ゼロ番目の明日

 親友が死んだ十三秒後、そいつから電話がかかってきた。

 午前零時十三分。

 廃時計工場の大時計は、十二時を少し過ぎたところで止まっていた。

 深町冬真は、その真下に倒れていた。

 胸から腹にかけて、折れた鉄骨が斜めに刺さっている。雨漏りの水と血が床の溝で混ざり、錆びた歯車のほうへ細い川をつくっていた。

「蓮」

 冬真は俺を見た。

 昔から、こいつは殴られても笑う男だった。なのに、そのときだけは笑わなかった。

「栞ちゃんに……遅くなるって、言っとけ」

「自分で言え」

「それ、いいな」

 冬真は一度だけ息を吐き、それきり動かなくなった。

 俺は何度も名前を呼んだ。

 工場のあちこちでは、さっきまで殴り合っていた連中が立ち尽くしている。俺たち〈青錆〉も、向こうの〈白雷〉も関係なかった。人が死ぬ瞬間には、敵も味方も、ただの十七歳に戻る。

 十三秒後。

 冬真の上着の内側で、着信音が鳴った。

 血で濡れたスマートフォンを引き抜く。画面には、登録した覚えのない名前が表示されていた。

 ――綾門 蓮(九年後)。

 俺は自分の名を見つめた。

 悪趣味な冗談だと思った。けれど、冬真の指はもう冷え始めていた。冗談を仕込む余裕など、誰にもなかった。

 通話ボタンに触れる。

『聞こえるか』

 受話口からした声は、確かに俺のものだった。

 ただし、煙草と後悔で九年ぶん擦り減らしたような声だった。

『赤い公衆電話を探せ。工場を出て、高架沿いに北へ三百メートル。三回まで戻れる』

「何を言ってる」

『冬真を助けろ』

 声の向こうで、誰かが扉を叩いていた。

『ただし、栞を――』

 そこで通話は切れた。

 直後、工場の大時計が、動くはずのない長針を一目盛りだけ戻した。

 赤い公衆電話は、潰れたクリーニング店と高架の柱の隙間にあった。

 今どき誰も使わない箱だった。ガラスはひび割れ、電話帳は鎖だけを残して消えている。けれど受話器は、新品のように赤く濡れていた。

 近づくと、呼び出し音が鳴った。

 受話器を取る。

『差引屋でございます』

 男とも女ともつかない声がした。

『ただいまのお時刻、零時十四分。ご希望の取引は「直前事象の再計算」でよろしいでしょうか』

「冬真を生き返らせろ」

『生き返らせるのではありません。死亡に至る前へ戻り、別の結果を選んでいただきます』

「同じだ」

『まったく違います』

 電話ボックスの曇ったガラスに、いつの間にか人影が映っていた。

 黒い雨合羽。白い手袋。顔のある場所だけが、高架の影より暗い。

 振り返っても誰もいない。

 ガラスの中にだけ、そいつは立っていた。

『差引規則をご説明します。一、戻れるのは本日二十三時三十四分まで。二、改変は三回まで。三、失われるはずだった量は、形を変えて必ず差し引かれます』

「量って何だ」

『痛み、時間、記憶、縁、未来。人間が失いたくないものには、おおむね値がつきます』

 馬鹿げていた。

 だが、俺の腕にはまだ冬真の血がついている。

「やれ」

『一回目の手数料として、あなたと深町冬真様の共有記憶を一件いただきます』

「好きにしろ」

『承りました』

 電話ボックスの床に、白い線が浮かび上がった。

 円の内側に数字と矢印が絡み合い、古い時計の文字盤に似た模様になる。

『合図のあと、目を閉じないでください。目を閉じると、戻れない部分だけが残ります』

「合図は」

『もう済みました』

 世界が、ガラスの割れる音を立てた。

 二十三時三十四分。

 俺は駅前のゲームセンターの裏に立っていた。

 右手には、まだ開けていない缶コーヒー。スマートフォンには冬真からのメッセージ。

〈話つけてくる。お前は来るな。栞ちゃん送ってけ〉

 四十分前に見た文章だった。

 雨も、踏切の音も、通り過ぎるバスの広告も同じだ。

 俺は缶を投げ捨て、廃時計工場へ走った。

 〈青錆〉は、別に暴走族でも犯罪組織でもない。

 同じ団地で育ち、学校から余った五人が、つるんでいただけだ。俺が喧嘩を始め、冬真が止め、ほかの三人が面白がって広げる。それがいつの間にか名前をつけられ、隣町の〈白雷〉と睨み合うようになった。

