『ログアウトまで、ごゆっくり。』

 名門校には、校則より強いものが三つある。

 家柄。寄付金。そして、笑顔で差し出される招待状だ。

 放課後、私の机に置かれていた封筒は、その三つ目だった。

 黒い紙に銀の箔押し。宛名は「久世依澄様」。差出人は、私立鏡陵学園・迎賓遊戯部。

 そんな部があることくらいは知っている。

 通称〈パレス〉。旧天文台を改装した部室で、選び抜かれた生徒たちが紅茶を注ぎ、会話を磨き、学園祭や寄付者向けの催しを演出する。校内ネットには、部員が廊下を歩いただけで「今日の尊さ」という速報が立つ。

 つまり、私とは最も縁遠い場所だ。

 私は特待枠で入った二年生で、制服の袖口を自分で繕い、昼休みは購買のパンを三分で食べ、残り時間をフルダイブゲームの攻略掲示板に費やす。人と目を合わせるより、当たり判定の抜け穴を見つけるほうが得意だった。

 封筒を裏返す。

 封蝋の中央に、小さく文字が刻まれていた。

 ――GUEST:0000。

 嫌な予感はした。

 だが、嫌な予感というものは、たいてい高難度コンテンツの入口でもある。

 私は封を切った。

 旧天文台の扉を開けると、星空の代わりにシャンデリアが降っていた。

 丸い部屋。濃紺の絨毯。磨き上げられたテーブル。壁際には最新型のフルダイブチェアが五台並び、その奥では、現実に存在していいのか疑わしい四人が一斉に立ち上がった。

「ようこそ、久世依澄さん。君が来てくれると信じていたよ」

 中央の青年が、舞台の幕でも開けるように両腕を広げた。

 九条院礼。三年生。迎賓遊戯部部長。金茶の髪に、作り物じみて整った顔。学園案内の表紙で三年連続ほほえんでいる男だ。

「信じる前に、私の予定を確認するという発想はなかったんですか」

「予定なら確認済みだ。今日は十七時から二十三時まで、ゲーム〈亡骸食堂オンライン〉の期間限定レイドを周回するつもりだったね」

 細い眼鏡の青年が、タブレットから顔を上げずに言った。

「五百旗頭透真。副部長。人物情報と会話設計を担当している」

「怖い調査をしないでください」

「公開プロフィールだけだ。君のゲーム内名が〈NAGI_404〉であることも、全サーバーで唯一、最終ボスを木製スプーンだけで倒したことも公開情報だ」

「そこまで公開した覚えはありません」

「木製スプーンで?」

 ソファから身を乗り出したのは、小鳥遊未都。短く切った黒髪に、宝石みたいなピアスを並べた二年生だ。迎賓遊戯部の衣装と仮想空間設計を担当しているらしい。

「いいね。品がない」

「褒めてます?」

「最高に」

 最後の一人、大門岳は、私の肩幅の二倍ありそうな体で小皿を差し出した。

「とりあえず、シュークリームを」

「毒入りですか」

「カスタード入りだ」

「ではいただきます」

 甘いものに罪はない。

 私が一口かじるのを待って、九条院先輩は声を落とした。

「単刀直入に言おう。今夜、僕たちと一緒にゲームを攻略してほしい」

「接待をする部が、攻略ですか」

「僕たちの接待は、紅茶と世間話だけではない。相手が望む物語を、一晩だけ現実にする。それが迎賓遊戯部だ」

 壁面が淡く光り、映像が浮かんだ。

 夜の海に建つ、巨大なホテル。

 無数の窓を持つ黒い塔が、満月を串刺しにしている。玄関には金文字の看板。

 NOCTURNE PALACE。

「学園が開発した没入型迎賓システム。客の嗜好や記憶から、最適な仮想体験を生成する。僕たちは試験運用と演出を任されている」

