『ラパ・ヌイの黒い眼』

 多くのモアイは海を見ない。

 海から来るものではなく、島にいる者たちを見守るように、背を波へ向けて立っている。

「観光案内なら、もう読んだわ」

 カミラ・ロハス警部補は言った。

 午前四時十二分。ラパ・ヌイ島、ハンガ・ロアの海上警備隊分署。嵐のせいで窓は細かく震え、古い発電機が咳をするたび、尋問室の蛍光灯が白く明滅した。

 向かいの男は、濡れた毛布を肩にかけていた。顔の右半分は火傷で腫れ、両手には厚い包帯が巻かれている。救助艇に拾われたとき、男は燃えかけた双胴船の船底にしがみついていたという。

 船の名は〈マナ・タヒ〉

 乗員名簿は六名。

 生存者は一名。

 遺体は、まだ一体も見つかっていなかった。

 机の上には、防水袋に入った日本国旅券がある。

 琴塚冬馬。三十七歳。映像機材技師。

「観光案内じゃない」

 男――琴塚は、ひび割れた唇を舌で湿らせた。

「警告です。あの顔は、島の人間を見ているんじゃない。島から出ようとする何かを、見張っている」

「黒羽玲はどこ?」

 その名を出した瞬間、琴塚の左まぶたが痙攣した。

 黒羽玲。

 沈没船から王墓まで、各国の禁足地を荒らしてきたと噂されるトレジャーハンター。文化財窃盗、密輸、武装強盗、殺人教唆。どれも立件されず、本人は講演会で笑いながら否定してきた。

「最初に頼みがあります」

「容疑者が条件をつける場面ではないわ」

「最後まで、私の名前を決めないでください」

 ロハスは眉を寄せた。

「旅券に書いてある」

「旅券の名前じゃない。あなたが、私を何者だと思うかです」

 琴塚は包帯の手を机に置いた。

「途中で答えを出すと、あれが聞いている」

 雷鳴が窓を揺らした。

 ロハスは録音機の赤いランプを確認した。

「話して」

 琴塚は目を閉じた。

「三日前の夜から始めます。黒羽玲が、依頼人のいない仕事を持ち込んだ夜から」

一 依頼人のいない仕事

 私たちが集められたのは、ハンガ・ロアの外れにある、閉鎖された冷凍倉庫だった。

 黒羽は錆びた魚箱をテーブル代わりにし、その上へ三つの品を並べた。

 一つは、焦げた木板の写真。

 一つは、百年以上前の宣教師が残したという航海日誌の複写。

 もう一つは、卵の形をした灰色の石だった。

「先に言っておく」

 黒羽は、講演会の壇上にでも立っているような口調で言った。

「モアイを造ったのは、ラパ・ヌイの人々だ。宇宙人でも、失われた白人王国でもない。今夜、俺たちが探すものは、モアイを造った文明の秘密ではない。その文明が、命懸けで隠した異物だ」

 壁にもたれていたテ・アオ・ホトゥが、腕を組んだ。

 彼女は島の保存局に勤める考古学者で、ラパ・ヌイの家系に生まれた。黒い髪を後ろで束ね、首には鮫の歯を模した木彫りを下げていた。

「言い方だけは合格ね」

「中身も合格させたい」

「なら、島を掘らずに帰って」

 黒羽は笑った。

「君が通報しなかった時点で、興味はある」

「通報したわ。あなたが保存局の通信を切っただけ」

「それでも来た」

「止めるために」

 ほかの三人は、そのやり取りを黙って見ていた。

 エリアス・モラレス。ロンゴロンゴ研究で名を上げ、贋作騒動で大学を追われた言語学者。

 ロヴァン・ビダル。海難救助の潜水士だったが、密輸船の引き揚げに関わって資格を失った女。

 ノアネル・カイセド。民間軍事会社出身の護衛。首から下が、古傷と筋肉でできているような男だった。

 そして私、琴塚冬馬。

 表向きは映像機材技師。実際は、古地図の復元と偽造、地形計測、それに必要なら税関書類の書き換えまで請け負う。

「依頼人は?」とロヴァンが訊いた。

「収蔵家だ」

「名前」

「俺にも名乗っていない」

 ノアネルが鼻を鳴らした。

「そんな相手から二千万ドル?」

「前金は入っている」

 黒羽は端末を滑らせた。数字は本物だった。少なくとも、私にはそう見えた。

 依頼品は〈王の眼〉

 ラノ・カウ火口湖の南側、オロンゴの石造集落よりさらに下にある溶岩洞。その奥に、初代王ホトゥ・マトゥアが隠したとされる黒い鏡がある。宣教師の日誌には、こう訳せる一節があった。

