コロッケの記憶、月額九百八十円

コロッケを盗まれました」

 夕凪銀座交番の朝は、その一言から始まった。

 机の向こうで、巡査部長の宮前鉄蔵は、商店街でもらった試食のさきいかを噛んでいた。五十手前、腹まわりは立派、財布の中身はいつも軽い。隣では、新人巡査の七瀬まどかが、拾得物の傘を色別に並べている。

「何個です?」

「一個も」

「では、盗まれていない」

「味だけ盗まれたんです」

 揚げ物店「あげたて磯部」の店主、磯部ハナは、白い紙袋を机に置いた。七十九歳。小柄だが、眉毛だけは交番の誰よりも威厳がある。

 紙袋から、まだ温かいコロッケが三つ出てきた。

「証拠品なら、まず現物確認だな」

 宮前が一つつかむと、七瀬が手首を押さえた。

「鑑識に回します」

コロッケをか」

「少なくとも、被害届を書く前に巡査部長の胃へ回す理由はありません」

「毒見という重要任務がある」

 宮前は押し切って、かぶりついた。

 衣は軽く割れ、湯気が立った。じゃがいもはほくほくしている。炒めた玉ねぎの甘さも、ひき肉の脂も、塩も胡椒も、舌では分かる。

 なのに、うまくない。

 まずくもない。

 温かくした段ボールに、食品らしい香りをつけたような味だった。

 宮前は二口目を急いだ。三口目はもっと真剣に噛んだ。しかし、感想は変わらない。

「これは……」

「まずいなら、まずいとはっきりお言い」

「いや、まずいという元気すらない。コロッケの形をした説明書だ」

 ハナは肩を落とした。

「昨日から、みんなそう言うんです。四十年、同じ作り方ですよ。芋も油も悪くない。なのに、お客さんが一口食べて、首をかしげて帰っていく」

「集団食中毒の前触れでしょうか」と七瀬。

「食中毒なら、宮前さんは年中かかってるよ」

「私は胃腸が丈夫なだけだ」

 宮前は残りの二つを、念のため証拠保全と称して自分の引き出しにしまった。

 異変は、コロッケ店だけではなかった。

 向かいの「福々ラーメン」では、店主が寸胴の前で泣いていた。

「鶏ガラを八時間煮たスープと、水道水の違いが分からねえんです。ただ、こっちは熱い」

 老舗甘味処では、あんこが「黒くて甘い何か」と評され、焼き鳥屋ではタレと塩の論争が消滅していた。

「長年の争いが一日で終わったな」と宮前。

「文明の進歩みたいに言わないでください」

 七瀬は、聞き取りの結果を手帳にまとめた。異変が始まったのは、ほぼ全員が同じものを使い始めた翌日だった。

 商店街振興会が無料配布した、銀色のスマート箸――商品名「おもいで箸」。

 食事をすると箸先のセンサーが塩分、糖分、香りを測り、健康助言を出す。さらに、食事の感想を提供すると「アジポ」が貯まり、買い物に使える。

「巡査部長、この箸の紹介者欄、全部あなたの番号になっています」

「地域のデジタル化を支援した」

「紹介特典で何をもらいました?」

「住民との信頼」

「交番の奥にある巨大なマッサージ椅子は?」

「信頼の副産物だ」

 交番の休憩室には、黒革の高級マッサージ椅子が鎮座していた。宮前は紹介件数三百件を達成し、特典カタログの最上位商品を受け取っていたのである。

