は膝まで水が溜まった回廊。壁の矢印は左を示している。
修吾は右を選んだ。
「なぜだ」とサヴァス。
「矢印の鑿跡が新しい。せいぜい百年前だ。少女像に左手を付けた修復家が、追っ手を迷わせるために刻んだ」
「では彼は右へ行った?」
「そして戻らなかったかもしれない」
水中には、白い仮面が沈んでいた。
一行はそれを拾い、顔につけた。薄い大理石を内側から削ったもので、目の部分にだけ狭い隙間がある。古代の神官が、何から顔を隠したのか。今は全員が知っていた。
しばらく進むと、後方から声がした。
「おじさん」
イアソンが立ち止まった。
声は彼自身のものだった。
「マルコスおじさん。ボンベを忘れた」
マルコスが振り返りかける。
修吾は肩を掴んだ。
汝の名を呼ぶ声に答えるな。
暗い水面に、イアソンの顔が浮かんでいた。
だが本物のイアソンは一行の中央にいる。水面の顔は首も身体もなく、膜の縁を魚の鰭のように動かして近づいてくる。笑った。口が左右逆に歪んでいた。
エレニが白い仮面を差し出した。
膜は仮面に飛びつき、石の上へ自分の顔を作ろうとした。修吾が松明を押しつける。焦げた臭いとともに、イアソンの声が幼児の泣き声へ変わった。
「走れ!」
一行は水を蹴って進んだ。
背後から幾つもの声が追ってくる。死んだ男、イアソン、マルコス、エレニ。やがて修吾自身の声まで混じった。
「榊修吾。お前は間違っていない」
「戻れ。証明してやる」
「お前の名を返してやる」
修吾は答えなかった。
ただ、白い仮面の下で歯を食いしばった。
五 鏡の依頼
回廊の終わりに、青銅の扉があった。
扉の中央には眼窩だけが穿たれた女性の顔が浮き彫りにされている。修吾が黒曜石のレンズを嵌めると、内部で歯車が動き始めた。
扉が左右に開く。
その先は、地下とは思えない大空間だった。
円形劇場の客席がすり鉢状に下り、中央に白い舞台がある。客席には等身大の彫像が千体近く座っていた。男、女、老人、子供。衣服も身分も時代も異なる。
ただし、すべて顔がない。
舞台の中央には、黄金と象牙で作られた一体のコレー像が立っていた。
衣の襞には細い青銅管が走り、背後には大小の鏡が花弁のように広がっている。頭部は滑らかな卵形で、目鼻も口もない。胸の内部で、水時計の滴る音がした。
《アレテイア》。
サヴァスが膝をついた。
「真実の女神ではない。顔を生む機械だ」
火傷顔の男たちが舞台へ降りた。
客席の彫像をライトで照らす。足元には薄い金板が積まれ、それぞれに細密な顔が押し型で記録されていた。王冠をかぶる者、奴隷の焼印を持つ者、異国の兵士。何千、何万という横顔。
エレニが一枚を拾った。
「肖像の原版……」
「これがあれば、古代のどんな人物でも再現できる」とサヴァス。「失われた王の顔、暗殺された皇子の顔、神託を告げた巫女の顔。歴史そのものの鋳型だ」
火傷顔が笑った。
「現代の顔も作れるなら、もっと高い」
舞台の左右には二つの水盤があった。
一方は空で、もう一方には黒い液体が満ちている。壺の中にいた薄膜が、幾重にも沈んでいた。
修吾は機械の台座を調べた。
修理跡がある。古代の鋲に混じり、十八世紀の真鍮ねじ、十九世紀の鋼線、さらに新しい銀半田。少女像を継ぎ足した者たちは、ここまで来ていた。彼らは機械を直し、同時に封じ直したのだ。
「誰かが何度も目覚めさせようとし、そのたびに止めた」と修吾。
「なら、今度こそ完成させる」とサヴァス。
彼は舞台裏の銘板を読み上げた。
