三港街道と星喰いの穴

一 鉄雨港の最後の夜

 鉄雨港キョウラには、空から鉄の雨が降る。

 ほんものの鉄ではない。山向こうの熔鉱炉から吐き出された赤い灰が、海霧を吸って重くなり、夜になると屋根や波止場を細かな音で叩くのだ。錆浜の子どもたちは、その音で眠り、その味で風向きを知った。

 ニロが十五年暮らした食堂〈青錨亭〉の窓にも、その晩、赤黒い雨が筋を引いていた。

「三日だ」

 卓上に置かれた立退命令書を見下ろし、ニロの母は言った。

「三日後には、八環組の解体屋が来る。店も家も、錆浜ぜんぶも、崖ごと削るんだってさ」

 八環組は三つの港にまたがる荷運び組合――というのが表向きだった。実際には、賭場、売春宿、私兵、役人の印章まで扱い、近ごろは〈夜蜜〉という黒い麻薬で急に羽振りをよくしていた。

 夜蜜を舐めると、失ったものが帰ってくる夢を見る。

 死んだ子、若い頃の顔、奪われた故郷。目覚めたあとには、それらをもう一度見るためなら何でも売るようになる。

「金があれば買い戻せる?」とニロは訊いた。

「崖ひとつ買える金があればね」

 母は笑ったが、笑いきれずに鍋の蓋を閉めた。

 そのとき裏口が三度鳴った。二度短く、一度長く。錆浜の子どもだけが使う合図だ。

 入ってきたのは、錠前屋の娘メラ、魚骨みたいに痩せたパノ、税関書記の娘セフィ、それに誰より大きく誰より気の弱いガロだった。ガロは肩に幼い雄牛ほどの荷袋を担いでいる。

「灯台が壊されてる」とメラが言った。「八環組の連中が、夜中に。たぶん何か探してる」

 錆浜の外れにある旧灯台は、十三年前に海が一夜で三歩引いて以来、火を消したままだった。ニロの父ドガンが最後に勤めた場所でもある。

 ドガンは五年前、荷の検査に出たきり消えた。八環組は「南行きの船から落ちた」と言い、港役所は捜索を三日で打ち切った。

 ニロは命令書を折り、上着の内側に突っ込んだ。

「見に行く」

「もちろん」とメラ。

「行く」とセフィ。

「お、おれも」とガロ。

「ぼくは最初からそのつもり」とパノが言い、懐から角ネズミのモップを出した。モップは鍋の匂いを嗅ぎ、きゅう、と鳴いた。

 母は五人を見回した。

「夕食までに帰れ、なんて歳でもないか」

 そう言って、壁から短い銛を外し、ニロに渡した。

「でも夜明けまでには帰りな。家がなくなるにしたって、最後の朝飯くらい一緒に食べたい」

 旧灯台の扉は、蝶番ごと引きちぎられていた。

 内部では八環組の男たちが床板を剥がし、壁を叩き、石の継ぎ目に刃を差し込んでいた。五人は崖側の排水口から這い入り、螺旋階段の裏に身を潜めた。

「ねえ」とパノが囁いた。「宝探しって、見つけた側が殺されるまでが決まりなの?」

「それは宝探しじゃなくて八環組の決まり」とメラが答えた。

 二階で男が怒鳴った。

「羅針器はどこだ! ドガンが隠した真鍮の羅針器だ!」

 ニロの胸が鳴った。

 父の羅針器なら、寝床の上にずっと掛かっている。針が北を指さなくなってからも、母は捨てなかった。

 男たちが上へ移動した隙に、五人は床下へ滑り込んだ。そこには古い貯水槽しかなかったが、モップが壁の鯨骨の栓に噛みついた。

「離せ」とニロが引いた瞬間、栓が抜けた。

 壁の中から、油布に包まれた細長い筒が落ちた。

 中には地図があった。

 紙ではない。薄く削った銀色の皮で、手の温度に触れると線が浮かび上がる。キョウラ、白冠市ソナ、蓮都バンラ。海と山に隔てられた三都市が、地の底で一本の黒い線につながれていた。