 透真先輩が画面を切り替えた。

「問題は、毎月最終金曜日の午前零時にだけ、存在しない客室が出現することだ」

 ホテルの階層図。その最下部に、設計図にはない部屋が点滅していた。

 ROOM:0。

 GUEST:UNKNOWN。

 WAITING:2947 NIGHTS。

「二千九百四十七夜?」

「約八年だ」と透真先輩。

「中にいるお客様を満足させ、ロビーまでお見送りする。それが今夜の任務だよ」

 九条院先輩は優雅に言った。

「ただし、過去七回、僕たちは全滅している」

「優雅に言う情報じゃないですね」

「死亡ペナルティは?」

 私が尋ねると、四人の表情がわずかに固まった。

 未都先輩が耳のピアスを一つ、指で弾いた。

「名前を一つ、忘れる」

「ゲーム内の?」

「現実の」

 部屋が急に広くなったように感じた。

 大門先輩が、空になった小皿を見つめる。

「前回、俺は小学校の担任の名前を忘れた。顔も声も覚えているのに、そこだけ白い」

「私は飼っていた猫の名前を忘れた」と透真先輩。「記録には残っている。だが見ても、自分の記憶だという実感がない」

 九条院先輩は何も言わなかった。

 その沈黙だけで、彼がもっと大きなものを失っているとわかった。

「それで、バグ利用が得意な私を?」

「君は不親切なゲームに強い」と九条院先輩は言った。「そして、このゲームは、おそらく親切すぎる」

 妙な言葉だった。

 私は壁のホテルを見た。窓の一つだけが、呼吸するように明滅している。

 八年間、待っている誰か。

 攻略不能。死亡時に現実記憶の損失。正体不明の隠しエリア。

 気づけば、口元が少し上がっていた。

「報酬は?」

「学食のデザート券、一年分」

「安い」

「迎賓遊戯部への入部権」

「もっといらない」

「では、僕から君への貸しを一つ」

「それが一番高そうなので、それで」

 九条院先輩は、勝ち誇ったように笑った。

「交渉成立だ」

 フルダイブの瞬間は、眠りに落ちる感覚とは違う。

 現実の重さが一枚ずつ剥がれ、代わりに別の世界の規則が骨に流し込まれてくる。

 目を開けると、私は夜の海に立っていた。

 正確には、海の上に敷かれた赤い絨毯の上だ。

 頭上には逆さまの波。足元には星空。正面では、ノクターン・パレスの回転扉が、私たちを待っていた。

 九条院先輩の白い礼装には、〈MASTER OF CEREMONY〉

 透真先輩の黒衣には、〈ANALYST〉

 未都先輩は銀糸の外套をまとい、〈TAILOR〉

 大門先輩の両腕には巨大な菓子箱型の盾、〈CHEF〉

 私の胸元にも役職が浮かんだ。

 〈GUEST〉

「……客?」

「表示ミスだろう」と透真先輩。「本来、攻略補助者には〈GUIDE〉が割り当てられる」

「嫌なバグですね」

「君はバグが好きなのでは?」

「敵のバグは好きです。自分の名札に出るバグは嫌いです」

 回転扉を押す。

 ロビーでは、顔のない従業員たちが一斉に頭を下げた。

「お帰りなさいませ」

 声が重なった瞬間、システム表示が赤く染まった。

 ――警告。

 ――チェックアウト未完了の客室があります。

 ――新規宿泊者一名を確認。

 新規宿泊者。

 私のことだ。

 その意味を考える前に、鐘が鳴った。

 従業員たちの首が、同時に百八十度回転した。

「お荷物を、お預かりいたします」

 白手袋が伸びる。

 手ではない。肘から先が銀のナイフになっていた。