 鳥が人となる場所で、王は自らの眼を抜き、七つの顔に見張らせた。

「都合のいい翻訳だ」

 エリアスが写真を持ち上げた。

「ロンゴロンゴは未解読だ。まして、この木板は現物すらない。十九世紀に焼失した板の、さらに鉛筆写しだぞ」

「だから君を呼んだ」

「私に権威のお墨付きをつけさせるためか?」

「違う。間違い方を選んでもらうためだ」

 黒羽は卵形の石を指で転がした。

「地図は、正しく読めば罠になる。間違って読んだ者だけが入口へ着く」

 テ・アオが石を見た瞬間、表情を変えた。

「それをどこで?」

「パリの個人収蔵庫」

「盗んだのね」

「返しに来た、とも言える」

 テ・アオは石へ触れなかった。

「私の祖母は、それを〈孵らない卵〉と呼んでいた。鳥人の儀式より古い。海へ捨てても戻ってくるから、石の腹に閉じ込めた、と」

「何を?」

 私が訊くと、彼女は私ではなく黒羽を見た。

「顔を欲しがるもの」

 倉庫の屋根を、風が鳴らした。

 黒羽は満足そうに笑った。

「全員、条件を確認しよう。入口までで五十万。中へ入れば百五十万。王の眼を船へ運べば、残りを山分けだ」

「死人が出たら?」とノアネル。

「取り分が増える」

 誰も笑わなかった。

 黒羽だけが、卵形の石をポケットへ入れた。

「財宝には二種類ある。持ち帰れるものと、持ち帰ったと他人に信じさせるものだ。今回、高く売れるのは後者だ」

 そのとき私は、彼がすでに品物の正体を知っているのだと思った。

 今にして思えば違う。

 黒羽が知りたかったのは、品物ではない。

 誰が、それを持ち帰ったことになるのか――その一点だった。

二 歩く文字

 午前零時、私たちは〈マナ・タヒ〉で島の南岸を回り込んだ。

 満月は雲に隠れ、海は黒い鉄板のようにうねっていた。崖の上にはオロンゴの石室が風に伏せ、その向こうでラノ・カウの火口湖が暗く口を開けている。

 正規の観光路からは見えない崖下に、干潮の二十分だけ現れる裂け目があった。

 ロヴァンが先に海へ入った。腰のライトが波の中で消えたり現れたりする。私たちは命綱をつけ、順に崖下へ降りた。

 ノアネルが最後だった。

 大波が来た。

 私は岩へ叩きつけられ、レギュレーターを失った。塩水を飲み、上下も分からなくなった。肩を掴まれ、黒羽に引き上げられたとき、彼は笑っていた。

「地図屋、水の中では北が分からないか」

「地図に波は描かない」

「だから現場へ来るんだ」

 裂け目の奥は、海水で半分満たされた溶岩洞だった。

 私たちは頭上すれすれの空気層を進んだ。波が引くたび、洞窟全体が巨大な肺のように息を吐く。奥へ三十メートルほど行くと、水面が途切れ、黒い岩床が現れた。

 壁には鳥、魚、人、舟に似た刻印が並んでいた。

 エリアスは濡れた眼鏡を拭き、焦げた木板の写真を取り出した。

「同じ系列だ。だが文章じゃない」

「地図?」

「それも違う」

 彼は写真を上下逆さにした。

 ロンゴロンゴの文字は、行を読むたび板を百八十度回したと考えられている。逆向き牛耕式。エリアスは一行を指で追い、板を返し、次の行を追った。

 それから、自分の身体を反転させた。

「歩き方だ」

 私たちは、鳥の刻印で右を向き、魚の刻印で身を屈め、人の刻印で後ろ向きに進んだ。

 馬鹿げて見えた。

 だが、普通に直進したノアネルの足元から、黒曜石の刃が飛び出した。靴底が裂け、刃先はあと一センチで足首の腱を断つところだった。

「文字を読むんじゃない」

 テ・アオが低く言った。

「身体に読ませるの。祖先は、ここを歩く者そのものを鍵にした」

「祖先が造った通路なのか?」と私は訊いた。

「外側はね」

 彼女の声が硬くなった。

「内側は違う」

 やがて通路は、円形の広間へ出た。

 そこには、七つの石の顔があった。

 地上の巨大なモアイではない。人の背丈ほどの、未完成の像だった。胴はなく、首から上だけが床へ埋まり、すべて中央の穴を向いている。眼窩は空で、口は糸のように閉じていた。