 中央には、口を開けた星の印。

 その下に父の字があった。

 ――三つの鐘が同じ夜を打つとき、星の胃袋は開く。

 ――ラズラ女王の金庫は、その喉にある。

 ――八環に渡すな。

「ラズラ女王?」

 セフィの眼鏡が曇った。

「百年前に三港を荒らした海賊王よ。船団から奪った金を、死ぬまで見つからなかった地下金庫に隠したって」

「崖を買える?」とガロ。

「崖を三つ買える」とセフィは言った。

 そのとき上で板が鳴った。

 灯台の入口に、白い長衣の男が立っていた。八環組キョウラ支部長、ヴォルカ。左耳から顎まで、古い火傷が銀色に光っている。

「子ネズミが五匹」

 ヴォルカは微笑んだ。

「ドガンの倅もいるな。地図を渡せ。父親のところへ連れていってやる」

「父さんは生きてるのか」

「さあ。人は地下で長く働くと、人の数え方から外れる」

 男たちが階段を降りてくる。

 メラは壁の錆びた弁を見た。貯水槽へ通じる弁だ。

「ニロ。三つ数えたら息を止めて」

「何を――」

「一、二、三」

 メラが弁を蹴った。

 半世紀ぶん溜まっていた雨水が壁を破り、黒い波となって灯台を満たした。五人は排水口へ吸い込まれ、男たちの罵声と一緒に崖下へ吐き出された。

 鉄雨の中、泥だらけの五人は笑った。

 笑いながら、ニロは銀皮の地図を握りしめていた。

 家を救える。

 父を見つけられるかもしれない。

 そして背後では、濡れたヴォルカが崖の上から彼らを見下ろしていた。

 笑ってはいなかった。

二 北を指さない羅針器

 〈青錨亭〉へ戻ると、ニロは父の羅針器を壁から外した。

 真鍮の蓋には八つの輪が彫られ、その中心だけが空白だった。針は北ではなく、床下を指して小刻みに震えている。

 地図を重ねると、羅針器の蓋がひとりでに開いた。

 内側から二枚目の針がせり上がり、地下へ向いた。

「入口はこの店の下」とセフィが言った。

 錆浜の古い家々は、海が今より高かった時代の防潮洞の上に建っている。厨房の石床を剥がすと、案の定、煉瓦で塞がれた穴が見つかった。

 ニロの母は穴を見て、息を吐いた。

「ドガンが夜中に床を直してたのは、これを隠すためかい」

「母さんも来る?」

「店番がいる。家を守る者もね」

 母は銛の柄を握り直させた。

「金より先に、帰り道を見つけな。金は背負えないほど見つかることがある。でも帰り道は、一本見つかれば足りる」

 煉瓦を崩すと、潮と石油と甘い腐臭が上がってきた。

 五人は縄梯子を降りた。

 洞の底には、線路があった。

 鉄ではなく、黒いガラスの二本線。どこまでも闇へ伸びている。その上に、鯨の肋骨を組んだような小さな車両が置かれていた。

 車両の前面には羅針器と同じ、八つの輪。

「これ、汽車?」とパノ。

「棺桶に車輪をつけたように見える」とメラ。

「棺桶だって、速ければ乗り物だよ」

 ニロが羅針器を窪みにはめると、車両の骨が青く光った。地の底から、遠い鐘のような音が響く。

 地図の黒線も光り、最初の目的地――白冠市ソナの印が脈打った。

 五人が乗り込んだ直後、上の穴から銃声がした。石片が跳ねた。

 ヴォルカの部下たちだ。

「出ろ!」とニロ。

「どうやって!」

「棺桶なんだから、蓋を閉めれば死ぬ方向へ行く!」

「ニロ、それ操作説明として最悪!」

 ガロが前面の骨を押すと、車両は悲鳴を上げて走り出した。

 闇が後ろへ飛んだ。

 いや、車両が進んでいるのではない。周囲の岩が液体のようにほどけ、別の場所へ流れ変わっている。壁の向こうに海底が見え、巨大な盲魚の群れが頭上を泳いだ。次の瞬間には、赤い砂漠の地下を通り、埋もれた王の石棺が横を滑った。

 パノは歓声を上げ、セフィは吐いた。

 メラは車両の継ぎ目を見つめた。

「これ、誰が造ったの?」

「ラズラ女王じゃないの?」

「百年前の海賊に、空間を折り畳む技術なんかない」

 ガロが耳を押さえた。

「音がする」

「車輪の音?」

「ちがう。下から……心臓みたいな」

 ニロには何も聞こえなかった。

 だが羅針器の二枚目の針は、床を指したまま震えていた。

 やがて前方に白い光が現れた。

 同時に背後で、別の骨車両の青い灯が点いた。

 追ってきたのだ。

 ヴォルカが先頭に立ち、片手で車両の骨を掴んでいる。

「伏せろ!」

 八環組の短銃が火を噴いた。

 弾がガラス線路を削り、黒い火花が散る。メラは座席下から骨の棒を引き抜いた。車両が片側へ大きく傾いた。

「何した!」

「たぶん分岐器!」

「たぶん?」

 前方に三本の線路が開く。

 一つは白い光へ、一つは底のない紫の穴へ、もう一つは歯のような柱が並ぶ狭い裂け目へ続いていた。

 メラは裂け目の線へ飛び込ませた。

「全員、頭を下げて!」

 骨車両は石柱の間を紙一重で抜けた。後ろの車両は速度を落とせず、外側の肋骨を次々に折られた。八環組の男たちが振り落とされ、紫の闇へ消える。

 だがヴォルカだけは飛び、こちらの車両の最後尾に指を掛けた。

 ガロが振り向いた。

 ヴォルカは短刀を抜き、その手の甲を切りつけた。

 血が散る。

 ガロは怯みながらも、折れた骨棒でヴォルカの指を叩いた。支部長は笑い、闇へ落ちる直前、ガロの傷に黒い小瓶を投げつけた。

 瓶が割れた。

 夜蜜が傷口へ染み込んだ。

 ガロは息を呑み、車両の床に倒れた。

「ガロ!」

 その巨体を抱え起こしたとき、ニロは初めて聞いた。

 地の底で、何かが一度だけ鼓動した。

三 白冠市の氷市場

 骨車両は氷の壁を突き破り、白冠市ソナの廃倉庫へ滑り込んだ。

 キョウラが錆と油の街なら、ソナは塩と氷の街だった。山から吹き下ろす風が建物の角を磨き、昼でも空は青白い。市場では凍らせた竜肉、雪蜂の巣、夢を保存する瓶が売られている。

 ガロの傷は塞がっていた。

 塞がりすぎていた。

 手の甲に傷跡がなく、代わりに皮膚の下を黒い糸が走っている。糸は心臓の拍に合わせて指先へ伸び、また戻った。

「痛い?」とセフィ。

「痛くない。あったかい」

 ガロは手を見つめた。

「誰かが、名前を呼んでる」

「誰?」

「わからない。名前が大きすぎる」

 ニロは地図を広げた。

 ソナの印から、氷市場の地下へ細い線が続いている。横には父の走り書き。

 ――第二鐘楼。七番荷室。合言葉は「春は北から腐る」。

 五人は市場へ向かった。

 ところがソナの門では、すでに八環組の手配書が回っていた。五人の似顔絵は驚くほど似ていなかったが、ガロだけは「大きい」という特徴で見つかりやすい。

 そこでセフィが税関書記の娘らしい才を見せた。

 彼女は父の机から拝借した三港共通通行証の束に、魚屋の血で印を押し、五人を「北方葬送楽団」として申請した。ガロには太鼓を背負わせ、パノには角ネズミを聖獣だと言わせた。

