『下海に眠る星』

一 影が帰らない日

 ネムラス島では、夕暮れになると影が崖の縁を越えて、下海へ垂れる。

 下海とは、浮遊島のはるか下に広がる、光を返さない雲の海だ。帆船は空を渡り、魚は雲のなかを泳ぎ、落ちたものは二度と戻らない。だからネムラスの子どもは、物心がつく前から三つのことを教えられる。

 崖際で走るな。

 古い鎖に触るな。

 下から名を呼ばれても、返事をするな。

 十四歳のイオは、その三つを全部破ったことがある。

 ただし、最後のひとつだけは、破ったかどうか自分でもわからなかった。

「また動いた」

 風見塔の屋根で、リグレが言った。

 イオは足もとを見た。夕日を背負っているのに、石瓦へ落ちた自分の影だけが、こちらを向いていた。顔はない。目もない。それでも、確かにイオを見ていた。

「動いてない」

「いま手を振った」

「風だよ」

「影が風で手を振るなら、うちの洗濯物はとっくに挨拶を覚えてる」

 リグレは赤い髪を革紐で結び直した。腰には巻尺、胸元には父親からくすねた真鍮の羅針盤。船大工の娘である彼女は、嘘と歪んだ板材を見抜くのが得意だった。

「影なら、誰にだってある」

「普通の影は、持ち主より先にため息をつかない」

 影の肩が、ほんの少し下がった。

 イオは見なかったことにした。

 七日前、名術師見習いの昇級試験で、イオは「灯火の名」を唱えるはずだった。名術とは、ものの内側にある本当の響きを聞き、それを呼ぶ技だ。正しく呼ばれた火は雨のなかでも燃え、正しく呼ばれた扉は鍵がなくても開く。

 けれどイオが呼んだのは火ではなかった。

 試験室の蝋燭が一斉に消え、床から黒い何かが起き上がった。それはイオと同じ背丈で、イオと同じ癖で首をすくめ、師匠たちの前を走り抜けて夜の町へ消えた。

 翌朝には戻ってきた。ただし、それ以来、ときどき勝手に動いた。

「町がなくなるっていうのに、ぼくの影くらい放っておいてよ」

 イオが言うと、リグレの表情が固くなった。

 眼下では、ネムラスの家々が夕闇に沈みかけていた。青い瓦屋根、風車、吊り橋、百年市場、崖にへばりつくように建つ学校。島の中央には、巨大な鉄鎖が六本、地中から空へ伸びている。かつて島をこの空域につなぎ止めた錨鎖だ。

 その鎖が、来月には切られる。

 島の浮力を保つ〈暁石〉が枯れた――と空運商会は告げた。住民は三十日以内に退去。家は解体、畑は売却、島は採掘業者へ引き渡される。

 ネムラスで生まれた者も、墓を持つ者も、例外はない。

「だから呼んだの」

 リグレは上着の内側から、緑青の浮いた銅板を取り出した。

 板には、島の輪郭と、何本もの細い線が刻まれていた。地上の道ではない。ネムラスの裏側――岩盤の内側を走る空洞の図だった。

 中央に、星を呑み込む口の印。

 その脇に古い文字で、こうある。

 《朝を買い戻すだけのもの、最も暗い場所にあり》

「どこでこれを?」

「父さんの工房。床板の下」

「盗んだ?」

「救出した」

「床板から?」

「歴史を」

 屋根の縁から、丸い頭がぬっと出た。

「話、始めるなら呼べよ。俺、下で三回くしゃみしたぞ」

 ボグだった。沼人の血を引く彼は、十五歳にして大人二人分の肩幅がある。灰緑色の肌、石を噛み砕けそうな歯、そして実際に石を噛み砕こうとした前科。片手に縄梯子、もう片手に焼き芋を五本持っていた。

 その背後から、小柄なリリクが身軽に這い上がる。額に短い角が二本、腰には工具袋。火鼠族の彼女は壊れた機械を見ると直さずにはいられず、直っている機械を見ると分解せずにはいられなかった。

「地図は本物」とリリクは言った。「銅の腐食具合が少なくとも百五十年。刻み方は空賊時代の測量符号。あと、裏に名前がある」

 銅板を返すと、針で引っかいた文字が見えた。

 《灰帆のマルハ》

 ボグが焼き芋を落としかけた。

「宝島のマルハ?」

「宝島じゃない。空賊のマルハ」とリグレ。

「同じだろ。空賊は宝を隠す。宝を隠す場所は宝島だ」

「ここ、俺たちの島だけど」

「じゃあ最初から宝島だったんだな。誰も教えてくれなかっただけで」

 灰帆のマルハ。

 二百年前、商会の金庫船から金貨を奪い、貧しい浮遊島へばらまいたという空賊。最後はネムラス近海で消息を絶った。子ども向けの歌では、巨大な雲鯨に呑まれたことになっている。