「それだけじゃありませんね」

 七瀬は椅子の裏から、束ねられた百本近い「おもいで箸」を引っぱり出した。配線は古いラジカセと炊飯器につながっている。

「これは何です?」

アジポ自動収穫装置」

「自白が早い」

 宮前は、箸先を調味液に順番に浸し、食事をしたように誤認させる機械を作っていた。マッサージを受けながらポイントが増える、夢の装置だった。

「昨夜から動かなくなってな。ポイントどころか、肩もみまで弱くなった」

「押収します」

「ここは交番だ。どこへ押収する」

「少なくとも、あなたの背中からは引き離します」

 そのとき、入口から女の声がした。

「その箸、味を記録しているだけではありません。味と記憶の結びつきを、外へ送っています」

 細身の女が立っていた。神楽坂澄子。食文化誌の記者で、大学では感覚科学を研究していたという。ハナから連絡を受け、取材に来たのだった。

 澄子は、宮前と七瀬を椅子に座らせ、目隠しをした。

 小皿に、砂糖水、塩水、昆布だし、薄い酢を並べる。

 二人は甘味、塩味、うま味、酸味を正しく当てた。

 次に澄子は、小さく切った苺を口へ入れた。

「甘い。少し酸っぱい。種がある」と七瀬。

「何の食べ物です?」

「分かりません」

 宮前も答えられなかった。匂いを嗅げば苺だと分かる。目で見ればなおさらだ。だが、口の中の感覚だけでは、それが何であり、いつ食べ、誰と笑った味なのかが、霧の向こうへ消えている。

「舌は壊れていません」と澄子は言った。「味を、記憶の棚へ戻す道が切られているんです。甘い、しょっぱいまでは分かる。でも、『おいしい』まで届かない」

「おいしいは舌で決めるんじゃないのか」

「舌は入口です。続きは鼻と脳と、これまで生きた時間が決めます」

 宮前は引き出しのコロッケを見た。

 さっきまで単なる証拠品だったものが、急に、誰かの消えた人生のように見えた。

 同日午後、商店街会館で説明会が開かれた。

 壇上には、「パレット・コモンズ株式会社」の代表、錦戸静が立っていた。灰色のスーツ、灰色のネクタイ、よく磨かれた灰色の靴。笑顔まで均等に整っている。

 背後のスクリーンには、大きな文字が映っていた。

 ――味覚格差のない社会へ。

「皆さまの味覚は盗まれていません」

 錦戸は穏やかに言った。

おもいで箸の利用規約に基づき、使用頻度の低い食味記憶をクラウドへお預かりしています。人は一生のうち、膨大な味を記憶します。しかし、その多くは再利用されません。冷蔵庫の奥で腐らせるより、社会で共有するほうが有益ではありませんか」

 会場がざわついた。

「記憶を預けるなんて聞いてないぞ」

「規約の第八十七条です」

「誰がそこまで読むんだ」

「お読みいただける設計にはしてあります。文字は小さいですが」

 錦戸は、掌ほどの灰色の立方体を掲げた。

「皆さまからお預かりした記憶を統合し、もっとも多くの人が幸福を感じる味を作りました。商品名は『コモン・バイト』。脂質、糖質、塩分を抑えながら、満足感は従来食の三倍です」

