『一名様、貸し出し中』

 そのキャンプ場には、テントや焚き火台と並んで、「友人」を貸し出すサービスがあった。

 ただし、僕ら六人のうち、誰も申し込んだ覚えがなかった。

「馬場先輩、これ、どういう意味ですか」

 月眠湖キャンプ場の受付前で、僕は立て看板を指さした。

《一名補完サービス》

 人数が合わない。

 バディが組めない。

 団体プランに一人足りない。

 そんなとき、あなたのグループに自然になじむ一名をお貸しします。

 ・共通の思い出つき

 ・技能調整済み

 ・返却時の後片づけ不要

 ※補完員本人への説明は必要ありません。

「読んだままだろ。友達が足りないときに借りるんだ」

 青藍大学潜水同好会〈トビウオ〉の部長、馬場隆志先輩は、百二十リットルのザックを背負ったまま腕を組んだ。本人は「肩幅が広いだけ」と主張するが、その姿はキャンプに来た大学生というより、山中へ冷蔵庫を配達しに来た人だった。

「友達は、焚き火台の隣で貸すものじゃありません」

 副部長の有馬佐知先輩が、冷静に言った。

「じゃあ、どこで貸すんだ」

「そこから考え直してください」

 受付の軒下には、ランタン、延長コード、毛布、友人、と書かれた料金表が並んでいた。

 友人だけ、初回無料だった。

 僕らは夏休みを利用して、月眠湖へ一泊二日のキャンプ兼レイクダイビングに来ていた。

 車で来たのは、馬場先輩、有馬先輩、二年の磯崎公平先輩、同じく二年の須藤莉子先輩、そして一年の僕――宮坂透の五人。

 もう一人、燕門晴人が路線バスで遅れて来ることになっている。

 つまり、最初から六人だ。

 借りる必要はない。

「予約のお名前をお願いします」

 受付の女性は、湖面と同じくらい波のない声で言った。銀色の名札には、名字ではなく《管理人》とだけ書かれていた。

「青藍大学の馬場です。六名、湖畔サイト一つと、午後のダイビング」

「確認いたします。実在参加者五名、補完参加者一名。合計六名様ですね」

 馬場先輩の笑顔が止まった。

「じつざい?」

「当キャンプ場での区分です」

「俺たちは全員、だいたい実在してますけど」

「だいたいで結構です」

 管理人は六本のリストバンドをカウンターに置いた。五本は青く、一本だけ白かった気がしたが、磯崎先輩が「早い者勝ち!」と全部つかみ、適当に配ってしまった。

「補完員の方は、すでに自然になじんでいるようですね」

 管理人が言った。

 僕らは顔を見合わせ、それから笑った。

 誰が最初に笑い出したのかは、なぜか思い出せなかった。

 青藍大学潜水同好会〈トビウオ〉は、水中にいる時間より、陸で飯を作っている時間のほうが長い。

 馬場先輩はこれを「潜水には十分な栄養が必要だから」と説明しているが、去年の会計報告では、ダイビング用品費より調味料費のほうが高かったらしい。

 サイトに着くと、有馬先輩が地面の傾斜と風向きを見て、十秒でテントの配置を決めた。

「入口は湖と反対向き。夜は風が下りてくるから、タープは低め。馬場、そこに荷物を置かない」

「なぜだ」

「そこがテントを張る場所だから」

「テントは荷物を守るものだろ。なら荷物が先で――」

「どいて」

 馬場先輩は百二十リットルのザックごと移動させられた。

 一方、磯崎先輩はエアマットの空気口に、ダイビング用のタンクを接続しようとしていた。

「三秒で膨らみますよ」

「三万円のレギュレーターで寝床を膨らませるな」

「効率化です」

「破裂したら、お前を湖底で寝かせる」

 有馬先輩が工具を取り上げた。

 須藤先輩はその様子を、インスタントカメラで撮っていた。白いフィルムが排出される。

「事故の証拠写真?」と僕が聞くと、