「死者のための曲を一つ」と門番が命じた。

 ニロたちは顔を見合わせた。

 メラが金槌で空き缶を叩き、パノが甲高く泣き、セフィが税率表を朗読し、ガロが太鼓を一度だけ鳴らした。

 あまりに陰惨だったので、門番はすぐ通した。

「死者が起きる前に行け」

 氷市場の中央には、使われていない第二鐘楼が立っていた。地下の七番荷室は、夜蜜の中継倉庫になっている。

 扉の前に、首まで刺青のある女がいた。

 女は片目に赤いガラスを嵌め、長い弩を肩にかけている。

「春は北から腐る」とニロが言った。

「なら、夏は南で売り払う」

 女は扉を開けた。

「ドガンの子か。似てないね。あいつはもっと疑り深い顔をしてた」

「父さんを知ってる?」

「シャンラ。昔は三港街道の運び屋。今は、八環組に殺されない程度に嫌われてる」

 荷室には、黒い瓶が天井まで積まれていた。

 一本一本の中で、夜蜜が呼吸するように膨らんでいる。

 シャンラは地図を一瞥し、舌打ちした。

「ドガンめ。金庫の道を子どもに残したのか」

「ラズラ女王の金があるんだろ」

「ある。だが八環組が欲しいのは金じゃない」

 彼女は一本の瓶を弩の先で示した。

「夜蜜は、蓮都バンラの香料でも、魔術師の薬でもない。地の底にいる何かの、眠り汗だ」

 パノが瓶に耳を当てようとし、メラに襟を引かれた。

「八環組は汗を薄めて売ってる。夢を見せる程度なら金になる。濃いまま飲めば?」

 シャンラの赤い義眼がガロへ向いた。

「人の身体が、あれの夢に合わせて作り直される」

 ガロは黒い糸の走る手を隠した。

「父さんはどこにいる」

「五年前、ドガンは街道の源を見つけた。八環組の総頭領ザグナが、金庫の奥にある〈星喰いの種〉を掘り出そうとしていることも。それを止めるために地図と羅針器を盗んだ」

「それで殺された?」

「見てない。私は逃げた」

 ニロはシャンラを睨んだ。

「逃げたのか」

「大人にはね、逃げた回数だけ生き延びる夜がある」

 シャンラの声は乾いていた。

「でも借りは返す。バンラまで案内する」

 その直後、鐘楼が揺れた。

 上で鐘が鳴る。

 一度。

 時刻を告げる鐘ではない。街じゅうの八環組へ合図を送る警鐘だ。

 荷室の天井から氷の粉が落ちた。

 扉の外に、靴音が幾重にも響く。

「ヴォルカは落ちたはずだ」とニロ。

「八環は八つある。一本折っても輪は閉じる」

 シャンラは床板を蹴抜いた。

 下には幅一尺の氷樋が走っている。市場の魚を運ぶ滑り道だ。

「乗れ。南まで一気に行く」

「南ってどこまで?」

「まず崖下。運がよければ骨車両の入口。悪ければ冷凍鮫の解体場」

「その二つ、運の差が小さくない?」

 追手が扉を破る。

 六人と一匹は氷樋へ飛び込んだ。

 背中で銃声が弾けた。

 滑り道は市場の下を蛇のように走り、銀魚の山、氷柱の森、悲鳴を上げる香辛料袋の間を抜ける。

 途中でガロが呻いた。

 手の黒い糸が肩まで伸びている。

 瞳の奥に、遠い星明かりが浮かんだ。

「聞こえる」と彼は言った。

「ぼくたちが来るのを、下で待ってる」

四 腹の中を走る道

 氷樋の終点は、幸運にも冷凍鮫の解体場ではなかった。

 不運にも、八環組の夜蜜精製所だった。

 地下工房では、裸の労働者たちが黒い原液を銀鍋で煮詰めていた。誰も顔を上げない。足首に鎖があり、鼻と耳から細い黒煙を漏らしている。

 シャンラは舌打ちした。

「ここまで増えてたのか」

 監督役が笛を吹こうとした。

 メラが工具を投げ、笛を壁に縫い留める。ニロは銛の柄で男の膝を払った。セフィが鍵束を奪い、ガロが鎖をまとめて引きちぎった。

 労働者たちは動かなかった。

「逃げて!」とセフィ。

 一人がゆっくり顔を上げた。

「逃げた先に、夢がない」

 その目は灰色だった。

 パノが夜蜜の瓶を一つ持ち上げ、床へ叩きつけた。

 甘い匂いが広がる。

「夢なんか瓶に入ってない!」

 少年の声が工房に響いた。

「入ってるのは、知らない怪物の寝汗だ! そんなのに自分の夢を貸すな!」

 あまりにひどい言い方だったためか、何人かが笑った。