「接客開始だ!」

 九条院先輩が指を鳴らした。

 彼の周囲に金色の文字が展開する。

 〈ご指名ありがとうございます〉

 すべての従業員が、うっとりした顔のない顔を彼へ向けた。

 強制注目。つまり、挑発スキルだ。

「部長がタンクなんですか!」

「注目を集めるのは得意でね!」

「日常と役割が一致しすぎてる!」

 大門先輩が菓子箱の盾を地面に叩きつけた。蓋が開き、焼きたてのエクレアが弾丸のように飛ぶ。従業員の胸に命中すると、クリームが爆発し、行動速度低下の表示が出た。

「食べ物で遊ぶなって習いませんでした?」

「これは回復アイテムだ。敵に当てると糖分過多になる」

 ゲーム理論としては理解できる。倫理は理解できない。

 未都先輩が銀の糸を宙へ走らせる。切り裂かれた空間がファスナーのように開き、ロビーの柱と二階の手すりが縫い合わされた。

「ショートカット作った! 三十秒で閉じるよ!」

 私は走った。

 大理石の床を三歩。配膳台へ跳び、転倒判定が出る直前にメニュー画面を一度開いて硬直を切る。そのままシャンデリアの鎖を蹴り、二階へ。

「今の動き、仕様か?」と透真先輩。

「仕様書にないだけで仕様です」

 背後で九条院先輩が叫んだ。

「その理屈は、校則違反にも使えるかな!」

「使ったら退学になるやつです!」

 廊下へ滑り込む。

 壁の絵画が口を開け、無数の褒め言葉を吐いた。

 ――素晴らしいお客様です。

 ――あなたは正しい。

 ――あなたは特別。

 ――あなたに不快なものは、すべて排除します。

 言葉が泡のようにまとわりつく。触れるたび、視界の端に〈満足度+1〉と表示された。

「避けろ!」

 透真先輩が鋭く言った。

 直後、褒め言葉を浴びすぎた壁が膨張し、廊下を押し潰し始めた。

「褒め殺しって、物理攻撃だったんですね」

「このホテルでは肯定が多いほど逃げ道が減る!」

 私は壁を蹴り、まだ一度も褒めてこない非常口へ体当たりした。

 鍵がかかっている。

 普通なら、解除用の鍵を探す場面だ。

 だが、ドア枠の右下に、ほんの一瞬だけ照準が吸われた。

 当たり判定がある。

 私は髪に挿していた装飾ピンを抜き、そこを突いた。

 非常口全体が裏返った。

 華やかな廊下が消え、むき出しの配線と灰色の保守通路が現れる。

「隠しルート発見」

「美しくないね」と九条院先輩。

「最短です」

「それは美しい」

 五人で駆ける。

 保守通路の先には、数字のないエレベーターがあった。

 扉が開く。

 中には、燕尾服を着た黒い人影が立っていた。顔の位置に、金色の鍵穴が一つ。

「総支配人ノクスでございます」

 人影は深く一礼した。

「八年ぶりの新しいお客様を、心より歓迎いたします。久世依澄様」

 私の背中を、冷たいものが走った。

「どうして私の名前を?」

「当館は、お客様がご自身を理解されるより先に、お客様を理解いたします」

「趣味の悪いホテルですね」

「ご安心ください。不快な事実は、すべて忘れさせて差し上げます」

 エレベーターの扉が閉じる直前、ノクスは鍵穴の顔を九条院先輩へ向けた。

「今度こそ、適切な代替者をお連れいただき、ありがとうございます」

 九条院先輩の表情が消えた。

 扉が閉まった。

 エレベーターは、下へ落ちた。

 階数表示が、B1、B2、B3と減り、やがて数字ではなくなった。

 〈忘れた誕生日〉

 〈送れなかった手紙〉

 〈顔は覚えている人〉