「遺影候補」

 と須藤先輩は答えた。

 僕は笑いながら、ペグを打った。

 笑い方も、ハンマーの握り方も、ずっと前からこの人たちとキャンプをしてきたように自然だった。

 実際、僕には思い出があった。

 春の新入生歓迎会で、馬場先輩が紙コップを片手に「海は広いが、部室は狭い!」と叫んだこと。

 有馬先輩が僕のマスクの曇り止めを見て、「それ、食器用洗剤」と静かに指摘したこと。

 磯崎先輩がプール練習でフィンを左右逆に履き、「抵抗を増やす訓練」と言い張ったこと。

 須藤先輩が水中写真にこだわるあまり、魚より先にカメラへ空気を分けようとしたこと。

 どれも、思い出すと細部まで鮮明だった。

 食堂の油の匂いも、プールサイドの熱気も、みんなの笑い声も。

 だから受付の看板など、田舎のキャンプ場が始めた悪趣味な冗談だと思った。

 昼を少し過ぎたころ、坂道の向こうから、一人の男が赤いボストンバッグを抱えて走ってきた。

「悪い! バスが途中で鹿待ちになった!」

「燕門、遅い!」

 馬場先輩たちが一斉に叫んだ。

 男は僕と同じくらいの年で、日に焼けた細い顔をしていた。髪の先が濡れていて、靴には泥がはねている。

 彼は皆に手を振り、最後に僕を見た。

「ええと……一年の宮坂、だよな」

「そうだけど」

「写真で見た。燕門晴人。よろしく」

 差し出された手を握りながら、僕は妙な感じがした。

 僕は燕門を知らなかった。

 同じ部にいて、同じ学年なのに、一度も見た覚えがない。

「燕門は五月から沖縄の実習に行ってたの」と須藤先輩が言った。「入れ違いだったから、二人は今日が初対面」

「そうでしたっけ」

「そうだよ」と有馬先輩が答えた。「燕門は入学式の翌日に入部して、三日目に部室の鍵を湖へ落とした」

「湖じゃなくて大学の噴水です」

 燕門が訂正した。

 その瞬間、僕の頭に映像が浮かんだ。

 夜の噴水。

 袖を肩までまくり上げた馬場先輩。

 水底を懐中電灯で照らす有馬先輩。

 腹を抱えて笑う須藤先輩。

 びしょ濡れの磯崎先輩。

「馬場先輩、最後は噴水に入って、靴だけ流されましたよね」

 全員が僕を見た。

「なんで知ってる?」と燕門が聞いた。

「なんでって、僕もそこに――」

 言いかけて、気づいた。

 それは去年の出来事だ。

 去年、僕はまだ高校生だった。

「何度も話を聞いたから、見た気になってるだけじゃない?」

 須藤先輩が言った。

「ああ……たぶん」

 僕は笑った。

 皆も笑った。

 燕門だけが、しばらく僕を見ていた。

 午後二時、僕らは管理棟裏のダイビングベースに集合した。

 月眠湖は、昔の谷をせき止めて造られた人造湖だ。

 水没した旧道や石垣が今も湖底に残り、晴れた日には、水深十メートルほどまで木漏れ日の柱が差し込む。

 海ほど華やかな魚はいないが、倒木の間を銀色の小魚が群れで走る光景は、空の中を潜っているように見えるらしい。

 ガイドの説明を聞き、タンクの残圧を確認し、バディ同士で器材を点検する。

 馬場先輩と有馬先輩、磯崎先輩と須藤先輩、そして僕と燕門が組んだ。

「補完の方は、技能B設定で登録されています」

 ガイドが名簿を見ながら言った。

「技能B?」と馬場先輩が聞く。

「水深十二メートルまでの標準的な活動に対応、という意味です」

「俺は技能いくつですか」

「声量Aです」

 皆が笑った。

 僕も笑ったが、胸の奥に小さな石が沈んだ。

 補完の方。

 それは燕門のことだろう。

 今日初めて現れた、僕だけが知らない男。

 そう思うと、すべてが説明できる気がした。

 水に入ると、音が消えた。

 湖は思ったより冷たく、青緑色の光がゆっくり揺れていた。