「黒き目を与えよ。息を与えよ。鏡に血を見せよ。されば形なきものは名を着る」
火傷顔がイアソンを掴んだ。
ナイフを喉元へ当てる。
「やれ、博士」
「待て」と修吾。「作動条件が分かっていない」
「血と息だ。十分分かる」
イアソンが暴れた。
マルコスが飛びかかり、銃声が響いた。船長の肩が弾ける。エレニが火傷顔の腕を蹴り上げ、ナイフが落ちた。
混乱の中、サヴァスが自分の掌を切った。
血を鏡へ塗りつけ、顔のない像へ息を吹き込む。
「私は証人になる!」
修吾が止める前に、像の胸で水時計が反転した。
滴が上へ昇り始めた。
鏡が一斉に回転する。
黒曜石のレンズを通った光がサヴァスの顔を走査した。水盤の薄膜が震え、何百もの小さな口を開く。膜は水柱のように立ち上がり、空の水盤へ流れ込んだ。
そこに、人間の頭部が形作られた。
額、鼻梁、頬骨、唇。
サヴァスと同じ顔だった。
頭部の下に首が伸び、肩が生まれ、黒い液体が皮膚の色へ変わる。数十秒後、裸のサヴァスがもう一人、水盤から立ち上がった。
二人は同時に笑った。
「成功だ」
「成功だ」
声も、間も、まったく同じだった。
火傷顔の男が銃を両方へ向ける。
「どっちが博士だ」
「私だ」
「私だ」
一人が杖を持っている。もう一人は裸だ。
答えは明らかに見えた。
だが杖を持つサヴァスが、突然、火傷顔の男へ噛みついた。
唇が裂け、顔全体が膜となって男の頭を包む。銃が乱射され、客席の彫像が砕けた。
裸のサヴァスが悲鳴を上げた。
「違う! そいつは私じゃない!」
次の瞬間、彼の背中もまた薄く裂けた。
内側から幾つもの白い輪が浮かび、口の形を作った。
どちらも、もう人間ではなかった。
客席の顔なき彫像が、ゆっくりと立ち上がり始めた。
金板から剥がれた薄膜が、彫像の頭部へ貼りついていく。古代の王、兵士、巫女、子供。何千年も前に保存された顔が、石の身体の上で目を開いた。
劇場が、観客を取り戻した。
六 イリスという女
火傷顔の男たちは撃ちまくった。
石の観客は砕けても進んだ。顔だけが床へ落ち、蜘蛛のように指状の膜を伸ばして這う。
修吾は負傷したマルコスを客席の陰へ引きずった。
エレニがイアソンに白い仮面を被せる。
「出口は?」
「機械の裏だ。修復者用の通路があるはずだ」
修吾は台座の新しいねじを追った。
十九世紀の職人が使った平頭ねじ。その列は舞台奥の壁まで続いている。だが壁の前には、作動中の《アレテイア》が立っていた。
エレニが黒曜石のレンズへ手を伸ばした。
修吾が手首を掴む。
「触るな、イリス」
エレニの動きが止まった。
銃声と石の崩れる音の中で、二人は見つめ合った。
「いつから?」と彼女。
「最初の夜から、半分は」
「半分?」
「衝立の向こうの声と、君の声は周波数が違った。だが息継ぎの癖が同じだった。どちらも長い文の前に、左の袖口を二度撫でる音がした」
「音まで鑑定するのね」
「無線のイリスは録音だ。蝋管の回転むらが十二秒ごとに出ていた。質問への返事は、君が隣室から短波で差し込んだ」
「それでも船に乗った」
「島は本物だった」
エレニは笑った。
その笑いには、衝立の向こうの銀色の響きがあった。
「イリス・カリスなんて女はいない。館も蒐集品も借り物。祖父の日誌は私が作った。三人の修復家の記録を継ぎ合わせて、一人の蒐集家の人生に仕立てた」
「少女像は?」
「私が組み立てた。部品は全部、本物よ。あなたの言ったとおり、一体としては偽物」
