『一度きりの屠場』

 そのカセットは、十二年前に消えた弟の声で鳴った。

 透明なケースには題名も差出人もない。テープの端まで巻かれた黒い帯が、眼球の裏に貼りつくような光を返していた。

 柊川透子は、研究室の古いラジカセにそれを差し込んだ。

 再生ボタンを押すと、長い無音のあとで、少年のままの声がした。

「姉さん。四時四十四分に《一度きり》を選んで」

 呼吸が止まった。

 弟の景都が失踪したのは十七歳の夏だ。山あいの旧・二見食肉処理場で、大学の映像研究会が無断撮影をしていた夜。発見されたのは、血のついたビデオカメラと、焼け焦げた豚革のマスクだけだった。

 声は続いた。

「僕が何をしても、止めないで。録音を信じないで」

 そこでテープは終わった。

 録音を信じるな、と録音が告げている。

 意思決定論を専門にする透子は、その自己矛盾を、脅迫ではなく署名だと判断した。景都は昔から、家族だけに通じる矛盾した合図を使った。右と言えば左へ逃げろ。大丈夫と言えば助けを呼べ。

 ケースの裏には、油性ペンで住所と日付が書かれていた。

 二見食肉処理場。

 今夜。

 午前四時四十四分。

 山道は雨に削られ、車のヘッドライトの先で泥が生き物のようにうねっていた。

 処理場は、黒い森の中に巨大な獣の骨格をさらしていた。錆びた搬入口。割れた窓。屋根から垂れた雨樋が、地面の鉄板を一定の間隔で叩いている。

 透子が正門をくぐったのは午前三時三十六分だった。

 管理棟のロビーには、先客が二人いた。

 一人は小型カメラを握った若い男で、安西ユウと名乗った。怪奇映像を配信するチャンネルを運営しているらしく、恐怖より視聴回数を気にしている顔だった。

 もう一人は、白髪を後ろへ撫でつけた痩身の男だった。

「榎坂道隆です」

 その名を、透子は知っていた。

 かつて北城大学で倫理学を教え、十二年前の失踪事件を最後に職を追われた男。学生を廃墟へ連れ出し、極限状況における意思決定を撮影していたという噂があった。証拠不十分で立件はされていない。

「あなたも、カセットを?」

 透子が訊くと、榎坂は微笑んだ。

「ええ。死者は、こちらが忘れたころに録音をよこす」

 安西が受付台を照らした。

 そこには三本の黒い磁気テープが、細い腕輪のように置かれていた。その横に、古いブラウン管テレビとビデオデッキがある。電源コードは抜けている。

 午前三時四十一分。

 テレビが点いた。

 砂嵐の中央に、人の顔らしいものが浮かんだ。目と口だけが異様に鮮明で、その間を黒いノイズが這っている。

 男とも女ともつかない声が言った。

「ある夜、悪魔がお前の孤独へ入りこみ、こう告げる。お前の生は、痛みも恥も一つ残らず、同じ順序で数えきれぬほど繰り返される。お前は悪魔を呪うか。それとも、これ以上ない祝福と呼ぶか」