 岸から続く斜面を下りると、苔のついたガードレールが現れ、その向こうに旧道が伸びている。

 道路の上を、小魚の群れが車のように行き交っていた。

 燕門は落ち着いていた。

 呼吸は一定で、中性浮力もきれいに取れている。

 途中で右のフィンストラップが外れたが、慌てず僕に合図を送った。

 僕はポケットから予備のゴムバンドを取り出し、手早く固定した。

 燕門が親指と人差し指で輪を作る。

 OK。

 僕も同じサインを返した。

 その動きは、考えるより先に体から出た。

 僕はいつ、こんな予備バンドを用意したのだろう。

 誰に教わったのだろう。

 旧道の先に、錆びた看板が立っていた。

《貸出品返却口 この先》

 昔、湖になる前にあったボート乗り場のものだと、事前説明で聞いていた。

 ただの偶然だ。

 それでも僕は、看板の矢印が自分だけを指しているように感じた。

 浮上後、燕門が僕の左手首をつかんだ。

「宮坂、それ」

 ウェットスーツの袖から、白いリストバンドがのぞいていた。

 受付で配られたものだ。

 青い文字で、小さく印字されている。

《補完1/返却期限 翌日十時》

「それ、全員についてるだろ」

 僕は言った。

 燕門は自分の袖をまくった。

 青いリストバンドには、サイト番号と名前だけが書かれている。

 ほかの四人も同じだった。

 白いバンドは、僕だけだった。

「受付の配り間違いだ」

 夕方、僕は何度もそう言った。

 馬場先輩は焚き火台に薪を組みながら、「そういうこともある」とうなずいた。

 磯崎先輩は「むしろ当たりですよ。限定カラー」と言った。

 須藤先輩は僕の手首を撮影した。

 有馬先輩だけが、何も言わなかった。

 夕食は、厚切りベーコンときのこの炊き込みご飯、焼きねぎを入れた鯖缶のアヒージョ、湖の水で冷やしたトマトだった。

 有馬先輩が小さな鉄鍋のふたを開けると、湯気と醤油の香りが広がった。

「乾杯するぞ!」

 馬場先輩がショットグラスを六つ並べた。

「潜水旅行中なので、全員ノンアルコール」

 有馬先輩が念を押す。

「承知している。中身は麦茶だ」

「なぜショットグラスに」

「気分だ!」

 六人で麦茶を一気に飲んだ。

 磯崎先輩がむせ、馬場先輩が背中をたたき、その勢いで磯崎先輩の椅子が後ろへ倒れた。

 須藤先輩は倒れる途中から撮影していた。

 僕は笑った。

 腹が痛くなるほど笑った。

 借り物のリストバンドのことなど、笑っている間だけは忘れられた。

 食後、須藤先輩が昼に撮った写真をテーブルへ並べた。

 テントを張る馬場先輩。

 エアマットを爆発させかける磯崎先輩。

 湖を背にした六人の集合写真。

 そして、スマートフォンの中には、過去の部活動写真が何百枚もあった。

「これが去年の噴水事件」

 須藤先輩が画面を見せた。

 僕が思い出した通りの光景だった。

 夜の噴水。

 袖をまくった馬場先輩。

 懐中電灯を持つ有馬先輩。

 笑う須藤先輩と磯崎先輩。

 中央には、ずぶ濡れの燕門がいた。

 僕はいなかった。

 当然だ。

 去年の僕は高校生なのだから。

 けれど、写真を見れば見るほど、胸の中で何かがずれていった。

 僕には、あの夜の水の冷たさまで分かる。

 馬場先輩の靴が噴水の循環口に吸われたとき、有馬先輩が「片方だけならサンダルとして使える」と言った声まで覚えている。

 誰かから聞いた記憶ではない。

 僕自身の記憶だった。

「宮坂」

 燕門が、小声で呼んだ。

「ちょっと来て」

 燕門は僕を、炊事場の裏へ連れていった。

 そこにはレンタル用品のコンテナが積まれていた。

 ランタン。