 笑った者から立ち上がった。

 セフィが鎖を外し、メラが蒸気管の弁を開けた。白い霧が工房を満たし、労働者たちは監督役を踏み越えて出口へ走った。

 六人は奥の昇降台を下りた。

 そこに三港街道の本線があった。

 キョウラのものより大きい骨車両。先頭部は獣の頭蓋に似ており、十人は乗れる。

 シャンラが羅針器を受け取り、窪みに嵌めた。

「バンラへはこれで行く。だが覚えとけ。街道は道じゃない」

「じゃあ何?」

「腹の皺だ」

 車両が動き出した。

 今度は壁が透けるだけではなかった。

 岩の向こうに、巨大な肉のようなものが見えた。山より大きな襞が、ゆっくり収縮している。その表面に都市の灯が貼りつき、血管のような光の筋が三港を結んでいる。

 ニロは理解した。

 三港街道は誰かが掘った地下道ではない。

 世界の下に横たわる何かの身体を、古代人が乗り物に変えたのだ。

「星喰い」とセフィが呟いた。「古い祈祷書にある。空から落ち、地の底で眠り、夢の中で世界を消化するもの」

「おとぎ話じゃなかったんだね」とパノ。

「おとぎ話って、たいてい本当のことを子どもが眠れる程度に薄めたものよ」

 ガロが立ち上がった。

 黒い糸は首まで伸びていた。

 彼は壁の向こうの肉を見つめ、微笑んでいる。

「ガロ?」

「呼ばれてる。あれ、ずっと一人だった」

 ニロが肩を掴むと、ガロの皮膚の下で無数の小さな光が動いた。

「一人なら、なおさら会いに行くな。寂しい怪物はだいたい面倒だ」

 パノがそう言ってガロの腰にしがみついた。

 ガロは瞬きをした。

「そうかな」

「モップだって寂しいと靴を食う。山より大きいのが寂しかったら、街を食うよ」

 モップが肯定するように鳴いた。

 ガロは少しだけ笑った。

 そのとき車両の屋根に何かが落ちた。

 金属の爪が骨を貫く。

 天井が剥がれ、鉄の雨に濡れた男が降りてきた。

 ヴォルカだった。

 火傷の痕は首まで広がり、片腕が黒い鉤爪に変わっている。街道へ落ちたとき、原液に触れたのだ。

「子ネズミども」

 口を開くたび、喉の奥から別の声が重なった。

「総頭領がお待ちだ」

 シャンラの弩が鳴った。

 矢はヴォルカの胸を貫いたが、傷口から血ではなく夜蜜が噴き出す。彼は笑い、黒い腕でシャンラを壁へ叩きつけた。

 ニロが銛を突き出す。

 ヴォルカは片手で掴み、柄ごと引き寄せた。

「父親も同じ目をしていた。金庫の前で、最後まで私を睨んでいた」

「父さんを殺したのか」

「殺した?」

 ヴォルカは首を傾げた。

「人ではなくなったものを、殺したと呼ぶのか?」

 ニロの動きが止まった。

 その一瞬、ヴォルカの鉤爪が振り下ろされる。

 ガロが間に入った。

 爪は彼の胸を裂かなかった。

 胸の表面が水のように開き、爪を飲み込んだ。

 ガロの背から、黒い光の腕が何本も生えた。

 車両の中が静まる。

 ガロ自身が一番驚いた顔をしていた。

「ご、ごめん」

 光の腕がヴォルカを掴み、天井の外へ放り投げた。

 ヴォルカは落ちなかった。

 街道の肉壁へ爪を突き立て、四つん這いで追ってくる。その顔はすでに半分、別の生き物だった。

「速度を上げろ!」とシャンラ。

 メラとセフィが前部の輪を回す。骨車両が加速し、襞の谷間へ飛び込む。

 前方に、黄金の光が見えた。

 蓮都バンラ。

 だがガロの背の腕は消えず、むしろ増えていた。

 一本がニロの頬へ伸びる。

 ニロは逃げなかった。

「ガロ。おれの名前を言え」

 光の腕が震える。

「ニ……ロ」

「こいつは?」

「メラ」

「こっちは?」

「セフィ。パノ。モップ。シャンラ」

 最後の名でシャンラが眉を上げた。

 ニロはガロの額に自分の額をつけた。

「全部覚えてるなら、まだおまえだ」

 ガロの背の腕が、ゆっくり身体へ戻った。

 車両は黄金の光を突き抜けた。

五 蓮都の夜市

 蓮都バンラは夜に咲く街だった。

 運河には千の灯籠が流れ、建物の壁を紫の蔦が覆い、屋台では香辛料と焼いた蜥蜴肉の煙が渦巻く。人間、角人、鱗人、鳥面の旅商人が肩をぶつけ合い、橋の上では僧侶が賭博札を切っていた。