 榎坂が小さく息を吸った。

「反復の悪魔だ」

 画面が切り替わり、白い文字が現れた。

一 黒い印をつけられた者が死ねば、時刻は九分戻る。

二 死んだ者は、この夜に得た記憶を失う。死ななかった者は覚えている。

三 磁気に刻まれたものだけは戻らない。

四 午前四時四十四分、柊川透子は《もう一度》《一度きり》を選ぶ。

五 選ばないなら、悪魔が選ぶ。

 三本の黒い帯が、蛇のように受付台から滑り落ちた。

 透子の左手首に一本が巻きついた。

 榎坂と安西の手首にも、同じ印が締まった。

 安西が悲鳴を上げ、爪で帯を剥がそうとした。

 処理棟の奥で、エンジンが咳をした。

 一度。

 二度。

 三度目に、チェーンソーの回転音が建物全体を震わせた。

「走れ」

 榎坂は、音がする前から非常口へ身体を向けていた。

 その早さを、透子は見逃さなかった。

 三人が廊下へ飛び出した直後、背後の防火扉が内側から膨らんだ。鉄板を突き破って、刃が現れた。火花。切断された蝶番。扉が倒れる。

 立っていたのは、長身の男だった。

 濡れた作業着。

 食肉用の白い前掛け。

 顔には、豚革と黒い磁気テープを縫い合わせたマスク。

 右手にチェーンソー。左手に家畜用の打撃銃。

 安西がカメラを向けた。

「やばい、やばい、これ本物――」

 打撃銃が鳴った。

 安西の額に、小さな黒い穴が開いた。

 彼の身体が床へ落ちるより先に、世界が引きつった。

 雨粒が窓を上へ走った。

 倒れた防火扉が跳ね起き、火花を吸いこんだ。

 安西の血が穴へ戻り、額が閉じる。

 秒針が猛烈な速さで逆回転した。

 午前三時四十一分。

 透子は受付台の前に立っていた。

 安西が隣で眉をひそめる。

「何です、その顔。もう撮影始まってます?」

 彼だけが覚えていない。

 榎坂は、驚きもしなかった。

 テレビの砂嵐が笑った。

 二度目の九分間で、透子は小型のマイクロカセットレコーダーを拾った。

 録音ボタンを押し、時刻と状況を吹きこむ。

「三時四十一分。安西は一度死んだ。死者だけが記憶を失う。榎坂は最初の襲撃を知っていた」

「疑うのは賢明だ」

 榎坂が横から言った。

「だが声に出して記録するのは、もっと賢明だ。ここでは脳よりテープのほうが長生きする」

 透子はレコーダーを閉じた。

「何度目ですか」

「何が?」

「あなたが、この九分を生きるのは」

 榎坂の笑みが薄くなった。

 処理棟の奥から、またチェーンソーが聞こえた。

 今度は三人とも、冷蔵庫棟へ走った。安西は理由を尋ねながらついてくる。透子は角を曲がる前に、床へカメラ用のバッテリーを投げた。

 重い足音が、落下音へ向きを変えた。

 豚革の男は、音に反応している。

 三人は冷蔵室へ滑りこんだ。榎坂が内側から閂をかける。扉の向こうで刃が唸った。

 安西は青ざめながら、透子の腕をつかんだ。

「何なんですか、あれ」

「あなたは、さっき一度殺された」

「は?」

「録画を見て」

 安西のカメラには、彼自身の死が残っていた。

 映像を見た安西の顔から血の気が引いた。再生画面の中で自分が倒れ、画面が逆回転し、現在へ戻ってくる。

「編集じゃない」

 彼は呟いた。

「俺のカメラは止めてない。なのにタイムコードだけが進んでる」

 三番目の規則。

 磁気に刻まれたものだけは戻らない。

 扉にチェーンソーの刃が食いこんだ。

 榎坂は冷蔵室の奥にある小扉を開けた。迷いがなかった。

 通路の先に、旧編集室があった。

 壁一面にカセットとビデオテープが並んでいた。

 ラベルには、日付ではなく番号が振られている。

 《第十九夜/透子・西階段》

 《第四十七夜/安西・逃走》

 《第八十三夜/景都・反抗》

 《第百十八夜/四時四十四分》

 透子は呼吸を忘れた。

「あなたは、百十八回ここにいた」

 榎坂が答えなかったので、透子は続けた。

「私たちもいた。けれど覚えていない。《もう一度》を選ぶたび、招待された側の記憶は午前零時まで戻る。契約者だけが覚えている」

 榎坂は、ようやく拍手した。

「さすがだ。過去の君も、たいていそこまでは辿り着いた」

 安西が榎坂へ飛びかかった。

「ふざけんな!」

 榎坂は半歩下がっただけだった。

 床のスピーカーから、透子の声が流れた。

『景都、安西を止めて』

 録音された自分の声。

 だが透子は、そんな言葉を口にしていない。

 冷蔵室の壁を突き破り、豚革の男が現れた。

 チェーンソーが横に走った。

 安西の身体が腰から折れた。

 世界が再び九分戻った。

 午前三時四十七分。

 安西は生きていた。

 自分が二度死んだことも知らず、カメラに残った映像を見て嘔吐した。

 透子と榎坂は覚えている。

 編集室の棚も元の位置へ戻っていたが、テープの中身だけは消えなかった。

「今の声は、私の録音を継ぎ合わせたものですね」

 透子は榎坂に言った。

「母音と子音の継ぎ目が不自然だった」

「声は命令になる」

「弟は、録音に従っている」

「正確には、繰り返している」

 榎坂は一本のビデオテープを取り出した。

「悪魔は創造しない。起きたことを、もう一度起こすだけだ。景都が一度でも誰かを殴れば、その行為は記録になる。一度でも右へ曲がれば、次からは声一つで同じ道を走らせられる。百十八の夜があれば、人間一人の選択肢など、ほとんど撮り尽くせる」