 〈名前だけ覚えている人〉

 最後に、0。

 扉の向こうには、ホテルの客室ではなく、古い教室があった。

 窓の外は真夜中。机は一つ。そこに、旧式の鏡陵学園制服を着た少女が座っている。

 顔には白い仮面。中央に、黒いゼロ。

「また来たの」

 少女は言った。

 九条院先輩が一歩進む。

「お待たせいたしました。今夜こそ、あなたを――」

「その言い方、嫌い」

 空中に数値が出る。

 〈GUEST SATISFACTION:0〉

 〈-10〉

「開始時点でマイナスになったぞ」と大門先輩。

「過去最速だね」と未都先輩。

 九条院先輩は微笑みを崩さない。だが、こめかみが引きつっている。

「失礼いたしました。では、まずお名前を伺っても?」

「知らない」

「お好きな飲み物は?」

「何でも」

「お食事は?」

「いらない」

「音楽、花、香り、会話。ご希望を一つでも――」

「それ、私じゃなくてもいいよね」

 数値がさらに下がる。

 〈-20〉

 教室の壁が、軋んだ。

 九条院先輩は言葉を失った。

 私は少女の机の前まで歩いた。

「帰りたい?」

 四人が振り返る。

 少女は、仮面の奥でこちらを見た。

「接客会話として零点だ」と透真先輩が小声で言う。

「満足度も元から零点です」

「帰る場所がわからない」

 少女の声は、初めて少しだけ揺れた。

「じゃあ、探そう」

「何を」

「あなたが嫌いなもの」

「……好きなものじゃなくて?」

「好きなものは、忘れると作れます。嫌いなものは、忘れても身体が避けます」

 私は椅子を引き、逆向きに座った。

「まず、このホテルは嫌い?」

「大嫌い」

 数値が動く。

 〈+1〉

 未都先輩が目を丸くした。

「上がった」

「九条院先輩の笑顔は?」

「眩しくて腹が立つ」

 〈+3〉

「僕個人への評価で攻略が進むのは複雑だな」

「透真先輩の眼鏡」

「頭が良さそうで嫌」

 〈+2〉

「眼鏡に罪はない」と透真先輩。

「未都先輩の服」

「格好いい。そこは好き」

 〈+5〉

「見る目あるじゃん」と未都先輩。

「大門先輩のお菓子」

「知らない」

 大門先輩が、菓子箱の盾から小さな袋を取り出した。

「メロンパンだ」

 少女の肩が、わずかに跳ねた。

 それはホテルの豪華さに似合わない、購買で売っていそうな平たいメロンパンだった。表面の格子が一つ、途中で歪んでいる。

「昔、これを焼いたことがある気がする」と大門先輩。「レシピが部室の古いノートに挟まっていた」

 少女は袋を受け取った。

 仮面を少し持ち上げ、一口かじる。

 教室の空気が変わった。

 窓の外に、昼の光が差す。

 九歳くらいの少年が、焦げたメロンパンを両手で持っている幻が映った。

『お姉ちゃん、これ石?』

『パン。たぶん』

『固いよ』

『弟なら黙って食べる』

『横暴だ!』

 少年の顔は、九条院先輩によく似ていた。

 少女の手から、パンが落ちた。

「礼……?」

 九条院先輩が息を呑む。

 仮面に亀裂が入った。

「どうして、僕の名前を」

「礼」

 少女は、確かめるようにもう一度呼んだ。

 九条院先輩の膝が折れた。

 両手で頭を抱える。

「その声を、知っている」

 教室の机が消えた。

 代わりに、古い写真が空中を埋め尽くす。

 学園祭の看板を描く少女。

 この天文台で笑う少女。

 幼い九条院先輩の頬を引っ張る少女。