 三港の中でいちばん華やかで、いちばん人が消えやすい街。

 骨車両の出口は、夜市の共同便所の裏にあった。

「海賊女王の道なのに入口が便所?」とパノ。

「追われる者は、立派な門より汚い穴を選ぶ」とシャンラ。

 彼女の脇腹はヴォルカに打たれて腫れていた。セフィが布を巻く間、ニロは地図を見た。

 黒線は夜市を抜け、王宮跡の地下へ続いている。

 その途中に父の最後の書き込みがあった。

 ――金庫の鍵は三つ。

 ――北を指さぬ針。

 ――欲しいものを捨てる手。

 ――帰る場所を呼ぶ声。

「羅針器、何かを捨てる、名前を呼ぶ……」メラが呟く。

「罠っぽい」とパノ。

「宝の地図に『安全です』って書いてあったら、そっちの方が罠よ」

 夜市へ出ると、八環組の紋をつけた男たちがすでに橋を封鎖していた。三港の支部が集まっている。籠車の上には黒い瓶が山積みで、鎖につながれた運び屋たちが引いていた。

 中央を進む輿に、総頭領ザグナが座っていた。

 老人だった。

 痩せた身体に白い絹をまとい、八本の指すべてに金の輪を嵌めている。残り二本の指は、自分で切り落としたという噂だ。

 輿の後ろに、鉄の檻があった。

 中に一人の男が座っている。

 髪も髭も伸び、片目が星のように白く光っていた。

 ニロは息を止めた。

「父さん」

 檻の男が顔を上げた。

 痩せていたが、間違いなかった。ドガンだ。

 ニロが飛び出そうとするのを、シャンラが押さえた。

「罠だ」

「生きてる!」

「だから罠になる」

 輿が王宮跡へ向かう。

 ザグナは金庫の道を開くため、ドガンを連れているのだ。

 ニロは歯を食いしばった。

「後を追う」

「正面から行けば十歩で死ぬ」とメラ。

 パノが運河を見た。

「正面じゃなければ?」

 五分後、六人は灯籠船の下にしがみついていた。

 バンラでは祖霊を乗せた灯籠船を止める者はいない。八環組の検問も、死者の祟りを恐れて船底までは調べなかった。

 ただし灯籠船は低く、口を水面から出すには横向きにならなければならない。モップは泳げず、パノの頭の上で震えている。

「宝を見つけたら」とパノが小声で言った。「泳げる靴を買う」

「先に普通の靴を買え」とニロ。

 王宮跡の裏で船を離れ、崩れた石像の間を進む。

 地下へ降りる階段には、夜蜜を舐めた兵が並んでいた。皆、笑っている。彼らには今、敵ではなく、失った家族か恋人が見えているのかもしれない。

 セフィが夜市で買った赤い煙玉を投げた。

 メラが壁の警報線を切る。

 シャンラが弩で松明を落とす。

 パノがモップを放つ。

 モップは兵の足元を駆け抜け、靴紐、腰帯、鍵束を順番に噛み切った。

「聖獣、すごい」とガロ。

「靴が好きなだけ」とパノ。

 混乱の中、六人は地下へ滑り込んだ。

 最下層の広間には、巨大な円形扉があった。

 扉の中央に、口を開けた星の紋章。

 周囲には八つの輪。

 ザグナとヴォルカ、数十人の組員、そして檻のドガンがいた。

 ヴォルカはもう人の姿を保っていなかった。背骨から黒い骨が突き出し、顎が胸まで裂けている。それでもザグナの足元に跪いている。

「遅かったな、ドガンの子」

 ザグナは振り返りもせず言った。

「子どもは必ず親を追う。親は必ず子を守ろうとする。世の中で最も安く、確実な鎖だ」

 組員たちが武器を向けた。

 ドガンが檻の中で立ち上がった。

「ニロ。羅針器を渡すな!」

 五年ぶりに聞く父の声だった。

 ニロの胸に、言いたかった言葉が一度に押し寄せた。

 なぜ帰らなかった。

 生きていたなら、なぜ知らせなかった。

 母さんがどれだけ待ったと思う。

 けれど出たのは別の言葉だった。

「朝飯までに帰るぞ、父さん」

 ドガンは一瞬、泣きそうな顔をした。

「母さんに似たな」

 ザグナが指を鳴らした。

 組員たちが一斉に襲いかかる。

六 八環の宴

 最初に動いたのはガロだった。

 彼は両手を床へついた。

 石畳の下を黒い光が走り、組員たちの足元から柔らかな腕が伸びた。腕は武器を奪い、天井へ貼りつけ、二人ずつ頭をぶつけた。

「加減して!」とセフィ。

「してる!」

 その声はガロの喉から二重に響いた。

 メラは円形扉の制御輪へ走り、ニロは檻へ向かった。シャンラの弩がヴォルカの脚関節を撃ち抜く。パノとモップは倒れた組員の鍵束を集める。

 ザグナだけは動かなかった。

 老人は袖から小さな金杯を出した。

 そこには、光さえ吸い込むほど濃い夜蜜が満ちていた。

「人は皆、変わりたいと願う」

 ザグナは杯を掲げた。

「貧者は富者に。老いた者は若者に。弱い者は強者に。神は願いを聞かない。だが地の底の王は、身体ごと答えをくれる」

「それは答えじゃない」とニロ。

「答えかどうかは、勝った者が決める」

 ザグナは夜蜜を飲み干した。

 老人の身体が内側から膨らんだ。

 皮膚の下を八本の輪が回り、背中から細長い節足が突き出る。顔は笑ったまま縦に割れ、その奥に星空が見えた。

 広間全体が鼓動した。

 円形扉の向こうで、何かが目を覚ます。

 ヴォルカが歓喜の声を上げ、変じたザグナへ這い寄った。

「総頭領……私を、お連れください……」

 ザグナの節足がヴォルカを貫いた。

 怪物になった支部長は、驚いた顔のまま持ち上げられ、吸い込まれた。骨も夜蜜も声も、ザグナの裂けた顔へ消えた。

「輪は一つでよい」

 八つの声が同時に言った。

 シャンラが矢を放つ。

 節足が矢を叩き落とし、彼女を柱へ弾いた。

 ガロの黒い腕とザグナの節足がぶつかる。

 広間の空気が歪み、床石が浮き上がった。ガロは踏ん張ったが、片膝をつく。

「おまえは入口にすぎぬ」とザグナ。

「私は器だ」

 ガロの目から星明かりが溢れた。

「ガロ!」

 ニロは檻の鍵を回した。違う。二本目も違う。パノが鍵束ごと放り投げる。

「全部試して!」

「百本ある!」

「九十九本外れれば、最後が正解!」

「励まし方が雑だ!」

 メラが飛び込み、錠前へ耳を当てた。

「黙って。錠が泣いてる」

 三秒後、鉄檻が開いた。

 ドガンは倒れ込むように出てきた。左腕が肘から先、半透明になっている。その中を小さな星が流れていた。

「父さん、その腕……」

「金庫の扉を閉めたときに食われた。まだ半分は私のものだ」

 ドガンは羅針器を受け取ろうと手を伸ばし、止めた。

「いや。鍵はおまえが持て」

 円形扉の八輪が回り始めた。

 ザグナが一歩近づくたび、輪が一つずつ噛み合う。