 毛布。

 調理器具。

 折りたたみ椅子。

 そして、一番下の棚に、《一名補完サービス取扱説明書》と書かれた薄い冊子があった。

 燕門が開いたページには、細かい文字が並んでいた。

《補完員は、対象グループの共有記憶を基に、最も自然な人物像へ調整されます》

《技能、性格、口調、嗜好は、利用目的に応じて自動設定されます》

《補完員本人は、自身を実在参加者と認識します》

《返却後、付与された人格および記憶は初期化され、別の利用者様へ再配分されます》

 僕は最後まで読めなかった。

「これを見つけたとき、最初はお前が俺を疑ってる理由が分かったと思った」

 燕門が言った。

「俺も、お前が補完員なんじゃないかと思った」

「違う」

「俺は自分の家の住所を言える。母親の電話番号も、先月落とした単位の名前も言える。学生証のQRも大学の登録ページにつながる」

「僕だって」

 僕は財布から学生証を出した。

 青藍大学一年、宮坂透。

 写真も、生年月日も、学籍番号もある。

 燕門が裏面のQRコードを読み込んだ。

 表示されたのは、大学のサイトではなかった。

《月眠湖キャンプ場 一名補完サービス》

《個体番号 M―06》

《貸出名 宮坂透》

《利用期間 八月二十三日午前八時から、八月二十四日午前十時まで》

 世界が、焚き火の煙のように揺れた。

「そんなわけない」

 自分の声が遠かった。

「僕は大学に通ってる。講義も受けた。部室にも行った。馬場先輩たちとプールで練習した」

「その講義の先生の名前は?」

 口を開いた。

 出てこない。

「家はどこ?」

「海と山に囲まれた、静かな町で……」

「何県だ」

 分からない。

「家族は?」

 スマートフォンの連絡先を開いた。

 馬場先輩、有馬先輩、磯崎先輩、須藤先輩。

 その四人しか登録されていなかった。

 写真フォルダの一番古い画像は、今朝八時十二分。

 車の後部座席から撮った高速道路の空だった。

 僕の記憶は、春から始まっているはずだった。

 けれど、記録は今朝からしか存在しなかった。

「じゃあ、僕が馬場先輩に初めて会った食堂も」

 燕門は少し黙ってから言った。

「食堂は本物なんだと思う。馬場先輩も、紙コップも、狭い部室も。お前だけが、そこにいなかった」

 湖のほうから、皆の笑い声が聞こえた。

 馬場先輩が何かを落とし、磯崎先輩が大げさに騒ぎ、有馬先輩が叱っている。

 僕はその声を知っていた。

 どの笑い声が誰のものか、目を閉じても分かった。

 全部、借りた記憶だった。

「返却されたら、どうなるんだろう」

「冊子には初期化って書いてある」

「初期化って?」

「たぶん、今日のことも忘れる」

 燕門は僕から目をそらした。

「自分が誰だったかも」

 隠しておくことはできなかった。

 焚き火の前へ戻り、僕は学生証のQRコードと冊子を見せた。

 最初に口を開いたのは馬場先輩だった。

「つまり、お前はレンタルなのか」

「たぶん」

「延滞料金はいくらだ」

「先輩」

「払えばいいだろ。部費で」

「今年の部費は、もう調味料で半分消えています」

 有馬先輩が言った。

「なら俺の私費で払う」

「人をDVDみたいに延滞しないでください」

 須藤先輩が静かに言った。

 磯崎先輩は冊子を裏返し、規約を読んでいた。

《恒久利用には実在参加者一名との交代が必要》だって。じゃあ俺と交代します?」

「軽く言うな」と燕門が言った。

「だって俺、今期の単位も返却したいし」

「そっちはもう大学に返却されてる」

 有馬先輩が答えた。

 皆が笑った。

 僕も、少しだけ笑った。

 馬場先輩は笑わなかった。