 顔の前には、それぞれ一つずつ記号が刻まれていた。

 王。

 守る者。

 盗む者。

 殺す者。

 嘘をつく者。

 運ぶ者。

 そして、見る者。

 エリアスの仮訳だった。

「七人分だな」

 ノアネルが私たちを数えた。

「六人しかいない」

「依頼人を入れれば七人」とロヴァン。

「依頼人は島にいない」

 私が言うと、黒羽は中央の穴を覗き込んだ。

「見る者は、最後まで中へ入らないのかもしれない」

 テ・アオが彼を睨んだ。

「何を知っているの?」

「知らないから来た」

「あなたは、知らない人間の目をしていない」

 黒羽は返事をしなかった。

 七つの顔のうち、一つだけ、口の隙間から白いものが覗いていた。

 私がライトを当てると、それは珊瑚で作られた眼だった。

 白い円盤に、黒曜石の瞳。

「モアイの眼だ」

 私が手を伸ばすより早く、テ・アオが腕を掴んだ。

「眼を入れた像には、力が宿るとされた」

「迷信か?」

「信じる人が多ければ、迷信も力を持つ」

 黒羽が珊瑚の眼を抜いた。

 その瞬間、七つの石の口が同時に開いた。

 岩が軋んだのではない。

 声だった。

 私の母の声で、私の名を呼んだ。

 母は十年前に死んでいる。

 ほかの者も、それぞれ違う声を聞いたらしい。

 エリアスは泣きそうな顔でスペイン語を呟き、ロヴァンは誰もいない背後へナイフを向けた。ノアネルだけは顔色を変えず、銃の安全装置を外した。

 黒羽は珊瑚の眼を掌で転がしていた。

「歓迎されているな」

「返して」

 テ・アオが言った。

「それが外れたことで、奥がこちらを見た」

 中央の穴から、冷たい風が吹き上がった。

 風には潮の匂いがなかった。

 古い金属と、雨の前の空の匂いがした。

三 孵らない卵

 穴の底までは、およそ四十メートルあった。

 自然洞窟なら、壁はもっと荒れている。だが縦坑の内側は、熱で一度溶かして固めたように滑らかだった。継ぎ目も工具痕もない。

 人間が造った外殻の中に、別の何かが埋まっている。

 私たちはロープで降りた。

 底には細い石橋が伸び、その下で海水が渦巻いていた。石橋の先に、卵形の窪みがある。

 黒羽はポケットから〈孵らない卵〉を出した。

「置けば開く」とエリアス。

「置いた者は戻れない」とテ・アオ。

「根拠は?」

「祖母の話」

「学術論文には弱いな」

「遺言には十分よ」

 黒羽は卵を私へ投げた。

 反射的に受け取った。見た目より重かった。石ではない。内部で何かが、ごく小さく回転している。

「なぜ私だ」

「一番、手が震えていない」

「嘘だ」

「じゃあ、一番、落としたとき面白い」

 石橋の幅は靴一足分。左右に手すりはない。下の水面は暗く、波が押し寄せるたび白い泡が歯のように並んだ。

 私は一歩ずつ進んだ。

 半分まで来たとき、背後で銃声がした。

 石橋が跳ね、私は膝をついた。

 ノアネルが発砲したのだ。

 彼は黒羽へ銃を向けていた。

「俺を撃つ顔を見た」

「鏡もないのに?」

「そこにいた」

 ノアネルが七つの顔のある上方を指した。

「俺の首を切った。お前が」

 黒羽は両手を見せた。

「未来を信じるなら、撃つしかないな」

「黙れ」

「撃てば未来が当たる。撃たなければ外れる。占い師には困る状況だ」