 ドガンが叫んだ。

「扉が開けば、星喰いは三港を同じ夢に沈める! 夢の中で街を食い、目覚めたときには地図から消える!」

「どうやって止める?」

「金庫の中に閉鎖機構がある。だが三つの鍵が要る」

「北を指さぬ針、欲しいものを捨てる手、帰る場所を呼ぶ声」

「覚えていたか」

「父さんの字、汚いから忘れにくい」

 ドガンは笑った。

 ザグナの節足が床を穿つ。

 ガロが吹き飛ばされ、壁へ叩きつけられた。黒い腕が薄れていく。

 パノが彼のそばへ走る。

「寝るな! 朝飯がある!」

「何……かな」

「たぶん魚粥!」

「それは、起きたい」

 ガロが立ち上がった。

 ニロは羅針器を扉中央へ嵌めた。

 二本の針が同時に回り、八輪の回転が一瞬止まる。

「第一の鍵!」とドガン。

 扉に細い裂け目が開いた。

 向こうから、黄金の光が溢れる。

 金貨。

 宝石。

 王冠。

 武器。

 積み上げられた財宝が見えた。

 その奥に、黒い種のようなものが浮かんでいる。

 山より大きな存在の、ごく小さな一部。

 ラズラ女王の金庫。

 そして〈星喰いの種〉

 ザグナが歓喜した。

「開いた!」

 節足がニロへ伸びる。

 ドガンが半透明の腕で受け止めた。腕の中の星が砕け、彼の身体が震える。

「行け!」

 ニロ、メラ、セフィ、パノ、ガロが裂け目へ滑り込む。

 シャンラはドガンを抱え、最後に入った。

 扉の向こうで、黄金の山が彼らを待っていた。

七 欲しいものを捨てる手

 ラズラ女王の金庫には、国を買えるだけの財宝があった。

 古王国の金貨、翼竜の卵ほどある紅玉、沈んだ聖堂から剥がした銀鐘、百人の王がかぶった冠。壁には海賊たちの名が刻まれ、その中央に女王ラズラの言葉があった。

 ――奪った富は、人を自由にしない。

 ――何を捨てられるかだけが、鎖の重さを決める。

 金庫の奥には石の台がある。

 台の上に〈星喰いの種〉が浮かび、その周囲を三つの窪みが囲んでいた。

 一つは羅針器の形。

 一つは手の形。

 一つは口の形。

 ニロは羅針器を最初の窪みへ置いた。

 種の鼓動が弱まる。

「二つ目、欲しいものを捨てる手」とメラ。

 石台の前に立つと、黄金の山が揺らいだ。

 ニロには〈青錨亭〉が見えた。

 新しい屋根、磨かれた看板、母の笑顔。錆浜の家々は残り、誰も立ち退かない。卓上には父がいて、何事もなかったように魚を食べている。

 手を伸ばせば、それが本当になるとわかった。

 ただし代わりに、種を解き放て、と何かが囁いた。

 メラには世界一の工房が見えた。

 セフィには父が不正な役人に頭を下げずに済む未来。

 パノには大きくなった自分と、誰にも笑われない立派な服。

 ガロには、普通の手。普通の目。誰にも恐れられない身体。

 シャンラには、逃げなかった過去。

 ドガンには、失われなかった五年間。

 全員が動けなくなった。

 種の周囲で影が笑った。

 扉の裂け目から、ザグナの節足が一本、また一本と入り込む。

「願え」と八つの声が囁く。

「欲するものを取れ。それが力だ」

 ニロは母の言葉を思い出した。

 金は背負えないほど見つかることがある。

 でも帰り道は、一本見つかれば足りる。

 彼は目の前の幻へ手を伸ばした。

 そして、掴まずに拳を閉じた。

「いらない」

 声が震えた。

「家は、夢の中で残すんじゃない。みんなで買い戻す」

 手を二つ目の窪みに押し込む。

 石が熱く焼けた。

 黄金の幻が砕ける。

 メラが続いた。

「工房は自分で建てる」

 セフィが眼鏡を直した。

「父の背筋は、私の願いで伸ばすものじゃない」

 パノは少し迷い、立派な服の幻に唾を吐いた。

「ぼくは今の服で十分。ポケット多いし」

 ガロは普通の手を見つめた。

 それから黒い糸の走る自分の手で、パノの頭を撫でた。

「これでも、友達を持てる」

 シャンラは逃げなかった自分へ背を向けた。

「過去は直せない。借りだけ返す」

 最後にドガンが、五年間の食卓を見つめた。

 幻のニロはまだ十歳で、母は若く、湯気の向こうで笑っている。

「すまなかった」

 ドガンは幻に言い、目を閉じた。

「でも帰る」

 二つ目の窪みが光った。

 種が激しく震える。

 ザグナが扉をこじ開け、金庫へ入ってきた。

 怪物の身体はさらに膨らみ、冠や金貨を踏み潰している。

「捨てるだと?」

 八つの声が怒鳴った。

「持たぬ者の負け惜しみだ!」

 ガロが前へ出た。

 背から黒い光の腕が広がり、ザグナの節足を受け止める。

「三つ目!」とメラ。

「帰る場所を呼ぶ声!」

 口の形の窪みに向かい、全員が叫んだ。

「錆浜!」

 何も起きない。

「青錨亭!」

 種は止まらない。

「キョウラ!」

 石台は沈黙した。

 ザグナの節足が一本、ガロの肩を貫いた。黒い光が散る。

「場所の名前じゃない!」とドガンが叫んだ。「帰る場所を呼べ!」

 ニロは理解した。

 帰る場所は、地名でも建物でもない。

 彼は石台へ顔を近づけ、声の限り叫んだ。

「母さん!」

 ドガンが続く。

「レナ!」

 メラは「親父!」、セフィは「父さん!」、パノは「みんな!」と叫んだ。

 ガロは苦しそうに笑い、「おまえら!」と叫んだ。

 シャンラは長く黙ったあと、小さく一つの名を呼んだ。

 三つ目の窪みが白く燃えた。

 種の表面に亀裂が走る。

 地の底のものが、初めて恐怖の声を上げた。

八 星喰いの穴

 金庫が崩れ始めた。

 壁の向こうにあった岩が消え、巨大な空洞が現れる。

 空洞ではない。瞳だ。

 世界の下に横たわる星喰いが、片目を開いたのだ。

 眼球の中に無数の夜空があり、その一つ一つで別の都市が滅び、別の海が煮え、名もない人々が同じ夢を見ながら消えていく。

 ニロは一瞬、自分の身体がそれらの世界へ薄く伸ばされるのを感じた。

 名前も年齢も記憶も、巨大な何かの眠気に溶けていく。

「見るな!」

 ドガンの声が彼を引き戻した。

 石台の三つの鍵が回る。

 種は縮み、硬い黒珠になった。

 だがザグナがそれを掴んだ。

「私のものだ!」

 怪物の八本の腕が黒珠を胸へ押し込む。

 次の瞬間、ザグナの身体が裏返った。

 皮膚が内側へ、骨が外側へ、声が形へ、欲望が肉へ変わる。黄金の山を飲み込みながら、巨大な輪の獣へ膨れ上がった。輪の中心には口があり、その奥で星喰いの瞳が瞬いている。