「宮坂、お前はどうしたい」

 問われて、初めて考えた。

 返却されたくない。

 忘れたくない。

 明日も、この人たちを知っていたい。

 けれど、誰か一人と交代しなければならないのなら、答えは決まっていた。

「このままでいいです」

「よくない」

「誰かを僕の代わりにするほうが、もっとよくないです」

 馬場先輩が何か言おうとした。

 有馬先輩が、その腕をつかんだ。

「透の言う通り」

 彼女は初めて、僕を下の名前で呼んだ。

「なら、返却までにできることをする」

 須藤先輩がインスタントカメラを持ち上げた。

「記憶が消えるなら、記録を残す」

 そこから、皆は妙に忙しくなった。

 須藤先輩は僕の写真を十枚以上撮った。

 馬場先輩はノートに、今日一日の出来事を、漢字を何度も間違えながら書いた。

 磯崎先輩は動画を回し、「この男は宮坂透。好きな食べ物は鯖缶。テントを張る速度は普通。笑うと右の眉だけ上がる」と実況した。

 燕門はダイビング用の水中スレートに、僕の名前と今日の日付を書いた。

 有馬先輩は、ホーローのマグカップを一つ持ってきた。

 ナイフの背で塗装を削り、側面に文字を刻む。

《宮坂透》

 その下に、少し迷ってから、もう一行。

《六人目ではなく、六人のうちの一人》

「これ、貸出品じゃないですよね」

「私の私物。今から透のもの」

「返却するとき、持っていけるかな」

「持っていけなかったら、私が次に渡す」

「次って?」

「次は次」

 有馬先輩は、それ以上説明しなかった。

 夜が深くなった。

 焚き火が小さくなり、湖の向こうに月が出た。

 月眠湖という名前の通り、白い月は水面に横たわって眠っているように見えた。

 有馬先輩が、アルミホイルに包んだ焼きりんごを火から取り出した。

 切れ目にバターと砂糖とシナモンを詰めただけなのに、ふたを開くと甘い湯気が立った。

「熱いから気をつけて」

 六人で、同じ鍋を囲んだ。

 馬場先輩は舌をやけどした。

 磯崎先輩は笑いすぎて、自分のりんごを地面に落とした。

 須藤先輩は落ちる瞬間を撮った。

 有馬先輩は予備を半分分けた。

 燕門は僕のマグカップに、薄いコーヒーを注いだ。

「なあ、宮坂」

 燕門が言った。

「お前の思い出が借り物でも、今日、俺のフィンを直したのはお前だよな」

「うん」

「このコーヒーが薄いのも、たぶん事実だ」

「それは磯崎先輩が粉をけちったから」

「部費がないんだよ」

 磯崎先輩が抗議した。

 馬場先輩が、ようやく少し笑った。

「だったら今日の分は、誰からも借りてない」

 有馬先輩が言った。

「今日の分?」

「私たちが今つくった記憶」

 薪が崩れ、小さな火の粉が上がった。

 その夜、僕は自分が本物かどうかを、初めて気にしなくなった。

 翌朝九時五十五分。

 受付前には、六人分の荷物が並んでいた。

 管理人は時計を見て、カウンターの下から白い箱を取り出した。

「補完員一名様、ご返却をお願いします」

 僕は一歩前へ出た。

 馬場先輩が僕の肩をつかんだ。

「まだ五分ある」

「五分しかないです」

「同じ意味だ」

 有馬先輩が、ホーローのマグカップを僕のザックへ押し込んだ。

 須藤先輩は最後の一枚を撮った。

 磯崎先輩は動画を止めなかった。

 燕門は水中スレートを胸の前に掲げていた。

《宮坂透》

《八月二十三日、月眠湖》

《六人で潜った》

 管理人が僕の白いリストバンドに触れた。

 ぱちん、と小さな音がした。

 馬場先輩の手から、力が抜けた。

「あれ」

 彼は僕を見た。

 見知らぬ人を見る目だった。

「すみません。キャンプ場のスタッフさんですか?」