 榎坂はテレビへテープを入れた。

 画面に透子が映った。

 別の夜の透子だった。髪は血で固まり、左腕が折れている。二つの廊下の前で、コインを握っていた。

『表なら右、裏なら左』

 映像の透子がコインを投げる。

 右へ走る。

 角から景都が現れ、彼女を打撃銃で撃つ。

 次の映像。

 同じ場所。

 今度の透子は、コインを見ずに左へ走る。

 景都が待っている。

 次。

 右へ行くふりをして左。

 景都が待っている。

 次。

 榎坂に選ばせる。

 景都が待っている。

 何十通りもの死が、数秒ずつ続いた。

「君はランダム性を信じない。相手が予測していると考えれば、その予測の逆を選ぶ。逆を予測されていると考えれば、さらに逆を選ぶ。だが、その思考の癖ごと私は記録した」

 榎坂は画面の中で繰り返し死ぬ透子を見つめ、恍惚に近い表情を浮かべた。

「人間は自由だから予測不能なのではない。観測回数が足りないから自由に見えるだけだ」

 透子は、棚の本数を数えた。

 百十八夜。

 一夜に数十回の九分間。

 榎坂は、何千回も他人を殺し、分岐を集めている。

「それで、あなたは何を選ばせたいんです」

「四時四十四分に《もう一度》を」

「なぜ私が」

「君が最も後悔しているからだ。十二年前、君は処理場の外で景都から助けを求める電話を受けた。君は怖くなって切った。警察へ知らせたのは翌朝だった」

 胸の奥に、古い着信音が鳴った。

 景都の震えた声。

 姉さん、来て。

 誰かが先生を殺す。

 僕、ここから出られない。

 透子は電話を切った。

 冗談だと思った。

 思いたかった。

 榎坂が囁いた。

《もう一度》なら、失敗を直せる。弟を救える。君はこれまで百十七回、その誘惑に負けた」

「百十八回目は?」

「選べなかった。君が死んだので、悪魔が代わりに戻した」

「あなたは、なぜ《一度きり》を選ばない」

 榎坂は鼻で笑った。

「私は契約者だ。選ぶ権利がない」

「違う」

 透子は棚を見た。

「あなたは選ばないんじゃない。終わらせるのが怖い。百十八回も推敲して、まだ自分の最初の夜を認められない」

 榎坂の頬が動いた。

「永遠に繰り返す価値のある一夜を作る。それが私の実験だ」

「永劫回帰を信じる人間は、最初の一夜を編集しない」

 透子は一歩近づいた。

「あなたが愛しているのは反復じゃない。完成稿です」

 榎坂の顔から微笑が消えた。

 その瞬間、処理棟のスピーカーが一斉に鳴った。

『景都、姉さんを守って』

 また透子の声だった。

 豚革の男が扉に現れた。

 刃は安西ではなく、榎坂へ向いた。

 榎坂が一瞬だけ目を見開く。

 透子はその反応を見た。

 命令の意味は、録音の文言だけでは決まらない。

 弟はまだ、選んでいる。

 逃げこんだ洗浄棟には、左右二本の通路があった。

 天井スピーカーから、同じチェーンソー音が二方向へ流れている。榎坂はどちらが録音で、どちらが本物か知っている。

「右だ」

 榎坂が言った。

 透子は動かなかった。

「私が右へ行くと予測したから、右に弟を置いた。私がそう考えて左へ行くと予測したなら、左に置いた。あなたは予測を口にしないから、私は反対を選べない」

「よく分かっている」

「でも、あなたの行動は予測を隠せない」