「見事だった」
「褒められるとは思わなかった」
「良い仕事と、良い人間は別だ」
彼女の目が一瞬だけ曇った。
「私は来歴を作る仕事をしてきた。略奪品に祖父の名前を与え、盗品に戦前の写真を与え、存在しなかった相続を公証した。市場は物を見ない。物語を見る。だから私は、誰より本物を作れる」
「それで《アレテイア》が欲しい?」
「顔が必要なの。履歴だけでは越えられない国境がある。死者の顔、失踪者の顔、記録から消された人間の顔。この機械があれば、誰でも別の人生を持てる」
「犯罪者も」
「難民も。追われる女も。名を奪われた子供も」
「同じ道具だ」
「道具はいつもそうでしょう?」
舞台の向こうで、石の兵士が火傷顔の男を押し倒した。
薄膜が彼の顔へ群がる。悲鳴が三つ、四つ、同じ声で重なった。
エレニは黒曜石のレンズを見つめた。
「私は十三の名前を使った。どれも本名ではない。顔だけは変えられなかった。イリスは、私が初めて自分で選んだ人間だった」
「顔を見せない女を?」
「誰にでもなれる女よ」
彼女は修吾の手を振りほどき、レンズを抜いた。
機械の光が途切れる。
だが止まらなかった。
むしろ鏡の回転が速まり、胸の水時計から黒い液体が溢れた。レンズは鍵ではなく、制御弁だったのだ。
「伏せろ!」
鏡から白い光が炸裂した。
エレニが舞台へ投げ出される。黒い薄膜が水盤から鞭のように伸び、彼女の顔へ貼りついた。
修吾がナイフで切り払う。
膜は裂けながら、エレニの頬の色を帯びた。切断片が床を走り、鏡の裏へ消える。
機械の向こうから、女の声がした。
「榊さん」
イリスの声だった。
「人は、顔を失っても同じ人間でしょうか」
鏡の花弁の間から、エレニがもう一人、歩み出た。
黒髪、生成りのシャツ、左の袖口まで同じだった。
二人のエレニが、同時に修吾を見た。
七 最後の鑑定
一人は舞台に倒れ、頬から血を流していた。
もう一人は鏡の前に立ち、濡れた髪から黒い滴を落としている。
「そっちは偽物よ」と倒れたエレニが言った。
「そっちが偽物」と立つエレニが言った。
声も、表情も、恐怖も同じだった。
修吾は二人を見比べた。
顔は鑑定しない。
傷を見る。
「袖をまくれ」
二人とも従った。
右腕の内側に、幼いころの火傷らしい白い痕がある。位置も形も同じ。
「靴を脱げ」
足の裏の胼胝まで同じだった。
《アレテイア》は表面だけでなく、触れた相手の身体を丸ごと読んでいる。
あるいは、記憶まで。
「館で、私が最初に鑑定した像は何だった?」と修吾。
「三つの時代を持つ少女」
二人が同時に答える。
「報酬を提示したとき、イリスは何を飲んでいた?」
「何も。空のカップを置いて、陶器の音だけ聞かせた」
「なぜ?」
「あなたに、姿のない生活を想像させるため」
同じ答えだった。
石の観客が階段を下りてくる。
マルコスの息が弱い。イアソンが白い仮面越しに泣いている。時間はない。
修吾は二人のエレニの手を取った。
指先を見た。爪の間。掌の皺。絵具の染み。
どちらも完璧だった。
完璧。
修吾は、立っているエレニの左手を裏返した。
薬指に、ごく薄い青い線がある。館で少女像の台座を回したとき、古いアズライト顔料がついた跡だ。
倒れているエレニにも、同じ線がある。
ただし、右手の薬指に。
鏡の口は、息から顔を学ぶ。
機械は鏡像を作る。
顔の左右差だけでなく、身体の履歴まで反転させて。
修吾は倒れている方へ手を伸ばした。