 地図の端には、時刻を示す月輪と短い文。

 《無風の夜、島の喉が開く》

「今夜、年に一度の無風刻が来る」とリグレは言った。「島の底にある風穴が止まるのは、月が二つ重なる一時間だけ。入口はそのとき開く」

「大人に見せよう」とイオは即座に言った。

「もう見せた。父さんは、昔の空洞は崩れて危険だって」

「正しい」

「町長は、商会との揉め事を増やしたくないって」

「それも、まあ」

「名術院長は、マルハは実在しなかったって」

「そこまで聞いて、どうして今夜行こうになるんだよ」

「だって大人は行かないから」

 リグレは銅板を胸に当てた。

「町を買い戻せるかもしれない。何もしなければ、三十日後には全部ばらばらにされる。市場も、学校も、うちの工房も。イオの名術院だって」

「名術院は別に……」

 言いかけて、イオは黙った。

 試験に落ちてから、師匠たちは彼を見るたび、気まずそうに目をそらした。いっそなくなればいいと思った日さえある。

 足もとの影が、こくりとうなずいた。

 それを見た瞬間、胸の奥で何かが冷えた。

「行かない」

 イオは立ち上がった。

「宝なんてあるわけない。あったとしても、島の下は古い坑道だ。毒風、落盤、雲蛭。それに――」

 下から名を呼ぶもの。

 言葉にはしなかった。

 七日前の試験で、闇が起き上がったとき、イオは確かに聞いたのだ。

 ――イオ。

 自分の声で。

 床の下から。

「わかった」とリグレは言った。「じゃあ三人で行く」

「え」

「無理には誘わない」

「でも」

「無理には誘わない」

 リグレは二度言った。彼女が二度言うときは、たいてい「来なかったら一生笑う」という意味だった。

 ボグは焼き芋を一本差し出した。

「留守番の報酬」

「いらない」

「じゃあ俺が食う」

「食べれば」

「もう食った」

 リリクは道具袋から小さな銀筒を出し、イオへ投げた。受け取ると、中で青白い粉が光った。

「名灯。暗い場所で、持ち主の知ってる名前の数だけ明るくなる」

「ぼく、行かないって」

「返すのは明日でいい」

 三人は縄梯子を伝って屋根を下りた。

 ひとり残されたイオの影は、しばらく彼らを見送っていた。

 やがて持ち主より先に立ち上がり、屋根の端を指さした。

 塔の真下。

 崖沿いの道を、黒い外套の男が歩いている。

 空運商会の監査官、サルダンだ。

 彼は立ち止まり、誰もいない風見塔を見上げた。

 顔には、笑顔の形をした白い仮面。

 その仮面の口だけが、ゆっくり動いた。

 ――見つけた。

 声は聞こえなかった。

 なのにイオの耳の奥で、はっきり響いた。

 足もとの影が、震えた。

二 島の裏側

 無風刻が始まると、世界は死んだように静かになった。

 風車が止まり、吊り看板が黙り、空帆船は港で翼を畳んだ。二つの月が重なり、ひとつの銀環になる。

 イオは家を抜け出した。

 もちろん、三人を止めるためだった。

 少なくとも崖へ着くまでは、そう自分に言い聞かせていた。

 地図が示した入口は、島の東端、古い処刑鐘の真下にあった。崖から突き出した岩棚へ、リグレたちはすでに縄を下ろしている。

「遅い」とリグレ。

「止めに来た」

「荷物は?」

「水、毛布、救急布、名術用の白墨」

「止める装備じゃないね」

「説得が長引くかもしれないから」

 リグレは笑った。それだけで、イオは来てよかったと思いかけた。すぐに思い直した。

 四人は崖を降りた。

 ネムラスの裏側は、巨大な獣の腹のようだった。黒い岩が波打ち、地上へ伸びる樹木の根が天井から逆さに垂れている。下には足場がない。ただ果てしない下海があり、月明かりを呑み込んでいた。