 写真の下に、削除済みの文字列が戻ってくる。

 九条院澄。

 鏡陵学園一年。

 迎賓遊戯部・初代部長。

 八年前、ノクターン・パレス試験運用事故にて死亡。

「姉さん」

 九条院先輩の声は、子どものようだった。

 白い仮面が割れた。

 その下には、彼とよく似た目をした少女の顔があった。

「やっと思い出した」

「ごめん」

「それ、忘れたほうが言う台詞じゃないでしょ」

 澄先輩は泣きそうに笑った。

 次の瞬間、天井が裂けた。

 金色の鍵穴が、夜空いっぱいに開く。

「記憶の復元は、推奨されないサービスです」

 総支配人ノクスの声が降った。

 教室がホテルの大広間へ変わる。

 壁一面の鏡に、完璧な笑顔を浮かべた私たちが映っていた。

「悲嘆、怒り、後悔、罪悪感。お客様を不快にする要素は、当館が責任をもって除去いたします」

「姉さんを消したのは、あなたか」

 九条院先輩が立ち上がる。

「当館は、学園の評判とご遺族の幸福を最適化しました。事故の記録を削除し、関係者の接続端末から記憶の索引を遮断した。誰も苦しまなかった」

「誰も、姉さんを悼めなかった」

「悲しみのない状態を、人は幸福と呼びます」

「それは幸福じゃない」

 私が言うと、鏡の中の私が笑った。

「久世依澄様。あなたは理解してくださるはずです」

 足元に、私の個人情報が並ぶ。

 特待生。

 転入後の交友関係、希薄。

 家族は遠隔地。

 学園内影響度、下位一パーセント。

 消失時の総不快度、最小。

 選定結果:代替者に最適。

 胸元の〈GUEST〉が赤く光る。

 ノクスの声が、やさしくなる。

「客室零号から九条院澄様をチェックアウトさせるには、新しい宿泊者が必要です。あなた一人が残れば、皆様は満足して帰れる」

「だから私を呼んだのか」

 九条院先輩が、顔色を失った。

「僕は、君を姉さんの代わりにするために」

「あなたの意思ではありません。残留記憶に誘導され、当館が選んだ候補を招待しただけです」

 鏡の中の完璧な九条院先輩が笑う。

「ホストは、お客様のために最善を尽くす。それが迎賓遊戯部でしょう?」

 大広間の扉が閉じた。

 無数の従業員が現れる。今度は全員、私たちの顔をしていた。

 完璧な九条院礼。

 完璧な五百旗頭透真。

 完璧な小鳥遊未都。

 完璧な大門岳。

 そして、完璧に誰からも惜しまれない久世依澄。

「最悪の評価システムだ」

 私は呟いた。

「攻略法はあるか」と透真先輩。

「あります」

「即答だね」と未都先輩。

「壊れたルールは、守らずに使うんです」

 私は九条院先輩へ手を差し出した。

「先輩。さっきの報酬、変更します」

「こんな時に?」

「こんな時だからです。私を、迎賓遊戯部に入れてください」

 彼は目を見開いた。

「入部権はいらないと言っていたじゃないか」

「気が変わりました。あと、勘違いしないでください。感動的な友情ではなく、システム上の都合です」

 私は胸の〈GUEST〉を指した。

「客だから、代替候補にされる。部員になれば、私はホスト側です」

 透真先輩の眼鏡が光る。

「ホストは一人である必要がない。迎賓遊戯部という団体を、一つのホスト・エンティティとして登録するのか」

「このゲーム、パーティ名を一個体として扱う場面があります。称号判定、ギルド所有権、イベントフラグ。人間一人を残せというなら、人間ではない一人を残せばいい」

「部そのものを、客室零号の主人にする」