 発端は、たった一枚の落書きだった。

 互いに消した、消していないと言い合い、殴った、殴られたが積み重なった。冬真は今夜、そのくだらない連鎖を終わらせるつもりだった。

 工場に着くと、正面扉の前で冬真と〈白雷〉の頭、鳥飼直央が向かい合っていた。

「蓮。来るなって言ったろ」

「帰るぞ」

「話はあと五分で終わる」

「その五分でお前は死ぬ」

 冬真が眉を上げた。

 直央が鼻で笑う。

「綾門、今度は占い師かよ」

 俺は二人の間に割って入り、工場の中を見た。

 奥の作業台に、誰かが持ち込んだ花火の束。床には機械油。天井近くでは、切れかけた鉄骨が軋んでいる。

 さっき起きたことは覚えていた。

 直央の後ろにいた下級生が花火を投げ、冬真が蹴り返し、火が油に移る。逃げ遅れた冬真を俺が引き戻そうとした瞬間、鉄骨が落ちる。

 俺は花火を持っていた少年の腕をつかみ、箱ごと水たまりへ投げた。

「何すんだ!」

「今日は解散だ」

 誰かが俺を突き飛ばした。

 反射で殴り返す。

 そこからは、いつもの俺たちだった。

 一発が三発になり、三発が十発になる。冬真が怒鳴り、直央が止めに入り、倒れた誰かが作業台を蹴った。

 零時十二分。

 天井から、金属が裂ける音がした。

「冬真!」

 俺は冬真の襟をつかんで引いた。

 巨大な歯車が落ち、冬真が立っていた場所を叩き潰す。

 助かった。

 そう思った次の瞬間、直央の弟分――まだ中学三年だと聞いていた少年の頭が、跳ねた歯車の縁に押しつぶされた。

 零時十三分。

 少年のポケットで、スマートフォンが鳴った。

 着信音は、冬真の死後に聞いたものと同じだった。

 俺は赤い公衆電話まで走った。

『一回目の改変を確認しました』

「話が違う!」

『死亡者は一名。損失量は維持されています』

「冬真を助けろって言った!」

『深町冬真様は生存しています』

「代わりにガキが死んだ!」

『はい』

 ガラスの中の雨合羽は、首を少し傾けた。

『結果を消すことはできません。結果の持ち主を変えることはできます』

「戻せ」

『二回目の手数料として、あなたと綾門栞様の共有記憶を一件いただきます』

「取れ」

『承りました』

 背後から冬真が駆けてきた。

「蓮! 何してんだ!」

「冬真、俺たちが小六のとき、給水塔の上で決めた合図、覚えてるか」

「何の話だ?」

 俺たちだけの合図だった。

 喧嘩をやめるとき、左の拳を二度叩く。冬真が考えた。

 こいつはもう、覚えていない。

 世界が再び割れた。

 二回目。

 俺は誰も工場へ入れなかった。

 二十三時四十分に警察へ匿名で通報し、工場に危険物と不法侵入者がいると告げた。花火を奪い、油の缶を外へ出し、直央を殴って気絶させ、冬真の右手と自分の左手を手錠でつないだ。