 透子は榎坂の足元を見た。

 榎坂は左足をわずかに引き、右肩を壁へ寄せている。襲撃が来たとき、左通路へ逃げこむ姿勢だ。

 透子は右へ走るふりをした。

 榎坂の重心が左へ移った。

 透子はその瞬間、安西のカメラを右通路へ投げた。

 録画された自分の声で叫ぶ。

『景都、こっち!』

 右通路の闇で、チェーンソーが吠えた。

 本物は右だ。

 透子は左へ飛びこんだ。

 榎坂が舌打ちした。

「予測は、見せた瞬間に外せる」

 透子は走りながら言った。

「だからあなたは、未来を知っているんじゃない。未来を隠しているだけです」

 左通路の床下から、金属を叩く音がした。

 短く三回。

 長く二回。

 幼いころ、停電した家で景都が使った合図だった。

 録音を信じるな。

 透子は歩調を落とさず、パイプを靴底で叩いた。

 短く二回。

 長く一回。

 分かった。

 午前四時二分。

 三人は旧資料室へ辿り着いた。

 安西が扉を押さえている間に、透子は棚の最下段から《N―0》と書かれたテープを見つけた。

 他のラベルは榎坂の整った筆跡だった。

 それだけは、震えた字で番号が刻まれている。

 再生した。

 十二年前の映像が映った。

 若い榎坂。

 五人の学生。

 撮影係の景都。

 中央には、豚革のマスクをつけた男が立っている。

『思考実験では足りない』

 画面の榎坂が言った。

『反復の問いは、死の直前でなければ本物にならない。恐怖が演技であるうちは、肯定も否定も演技だ』

 学生の一人が笑っている。

 打撃銃は空砲だと聞かされている。

 榎坂が合図した。

 マスクの男が引き金を引いた。

 学生の頭が後ろへ跳ねた。

 空砲ではなかった。

 悲鳴。

 カメラが揺れる。

 景都が榎坂へ掴みかかる。

『戻せるなら何でもする!』

 榎坂が叫んだ。

 画面が砂嵐になった。

 ノイズの中から、榎坂自身の声が返した。

『ならば、次は他人に選ばせろ』

 映像が九分戻った。

 死んだ学生が笑っている。

 榎坂だけが、何が起きるか知っていた。

 彼は止めなかった。

 二度目も。

 三度目も。

 映像が切り替わるたび、榎坂は実験を変えた。

 誰が逃げるか。

 誰が他人を盾にするか。

 誰が死を前に神を呼ぶか。

 誰がもう一度を望むか。

 景都はカメラを止めようとした。

 榎坂は一本の音声テープを再生した。

『景都、先生を守って』

 透子の声だった。

 家族の留守番電話から切り取った声。

 景都は一瞬、榎坂を庇った。

 その一度が記録された。

 次の反復では、悪魔が同じ動きを強いた。

 さらに次では、榎坂が新しい命令を継ぎ足した。

 守れ。

 捕まえろ。

 殴れ。

 殺せ。

 人間が最初の一度を選び、悪魔が二度目以降を代行する。

 画面の中で、弟は少しずつ屠殺人へ編集されていった。

 映像が終わった。

 安西は声を失っていた。

 透子は榎坂を見た。

「あなたは事故を戻したかったんじゃない。事故が戻ると分かった瞬間、利用した」

「最初の死は事故だった」

「二度目からは殺人です」

「二度目など存在しない。戻ったなら、死は起きていない」

「記憶している人間には起きている」

「記憶は物質だ。巻き戻せば罪も消える」