 ノアネルの指が引き金を絞った。

 テ・アオが横から腕を蹴り上げた。弾丸は天井へ消え、石橋に破片が降った。

 私の手から卵が滑った。

 黒羽が飛び込んだ。

 彼の身体は石橋の端を越え、片手だけで縁を掴んだ。もう片方の手が、落ちかけた卵を受け止めていた。

 下から波が噴き上がり、黒羽の全身を濡らした。

「琴塚」

 彼は笑っていた。

「卵を割った鳥は、人になれないらしいぞ」

 私は腹這いになり、彼の腕を掴んだ。

 ノアネルはテ・アオを殴り倒し、再び銃を構えた。

 ロヴァンが背後からスタンガンを押し当てた。青白い火花が走り、ノアネルは倒れた。

 エリアスが銃を蹴り飛ばした。

「縛れ!」

「待て」

 黒羽を引き上げながら、私は言った。

 ノアネルの顔から、怒りが消えていた。

 代わりに、幼児のような困惑があった。

「ここはどこだ」

 彼は言った。

「お前たちは誰だ」

 テ・アオが息を呑んだ。

 ノアネルは、自分の名前すら思い出せなかった。

 七つの顔の一つ、〈殺す者〉の眼窩に、いつの間にか黒い瞳が浮かんでいた。

 珊瑚の白目はない。

 闇の中に、瞳だけがあった。

「急いで」

 テ・アオは口元の血を拭った。

「もう役を選び始めている」

「誰が?」

「奥のものが」

 私は石橋を渡り切り、卵を窪みへ置いた。

 卵は音もなく割れた。

 石の殻の中から現れたのは、銀色の芯だった。指ほどの長さで、表面には文字とも回路ともつかない細い溝が走っている。

 それが窪みへ沈むと、壁に円形の亀裂が生じた。

 扉が開いた。

 向こう側に、星空があった。

 地下四十メートルの闇ではない。

 知らない星々が、黒いガラスの奥で回っていた。

四 黒い眼

 部屋は、球体の内側のようだった。

 床も壁も天井も区別がなく、黒い面が緩やかに湾曲している。足元には重力があるのに、埃も水滴も、落ちた薬莢さえ床へ触れる直前で静止した。

 中央に、黒い楕円が浮かんでいた。

 長さは人の頭ほど。

 厚みは紙のようにも、底なしの穴のようにも見える。

 それが〈王の眼〉だった。

 鏡ではない。

 私たちの姿を映さなかった。

 代わりに、そこにいない者を映した。

 私には、死んだ母が見えた。

 病室ではなく、若い頃の姿だった。母は私の知らない浜辺に立ち、手招きしていた。

 エリアスは兄の名を呼んだ。

 ロヴァンは唇を噛み、幼い男の子へ向かって一歩踏み出した。

 黒羽だけは、何を見たのか口にしなかった。

「触るな」

 テ・アオが言った。

「祖先は、あれを神だと思ったんじゃない。神のふりをする道具だと見抜いた。だから人の顔で囲み、誰にも顔を与えなかった」

「モアイは封印なのか」とエリアス。

「モアイそのものは、祖先のためのものよ。あれを造らせたのは人間。そこを間違えないで」

 彼女は黒い楕円を睨んだ。

「ただ、眼を入れた顔が力を持つという考えを、祖先は封印にも使った。島じゅうに名のある顔を立てて、名のないものを地下へ縫い留めた」

 エリアスは壁の縁に刻まれた小さな記号を追った。

「外側の文字は、人間が後から刻んだ。警告だ」

「何と書いてある?」

「正確には読めない。だが、繰り返し出る並びがある」

 彼は指で七つの記号を示した。

「王、守る者、盗む者、殺す者、嘘をつく者、運ぶ者、見る者」