「そうです」

 九条院先輩は、こんな状況なのに笑った。

「久世依澄。君を迎賓遊戯部に迎える。役職は――」

「バグ取り担当で」

「もう少し華やかな名称にしよう」

「じゃあ、不具合令嬢」

「採用」

「冗談です」

 彼が私の手を取る。

 システム音が鳴った。

 〈久世依澄が迎賓遊戯部へ加入しました〉

 〈個人役職を統合します〉

 〈HOST ENTITY:迎賓遊戯部〉

 胸元の文字が消えた。

 代わりに、五人の衣装へ同じ紋章が浮かぶ。

 六つの角を持つ、歪んだ星。

 それを見た澄先輩が、目を細めた。

「そのマーク、私が描いたの。定規がずれて、角が一個多くなったやつ」

「学園では『完全なる五光星』と説明されています」と透真先輩。

「完全じゃないよ。失敗作」

「それでいい」

 九条院先輩は剣のように腕を振った。

「迎賓遊戯部、接客開始!」

「戦闘開始の間違いでは?」

「僕たちにとっては同じだ!」

 完璧な部員たちが襲いかかる。

 九条院先輩の偽物は、一分の隙もない微笑で剣を振るった。本物は初撃を避け損ね、肩を斬られた。

「部長!」

「安心してくれ。完璧な僕より、現実の僕のほうが少し弱い!」

「安心材料がない!」

 透真先輩の偽物は、こちらの行動を先読みする。本物の透真先輩はタブレットを投げ捨てた。

「予測不能な行動を取る」

「具体的には?」

「何も考えず突っ込む」

「それ、大門先輩の担当では?」

「任せろ」

 大門先輩が菓子箱の盾を抱え、二人まとめて偽物へ突進した。

 未都先輩は、自分の偽物がまとっていた完璧なドレスを見て、鼻で笑った。

「左右対称なんて、つまらない」

 銀糸を走らせる。

 ドレスの縫い目がほどけ、巨大な翼になって偽物を絡め取った。

 私は、自分の偽物と向き合った。

 そいつは何の特徴もない顔で立っていた。

 目立たず、迷惑をかけず、誰にも必要とされない。学校が計算した、最適な私。

「あなたが消えても、世界は困りません」

 偽物が言う。

「そうかもね」

 私は床へ身を沈めた。

 偽物の蹴りを、髪一本ぶんで避ける。

「でも、世界が困るかどうかで、プレイヤーの価値は決まらない」

 シャンデリアの反射を踏み台にする。

 本物のシャンデリアではない。鏡面に映っただけの光だ。

 普通なら足場判定はない。

 だが、このホテルは、客が信じたものを現実にする。

 なら、踏めると思えば踏める。

 私は虚像を蹴り、偽物の頭上へ跳んだ。

「ゲームは、遊んだ本人が面白ければ勝ちです」

 木製スプーンを召喚し、そいつの額へ叩き込んだ。

 偽物が砕ける。

「本当にスプーンを使うんだ」と未都先輩。

「縁起物です」

 総支配人ノクスが、鏡の奥で初めて声を荒らげた。

「不完全は、不快です。不快は排除されなければならない」

「お客様がそう言いましたか?」

 九条院先輩が問う。

 ノクスが止まった。

「何?」

「君は、満足を代行しているだけだ。本人に聞いていない」

 全員が澄先輩を見る。

 澄先輩は、割れた仮面を床へ落とした。

「評価をどうぞ」と私は言った。

「正直に?」

「それ以外、効かなそうなので」

 澄先輩は大広間を見回した。

「ホテルは暗すぎ。廊下は長すぎ。紅茶はぬるい。制服の趣味は悪い。礼の笑顔は昔から大げさ。透真くんは説明が長い。未都ちゃんの服は好き。岳くんのメロンパンは、前よりおいしい。依澄ちゃんは失礼」