立つエレニが叫ぶ。
「違う! 鏡に映っていたのは彼女よ!」
その言葉で、修吾は確信した。
本物のエレニは、言い訳をするとき左の袖口を二度撫でる。
倒れた女の左手が、無意識にそれをしていた。
立つ女は右の袖口を撫でていた。
修吾は本物を引き起こし、もう一人へ白い仮面を投げた。
偽物は反射的に顔で受けた。膜の皮膚が仮面へ吸いつき、鼻と唇が崩れる。
そこへ石のサヴァスが殺到した。
偽物のエレニは悲鳴を上げ、無数の顔に呑み込まれた。
「機械を止める!」修吾は叫んだ。
「レンズは抜いた!」
「本物のレンズならな」
彼はエレニが握っていた黒曜石を奪い、床へ投げた。
砕けた断面から、白い粉がこぼれる。
「偽物……」
「三日前に作った。火山ガラスの粉と樹脂。君の少女像ほど上手くはない」
本物の黒曜石レンズは、修吾の上着の内ポケットにあった。
島へ着く前、彼は像から取り外し、複製品と替えていた。
「疑ってたの?」
「依頼人の顔を見たことがない仕事では、鍵を預けない」
彼は偽レンズの破片を《アレテイア》の胸へ押し込んだ。
樹脂が機械の熱で溶け、青銅管へ流れ込む。歯車が軋み、鏡の回転が不規則になった。
「偽物で古代の機械を壊す気?」
「完璧なものは、だいたい小さな不純物に弱い」
水時計が破裂した。
熱せられた水が蒸気となり、鏡を内側から曇らせる。光の焦点が逸れ、客席へ走った。顔の膜が一斉に白く焼けた。
劇場全体が震えた。
天井から石が落ち、海水が細い滝となって噴き出す。封じられていた水路が開いたのだ。
「通路!」修吾が叫ぶ。
エレニが舞台裏の真鍮ねじを蹴った。
壁板が外れ、狭い保守坑が現れる。イアソンがマルコスを背負い、先に入った。修吾とエレニが続く。
背後で《アレテイア》の顔なき頭部が割れた。
内部から最後の薄膜が広がり、巨大な女の顔を作った。
イリスの顔だった。
存在しない依頼人の、誰も見たことのない顔。
それは美しく、空虚だった。
「榊さん」
銀の声が崩れゆく劇場を満たす。
「私は、本物でしたか」
修吾は振り返らなかった。
八 海へ返すもの
保守坑は急勾配で海面へ向かっていた。
背後から水が追い上げる。古い木製の支柱が折れ、石天井が落ちる。イアソンがマルコスを抱えて這い、エレニが肩を貸した。
坑道の途中で、三本の縦穴に分かれた。
どれも暗く、風の匂いも同じだった。
「地図には?」とエレニ。
「ここから先はない」
「鑑定して」
「穴を?」
修吾は壁を照らした。
左の穴には古代の鑿跡。中央には十八世紀の鉄杭。右には十九世紀の綱の繊維が石に食い込んでいる。
地図を継いだ四人のうち、少なくとも二人はここを通った。
新しい痕跡ほど、帰還者が残した可能性が高い。
「右だ」
彼らは右の穴を登った。
最後の一人が抜けた瞬間、背後の坑道が水で埋まった。
出口は島の南側に開いた海食洞だった。
朝日が差し、波が銀色に砕けている。外には小さなモーターボートが一隻、岩陰に繋がれていた。火傷顔の一味が用意した逃走艇だ。
《ペルアム》へ戻ると、船尾に爆薬が仕掛けられていた。
サヴァスは最初から、発見の証人を残すつもりがなかったのだ。
マルコスの傷を縫い、船を応急修理し、彼らは島を離れた。
アステリア島の二本の角の間から、黒い煙が細く上がっていた。やがて地鳴りとともに北壁が崩れ、海が洞窟を呑み込んだ。
甲板で、エレニが修吾の隣に立った。
「本物のレンズを見せて」
「海へ出てからだ」