「さっきと同じだ」

「違う。これは役職じゃない」

 エリアスの顔から血の気が引いた。

「一つの顔が生まれるまでに必要な、七つの証言だ」

 その瞬間、黒い眼の中で母が口を開いた。

 声は、私の頭の内側から聞こえた。

 ――黒羽玲が、あなたを殺す。

 母の背後に光景が現れた。

 黒羽が私の胸へ銃を向けている。

 引き金を引く。

 私が倒れる。

 あまりにも鮮明で、記憶のようだった。

 私は黒羽を見た。

 彼もこちらを見ていた。

 手には銃があった。

 いつ抜いたのか分からない。

「琴塚」

 黒羽が言った。

「今、俺が君を撃つところを見たな」

 私は答えなかった。

「安心しろ。全員が別の裏切りを見ている」

「なぜ分かる?」

「そういう品物だからだ」

 ロヴァンが動いた。

 彼女は黒い眼へ金属製のケースをかぶせた。内側に磁気固定具があり、楕円は抵抗もなくケースへ吸い込まれた。

「何をしている!」

 エリアスが叫んだ。

 ロヴァンは拳銃を抜いた。

「仕事よ」

「依頼人は生け捕りを望んでいないはずだが」

 黒羽の声は落ち着いていた。

「あなたの依頼人はね」

 ロヴァンは笑った。

「私の依頼人は、黒羽玲の死体に十万ドル払う」

「安いな」

「眼と合わせれば十分」

 彼女は出口へ下がった。

 ノアネルが床で身を起こした。

 記憶を失ったはずの男が、ロヴァンへ飛びかかった。

 銃声が二発。

 ノアネルの胸から血が噴いた。

 それでも彼は止まらず、ロヴァンの腕を掴んだ。二人は扉の外へもつれ、細い石橋の上へ出た。

 ロヴァンがケースを放り投げた。

 黒羽が受け止める。

 次の波が縦坑を吹き上がった。

 ノアネルとロヴァンの足元から石橋が消えた。

 二人は抱き合ったまま、暗い水へ落ちていった。

 悲鳴は一つだった。

 男の声とも、女の声ともつかなかった。

 黒羽はケースを抱えたまま、こちらへ戻った。

 エリアスが彼へ掴みかかった。

「最初から知っていたな!」

「半分は」

「依頼人が二人いることも?」

「ロヴァンには〈聖遺物市場〉が接触した。ノアネルには鉱山会社、君には大学の元理事、琴塚には日本の収集家、テ・アオには保存局を名乗る偽メール」

 私は耳を疑った。

「全部、あなたが?」

「連絡先を作ったのは俺だ」

「収蔵家も?」

「いない」

 黒羽はケースを床へ置いた。

「依頼人は、最初から一人もいない」

 エリアスが殴りかかった。

 黒羽は避けなかった。

 拳が頬へ入り、黒羽の口から血が飛んだ。

「我々を実験台にしたのか」

「役が必要だった」

「何のために!」

 黒羽は血を親指で拭った。

「こいつが、誰を王に選ぶかを見るためだ」

 ケースの内側から、こつ、こつ、と音がした。

 黒い眼が、蓋を叩いていた。

五 王を作る七人

 エリアスは笑い始めた。

 恐怖で壊れたのだと思った。

 だが彼は、壁の文字を見ていた。

「王じゃない」

「何?」とテ・アオ。

「王を選ぶんじゃない。王を作るんだ」

 彼は震える指で、七つの記号を順に触れた。

「集団の中で、誰が支配者か。誰が守ったか。誰が盗んだか。誰が殺したか。誰が嘘をついたか。誰が運び、誰が最後に見たか。証言が一つの名前へ収束すると、それが顔になる」