「お前、今日ほんとに変だぞ」

 冬真は言った。

「あとで説明する」

「その『あと』が来ない顔してる」

 俺たちは工場から二百メートル離れた高架下に座った。

 周囲にはパトカー。〈青錆〉〈白雷〉も警官に囲まれている。火はない。鉄骨もない。誰も殴り合っていない。

 零時十二分。

 俺は冬真の手首に指を当てた。

 脈はある。

「なあ蓮」

「黙ってろ」

「栞ちゃんから電話」

 俺のスマートフォンが震えた。

 画面には〈栞〉

 出ると、妹の明るい声がした。

『綾門さん?』

 一瞬、意味がわからなかった。

「俺だ」

『えっと、ごめんなさい。冬真くんの知り合いの綾門さん、ですよね』

「兄ちゃんだろ」

 沈黙。

『私、一人っ子ですけど』

 胸の奥から、冷たいものがせり上がった。

 手数料。

 俺と栞の共有記憶が一件、消えた。

 だが、一件どころではない。

「栞。自転車。河川敷で、俺が――」

『切りますね』

 通話が終わる。

 その瞬間、隣で冬真の身体が跳ねた。

 手錠の鎖が鳴る。

「冬真?」

 冬真は胸を押さえ、呼吸を探す魚のように口を開いた。

 救急車はすぐそばにいた。

 警官が叫び、救急隊員が走ってくる。胸骨圧迫。電気ショック。薬剤。

 零時十三分。

 モニターの線が、一本になった。

 傷一つないまま、冬真は死んだ。

『死亡とは、方法ではなく勘定です』

 赤い電話の声は淡々としていた。

「ふざけるな」

『刃物を除けば落下物へ、落下物を除けば車両へ、車両を除けば内臓へ。帳尻は、もっとも近い通路を選びます』

「じゃあ何をしても同じか」

『同じでない結末を選ぶために、当店がございます』

 俺は受話器を握り潰しそうになった。

「三回目を使う」

『その前に、未提示の契約書をご覧いただきます』

 電話ボックスの広告差しに、黒い紙が現れた。

 表面には銀色の文字が浮いている。

 契約日――九年後の十一月二日。

 契約者――綾門 蓮、二十六歳。

 希望――綾門栞の死亡事象を取り消す。

 対価――契約者に属する最良の未来、一件。

 紙に触れると、知らない記憶が流れ込んできた。

 九年後の俺。

 冷たい病院の廊下。

 白い布をかけられた栞。

 二十歳を過ぎた妹は、雨の交差点でトラックにはねられていた。

 仕事の電話を優先し、迎えに行かなかった俺は、病院を飛び出して赤い公衆電話を見つける。

 九年後の俺は言う。

「何でも払う。あいつを戻せ」

 差引屋は答える。

『あなたの最良の未来をいただきます』

「未来なんか、いくらでも持ってけ」

 契約が成立する。

 栞は生き返る。

 代わりに、最良の未来へつながる一本の道が、根元から切られる。

 その道の中心にいたのが、冬真だった。

 映像が変わる。

 生きていた冬真と、九年後の俺がいる。

 二人で小さな整備工場を開いていた。看板には〈ZERO CLOCK〉。栞は事務机で笑い、直央は取引先として出入りし、〈青錆〉も〈白雷〉も、とっくに昔話になっている。