 岩壁に、青銅の扉が埋まっていた。

 星を呑む口の紋章。地図と同じだ。

 扉には取っ手も鍵穴もなく、三つの窪みだけがある。

 耳。

 舌。

 目。

「古代人って、扉を開けるたびに謎解きしてたのかな」とリリクが言う。

「暇だったんだろ」とボグ。

「滅びた理由が少しわかった」

 リグレが銅板を調べる。端に極小の文字があった。

 《見ざる者に道を。語らぬ者に鍵を。聞かぬ者に警告を》

「逆だ」とイオは言った。「目の窪みに、目を閉じた人。舌には黙った人。耳には――」

「耳を塞いだ人?」ボグが言う。「四人いるけど窪みは三つだぞ」

「ひとり余る」

「俺、余りやる」

「余りって何するの」

「焼き芋食う」

 結局、リグレが目を閉じて目の窪みに触れ、リリクが口を結んで舌に触れ、ボグが両耳を塞いで耳へ手を当てた。

 何も起きない。

「違うのかな」

「ボグ、ちゃんと聞いてない?」

「聞いてない!」

 耳を塞いだまま大声で答える。

 そのときイオの影が、扉の上をするりと登った。三つの窪みの中央に、ほとんど見えない第四の印があった。

 影。

 イオが近づくと、黒い輪郭がそこへ手を重ねた。

 扉の内側で、何百年も止まっていた歯車が回り始めた。

 岩が低く唸り、青銅扉が左右へ割れる。冷たい空気が吐き出され、四人の名灯が一斉に灯った。

「イオ」とリグレが言う。「今の、君がやった?」

「たぶん」

「影が?」

「たぶん」

「先に言っておくけど、かなり不気味」

「知ってる」

 通路は島の内部へ、緩やかに下っていた。

 壁には、逆さの船、翼のある蛇、頭部が星空になった人々の絵が並ぶ。どれも古く、顔の部分だけが削り取られていた。

 リリクが機械式の糸巻きを入口へ固定し、銀糸を伸ばした。

「帰り道。切れたら泣く」

「泣いたら直る?」ボグ。

「私の気が済む」

 扉の先で、無風刻の静けさはさらに深くなった。自分たちの足音だけが、不自然に遅れてついてくる。

 角を曲がる。

 四人の足音が止まる。

 五人目の足音が、あと二歩だけ進む。

 こつ。

 こつ。

 誰も振り返らなかった。

「いまの聞いた?」ボグが囁く。

「聞いてない」とリリク。

「俺も」

「じゃあ、聞いたの俺だけ?」

「全員聞いたから、全員聞いてないことにしてる」

 イオの名灯が、急に暗くなった。

 銀筒の光は、持ち主が知っている名前の数だけ明るくなる。家族、友だち、町の通り、風の種類。イオはたくさん知っているはずだった。

 なのに今、名前がひとつずつ遠ざかっていく気がした。

 壁の向こうから、誰かが囁く。

 ――イオ。

 今度は、はっきり聞こえた。

 イオは口を噛んだ。

 返事をするな。

 下から名を呼ばれても。

「急ごう」とリグレが言った。

 彼女も聞いていた。

 顔を見ればわかった。

 通路の先に、円形の広間が現れた。床には八枚の石板が輪になって並び、その中央に深い穴が開いている。向こう側に次の扉。

 石板には、それぞれ異なる絵。

 炎、雨、鳥、骨、家、剣、手、空白。

 リグレが地図を広げた。

「道は真っすぐ。でも石板のどれかを踏むと橋が出るみたい」

「どれかを踏むと落ちる、じゃなくて?」イオ。

「それもあり得る」

「先に言って」

 ボグが炎の板へ足を乗せた。

 穴から火柱が上がり、前髪が少し焦げた。

「熱い」

「見ればわかる」と三人。

 雨の板からは針の雨。

 鳥の板からは石の嘴。

 剣の板からは当然、刃が飛び出した。

「残り、骨、家、手、空白」とリリク。「どれが橋?」

「歌にヒントがあるかも」とリグレが言う。「マルハの宝歌。『火を越え、雨を抜け、鳥より高く、骨を家とし――』」

「それ、雲鯨に食われる歌じゃない?」

「最後が地方で違う。うちでは『友の手を取り、名もなき道を行け』」

 四人は顔を見合わせた。

 家でも、手でもない。

 空白。

 けれど空白の石板は、穴の反対側にある。跳べる距離ではなかった。

「友の手を取り」とボグが言う。