 試食が配られた。

 見た目は湿った消しゴムだった。

 宮前は警戒しつつ、ひとかけら口へ入れた。

 次の瞬間、雨音が聞こえた。

 赤い傘

 小さな手を握る、女の手。

 紙袋の底にたまった油。

 揚げたてのコロッケを半分に割ると、湯気が頬にかかる。

『鉄蔵、熱いから気をつけて』

 知らない声なのに、懐かしい。

 胸の奥が痛いほど懐かしい。

 宮前は目を開けた。頬に涙が流れていた。

 周りでも、商店街の人々が泣いていた。

「母ちゃんの味だ」

「子どものころ、雨の日に食べた」

赤い傘だった」

 拍手が起きた。

 宮前は拍手できなかった。

 彼の母は、宮前が一歳になる前に亡くなっている。母に手を引かれ、コロッケを食べた記憶など、あるはずがない。

 隣で澄子が、灰色の立方体を皿へ戻した。

「これは料理ではありません」

「では何でしょう」と錦戸。

幸福のボタンです」

「押して幸福になれるなら、立派な道具では?」

「料理は、こちらの都合どおりに幸福にしてくれません。焦げる。冷める。好みが分かれる。だから人は、作った相手や食べた時間ごと覚えるんです」

「不便ですね」

「その不便を、文化と呼びます」

 錦戸は笑った。

「文化は、ときに人を傷つけます。母の味を知らない人もいる。高級料理を食べられない人もいる。味覚の鋭い人だけが正しさを語る。私たちは、幸福を民主化したのです」

 会場の拍手は、今度はさらに大きかった。

 ハナだけが、腕を組んだまま壇上をにらんでいた。

「みんなが同じ味で泣くなんて、気味が悪いよ」

「しかし、磯部さんのコロッケは、今は誰も喜ばせられない」と錦戸。

「だったら勝負しな」

「勝負?」

「その灰色の消しゴムと、あたしのコロッケ。どっちが本当にうまいか」

 宮前は椅子から立ち上がった。

「よし。交番主催、第一回・夕凪銀座コロッケ決戦だ」

「勝手に主催しないでください」と七瀬。

「では地域安全協力行事だ」

「安全要素は?」

「揚げ油の温度管理」

「弱いです」

 決戦は三日後、商店街の夏祭りで行われることになった。

 パレット・コモンズは、宣伝になると考えて快諾した。商店街振興会も、「味覚先進地区」の認定と補助金を期待して賛成した。

 七瀬は、その間に「おもいで箸」の通信経路を調べた。

「箸だけでは記憶を抑えられません。商店街のどこかに、強い送受信装置があります」

「電波なら屋上だ」

「なぜ分かるんです?」

「昔、町内放送を勝手に競馬中継へ切り替えようとして、屋上という屋上を調べた」

「余罪の告白が捜査に役立つ日が来るとは思いませんでした」

 二人は商店街会館の時計塔へ上った。

 時計の裏に、銀色の箱があった。箱から伸びるケーブルは、無料Wi-Fiの設備を装い、商店街全体へ広がっている。

 七瀬が型番を撮影した。

「医療機器としての表示がありません。しかも、同意した利用者だけでなく、周囲の人にも信号を送っています」

「現行犯で止められるか」

「使用の実態と被害の因果関係が必要です」

「だったら、祭りで味を盗む瞬間を捕まえる」

 宮前は悪い笑顔を浮かべた。

「巡査部長。法律の範囲内でお願いします」

「法律は線だ。踏まなければいい」

「あなたはいつも、助走をつけて越えます」

 交番へ戻ると、宮前は押収されたマッサージ椅子を分解し始めた。

「何をしているんです?」

「この椅子は、百本の箸から同時に信号を送れる。逆向きにすれば、百本へ返せる」

「記憶を?」

「さあ。ポイントなら返せる」

「頼りない」

「世の中の大発明は、だいたい最初は用途を間違えている」

 宮前は、椅子の振動モーター、古いカラオケアンプ、町内放送のマイク、炊飯器の温度センサーをつないだ。完成したものは、マッサージ椅子がラジオ塔を飲み込んだような姿になった。

 澄子は呆れながらも、配線図をのぞき込んだ。

「味の記憶を呼び戻すなら、鍵は匂いです。匂いは記憶へ近い」

「では祭りで、商店街じゅうにコロッケの匂いを流す」

「大量に揚げるだけでしょう」

「難しい言葉にすると予算がつく。『嗅覚誘導型地域回想実験』だ」

「予算は出ません」

「もう材料を町内会費で買った」

「始末書を先に書いてください」

 祭り前夜、ハナの店では、コロッケの仕込みが続いていた。

 じゃがいもは皮つきのまま蒸す。茹でると水を吸いすぎる。熱いうちに皮をむき、木べらで粗くつぶす。

「なめらかにしないんですか」と七瀬。

「しすぎると、芋が自分を忘れる」

 玉ねぎは、牛脂を少しだけ溶かした鍋で、色づく手前まで炒める。甘さを出しながら、香りを残す。ひき肉には、火を入れる直前に塩を振る。早すぎると締まり、遅すぎると味が浮く。