 俺が最良の未来として差し出したものは、金でも地位でもなかった。

 冬真が生き延びた先にあった、あの光景だった。

 未来を消すため、店は原因を過去へさかのぼらせた。

 今夜、冬真を殺すことにした。

「俺が……払ったのか」

『はい』

「まだ払ってない。九年後の話だろ」

『代金は、契約より前の日付から回収される場合がございます。未来は過去より高価ですので』

 吐き気がした。

「じゃあ、あの電話は」

『九年後のあなたが、契約直後に残した警告です。改変によって記憶が定着するまで、十三秒の猶予がありました』

 だから声は、栞を、と言いかけた。

 栞を助けた代償だと伝えようとしたのだ。

 背後で、冬真が息を呑んだ。

 振り返る。

 死んだはずの冬真が、電話ボックスの外に立っている。

 いや、時間はまだ零時十四分。改変後の世界が完全に固定されるまでの、残りかすのような一分だった。

「聞こえてたのか」

「半分くらいな」

 冬真は胸を押さえた。蘇生の跡も傷もない。

「変な夢、見た。歯車に潰されて、次は胸が止まって。お前が毎回、泣きそうな顔で怒鳴ってた」

「夢じゃない」

「だろうな」

 冬真は黒い契約書を読んだ。

「簡単じゃん。元に戻せばいい」

「栞が九年後に死ぬ」

「でも、それが元の未来なんだろ」

「選べるか、そんなもん」

「じゃあ俺が死ぬ」

「黙れ」

「お前の妹だぞ」

「お前は俺の親友だ」

 冬真は少し困ったように笑った。

「それ、俺はもう一個、忘れてるらしいけどな」

 左の拳を二度叩く合図。

 俺たちの最初の約束。

 忘れたはずなのに、冬真は無意識に左拳を握っていた。

 赤い受話器から声がした。

『三回目の改変をご希望ですか』

「別の払い方は」

『ございます』

 ガラスの中の雨合羽が、初めて笑ったように見えた。

『死亡一件と最良未来一件。双方を清算するには、契約者ご本人の全関係を差し出していただきます』

「全関係?」

『あなたを知る者の記憶、あなたを示す記録、あなたが与えた影響、あなたが受け取るはずだった役割。要するに、綾門蓮という人物が、この世界に所属した事実です』

 冬真が受話器を奪おうとした。

 俺は肩で押し返す。

「そうしたら、二人とも生きるのか」

『深町冬真様は今夜を越えます。綾門栞様は九年後の事故を免れます』

「俺は死ぬ?」

『死は、誰かに覚えられて初めて完成します。誰にも覚えられない方を、死者とは呼べません』

「じゃあ何になる」

『差し引かれた余りです』

 冬真が俺の胸ぐらをつかんだ。

「やめろ」

「これしかない」

「俺が払う」

「未来の契約者は俺だ」

「そんなの、まだお前じゃない」

「なるんだよ。栞が死んだら、俺は絶対に電話を取る。何でも払うって言う。今の俺ならわかる」

 冬真の手が震えた。

「未来の俺は、お前を売った。知らなかったで済む話じゃない」

「だからって――」

「俺が払う」

 初めて、自分で決めた気がした。

 喧嘩を始めるのも、学校をさぼるのも、誰かのせいにできた。父親がいない。金がない。教師がむかつく。町が腐っている。

 けれどこれは、俺が選ぶ。

 冬真の命でも、栞の命でもない。

 俺が二人の明日から退く。

「三回目を使う」

『手数料は不要です。全額を頂戴しますので』

「蓮!」

 冬真が叫んだ。

 俺は受話器を耳に当てたまま、左の拳を二度叩いた。

 終わりの合図だった。

 冬真はその意味を覚えていない。

 それでも泣いた。

『ご署名を』

 ガラスに白い円が浮かぶ。

 中心には空欄が一つ。

 俺は噛んだ親指の血で、そこに名前を書いた。

 綾門 蓮。

 最後の一画を引くと、町じゅうの時計が零時十三分を指した。

 最初に消えたのは、スマートフォンの連絡先だった。

 〈母〉が名字だけになり、〈栞〉が知らない番号になり、〈冬真〉の履歴から俺との会話が消えた。

 次に写真。

 五人で撮った〈青錆〉の集合写真は、四人になった。俺が立っていた場所には、壁の落書きが不自然に続いている。

 学校の名簿から一行が消える。

 机が一つ減る。

 玄関の靴が一足減る。

 家の冷蔵庫に貼られた「蓮、牛乳」という母のメモから、最初の二文字が消えて「牛乳」だけになる。

 記憶は、最後だった。

 冬真の目から怒りが薄れ、悲しみが薄れ、やがて警戒に変わった。