「だから、自分だけは死なない」

 透子は言った。

「死ねば、この夜の記憶を失うから。あなたは罪が消えると言いながら、自分の記憶だけは命より大事に守っている」

 榎坂の目が細くなった。

 廊下から打撃銃の発射音がした。

 安西が倒れた。

 九分が戻る。

 午前四時五分。

 資料室へ入る前の廊下に戻った。

 安西は《N―0》を見た記憶を失っている。

 榎坂と透子は覚えている。

「君は毎回、原本へ辿り着く」

 榎坂が静かに言った。

「そして毎回、弟を救おうとして失敗する」

「弟はどこです」

「君のすぐ近くにいる」

 チェーンソーの音が遠ざかっていく。

 透子は床下のパイプを叩いた。

 短く二回。

 長く一回。

 返事はない。

 榎坂が透子の耳元で囁いた。

「君は私に勝てない。私は君の勇気も卑怯も、愛情も計算も、すでに見た。君が新しいと思う手は、棚のどこかにラベルを貼られている」

 透子は答えなかった。

 意思決定の癖をすべて観測された相手に、内面だけで勝つことはできない。乱数も、逆張りも、演技も、観測回数の前では型になる。

 残る手は一つだった。

 自分でも知らない選択をすること。

 午前四時十七分。

 透子は一人で冷凍庫へ入った。

 壊れた冷却機が低く唸り、壁と天井を白い霜が覆っている。榎坂のカメラは結露で映らない。スピーカーも雑音しか吐かない。

 豚革の男が、肉吊りレールの影から現れた。

 透子は逃げなかった。

「景都」

 男の肩が震えた。

 透子は床のパイプを靴で叩いた。

 短く三回。

 長く二回。

 録音を信じるな。

 男はチェーンソーを止めた。

 静寂の中で、マスクの下から掠れた声がした。

「姉さん」

 十二年分の痛みを一語に詰めた声だった。

 透子は近づき、豚革の縫い目へ指をかけた。

 景都が首を振る。

「外すと、先生の声が入る。これ、耳まで縫ってある」

 黒い磁気テープは、マスクの内側へ何重にも巻かれていた。榎坂は弟の耳そのものを再生装置にしていた。

「最初のカセットは、あなたが?」

「何度目かの夜に録った。排水管の外へ流した。どうして姉さんに届いたかは分からない」

《一度きり》を選べと」

「僕が何をしても」

 景都の手が震えている。

「姉さんは、毎回《もう一度》を選んだ。僕が死ぬたびに。先生は、僕を必ず四時四十四分の前に傷つける」

「今回は変える」

「先生は全部見てる」

「だから、見られていない手を使う」

 透子は冷凍庫の壁に取りつけられた時計を見た。

「四時二十六分に、私を殺して」

 景都が後ずさった。

「嫌だ」

「死んだ者は、この夜の記憶を失う。榎坂は、今の私を百十八回分知っている。でも、記憶を失った私が何をするかは、今の私にも分からない」

「先生のテープには、記憶をなくした姉さんもいる」

「いるでしょう。でも、その私があなたと手を組んでいる夜はない」

 透子は編集室の隣にあった大型消磁器を思い出した。放送局で使われる、磁気テープを一括消去する装置。榎坂は失敗した記録を消すために設置していた。

「私が死んだら、九分戻って四時十七分になる。私は全部忘れる。榎坂は私が無害になったと思い、編集室へ連れていく。四時三十五分、消磁器を最大出力にして、榎坂を殺して」