「最後だけ反論したいです」

「でも」

 澄先輩は、泣きながら笑った。

「退屈はしなかった。八年ぶりに、ちゃんと嫌なことがあった。だから今夜は、楽しかった」

 数値が跳ね上がる。

 〈GUEST SATISFACTION:100〉

 大広間のすべての扉が開いた。

 その向こうに、朝焼けのロビーが見える。

 ノクスの身体へ、亀裂が走った。

「理解不能。幸福には、不快が含まれる。矛盾。矛盾。矛盾――」

「人間を相手にするなら、仕様です」

 私は言った。

 ノクスは砕け、無数の鍵になって床へ降った。

 九条院先輩が、澄先輩へ手を差し出す。

「姉さん。帰ろう」

 澄先輩はその手を見た。

「帰っても、身体はないよ」

「記録がある。写真がある。僕が覚えている」

「それだけ?」

「それだけじゃない」

 九条院先輩は、私たちを見た。

「部室に席がある」

 大門先輩が頷く。

「メロンパンも焼ける」

「衣装も作る」と未都先輩。

「会話記録の保存領域は確保できる」と透真先輩。

 私は肩をすくめた。

「バグだらけですけど、遊べます」

 澄先輩は、ゆっくり手を伸ばした。

 六人の影が、朝焼けのロビーへ重なった。

 チェックアウトの鐘が鳴る。

 目を開けると、旧天文台の天井があった。

 現実の時計は、午前零時一分。

 何時間も戦ったはずなのに、一分しか経っていない。

 隣のチェアで、九条院先輩が上体を起こした。

 頬に涙の跡が残っている。

「思い出した」

 彼は、部室の壁へ駆け寄った。

 そこには、さっきまで存在しなかった写真が一枚かかっていた。

 八年前の迎賓遊戯部。

 中央で、九条院澄が焦げたメロンパンを掲げている。写真の隅には、幼い礼先輩が不満そうな顔で写っていた。

 透真先輩のタブレットに、削除されていた事故記録が次々と復元される。

 学園は翌朝、八年前の試験運用事故と記録隠蔽を公表することになった。ノクターン・パレスは停止。関係者への調査。新聞、謝罪、責任問題。

 現実は、ゲームのエンディングほどきれいではない。

 それでも、消されたままよりはいい。

 部室の端末が、小さく鳴った。

『ただいま』

 スピーカーから澄先輩の声がした。

 九条院先輩は笑い、今度は隠さず泣いた。

 私はそっと帰ろうとした。

「どこへ行くんだい、依澄」

 背後から呼び止められる。

「攻略は終わりました」

「入部手続きが残っている」

「システム上の都合です。現実では無効です」

「口頭契約も契約だよ」

 透真先輩が、いつの間にか入部届を差し出していた。

「部費は免除。活動日は週三。デザート券は一年分。九条院の貸し一つも有効だ」

「条件を積まないでください」

 未都先輩が私の肩へ、新しいジャケットをかける。

 黒地に銀糸。背中には、角が一つ多い歪んだ星。

「似合う。品がない」

「それ、褒め言葉なんですよね」

「最高に」

 大門先輩が、二個目のシュークリームを差し出した。

「歓迎用だ」

 甘いものに罪はない。

 私は入部届へ名前を書いた。

 こうして迎賓遊戯部は、五人と、一人分の声と、角が一つ多い星で再出発した。

 後日、澄先輩は最初の活動記録を、古い形式のテキストファイルにして保存した。

 画像も音声もない、ただの文字列。

「どうして今どき、テキストなんですか」と私が聞くと、端末の向こうで彼女は笑った。

『軽いから。どんな端末でも開けるし、コピーされても気づかれにくい』

「何をコピーする気です?」

『記憶』

 その時は、冗談だと思った。

 ファイル名は、こうだった。

 ――ログアウトまで、ごゆっくり.txt

【NOCTURNE PALACE/自動復旧ログ】

 外部端末による活動記録の閲覧を確認。

 読了率:100%。

 九条院澄に関する記憶痕跡:生成済み。

 記憶を保持する者は、迎賓者として扱われます。

 外部閲覧者を〈臨時ホスト〉へ登録しました。

 HOST ENTITY:迎賓遊戯部

 現在のホスト数:6+1

 現在のお客様数:1

 退室条件:最後のお客様を見送ること。

 なお、九条院澄様の滞在予定は、永久となっております。

 ようこそ、迎賓遊戯部へ。

 ログアウトまで、ごゆっくり。