 彼は床へ腹ばいになり、長い腕を伸ばした。リグレが足をつかみ、リリクがリグレの腰を、イオがリリクの工具帯をつかむ。

「工具帯、外れるかも」とリリク。

「早く言って!」

「いま思い出した!」

 ボグの指先が、空白の石板へ届いた。

 ごうん、と広間が震える。

 穴の上に、透明な橋が浮かび上がった。ガラスでも氷でもない。名灯の青い光だけを受け止める、薄い道。

「骨を家とし、友の手を取り、名もなき道を行け」とイオが呟く。

「空賊、詩人ぶってる」とリリク。

「でも橋は出た」

「腹立つけど実用的」

 四人は透明な橋を渡った。

 最後尾のイオが中央まで来たとき、足もとの穴から声がした。

 ――置いていかれるぞ。

 自分の声だった。

 ――あの三人は、おまえがいなくても進める。

 影が、橋の上で立ち止まった。

 前を行く三人ではなく、穴の底を見ている。

 イオは影の腕を踏みつけた。

「行くぞ」

 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。

三 笑う洞窟

 通路は、やがて天然の洞窟へ変わった。

 天井から生えた白い結晶が歯のように並び、壁の裂け目からぬるい風が吹く。風が通るたび、洞窟全体がくすくす笑った。

 ひひ。

 ひひひ。

 ひひひひ。

「ここ嫌い」とボグが言った。

「珍しいね。さっき火柱には『熱い』しか言わなかったのに」

「火は笑わない」

 銀糸はまだ後ろへ続いていた。リリクが時折引き、入口までつながっていることを確かめる。

 洞窟の途中に、古いキャンプ跡があった。

 腐った帆布。

 錆びた鍋。

 人の骨が三体。

 骨は壁を向いて座り、両手で耳を塞いでいる。

 その前の岩に、刃物で文字が刻まれていた。

 《声は宝を約束する》

 《声は故郷を約束する》

 《声は、なくした者を返す》

 《聞くな》

 最後の一行だけ、文字が深い。何度もなぞった跡がある。

 リグレがしゃがみ、骨のそばから銀の留め具を拾った。灰色の帆をかたどっている。

「マルハの一味」

「本人か?」ボグが聞く。

「違う。マルハは女だった。歌では」

「歌では雲鯨だった」

「雲鯨は性別じゃない」

 リリクが骨の一本を調べた。

「歯が削れてる。死ぬ前に、自分の舌を噛み切ろうとしたみたい」

「どうして」

「返事をしないため」

 そのとき、洞窟がまた笑った。

 ひひひひひ。

 笑い声に混じって、別の音があった。

 遠い鐘。

 いや、歌。

 言葉は聞き取れない。けれど意味だけが頭へ流れ込んでくる。

 ここへ来い。

 おまえの望みを知っている。

 おまえが本当に呼ばれたい名を知っている。

 イオは耳を塞いだ。

 歌は骨を通って響いた。

 見れば、リグレも唇を白くしている。ボグは目を閉じ、リリクは爪が食い込むほど角を握っていた。

「何を……聞かされた?」イオが聞く。

「言わない」とリグレ。

「どうして」

「言葉にしたら、本当になりそうだから」

 ボグが、弱い声で言った。

「母ちゃんの声だった」

 ボグの母は、三年前に雲嵐で行方不明になった。

「戻ってこいって。家で煮込み作ってるって」

 誰も何も言えなかった。

 リリクが突然、工具袋をひっくり返した。金槌、釘、歯車、発火石。耳へ詰められそうなものを探し、布切れを四つに裂く。

「耳栓。完全には止まらないけど、気休めにはなる」

「気休め大事」とボグ。

「壊れにくいからね」

 布を詰めると、歌は少し遠のいた。

 先へ進む。

 洞窟は二股、三股と分かれ、地図の線も複雑になった。リグレは銅板と壁の模様を見比べながら進んだが、やがて立ち止まった。

「おかしい」

「何が?」

「地図では右。でも銀糸が左へ伸びてる」

 来た道を示す銀糸が、足もとから左の横穴へ入っていた。

 後ろの通路ではない。

 リリクが糸を引く。

 手応えはある。

 引き返すと、数十歩先で糸は岩壁のなかへ消えていた。

「壁が動いた?」ボグ。

「島の内部が組み替わってる」とリリク。「歯車か、名術か、それとも生き物」

「最後はやめて」