 黒羽が静かに頷いた。

「顔は皮膚じゃない。他人の記憶に、同じ名前で残る形だ」

「あなたは、これを持ち出すつもりじゃない」

 私の声は自分でも驚くほど低かった。

「これに、自分の名前を持ち出させるつもりだ」

 黒羽は私を見た。

 その目だけが、初めて笑っていなかった。

「黒羽玲という名は、俺一人のものじゃない」

 彼は言った。

「最初の黒羽は、四十年前にアフガニスタンで死んだ。二人目は南極で。三人目はバルカンで。技術、口座、隠し場所、敵、借り――全部を次へ渡して、名だけが生き残った」

「犯罪者の襲名か」

「文明だって同じだ。死者の記憶を、次の世代が引き継ぐ。違いは規模だけだ」

「今のあなたは何人目?」

「五人目」

 テ・アオが、腰の鞘から黒曜石の短刀を抜いた。

「六人目を作る気ね」

「人間の継承には、忘却が多すぎる。こいつなら、名前に結びついたすべてを運べる」

「こいつは運ばない」

 テ・アオはケースを指した。

「食べるのよ。顔を覚えるんじゃない。顔を空にして、自分が入る」

「だから空にする前に、形を与える」

 黒羽は自分の胸を指した。

「世界中に黒羽玲の噂がある。警察も密売人も学者も、俺を同じ男だと思っている。これほど頑丈な顔はない」

 私はようやく理解した。

 黒羽が欲しいのは財宝ではない。

 永遠に盗み続ける名前だった。

「あなたは制御できると思っている」

「宝を盗むには、まず宝に欲しがられろ」

 その言葉と同時に、ケースが裂けた。

 金属の蓋が内側から折れ曲がり、黒い眼が滑り出た。

 今度は浮かなかった。

 床へ落ち、液体の影のように広がった。

 エリアスの足首へ触れた。

 彼は叫ばなかった。

 ただ、顔から表情が消えた。

 次の瞬間、エリアスは黒羽とまったく同じ声で言った。

「五人目」

 黒羽が銃を上げた。

 エリアスも同じ動きで、何もない手を上げた。

 銃声。

 エリアスの額から血が流れた。

 倒れながら、彼は母の声、ロヴァンの声、ノアネルの声、私の声を順に発した。

 最後に、まだ口にしていないはずのロハス警部補の声で、こう言った。

 ――あなたが黒羽玲ね。

 尋問室で、ロハスの指が止まった。

「今、何と言った?」

 琴塚は目を開けた。

「そのときは、知らない女の声だと思いました」

「私の声だったと、なぜ分かるの」

「さっき、あなたが黒羽の名を口にしたとき、同じだと気づいた」

 ロハスは録音機を見た。

 赤いランプは点いている。

「続けて」

 琴塚は一度、水を飲んだ。

 コップを置く音が、妙に大きく響いた。

六 海へ帰らないもの

 エリアスの死体から、黒い影が剥がれた。

 部屋の壁を這い、七つの顔がある縦坑へ向かって伸びていく。

 テ・アオが短刀で自分の掌を切った。

 血を、床に刻まれた人間側の文字へ塗りつけた。

 黒い面が初めて震えた。

「血が効くのか?」

「血じゃない。誰の血かを、私が知っていることが効く」

 彼女は歯を食いしばった。

「名前のあるものを増やせば、名のないものは狭くなる」

 黒羽が私へ珊瑚の眼を投げた。

「上へ戻れ。七つの像へ順に入れろ」

「一つしかない」

「一つで七つを見せるんだ。君は地図屋だろう。光の道を作れ」

 私はライトと測距器を掴み、縦坑へ走った。

 背後で銃声と石の砕ける音がした。

 石橋を渡る途中、下の海から声がした。

「琴塚」

 ロヴァンだった。

 水面に、彼女が浮いていた。

 胸まで水に浸かり、両腕をこちらへ伸ばしている。ノアネルも隣にいた。胸に弾痕はなく、穏やかな顔で笑っていた。

「助けて」

 私は足を止めた。

 ロヴァンの背後で、母が水から顔を出した。

「冬馬」

 あの声だった。

 私が一歩近づくと、テ・アオの叫びが響いた。

「見るな!」

 私はライトを水面へ叩きつけた。

 光が割れ、母たちの顔も砕けた。

 水面の下にあったのは、人の顔ではない。

 無数の眼だった。

 魚でも昆虫でもない。黒い膜の内側から、大小の瞳が互いを見つめていた。私たちがこれまで見てきたすべての顔を、試着しているようだった。

 私は走った。

 縦坑を登り、七つの像の広間へ戻った。

 珊瑚の眼を最初の像へ入れる。