「……誰だ、お前」

 その言葉は、鉄骨より深く刺さった。

「通りすがり」

 声が震えないように言った。

「血、出てるぞ」

「平気だ」

 冬真は俺を知らない。

 それでも、放っておけない顔をした。

 そういう奴だから、俺は未来を渡したくなかったのだ。

 遠くでサイレンが鳴る。

 冬真は仲間たちのほうへ戻っていった。誰も死んでいない工場から、誰もが生きて出てくる。

 俺は赤い電話ボックスの前に残った。

 雨が身体を通り抜けるように冷たかった。

 ガラスの中の雨合羽が、扉を開けた。

 今度は反射ではない。

 電話ボックスの奥に、狭い店が続いていた。

 壁一面に黒い帳簿。天井から無数の時計。どれも違う時刻を示し、秒針だけが同じ方向へ逆回りしている。

 白い手袋が一組、カウンターの上に置かれていた。

『差し引かれた余りには、居場所がございません』

「だから、ここで働けって?」

『お客様は、忘れ物を取りに戻られることがあります』

「冬真も?」

『人間は、失った記憶そのものを忘れても、失った形までは忘れません』

 俺は白い手袋をはめた。

 ちょうどだった。

 店の鏡を見る。

 俺の顔は映っている。

 ただし、目鼻のある場所だけが、高架の影より暗かった。

 九年後。

 深町冬真は、古い商店街の端で整備工場を営んでいた。

 店の名は〈ZERO CLOCK〉

 なぜその名にしたのか、本人にもわからなかった。大時計が止まった夜、何かを終わらせ、何かを始めた気がする。それだけだった。

 綾門栞は、工場の事務と経理を担当していた。

 二人は兄妹ではない。幼なじみですらない。それでも栞は、冬真の隣にいると、ずっと昔からそこにいたような安心を覚えた。

 工場には椅子が五脚あった。

 従業員は四人だった。

「これ、一個多くない?」

 栞が何度も言った。

「最初から五脚だった」

「誰が使うの」

「さあ」

 冬真はいつも、入口に一番近い椅子を空けておいた。

 十一月二日。

 雨の夜。

 閉店後、赤い公衆電話から着信音が聞こえた。

 商店街に公衆電話などない。

 それでも音は、路地の奥から確かに鳴っていた。

 冬真は傘も差さず、音を追った。

 高架下に、赤い電話ボックスが立っていた。

 受話器の下に、黒いレシートが挟まっている。

〈お忘れ物 一名〉

 裏面には、左の拳を二度叩く、小さな絵が描かれていた。

 見た瞬間、冬真の胸が痛んだ。

 知らないはずの工場。

 落ちてくる歯車。

 手錠。

 泣きそうな顔で怒鳴る少年。

 名前だけが、どうしても思い出せない。

 電話ボックスの扉を開く。

 奥には店があった。

 黒い帳簿と、逆回りする時計。

 カウンターの向こうに、白い手袋の店員が立っている。

「いらっしゃいませ」

 店員の声を聞いた瞬間、冬真は腹が立った。

 理由はわからない。

 殴りたいほど懐かしかった。

「俺たち、会ったことあるか」

「三回ほど」

 店員は答えた。

「全部、あなたが死んだ夜です」

 冬真は黒いレシートをカウンターへ置いた。

「忘れ物を返せ」

「代金が必要です」

「いくらだ」

「あなたが生き延びたことで生まれた未来、すべて」

 整備工場。

 仲間たち。

 栞。

 誰も死ななかった九年間。

 冬真はしばらく黙り、それから笑った。

「じゃあ、安いな」

 店員の指が止まった。

「そいつが払ってできた未来なら、最初から俺だけのものじゃない」

「お帰りください」

「嫌だ」

「帰れ」

 店員の声から、丁寧さが消えた。

 冬真は左の拳を二度叩いた。

「やっぱり知ってるだろ、これ」

 店内の時計が、一斉に零時十三分を指した。

 カウンターに新しい契約書が現れる。

 冬真はペンを取った。

 店員がその手首をつかむ。

 白い手袋越しなのに、互いの体温がわかった。

「名前を教えろ」

 冬真が言った。

 店員は答えなかった。

 答えれば、契約が戻る。

 答えなければ、冬真が未来を差し出す。

 どちらを選んでも、誰かの明日は欠ける。

 差引屋の時計だけが、嬉しそうに逆回りを続けていた。

 やがて契約書の空欄に、まだ誰も書いていない名前が、銀色の文字でゆっくりと浮かび上がった。

 ――深町冬真。

 親友が死ぬ十三秒前、赤い公衆電話が鳴り始めた。