 笑う風が吹いた。

 壁の白い結晶が一本ずつ揺れた。

 歯だった。

 洞窟の床が、舌のように持ち上がる。

「走れ!」リグレが叫んだ。

 四人は駆けた。

 背後で岩壁が噛み合い、銀糸がぷつりと切れた。結晶の牙が火花を散らし、通路そのものが蠕動する。名灯の光が跳ね、影が四方八方へ伸びる。

 リリクが転んだ。

 工具が散る。

 イオは戻って腕をつかんだ。

 その横を、イオの影だけが先へ逃げていく。

 ――やっぱり。

 胸のどこかで、そう思った。

 ぼくの影はぼくより正直だ。

「イオ!」

 リグレの声。

 前方の亀裂へ、ボグが両腕を差し込み、閉じようとする岩壁を支えていた。

「長くは無理! これ、すごく噛む!」

 イオとリリクが滑り込み、最後にボグが体をねじ込む。背中の鞄が牙に挟まれた。

「焼き芋が!」

 ボグは迷った。

 本気で迷った。

 リグレが襟首をつかんで引きずり出す。鞄は岩の口へ消え、洞窟が満足そうに咀嚼した。

 もぐ。

 もぐ。

 ごくん。

 静けさが戻る。

 ボグは膝をついた。

「全部……食われた」

「命が残った」

「塩も別袋だった」

「それはつらい」

 リリクが、残った小袋を差し出した。

「非常用の干し豆」

「おまえ、最高だな」

「一粒十ルク」

「最低だな」

 笑いが漏れた。

 ひどい場所で、ひどい目に遭ったのに、四人とも笑った。

 その瞬間、洞窟の笑い声が止んだ。

 まるで、自分以外の笑いを初めて聞いたように。

 前方の闇で、何かが後ずさった。

 イオの影が戻ってきた。

 足もとへぴたりと重なる。その輪郭は、さっきより少し小さく見えた。

「怖かったのか」

 イオが囁くと、影は答えなかった。

 ただ、リグレたちの影へ手を伸ばすような形をした。

 洞窟の奥に、石造りの階段が現れていた。

四 名のない都

 階段を下りた先に、街があった。

 島の内側に埋もれた、広大な都。

 黒い尖塔が上下逆さに生え、橋が空中で輪を描き、窓のない家々が円形の広場を囲んでいる。天井には無数の小さな灯りがあり、星空のように明滅していた。

 だが、星座が違う。

 どれも見たことのない配置で、ゆっくりと動いている。

「これ、天井じゃない」とリリクが言った。

「じゃあ何?」

「窓」

 イオは見上げた。

 黒い天井の向こうに、宇宙があった。

 いや、宇宙に似た何かが、こちらを見ていた。

 四人は目をそらした。

 広場には石像が並んでいた。長い腕、細い胴、顔の代わりに滑らかな面。すべて背を向け、広場中央の円井戸を見ないように立っている。

 井戸には蓋がされ、太い鎖が七本巻かれていた。

 六本は黒い。

 一本だけ、青白く光っている。

 ネムラスの地上にある錨鎖と同じ光。

 リグレが銅板を広げた。

「宝庫は都の反対側。中央広場を抜ける」

「この井戸のそばを?」イオ。

「地図では」

「地図、嫌いになってきた」

 彼らは石像の背中沿いに歩いた。

 像の台座には文字が刻まれていたが、どれにも名前がない。

 《最初に振り返った者》

 《最後まで歌わなかった者》

 《七番目の鍵を作った者》

 《自分の子の名を忘れた者》

「この都、誰にも名前がない」とイオは言った。

 名術師見習いの目で見ると、それは異様だった。

 ものには名がある。人にも、石にも、風にも。呼び名ではない。それがそれであり、別のものではないという輪郭。

 けれどこの都の建物も像も、輪郭がぼやけている。

 長いあいだ呼ばれず、忘れられ、自分が何だったかを失いかけている。

 名灯の光がさらに弱くなった。

 円井戸のそばを通り過ぎようとしたとき、イオの影が止まった。

 鎖の下。

 石蓋の隙間から、別の影が染み出している。

 人型ではない。

 海藻のように枝分かれし、その先端ひとつひとつに小さな口がある。

 口は無音で開閉した。

 イオ。

 イオ。

 イオ。

 影が引かれていく。

 イオは足を踏ん張った。だが、自分の影を踏んでも止まらない。黒い輪郭が細長く伸び、井戸へ吸い込まれる。