 有馬先輩が息をのんだ。

 須藤先輩は、さっき撮ったばかりの写真と僕の顔を交互に見た。

「この人……誰?」

 磯崎先輩のスマートフォンから、自分の声が流れていた。

《この男は宮坂透。好きな食べ物は鯖缶――》

「俺、なんでこんな動画を?」

 燕門だけは、スレートの文字を何度も読んでいた。

「宮坂透」

 彼は名前を口にした。

「宮坂……透」

 記憶は消えても、文字は残る。

 顔を忘れても、空席があったことまでは消せない。

「たぶん、お前だ」

 燕門が僕を見た。

「俺たちは、お前を知ってた」

 管理人が静かに言った。

「記憶は返却対象ですが、記録は規約外です。皆様、工夫なさいましたね」

「だったら、また借りられますか」

 有馬先輩が尋ねた。

「不足人数があれば」

「不足してなくても?」

「サービスの趣旨とは異なります」

「趣旨なんて知らない」

 有馬先輩は、僕のザックを強く押した。

「持っていって。絶対になくさないで」

 僕はうなずいた。

 管理人に案内され、受付の奥にある小さな扉へ向かった。

 扉には《返却口》と書かれていた。

「僕は、これからどうなるんですか」

「次のご利用まで、お休みいただきます」

「次は、誰になるんですか」

「必要とされる方です」

「僕は、どこから来たんでしょう」

 管理人は初めて、少しだけ笑った。

「足りないところからです」

「返されたら?」

「また、足りないところへ」

 扉が閉まる直前、燕門の声が聞こえた。

「透!」

 僕は振り返った。

「次も、席を空けておく!」

 僕が返事をする前に、白い光が視界を埋めた。

 目を覚ますと、僕は雪山へ向かうマイクロバスに乗っていた。

「直樹、起きた?」

 隣の席の女の子が、紙コップのココアを差し出した。

 窓の外には白い山。

 車内には、見覚えのある笑顔が九つ。

 僕の名前は、小松直樹。

 大学の演劇サークルに所属していて、今日は冬合宿へ向かっている。

 隣の彼女とは一年のころから友達で、前の席の男とは学園祭の舞台で大げんかをした。

 その記憶が、頭の中にきれいに並んでいた。

 けれど、足元のザックに、見覚えのないホーローのマグカップが入っていた。

《宮坂透》

《六人目ではなく、六人のうちの一人》

 文字をなぞると、焚き火の匂いがした。

 焼きりんごの甘い湯気。

 湖の冷たさ。

 薄すぎるコーヒー。

 知らないはずの五人の笑い声が、胸の奥で重なった。

 スマートフォンが震えた。

《指名利用の申請が届いています》

 申請者は、青藍大学潜水同好会〈トビウオ〉

 利用日は、来月の第一土曜日。

 行き先は、月眠湖キャンプ場。

《登録人数:五名》

《不足人数:〇名》

 システムは赤い文字で警告していた。

《必要人数は満たされています。一名補完サービスの対象外です》

 その下に、申請者からの備考があった。

《誰だか、まだちゃんとは思い出せない》

《でも、写真に一人ぶんの隙間がある》

《マグカップも一つ足りない》

《六人で行きたいので、六人目をお願いします》

 画面の一番下に、二つのボタンが表示された。

《辞退する》

《利用規約外として承諾する》

「誰から?」

 隣の女の子が聞いた。

 僕はしばらく考えた。

 小松直樹の記憶の中には、その答えはなかった。

 それでも、分かった。

「友達から」

 僕は《承諾する》を押した。

 借りた記憶は、返せと言われる。

 けれど、これからつくる記憶まで、誰かの在庫ではないはずだ。

 来月の第一土曜日、月眠湖の予約人数は、五名から六名に書き換わった。

 空席は、もうなかった。