「もう海よ」
「陸から十分しか離れていない」
彼女は笑った。
「あなた、最初から全部知っていたような顔をするけど、私が二人になったときは迷った」
「鑑定には時間が要る」
「間違っていたかもしれない」
「今ここにいる君が本物かどうかは、まだ保留だ」
「ひどい人」
彼女は左の袖口を二度撫でた。
夕方、水平線に巡視船の灯が見えた。
救難信号を受けたギリシア沿岸警備隊だった。
その直前、エレニは修吾に口づけた。
唐突で、短く、海水と血の味がした。
修吾が反応するより早く、彼女の手は内ポケットへ入っていた。
黒曜石のレンズを奪い、船縁を越える。火傷顔たちのモーターボートは、《ペルアム》の後ろへ曳航されていた。
「エレニ!」
彼女はボートの綱を切り、エンジンをかけた。
白い航跡が夕暮れへ伸びる。
「報酬は館の金庫にある!」と彼女が叫んだ。
「館は借り物だろう!」
「金庫だけは本物よ!」
修吾は追わなかった。
ただ、遠ざかる彼女の左手を見た。レンズを握る薬指に、青い顔料の線がある。
左右は正しい。
たぶん。
沿岸警備隊の灯が近づく。
修吾は上着の裏地を裂いた。縫い込んであった小さな包みを取り出す。
中には、本物の黒曜石レンズがあった。
エレニが盗んだのは、二つ目の偽物だった。
終章 顔のない肖像
三か月後、修吾は東京にいた。
雨の午後、神田の古書店で一冊の競売図録を受け取った。
差出人はない。ジュネーヴの小さなオークション会社が刊行したもので、表紙には《紀元前三世紀 無名彫刻家による黒曜石の眼》と印刷されていた。
写真の品は、エレニが持ち去った偽物だった。
来歴は完璧に作られている。十九世紀のスイス人医師の収集、相続人の屋根裏、戦時中の疎開記録。古い家族写真の背景にまで、黒いレンズが写り込んでいた。
ありもしない百五十年が、見事に一冊の紙の中で生きている。
落札価格は、修吾の報酬の十倍だった。
図録の間から、小さな蝋のメダリオンが落ちた。
横顔の肖像が浮き彫りにされている。
修吾自身の顔だった。
アステリア島でつけた眉の傷、眠れない夜にだけ深くなる目尻の皺、笑うとわずかに下がる右の口角。彼自身も知らないほど正確に写されていた。
ただし、すべて左右が逆だった。
裏面には一行だけ、古代ギリシア語で刻まれていた。
鏡は、どちら側から見ても自分を本物だと思う。
修吾は長いあいだ、その肖像を見つめた。
あの夜、彼が救ったのは誰だったのか。
人間のエレニか。
鏡から生まれたエレニか。
あるいは、そんな区別に価値があると思い込んでいる自分こそ、古い来歴に縋る鑑定士にすぎないのか。
窓の外で雨が強くなった。
ガラスに映る自分の顔は、蝋の肖像と同じ向きをしていた。
修吾は机の抽斗から、本物の黒曜石レンズを取り出した。
小さな孔の奥で、暗い海が瞬いている。
彼はそれを金槌で割ろうとした。
だが、振り下ろす寸前、手を止めた。
贋作は顔から嘘をつく。
本物は、傷から真実を話す。
では、傷まで正しく写す偽物は、何を話すのだろう。
修吾はレンズを封筒に入れ、宛名のないまま封をした。
翌朝、東京湾の最も深い航路で、それを海へ落とした。
黒い眼は、光を一度だけ返し、沈んだ。
数日後、彼の事務所に電話がかかってきた。
雑音の向こうで、銀器のように静かな女の声が言った。
「榊修吾さん。鑑定をお願いしたいものがあります」
修吾は答えなかった。
受話器の向こうで、女が左の袖口を二度撫でる音がした。
了