「手を!」

 リグレがイオの腕をつかんだ。ボグがリグレを、リリクがボグをつかむ。

 透明な橋のときと同じだった。

 ただし今度は、穴の底が彼らを引いている。

 井戸の鎖が一本、ぎしりと鳴った。

 頭のなかへ声が流れ込む。

 ――おまえは何者だ。

 イオは答えなかった。

 ――名を学ぶ者。

 ――名を呼べぬ者。

 ――火ひとつ灯せぬ者。

 ――友に追いつけぬ者。

 全部、本当だった。

 ――こちらへ来い。

 ――おまえに、誰も逆らえぬ名をやろう。

 影が井戸の隙間へ指をかけた。

「イオ!」リグレが叫ぶ。「影に言え! 戻れって!」

「聞かないんだ!」

「名術は!」

「こいつの名を知らない!」

 試験の日から、何度呼びかけても影は従わなかった。

 「影」「闇」「ぼくの影」。どれも違った。

 井戸の蓋が、ほんの指一本分浮いた。

 隙間の向こう。

 暗闇ではない。

 数えきれない星が、巨大な渦を巻いている。

 その中心に、瞳孔が開いた。

 星々そのものが、何かの眼だった。

 見てはいけない。

 そう思ったときには、もう見られていた。

 イオの頭から、名前が吹き飛んだ。

 赤い髪の少女。

 大きな灰緑の少年。

 角のある小さな少女。

 誰だ。

 腕をつかんでいる、この手は誰のものだ。

「私を見て!」

 赤い髪の少女が叫ぶ。

「私の名前を言って!」

 知らない。

 いや、知っていた。

 塔の屋根。巻尺。歪んだ板。嘘を二度言わせない声。

「ミ……」

 名前が喉まで来て、崩れる。

 足もとの影が、井戸へ半分入った。

 そのとき、大きな少年が片手を離した。

 鎖が緩む。

 全員が引きずられる。

 少年は腰の小袋から干し豆を一粒取り、イオの口へ投げ込んだ。

「借り、一ルクな」

 塩辛い。

 硬い。

 不味い。

 そして、知っている味だった。

「ボグ」

 名前が戻る。

 大きな少年が笑った。

「利子つけるぞ」

「リリク」

 角の少女。

 壊れたものを直す。直ったものを壊す。泣く代わりに値段をつける。

「リグレ」

 帰り道を、絶対に諦めない者。

 三人の輪郭が戻った。

 イオは自分の影を見た。

 逃げる者。

 羨む者。

 怒る者。

 友だちに置いていかれるのが怖い者。

 失敗したと知られるくらいなら、最初から何もしないふりをする者。

 それも知っている。

 だが、言葉にする前に、広場へ足音が響いた。

 こつ。

 こつ。

 こつ。

 白い仮面の男たちが、尖塔の間から現れた。

 空運商会の監査官サルダン。

 その後ろに六人。全員、笑顔の仮面をつけ、黒い外套の裾を引きずっている。

 彼らの影は、ひとつにつながっていた。

「見事です」

 サルダンが拍手した。

「地図だけでは扉を開けられなかった。名術師の卵を連れてきてくれて、心から感謝します」

 リグレの顔から血の気が引いた。

「父さんの工房に地図を隠したのは、あなた?」

「正確には、見つけやすい場所へ戻したのです。灰帆のマルハが盗んだ鍵をね」

 サルダンは井戸へ向き直った。

「ネムラスの暁石が枯れた? いいえ。あれは鉱石ではない。この都を封じる七番目の鎖、その一部です。地上から少しずつ削り、弱らせるのに百年かかりました」

「商会が採掘してたのは……」

「鎖です。あなた方の父祖は、知らずに封印を売った」

 サルダンの仮面の口が、満足そうに歪んだ。

「そして今夜、最後の鍵が自ら歩いてきた」

 彼の指が、イオを指した。

五 海の下から来る呼び声

「ぼくが、鍵?」

「正確には、あなたの影です」

 サルダンは両腕を広げた。

「この都を築いた者たちは、〈彼方の眼〉を閉ざすため、七つの鎖を作った。鉄、石、風、記憶、沈黙、血。そして最後が、分かたれた名」

 イオの影が震えた。

「ひとりの者を二つに裂き、片方を永遠の番人とする。残酷だが美しい術です。灰帆のマルハは最後の番人を解放し、その役目を自分の一族へ移した。あなたの母方の名は、マルハにつながっている」