 白目と黒い瞳が揃った瞬間、その顔が私を見た。

 王。

 次の像へ移す。

 守る者。

 次。

 盗む者。

 ライトを鏡代わりの測距板で反射させ、一つの眼が七つにあるよう光を回した。

 殺す者。

 嘘をつく者。

 運ぶ者。

 六つ目まで来たとき、下から黒羽が上がってきた。

 片腕から血を流し、もう一方の手でテ・アオを支えている。彼女の脇腹には、黒い染みが広がっていた。

「七つ目は?」

 私は訊いた。

 黒羽が〈見る者〉の像を見た。

「島の外だ」

 その答えを聞いたテ・アオが、残った力で黒羽の腹へ短刀を突き立てた。

 黒羽の目が見開かれた。

「あなたは、外に証人を用意している」

「当然だ」

 黒羽は苦しげに笑った。

「帰還者の事情聴取。海上警備隊。インターポール。世界でもっとも疑うことを仕事にしている人間が、最後に一つの名前を選ぶ」

 私は彼を見た。

「私を生かして、あなたの話をさせるつもりだったのか」

「誰を生かすかは、まだ決めていない」

 黒い影が縦坑を登ってきた。

 七つの顔の口から、同時に声が漏れた。

 王。

 王。

 王。

 黒羽が短刀を腹から抜いた。

 血が噴いた。

 それでも彼は立っていた。

「テ・アオ、君は守る者。ロヴァンは盗む者。ノアネルは殺す者。エリアスは読む者――いや、嘘を真実にする者。琴塚は運ぶ者。俺が王」

「見る者がいない」

「これから会う」

 テ・アオが私の襟を掴んだ。

「聞いて」

 彼女の声はかすれていた。

「島を出ても、誰にも彼の名を決めさせないで。話には必ず矛盾を残して。王が誰か、最後まで一つにしないで」

「あなたは?」

「私は、ここを閉じる」

 彼女は首の木彫りを外した。

 鮫の歯だと思っていたものは、黒曜石の薄い楔だった。

 それを、床の亀裂へ差し込む。

 島全体が鳴った。

 地震ではない。

 遠くで、何百もの石の足が一歩を踏み出したような音だった。

 黒羽が私へ飛びかかった。

 私は避け、二人で石橋へ転がった。

 彼の手が私の喉を掴む。

「名前は船だ、琴塚」

 血に濡れた顔が、私の目の前にあった。

「身体は沈んでも、名前は海を渡る」

 背後から黒い影が彼を包んだ。

 黒羽の顔が、私の顔になった。

 次に、母の顔になった。

 テ・アオ、ロヴァン、ノアネル、エリアス。

 最後に、知らない女――ロハス警部補の顔になった。

 私は黒羽を蹴り落とした。

 彼は黒い眼とともに、縦坑の底へ落ちた。

 テ・アオが楔を押し込んだ。

 石橋が折れ、七つの顔が内側へ崩れた。

「走って!」

 それが、彼女の最後の言葉だった。

 私は外側の通路へ逃げた。

 背後で岩が閉じる音が続いた。

 母が呼んだ。

 黒羽が笑った。

 私自身の声が、私より先に助けを求めた。

 海へ飛び込み、裂け目を抜け、〈マナ・タヒ〉へ戻った。

 船には誰もいなかった。

 だが船室の鏡には、六人全員が映っていた。

 私は燃料を撒き、火をつけた。

 鏡が割れるまで見ていた。

 その後のことは、救助艇に拾われるまで覚えていません。

七 最後の証人

 琴塚が話し終えると、嵐は遠ざかり始めていた。

 ロハスは腕時計を見た。

 午前五時三十八分。

 一時間以上、停電も通信障害も起きていない。尋問室の外では、職員が電話を取り、プリンターが紙を吐き出している。

 世界は、あまりにも普通だった。

「確認する」

 ロハスはメモを閉じた。

「依頼人はいない。黒羽玲が、別々の偽依頼を全員へ送り、互いに疑わせた。目的は〈王の眼〉に自分の名前を覚えさせること」

「そうです」

「テ・アオは封印を閉じ、黒羽は落ちた。あなたは一人で脱出した」

「そうです」

「あなたの話には、意図的な矛盾がある」

 琴塚の口元がわずかに動いた。

「例えば?」

「あなたは最初、黒羽が卵を右手で受け止めたと言った。あとでは、右腕に古い銃創があり、頭上まで上がらないと言った。石橋から落ちながら受け止めるのは難しい」

「興奮していた」

「黒羽が偽依頼を作った事実を、彼が告白する前から知っていたように話した箇所もある。さらに、あなたは黒い眼をケースへ入れたときの固定具の構造を説明した。でも、ロヴァンが事前にケースを見せた場面はない」