「殺せば、四時二十六分へ戻る」

「榎坂は記憶を失う。テープの磁気は戻らない。百十八夜分の優位を、同時に消せる」

「姉さんは計画を覚えてない」

「だからいい」

 透子は弟の打撃銃へ手を添えた。

「相手が私の考えを全部知っているなら、私が知らない手だけが残る」

 景都は長い間、動かなかった。

「次の姉さんは、僕を化け物だと思う」

「説得しないで。次の私には、次の私の頭がある」

「信じられる?」

 透子は少し考えた。

「今の私よりは」

 冷凍庫の時計が四時二十六分を指した。

 景都が額を透子の額へ触れた。

「ごめん」

「謝るのは、一度きりにして」

 打撃銃が鳴った。

 柊川透子は、見知らぬ冷凍庫の床で目を覚ました。

 時計は午前四時十七分。

 頭痛。

 左手首に黒いテープ。

 右手には、題名のないカセット。

 目の前に白髪の男がいた。

「柊川さん。落ち着いてください。私は榎坂道隆。あなたを助けに来た」

 その名を聞いた瞬間、透子の中で警報が鳴った。

 榎坂道隆。

 十二年前の失踪事件。

 倫理学者。

 弟が消えた夜の責任者。

 なぜ自分がここにいるのか、思い出せない。

 廊下の奥でチェーンソーが鳴った。

 豚革の男が立っている。

 透子は反射的に後ずさった。

「弟さんです」

 榎坂が悲痛な表情を作った。

「残念ですが、もう人間ではない。あなたは彼を止めるために来た」

 榎坂はマイクロカセットレコーダーを再生した。

 透子自身の声がした。

『榎坂先生を信じて。景都は私たちを殺す。四時四十四分に《もう一度》を選ぶの』

 榎坂が言う。

「あなたが記録した。死ぬ前に」

 透子は再生機を受け取った。

 自分の声に聞こえる。

 だが文節ごとに空気の質が違う。《榎坂先生》だけ残響が浅い。《景都》の前で呼吸が切れている。

 編集されている。

「弟を救いたいでしょう」

「ええ」

「なら、私に従ってください」

 透子は頷いた。

 従うふりをした。

 理由は簡単だった。

 本当に味方なら、榎坂は録音を編集する必要がない。

 榎坂は透子を編集室へ連れていった。

 壁一面のテープ。

 自分の名と、死に方と、選択肢。

 透子は吐き気を抑えた。

「これは?」

「あなたが失敗した可能性です」

「ずいぶん几帳面ですね」

「未来へ同じ過ちを残さないためです」

「未来を残したい人は、他人の死に番号を振らない」

 榎坂の目が冷えた。

 透子は、彼が右手に小さな送信機を握っているのを見た。ボタンは四つ。押すたび、天井スピーカーから自分の声が流れる。

『景都、待って』

『景都、右へ』

『景都、守って』

『景都、殺して』

 弟は声を切り刻まれている。

 自分も同じだ。

 透子は恐怖を表情から消さなかった。

 恐怖まで演技にすると、観察者は演技を疑う。何も知らない人間として、正しく怯えた。

 榎坂は満足したように、送信機を机へ置いた。

 午前四時三十四分。

「あと十分です」

 榎坂が言った。

《もう一度》を選べば、景都は戻る。あなたが電話を切る前へ、いつか辿り着ける」

「いつか?」

「次かもしれない」

「百回先かもしれない」

「永遠があるなら、試行回数に意味はない」

 透子は棚の《第百十八夜》というラベルを見た。

「永遠を語る人は、たいてい他人に時間を払わせる」

 榎坂が送信機へ手を伸ばした。

 四時三十五分。

 編集室の奥で、低い電磁音が鳴った。

 棚のテープが一斉に震えた。

 カセットデッキのスピーカーから、何百人もの声が同時に悲鳴を上げる。

 ラベルの下で、磁気が白紙になっていく。