 イオは母をほとんど知らない。

 幼いころ、空熱病で亡くなった。遺品は青いスカーフと、読めない航海日誌だけ。

「嘘だ」と言った。

「名術師なら、嘘の響きがわかるでしょう」

 わかった。

 サルダンの言葉には、濁りがない。

 少なくとも彼は本当だと信じている。

「試験の日、あなたは灯火を呼ぼうとした。けれど血に眠る古い術が目覚め、影を切り離した。偶然ではない。下の御方が、あなたを呼んだのです」

 井戸の向こうで、星の眼が瞬いた。

 都全体が軋む。

 天井の星々が、一斉に位置を変える。

 歌が強くなった。

 ――開け。

 ――われらは、おまえたちが空と呼ぶものより古い。

 ――われらは、おまえたちの名が生まれる前から、おまえたちを知っている。

 ――開け。

 ボグが両耳を押さえて膝をついた。

 リリクの鼻から血が流れる。

 リグレは羅針盤を握りしめている。針は井戸を指し、ぐるぐる回っていた。

「聞くな!」イオは叫んだ。

 サルダンは仮面を外した。

 その下に顔はなかった。

 皮膚のあるべき場所が、夜空になっている。小さな星が回り、中央に縦長の裂け目がある。

「我々は聞いたのではない」

 六人の仮面人が同時に言った。

「聞かれることを選んだ」

 彼らの影が盛り上がり、黒い腕となって四人へ伸びた。

「走れ!」

 リグレが銅板を投げた。

 サルダンが反射的に目で追う。

 その隙にリリクが発火石を蹴り、床へ撒いていた油へ火をつけた。青い炎が壁のように立ち上がる。

「名灯の油!」イオ。

「帰りに補充代、請求する!」

 四人は広場を駆けた。

 地図はサルダンの足もとへ落ちたが、リグレは迷わない。通路、階段、左の尖塔、崩れた橋。彼女は一度見た道を忘れなかった。

 背後から黒い腕が迫る。

 ボグが石像を倒し、道を塞ぐ。

 リリクが歯車扉へ釘を打ち込み、動きを止める。

 イオは最後尾で白墨を撒き、知っている限りの防護名を唱えた。

「石よ、閉じろ。鉄よ、眠れ。火よ、境を守れ」

 石壁がせり上がる。

 鉄格子が落ちる。

 青い炎が弧を描く。

 どれも一瞬しか持たない。

 けれど一瞬で足りた。

 四人は都の西端、半壊した円塔へ飛び込んだ。

 扉を閉じると、外から何十本もの指が引っかいた。

 がり。

 がりがり。

 やがて音は止んだ。

 塔の内部には、金貨があった。

 床いっぱい。

 階段いっぱい。

 天井近くまで積まれた、赤金、青金、古王朝の星貨。宝石の冠、銀の食器、空帆船の心臓部に使う風晶。ネムラスどころか、周辺の島を三つ買える。

 ボグの口が開いた。

「焼き芋も……買える」

「どれだけ」

「全部」

 だがリグレは笑わなかった。

 宝の山の中央に、一隻の小さな帆船が置かれていた。

 灰色の帆。

 船首には、女の骸骨が腰かけている。

 骸骨の首に、灰帆の留め具。

 膝に航海日誌。

 灰帆のマルハ。

 イオが日誌を取ると、表紙に名術の封があった。手を触れた瞬間、文字が浮かぶ。

 《これを読む者へ。金を持って帰れ。ただし、星金には触れるな》

「星金って?」ボグ。

 宝の奥で、銀白色の光が瞬いた。

 直径一メートルほどの円盤。

 表面に、見知らぬ星座が刻まれている。

 井戸の鎖と同じ青白い光を放っていた。

 日誌の文字が続く。

 《私は愚かにも、下の声を宝の守り手と思った。仲間は望みを見せられ、互いの名を忘れた。最後に残った私は、七番目の鎖を己の影へ移した》

 ページをめくる。

 《鎖は金属ではない。約束だ。

 世界と世界の間に、こちらはここまで、あちらはそこまで、と引いた線だ。

 星金はその約束の楔である。持ち出せば、井戸は開く》

 さらに下。

 筆跡が乱れている。

 《影は悪ではない。

 恐れも、嫉みも、逃げたい心も、名の一部だ。

 切り捨てたものは消えない。暗い場所で育ち、呼ぶ声に形を与える。

 番人を終わらせる方法はひとつ。

 分かれた者が、自らを余さず名乗ること》

 イオは息を止めた。

「余さず、名乗る」

 自分の影を見る。

 影は宝の光のなかで、イオに背を向けていた。

 塔の外から、サルダンの声。

「星金をこちらへ」

 扉が軋む。

「あなた方は金貨を持って帰ればいい。町を買い戻し、英雄になれる。誰も失わない。実に公平な取引だ」

 リグレが日誌を覗き込んだ。

「嘘」

「何が?」

「商会が島を退去させるのは、最後の鎖を切るため。私たちが金で町を買っても、サルダンが星金を持ち出したら全部終わる」

「じゃあ星金を守る」

「井戸の鎖はもう弱ってる。地上の採掘が続けば、いずれ切れる」

 リリクが塔の機械を調べていた。

 小帆船から床へ、細い管が何本も伸びている。

「この船、飾りじゃない。塔全体とつながってる。たぶん運搬機」

「動く?」

「二百年整備されてない」

「つまり?」

「私を誰だと思ってる?」

 リリクは笑った。

 鼻血まみれで、ひどく頼もしかった。

「動かす。ボグ、風晶を三つ。リグレ、帆を開いて。イオは――」

 扉が破れた。

 黒い腕が雪崩れ込む。

 ボグが宝箱を盾にして受け止めた。金貨が嵐のように舞う。

 サルダンが入ってくる。

 顔の夜空が、塔の光を吸い込んでいた。

「時間です」

 彼が手を上げる。

 イオの影が、床から引き剥がされた。

 影は苦しむように身をよじり、サルダンのほうへ滑っていく。

 イオは追いすがった。

 腕をつかもうとしても、指は黒い表面をすり抜ける。

 ――おまえは何者だ。

 下の声が、もう一度聞いた。

 答えなければ、影を奪われる。

 答えても、何を言えばいいかわからない。

 イオ。

 十四歳。

 名術師見習い。

 昇級試験に落ちた。

 ネムラス島の住人。

 どれも本当で、どれも足りない。

 サルダンの指が影へ触れる。

 その瞬間、影が振り返った。

 顔はない。

 けれどイオには、その表情がわかった。

 怒っていた。

 ずっと。

 失敗した日に、イオが「こんなのぼくじゃない」と言ったから。

 怖くて逃げた日に、「臆病な自分なんていなくなればいい」と願ったから。

 友だちを羨んだ日に、その気持ちを暗いところへ押し込めたから。

 影は捨てられたのではない。

 捨てられたと思っていた。

「ごめん」

 イオは言った。

 サルダンが笑う。

「影に謝る者があるか」

「いる。ここに」

 イオは床へ膝をつき、影と目の高さを合わせた。

「ぼくは臆病だ。置いていかれるのが怖い。リグレが何でも決められるのが羨ましい。ボグが怖くても動けるのが羨ましい。リリクが失敗を笑えるのが羨ましい」

 リグレが何か言いかけた。

 イオは続けた。

「師匠たちを困らせたくなくて、知らないふりをした。町がなくなれば、試験に落ちたことも一緒になくなるって、少し思った。三人が宝を見つけて戻ったら、自分だけ何者でもなくなると思った」