 炒めた具を芋へ混ぜるときも、均等にはしない。肉の多い一口、玉ねぎの甘い一口、芋だけの一口が、同じコロッケの中に残る。

「商品なら、どこを食べても同じ味のほうが正しいのでは?」と七瀬。

「工場ならね。でも、人が作ったものは、少しくらいむらがあるほうが、次の一口を食べたくなる」

 衣に使うパン粉は、近所のパン屋が前日に焼いた食パンを乾かし、粗く削ったものだった。油は新しい菜種油に、先代から続く牛脂を少し混ぜる。

 澄子が一つ一つ確かめ、うなずいた。

「特別な材料はありませんね」

「四十年やってるとね、特別じゃないことを毎日やるのが一番難しいんだよ」

 宮前は、成形前の種を指でつまみ食いした。

 ハナの木べらが、ぴしゃりと手の甲を打った。

「味が分からないのに食べるんじゃない」

「分からないから調べている」

「泥棒も、金の重さを調べてると言うよ」

 宮前は手をさすりながら笑った。

 だが、ハナが背を向けたあと、その笑いは消えた。

「神楽坂さん」

「はい」

「あの灰色のやつで見た記憶は、消せるのか」

「本物でないと分かっているなら、薄くはなるでしょう」

「本物じゃないから、困るんだ」

 宮前は、蒸し上がった芋の匂いを吸い込んだ。

「一度も会った覚えのない母親が、あの中では、俺の名前を呼んだ」

 澄子はしばらく黙っていた。

「偽物の記憶でも、感じた寂しさまで偽物とは限りません」

「食い物より面倒だな、記憶は」

「食べ物も、同じくらい面倒です」

 祭り当日。

 商店街の中央には特設ステージが組まれ、左右に二つの調理台が置かれた。

 東側はパレット・コモンズ。白衣のスタッフが、灰色の「コモン・バイト」を銀の皿へ並べる。

 西側は「あげたて磯部」。ハナが鍋の前に立ち、澄子と七瀬が補助につく。

 宮前は警備腕章をつけ、ステージ下に例のマッサージ椅子を隠していた。上から祭りの紅白幕をかぶせたが、足もみ部分だけが露出している。

「どう見ても怪しいですよ」と七瀬。

「祭りとは、怪しさが許される日だ」

「犯罪者の標語みたいです」

 審査員は商店街の住民百人。食べ比べのあと、赤い札ならコロッケ、灰色の札ならコモン・バイトへ投票する。

 司会者の合図で、まずコモン・バイトが配られた。

 百人が、同時に口へ運ぶ。

 雨音。

 赤い傘

 母の手。

 紙袋のコロッケ

 会場のあちこちから、すすり泣きが聞こえた。

「懐かしい」

「母ちゃんだ」

「あの日の味だ」

 宮前の頭にも、同じ光景が戻った。

『鉄蔵、熱いから気をつけて』

 胸の奥に、甘い痛みが広がる。

 次に、ハナのコロッケが揚がった。

 百七十五度の油へ入れた瞬間、粗いパン粉が泡をまとった。鍋の中で、きつね色が少しずつ深くなる。

 ハナは時計を見ない。

 泡の細かさと、箸へ伝わる震えで引き上げる。

 網に置かれたコロッケから、乾いた音がした。衣の中で、芋の水分がまだ動いている。

 揚げたてが百人へ配られた。

 人々は食べた。

 さくり。

 ほくり。

 玉ねぎの甘さ、肉の脂、胡椒、焦げたパン粉。

 舌では分かる。

 しかし、その先に何もない。

 百人の顔から、さっきの涙が消えた。

 投票箱が開いた。

 灰色、九十九票。

 赤、一票。

 司会者が叫んだ。

「勝者、パレット・コモンズ!」

 拍手が爆発した。

 赤い札を入れた宮前は、小声で言った。

「一票くらい、警察が空気を読まないと不公平だからな」

「それは職権ではなく、ただの身内票です」と七瀬。

 錦戸が壇上へ上がった。

「これが、新しいおいしさです。料理人の技量にも、家庭環境にも、所得にも左右されない。誰もが同じ幸福を得られる味です」