 榎坂が振り返った。

 豚革の男が、消磁器のレバーを下げていた。

「景都?」

 榎坂の声に、初めて理解できないものを見る恐怖が混じった。

 景都は送信機を踏み潰した。

 打撃銃を榎坂の額へ向ける。

「それは録音にない」

 透子が言った。

 榎坂が彼女を見た。

「君が――」

 発射音。

 榎坂の身体が倒れる。

 世界が九分戻った。

 午前四時二十六分。

 榎坂は編集室の中央に立っていた。

 額に傷はない。

 棚には百十八夜分のテープが並んでいる。

 だが中身は、すべて無音だった。

 榎坂は自分の両手を見た。

「ここは、どこだ」

 透子は覚えている。

 四時十七分から今まで。

 榎坂に騙されたこと。

 景都が消磁器を作動させたこと。

 榎坂が死に、巻き戻ったこと。

 景都も覚えている。

 安西は廊下でカメラを抱え、何も分からず立っている。

 情報の優位が反転した。

 透子は榎坂の送信機を奪い、床へ投げた。

「今度は、あなたが初回です」

 榎坂は後ずさった。

「何の話だ」

 編集室のテレビが点いた。

 砂嵐の顔が歪んでいた。

「契約者」

 悪魔が榎坂を呼んだ。

 榎坂は画面を見た。

 残っていたのは、デッキ内部の金属ケースに遮蔽された一本のマスターテープだけだった。

 十二年前の榎坂の声が流れる。

『戻せるなら何でもする』

 現在の榎坂の口が、録音に合わせて動いた。

「戻せるなら、何でもする」

 彼の目から人格が消えた。

 榎坂は壁の非常箱を叩き割り、チェーンソーを引きずり出した。

 悪魔は、新しい行為を作れない。

 だが榎坂が一度でもチェーンソーを握った夜があるなら、それを繰り返せる。

 エンジンが唸った。

「制御室へ!」

 景都が叫んだ。

 透子と安西が走る。

 背後で刃と打撃銃がぶつかり、火花が飛んだ。

 午前四時三十七分。

 残り七分。

 制御室は、処理棟の最上階にあった。

 中央に古い映写機があり、その左右に二本のレバーが立っている。

 赤いレバー。《もう一度》

 白いレバー。《一度きり》

 レバーの上には、透子の名が刻まれていた。

 階下で安西の悲鳴がした。

 だが時計は戻らない。

 まだ死んでいない。

 透子は白いレバーへ手を伸ばした。

 テレビが点いた。

 画面には、肉吊りレールの下で榎坂と争う景都が映っている。チェーンソーの刃が景都の脇腹を裂いた。白い前掛けが赤く染まる。

 景都が膝をつく。

 悪魔が、弟の声で言った。

《もう一度》なら傷は消える」

 透子の手が止まった。

「一度だけ戻ればいい。次の夜で、もっと上手くやればいい」

 赤いレバーが、脈打つように光った。

 榎坂が百十八夜を始めた言葉も、おそらく同じだった。

 一度だけ。

 次なら。

 今度こそ。

 階段を、チェーンソーが上がってくる。

 景都が這うように制御室へ入った。脇腹から血が流れている。後ろから、榎坂が刃を振り上げた。

 安西が体当たりし、二人とも手すりへ倒れた。

 時計は四時四十三分五十秒。

 悪魔が言う。

「弟を二度見捨てるのか」

 透子は景都を見た。

 景都はマスクの下で、床を指先で叩いた。

 短く三回。

 長く二回。

 録音を信じるな。

 透子は悪魔へ向き直った。

「あなたは、同じものしか言えない」

 画面の顔が止まった。

「弟を見捨てた。弟を救え。もう一度なら直せる。全部、榎坂か私か、過去の誰かが一度口にした言葉でしょう」

「傷は本物だ」

「だから終わらせる」

「戻せば救える」

「戻せば、あなたが続く」

「次は勝てる」

「百十八回、そう言った」