 ガロが両腕を広げた。

「おれが止める。みんな逃げて」

「一人で格好つけるな」とニロ。

「格好、ついてる?」

「ぜんぜん。だから手伝う」

 メラは金庫の壁に走る古い配管を見つけた。ラズラ女王の仕掛けだ。財宝を盗む者ごと海へ流すための自壊装置。

「この金庫、潮穴につながってる。弁を開けば全部水没する!」

「街道ごと?」

「たぶん!」

「また、たぶん!」

 セフィが壁の海賊文字を読み上げた。

「『王冠を回せ、鐘を落とせ、女王に頭を下げよ』!」

 パノが黄金の山から王冠を拾い、床の軸へ被せた。ニロとドガンが回す。シャンラは吊られた銀鐘の綱を矢で切った。

 鐘が落ちた。

 床が傾く。

 金貨の洪水が輪の獣へ雪崩れ込んだ。

「女王に頭を下げよ、は?」

「伏せろってこと!」とメラ。

 全員が床へ飛び伏せた。

 壁から巨大な石刃が走り、立っていた輪の獣を横薙ぎに切った。怪物の半身がずれ、裂け目から夜蜜が噴き出す。

 だが死なない。

 ザグナの声が金庫全体から響く。

「富は私だ! 街道は私だ! 三港の夢は私のものだ!」

 ガロが怪物へ飛びついた。

 黒い光の腕を輪の隙間へ差し込み、中心の瞳をこじ開ける。

「今!」

 ニロは銛を拾った。

 父から渡され、母が握り方を教えた銛。

 怪物の中心に、黒珠が見える。

 ニロは走った。

 金貨の斜面を滑り、ガロの光腕を踏み台にし、輪の獣へ跳ぶ。

 銛を黒珠へ突き立てた。

 音が消えた。

 ザグナの八つの声が、一つずつ途切れる。

 最後に老人の声だけが残った。

「まだ……足りない……」

「だから全部失うんだ」

 ニロは銛を捻った。

 黒珠が砕けた。

 星喰いの瞳が閉じる。

 輪の獣は大量の黒い砂となって崩れた。

 同時に金庫の壁が割れ、海水が爆発的に流れ込んだ。

「帰り道!」とドガン。

 羅針器の二枚目の針が、金庫の天井を指している。

 そこに小さな骨車両が吊られていた。ラズラ女王の脱出艇だ。

 メラが錠を外し、ガロが車両を引き下ろす。全員が乗り込む。

 だが財宝はほとんど水の下へ沈み始めていた。

 パノが泣きそうな顔で金貨を見た。

「崖が!」

 セフィは流れてきた鉄箱を掴んだ。

 中には帳簿が詰まっている。八環組の取引記録、役人への賄賂、夜蜜の売上、三港の土地権利書。

「金より効くかも!」

 シャンラも小さな袋を一つ投げ込んだ。ラズラ女王の印がある古金貨だ。

「これで崖の頭金くらいにはなる!」

 ドガンが羅針器を車両へ嵌めた。

「行き先は?」とメラ。

 ニロは針を見た。

 二枚目の針は、まっすぐ遠くを指している。

「朝飯」

 骨車両が発進した。

 背後で金庫が海に呑まれた。

 ラズラ女王の財宝も、八環組の夜蜜も、星喰いの種も、暗い潮の底へ消えていった。

九 三つの鐘

 帰りの街道は壊れかけていた。

 星喰いが眠り直したことで、腹の皺が閉じ始めている。線路は途切れ、壁は収縮し、骨車両の後ろから闇そのものが追ってくる。

 蓮都の鐘が鳴った。

 二つ目の警鐘。

 キョウラでは、八環組の解体隊が錆浜へ向かっているはずだ。

「間に合わない」とセフィ。

「間に合わせる」とメラ。

 彼女は車両前部を開き、骨歯車へ工具を差し込んだ。

「これ、速度を制限してる輪がある。外せばもっと出る」

「壊れない?」

「壊れる。到着してから壊れるよう祈って」

「誰に?」

 全員が足元を見た。

「下のやつ以外」とパノ。

 制限輪が外れた。

 骨車両は叫び、世界の襞を跳んだ。

 一瞬、白冠市の氷市場を横切った。解放された労働者たちが鐘楼を占拠し、八環組の旗を燃やしているのが見えた。

 次の瞬間、蓮都の運河上へ出た。夜市の人々が帳簿の写しを奪い合い、八環組の倉庫へ雪崩れ込んでいる。シャンラが途中で飛び降り、赤い義眼を光らせた。

「私はここで借りを返す!」

「朝飯は?」とパノ。

「昼に食う!」

 彼女は笑い、運河の橋へ消えた。

 車両は再び闇へ潜る。

 ガロの身体から、黒い光が剥がれ始めた。

 光は街道の壁へ吸われ、彼の黒い糸も薄くなる。

「戻ってる?」とニロ。

「たぶん」

「その言葉、今日は嫌いになった」

 ガロの瞳にはまだ星が一つ残っていた。

「でも、声は小さくなった。眠るって」

「二度と起こすなって伝えろ」