 ハナは、残ったコロッケを見つめていた。

 澄子は審査員席へ降り、一人の少年へ尋ねた。

「どんな記憶でした?」

「雨の日。お母さんとコロッケ

「傘の色は?」

「赤」

「いつ?」

「六月十七日」

 次に、八十歳の豆腐店主へ聞いた。

「昭和五十六年六月十七日。赤い傘だ」

 日本へ来て三年の留学生も、同じ日付を答えた。

 まだ五歳の女の子まで、たどたどしく言った。

「しょうわ、ごじゅうろくねん。ろくがつ、じゅうしちにち」

 会場の拍手が止まった。

 澄子がマイクを握った。

「これは皆さんの思い出ではありません。一つの記憶を、全員へ配っているだけです」

 錦戸は表情を変えなかった。

「共有できるからこそ、コモン・バイトなのです」

「共有ではない。上書きです」

「不幸な記憶を、幸福な記憶へ置き換える。それの何が悪いのでしょう」

「誰が幸福を選ぶんです?」

「市場です」

 宮前が壇上へ上がった。

「錦戸さん。あんた、俺の母親を勝手に作ったな」

「宮前さんが必要としていた母親を、最適化して提供しました」

「顔も知らないがな、俺の母親は、月額サービスじゃない」

 錦戸が指を鳴らした。

 時計塔の銀色の装置が低くうなり、会場にいた人々の目が一瞬、ぼんやりした。

 七瀬が叫ぶ。

「信号出力が上がっています!」

「不快な疑問を抑えただけです」と錦戸。「幸福には、雑音が少ないほうがいい」

「これで因果関係は十分だな」

 宮前は紅白幕を引きはがした。

 マッサージ椅子型の装置が現れた。

 会場の全員が、別の意味でざわついた。

「何ですか、それは」と錦戸。

「地域の信頼だ」

「違います」と七瀬。「押収物を無断改造した通信装置です」

「説明を正確にしすぎるな」

 宮前は椅子へ飛び乗り、足もみ部分に両足を入れた。百本の箸が一斉に点滅する。

「ハナさん、揚げろ!」

「残り全部かい?」

「商店街じゅうを、コロッケ臭くしろ!」

 ハナは大鍋へ、コロッケを次々と入れた。

 油が鳴った。

 玉ねぎ、牛脂、パン粉、じゃがいもの香りが、夏の熱気に乗って広がった。

 澄子が炊飯器の温度センサーを鍋のそばへ近づける。

「匂いの変化を信号へ乗せます!」

「七瀬、町内放送!」

「許可は?」

「緊急避難!」

「あとで根拠を書面にしてください!」

 七瀬がマイクのスイッチを入れた。

 商店街のスピーカーから、巨大な揚げ物の音が響いた。

 じゅわああああああ。

 錦戸が初めて顔色を変えた。

「止めなさい。記憶データが逆流する」

「返すんだよ」と宮前。「持ち主へな」

 マッサージ椅子が激しく振動した。

「うおおおおお! 肩は気持ちいいが、歯が合わん!」

 百本の箸が白く光った。

 時計塔の銀色の箱から、見えない何かが放たれた。

 最初に叫んだのは、ラーメン屋の店主だった。

「親父のスープだ!」

 甘味処の女将が、あんこの鍋へ駆け寄った。

「甘いだけじゃない。小豆の皮が、少し渋い!」

 焼き鳥屋では、客同士が再びタレ派と塩派に分かれ、三十秒で口論を始めた。

 ある男は、妻の弁当を一口食べて泣いた。

「この卵焼き、毎日ちょっと焦げてた!」

「悪かったね!」

「そこが好きだったんだ!」

「じゃあ泣くな!」

 商店街は、歓声と文句と笑い声でいっぱいになった。

 同じものを食べても、全員が違う顔をしている。

 宮前の頭の中では、赤い傘の記憶がほどけていった。

 代わりに、施設の食堂で食べた薄いカレー、祭りでもらったぬるいラムネ、初任給の日に一人で食べた立ち食いそばが戻ってきた。

 どれも豪華ではない。

 どれも完全ではない。

 だが、確かに自分のものだった。

 時計塔から煙が上がった。