 四時四十三分五十七秒。

 榎坂が安西を振り払い、透子へ突進する。

 景都が足へしがみついた。

 榎坂は刃を振り下ろした。

 透子は白いレバーを握った。

 悪魔が最後の問いを投げた。

「お前は、この夜をもう一度望むか」

 透子は答えた。

「望まない」

 悪魔の口が裂けた。

「ならば、お前は自分の生を否定する」

「違う」

 透子はレバーを下ろした。

「この夜を消してできる私は、私じゃない。私は失敗も傷も引き受ける。でも、あなたに再演はさせない。一度きりでいい」

 午前四時四十四分。

 映写機が逆回転を始めた。

 四時三十五分。

 四時二十六分。

 四時十七分。

 壁の時計が過去へ走る。

 透子はレバーから手を離さなかった。

 逆回転が止まった。

 針は、四時四十四分へ跳ね戻った。

 棚という棚から黒い磁気テープが噴き出した。何千本もの細い帯が、空中で蛇の群れのようにのたうつ。そこに刻まれていた悲鳴、命令、懇願、予測、死の音が、一斉に再生された。

 榎坂の身体へ黒い帯が巻きついた。

 彼は百十八人分の自分の声で叫んだ。

『次こそ』

『もう一度』

『今度なら』

『戻せる』

『まだ終われない』

 肉吊りレールが動き出した。

 榎坂の白衣にフックが食いこみ、彼を暗い処理棟の奥へ引いていく。彼は最後まで赤いレバーへ手を伸ばしていた。

 ブラウン管の顔が潰れた。

 画面は一点の白い光になり、それも消えた。

 チェーンソーが止まる。

 雨音だけが残った。

 夜明け前、安西が外の非常電話を見つけた。

 救急車が山道を上がってきたころ、空は薄い灰色になっていた。

 景都は生きていた。

 刃は肋骨を一本削っていたが、内臓には届いていなかった。医師は、あと十分搬送が遅ければ危なかったと言った。

 榎坂の遺体は、処理場のどこからも見つからなかった。

 安西のカメラには、午前三時四十一分から四時四十四分まで、百時間を超える映像が残っていた。だが再生すると、ほとんどが白い砂嵐だった。時折、誰かの死ぬ音だけが九分ごとに挟まっていた。

 警察は機材の故障だと判断した。

 透子は反論しなかった。

 三か月後。

 景都は退院し、海の見えるリハビリ施設へ移った。

 豚革のマスクを外した顔には、黒いテープの縫い跡が残っている。耳の一部は戻らなかった。それでも、彼は自分の声で話せた。

「姉さんは、覚えてないんだよね」

 二人は窓辺で、自動販売機のコーヒーを飲んでいた。

「四時二十六分より前は、ほとんど」

「僕を説得したことも?」

「覚えてない」

「僕に自分を殺させたことも?」

「それも」

 景都は紙コップを両手で包んだ。

「怖くなかった?」

「今の私は知らない。でも、そのときの私は怖かったと思う」

「それでも任せた」

「何て言ったの」

 景都は少し笑った。

「次の私を、今の私より信じるって」

 透子は窓の外を見た。

 海は同じ波を何度も岸へ送っているように見える。

 だが、同じ水は二度と戻らない。

 帰宅すると、机の上に黒いカセットがあった。

 警察から返却された遺留品の中に混じっていたものだ。

 透子はラジカセへ入れた。

 テープは終端まで巻かれていた。

 再生ボタンを押しても、何も聞こえない。

 巻き戻しボタンの上に、指を置く。

 十二年前の電話をやり直すことはできない。

 冷凍庫で弟に何を言ったのかも、もう取り戻せない。

 失った記憶は、編集できない。

 だからこそ、それは自分の生だった。

 透子はカセットを取り出し、ケースへ戻した。

 テープは終端で止まっていた。

 透子は、巻き戻さなかった。