「記憶が混ざっている」

「そうね。誰の記憶と?」

 ロハスは机の引き出しから一枚の紙を出した。

 つい十分前、捜索隊から届いた暫定報告だった。

「あなたが示した位置から、縦坑が見つかった。入口は崩落していたが、海側の裂け目から潜水班が入った」

 琴塚の瞳が細くなった。

「早いですね」

「一体、遺体を収容した」

 ロハスは紙を机へ置いた。

「男性。推定三十代後半。右上の奥歯に、日本で施術された特殊なセラミック冠。旅券の歯科記録と一致した」

 琴塚は紙を見なかった。

「誰の旅券です?」

「琴塚冬馬」

 蛍光灯が一度、瞬いた。

「つまり、あなたは琴塚ではない」

「そうかもしれない」

「黒羽の遺体は見つかっていない」

「そうでしょうね」

「あなたは最初から、自分が黒羽ではないと思わせようとした。怪物の話、顔を盗む話、名前を決めるなという警告。全部、正体を曖昧にするための演出」

 琴塚は――琴塚の顔をした男は、静かに訊いた。

「では、警部補。私は誰です?」

 ロハスは答えなかった。

 男の包帯の隙間から、黒い液体が一滴、机へ落ちた。

 インクのように広がりかけ、すぐ皮膚へ戻った。

「言わないほうがいい」

 ロハスは立ち上がった。

「テ・アオの警告を信じるんですか?」

「あなたの手品よりは」

「でも、逮捕状には名前が必要だ」

「身元不詳で十分よ」

 男は初めて、残念そうな顔をした。

 そのとき、ドアが開いた。

 若い巡査が資料を持って立っていた。ロハスが制止するより早く、彼は興奮した声を上げた。

「警部補、照合が出ました。こいつです。二〇二二年、マラケシュで拘束されたときの指骨形状と一致――」

 巡査は男を指差した。

「こいつが黒羽玲です」

 部屋のすべての音が消えた。

 発電機も、風も、遠くの電話も。

 男はゆっくり息を吸った。

 火傷で腫れていた顔の輪郭が、内側から整っていく。

 頬骨が上がり、顎が細くなった。

 裂けた唇が閉じる。

 濁っていた右目に、黒い瞳が戻る。

 ロハスは、資料写真で何度も見た男の顔を見た。

 黒羽玲だった。

「七人目」

 黒羽は言った。

 ロハスの声で。

「見る者が、王の名を決めた」

 巡査が銃へ手を伸ばした。

 黒羽は椅子に座ったまま動かなかった。

 代わりに、尋問室の鏡の中で、ロハスが先に動いた。

 鏡のロハスが巡査の銃を奪い、彼の喉へ肘を入れた。

 現実が半拍遅れて追いついた。

 ロハスの身体が勝手に動いた。

 巡査が床へ崩れる。

 彼女の右手には銃があった。

「違う」

 ロハスは自分の腕を押さえようとした。

 左手も動かなかった。

 黒羽が微笑んだ。

「身体は船じゃない」

 彼の声と、ロハスの口から出た声が重なった。

「証言が船だ」

 男の身体が椅子から崩れ落ちた。

 火傷の顔へ戻りながら、皮膚が急速に灰色になっていく。

 脈はなかった。

 だがロハスの頭の中には、知らない記憶が流れ込んでいた。

 カブールの地下金庫。

 南極の氷床下にある船。

 バルカンの修道院で受け取った黒い指輪。

 五人分の死。

 五人分の隠し口座。

 五人分の敵。

 そして、ラパ・ヌイの地下で黒い眼を見つめながら笑う、五人目の黒羽玲。

 彼は落ちながら、最後まで計算していた。

 自分の身体が死んでもいい。

 琴塚が逃げてもいい。

 王の眼が琴塚の顔を借りてもいい。

 島の外で誰かが、ただ一度、確信をもって名を呼べばいい。

 黒羽玲という顔は完成する。

 次の身体の中で。

八 海を向いた顔

 午前七時、嵐は去った。

 空港へ向かう道路の両側で、濡れた草が朝日に光っていた。

 ロハスは自分がどうやって分署を出たのか覚えていなかった。

 巡査は気絶しただけだった。

 監視映像には、尋問室から一人で歩き出す彼女が映っている。手には何も持っていない。廊下で上司とすれ違い、落ち着いた声で「容疑者は死亡」と報告している。

 その声を、ロハス自身は聞いた覚えがなかった。

 空港の駐車場で、彼女は自分の車を降りた。

 制服ではない。

 いつ着替えたのか分からない黒いシャツとジャケットを着ていた。内ポケットには、三冊の旅券と、スイスの口座番号、サンティアゴ行きの搭乗券が入っていた。

 旅券の名前はすべて違う。

 写真は、すべて彼女だった。

 スマートフォンが震えた。

 暗号化されたメッセージが一件。

〈回収品は?〉

 送信者名は〈収蔵家〉

 依頼人はいないはずだった。

 ロハスの親指が、彼女の意志と無関係に動いた。

〈回収済み。容器は不要だった〉

 返信。

〈では、あなたは誰だ〉

 指が止まった。

 頭の奥で、五人の男が笑った。

 そのさらに奥で、人間ではない何かが、初めて自分の顔を確かめるように瞬きをした。

 ロハスはメッセージ欄へ文字を打った。

〈黒羽玲〉

 送信する直前、彼女は全力で親指を止めた。

 爪が画面へ食い込む。

「私は、カミラ・ロハス」

 声に出した。

 もう一度。

「私は、カミラ・ロハス」

 頭の中で、別の声が答えた。

 ――なら、誰かにそう信じさせろ。

 搭乗案内が流れた。

 サンティアゴ行き、最終呼び出し。

 ロハスは空港のガラス越しに、遠くのモアイを見た。

 実物ではない。観光客向けに置かれた、小さな複製像だった。どれも島の内側を向き、海へ背を向けている。

 ガラスに映った像だけが、こちらを向いていた。

 一体。

 二体。

 三体。

 すべての石の眼に、白い珊瑚と黒い瞳が入っている。

 ロハスは搭乗券を握り潰した。

 だが足は、出発口へ向かって歩き始めた。

 海を見ないはずの顔が、一斉に彼女を見送っていた。