 銀色の箱が止まり、同時に、マッサージ椅子の背もたれが勢いよく倒れた。

 宮前は足を挟まれたまま、仰向けになった。

「七瀬、逮捕だ!」

「誰をです?」

「まず椅子から俺を救出しろ!」

 七瀬は錦戸へ歩み寄った。

「同意していない住民への信号照射、身体反応データの無断取得、設備の虚偽表示。詳しい容疑は署で整理します」

「人は、いずれまた同じ味を求めますよ」と錦戸は言った。「違いは疲れる。思い出は痛い。選ばなくていい幸福ほど、売れる商品はない」

 七瀬は手錠をかけた。

「売れることと、していいことは別です」

 錦戸は連行されながら、宮前を見た。

「あなたは戻ってきます。あの母親に、もう一度会いたくなる」

 宮前は答えなかった。

 事件から一週間後。

 パレット・コモンズの装置は撤去され、「おもいで箸」は回収された。

 商店街の食べ物は、再びばらばらの味になった。

 福々ラーメンには「前より薄い」という客と、「前より濃い」という客が同時に現れた。甘味処では、あんこの甘さをめぐって常連が議論した。焼き鳥屋のタレ派と塩派は、仲直りする理由を失った。

 そして「あげたて磯部」には、行列ができた。

 ハナは揚げたてのコロッケを、宮前と七瀬と澄子へ渡した。

 宮前は一口かじった。

 衣の一部が少し焦げていた。

 芋の塊が、ひとつだけ大きすぎた。

 肉の多いところは胡椒が強く、端のほうは塩が薄い。

「どうだい」とハナ。

「昨日のより、ちょっとしょっぱい」

「昨日は食べてないだろ」

「こういうのは勢いだ」

 七瀬は笑い、澄子も笑った。

 ハナだけは怒った。

 それぞれの反応が違うことを確認してから、宮前はもう一口食べた。

「うまい」

 今度は、誰の記憶も見えなかった。

 ただ、この味を、この店先で、この三人と食べている今が、いつか記憶になるのだと思った。

 宮前は、紹介ポイントの不正取得と押収物の無断改造で、分厚い始末書を書くことになった。

 高級マッサージ椅子は証拠品倉庫へ運ばれた。

「せめて始末書を書き終えるまで、背中だけ揉ませてくれ」

「記憶を反省へ結びつけてください」と七瀬。

 深夜、宮前が一人で交番を出ると、雨が降っていた。

 商店街の外れ、閉鎖されたパレット・コモンズの臨時店舗の前を通る。

 シャッターは下りている。

 その脇に、見覚えのない小さな自動販売機が光っていた。

 画面には、こう表示されていた。

 ――おもいで個人プラン

 ――あなたに足りない懐かしさを、一食から。

 ――初月無料。翌月より九百八十円

 商品は三つ。

「父に褒められたハンバーグ」

「初恋の人と飲んだクリームソーダ」

「母と雨の日に食べたコロッケ

 宮前は、三番目を見つめた。

 雨粒が画面を伝った。

 財布には、千円札が一枚。

 錦戸の声を思い出した。

 あなたは戻ってきます。

「戻るんじゃない。捜査だ」

 誰にともなく言い訳し、宮前は千円札を入れた。

 温かい紙袋が出てきた。

 中には、何の変哲もないコロッケが一つ。

 ひとかじりすると、雨音が遠くなった。

 赤い傘が開いた。

 女の手が、小さな宮前の手を握った。

『鉄蔵、熱いから気をつけて』

 宮前は、笑った。

 偽物だと分かっていた。

 それでも、その手を振りほどけなかった。

 自動販売機の画面に、小さな文字が流れた。

 ――無料期間を開始しました。

 ――解約手続きは、思い出の中でのみ受け付けます。

 翌朝、七瀬が交番へ来ると、宮前は机で眠っていた。

 濡れた赤い傘を、大事そうに抱えていた。

 七瀬は不思議に思った。

 昨夜、夕凪銀座で赤い傘を売っていた店は、一軒もなかった。