「うん。あと、友達は食べるなって」

 三つ目の鐘が鳴った。

 キョウラの鐘だ。

 前方に鉄雨の赤い光が見えた。

 骨車両は錆浜の地下へ飛び出し、そのまま防潮洞を突き抜けた。石床が爆発し、〈青錨亭〉の厨房へせり上がる。

 鍋、皿、椅子、五人と一匹と一人の父親が宙を舞った。

 車両は食堂の中央でばらばらになった。

 静寂。

 ニロの母レナが、片手にお玉、片手に短銃を持って立っていた。

 窓の外には八環組の解体隊。扉を破ろうとしていた男たちも、突然床から現れた一行に呆然としている。

 レナはまずニロを見た。

 次にメラ、セフィ、パノ、ガロ。

 最後にドガンを見た。

 お玉が床へ落ちた。

「遅い」

 ドガンは五年分老けた顔で笑った。

「朝飯には間に合った」

 レナは彼を殴った。

 それから抱きしめた。

 外で解体隊長が怒鳴った。

「感動の再会は後にしろ! 立退期限は今日だ!」

 セフィが鉄箱を卓上へ置いた。

「その立退命令、無効です」

 帳簿から土地権利書を取り出す。

 錆浜の崖は八環組の名義ではない。百年前、ラズラ女王が港の避難民へ共同所有地として譲渡し、その権利は今も失効していなかった。八環組は役人に賄賂を払い、記録を隠していたのだ。

「偽物だ!」

「三港共通印、王宮旧印、海事院の封蝋。偽物と言うなら法廷でどうぞ」

 セフィは眼鏡を押し上げた。

「なお、こちらにはあなた方が裁判官へ払った金額も記載されています。別の裁判官を探すの、大変ですね」

 解体隊の男たちは顔を見合わせた。

 そのとき錆浜の鐘楼から声が響いた。

 ドガンが持ち帰った通信鏡を、メラが鐘の線へつないだのだ。白冠市と蓮都の騒ぎ、夜蜜工房の証言、帳簿の内容が三港じゅうへ流れている。

 八環組の旗が、あちこちで降ろされ始めた。

 解体隊長は短銃へ手を伸ばした。

 レナが先に構えた。

 錆浜の窓という窓から、漁師、鍛冶屋、洗濯屋、老女、子どもたちが銛や包丁や鍋を突き出す。

「帰んな」とレナ。

 解体隊は帰った。

十 朝飯のあとで

 八環組は一日で滅びなかった。

 巨大な輪は、一本の帳簿だけでは切れない。

 けれど三港で倉庫が開かれ、鎖をつけられていた者たちが証言し、賄賂を受けていた役人が逃げ、夜蜜の在庫が焼かれた。白冠市の氷市場では労働者組合ができ、蓮都ではシャンラが運び屋たちを率いて八環組の船を奪った。

 錆浜は残った。

 ラズラ女王の古金貨は、崖を買うほどではなかった。だが共同所有権を守る裁判費用と、壊れた〈青錨亭〉の床を直すには足りた。

 ドガンはすぐ普通の暮らしに戻れたわけではない。

 夜になると地下の鼓動を聞き、半透明の腕が勝手に星を描くことがあった。レナはそんなとき、彼の頭を鍋蓋で叩いた。

「ここにいな。下じゃなくて」

 ガロの黒い糸も消えきらなかった。

 右目の奥には小さな星が残り、ときどき遠い場所の夢が見えた。けれど人々が怖がっても、パノが必ず隣に立った。

「こいつ、怪物じゃないよ。怪物ならもっと歯が多い」

 メラは骨車両の残骸から、小さな方位器を作った。北は指さない。仲間のいる方向を指す。

 セフィは帳簿の写しを三港へ送り続け、父親より先に役所の不正を見抜くようになった。

 パノは泳げる靴を買わず、ポケットの多い上着を買った。モップはそのポケットを二日で食い破った。

 そしてニロは、〈青錨亭〉の壁に銀皮の地図を貼った。

 黒い線はもう光らない。

 星の印も消えている。

 ただし地図の端に、以前はなかった細い線が一本、海の向こうへ伸びていた。

「これ、何だと思う?」とメラ。

「帰り道じゃない?」とガロ。

「どこからの?」とセフィ。

 パノが椅子の上に立ち、線の先を指した。

「まだ帰ってない誰かの」

 ニロは窓の外を見た。

 鉄雨は上がり、海の向こうから朝日が差している。

 食堂には母の魚粥の匂い、父の不器用な笑い、仲間たちの声が満ちていた。

 地下のどこかで、ごく小さく鼓動がした。

 ガロが片目を細める。

「起きた?」とパノ。

「寝返り」

「なら放っとこう。朝飯が冷める」

 六人と一匹は卓を囲んだ。

 世界の底にはまだ穴があり、海の向こうにはまだ道がある。

 けれど冒険は、帰る場所がある者にしか終えられない。

 だから彼らはまず、魚粥を食べた。