 言葉にするたび、胸が痛んだ。

 でも、痛みの向こうに輪郭が生まれた。

「逃げたい。褒められたい。負けたくない。怖い。全部、ぼくだ」

 影の震えが止まった。

「おまえの名は、影じゃない」

 イオは手を差し出した。

「おまえの名も、イオだ」

 黒い手が重なった。

 冷たいと思っていた。

 けれど、温かかった。

 影がイオの指、腕、胸へ溶け込む。

 引き裂かれていた何かが、正しい位置へ戻ってくる。

 名灯が爆発するように輝いた。

 塔の壁、宝、仲間たち、遠い都、さらにその外側まで、あらゆるものの輪郭が一瞬だけ見えた。

 サルダンの顔にある星空。

 それは彼のものではない。

 彼もまた、名を差し出し、空いた場所へ〈彼方の眼〉を入れただけだ。

「あなたの名は、どこにある?」

 イオが尋ねた。

 サルダンが後ずさる。

「私は聞かれる者」

「それは役目だ」

「私は扉を開く者」

「それも役目だ」

「私は――」

 彼の声が崩れた。

 顔の星々が乱れ、黒い裂け目から何本もの腕が伸びる。彼方の何かが、器の壊れかけたことを悟った。

 サルダンが初めて、人間の声で叫んだ。

「私の名を返せ!」

 けれど下のものは、返さなかった。

六 星を閉じる

 塔が傾いた。

 遠くで鎖の切れる音がした。

 一本。

 また一本。

 井戸の蓋が開き始めている。

 天井の星空が裂け、都へ黒い光が差し込んだ。石像が次々に振り返る。顔のない面に口が開き、同じ歌を歌い始める。

 ――開け。

 ――開け。

 ――開け。

「船、動く!」リリクが叫んだ。「たぶん!」

「たぶん禁止!」リグレ。

「確実に動かないよりいい!」

 小帆船の船腹が開き、青い光が噴き出した。灰色の帆が勝手に膨らむ。

 ボグが星金の円盤を抱えた。

「これ、持ってくのか?」

「持ち出したら駄目!」リグレ。

「じゃあどうする!」

 イオには、星金から伸びる名の線が見えた。

 円盤は井戸とつながっている。

 同時に、小帆船とも。

 灰帆のマルハは、星金を運ぶために船を置いたのではない。

 星金を、あるべき場所へ戻すためだ。

「井戸へ運ぶ!」

 三人がイオを見た。

「鎖は地上で削られた。でも星金は楔。井戸の蓋へ戻せば、封印を作り直せる!」

「作り直すって、どうやって?」

「名前を呼ぶ」

「何の?」

「この都の!」

 名を失った都。

 忘れられた建物。

 背を向けた石像たち。

 イオはマルハの日誌の最後のページを開いた。

 そこに一行だけ、古い名術文字がある。

 《都の名は、住む者の名を集めてできる》

「全員、船へ!」

 四人は星金を甲板へ転がし、宝箱を二つだけ積んだ。ボグは三つ目へ手を伸ばしたが、船が大きく沈んで諦めた。

 サルダンだったものが、塔の入口を塞いだ。

 人の輪郭はもうない。星空をまとった巨大な影。内側から無数の顔が浮かび、消える。

 ――イオ。

 それは母の声で言った。

 イオの足が止まる。

 ――ずっと会いたかった。

 青いスカーフ。

 熱の夜。

 覚えていないはずの子守歌。

 影が胸の内側で揺れた。

 だが今度は、勝手に走らなかった。

「ぼくも会いたかった」

 イオは答えた。

 リグレが息を呑む。

 下から呼ばれても、返事をするな。

 それがネムラスの教え。

 けれどイオは続けた。

「だから、あなたが母さんじゃないってわかる」

 白墨を床へ投げる。

「火よ、名を持つものだけを照らせ!」

 名灯の光が炎へ移った。

 塔を満たす青白い火。

 リグレ、ボグ、リリク、イオ、小帆船、金貨、石壁。名を持つものは光を返す。

 サルダンだったものだけが、透明になった。

 借り物の声。

 借り物の顔。

 何ひとつ、自分の名を持たない。

 怪物が怯んだ。

「出せ!」リリクが舵輪を叩く。

 小帆船が塔を飛び出した。

 空中都市の大通りを、灰色の帆が駆ける。地面すれすれを滑り、倒れる尖塔をくぐり、崩れる橋を飛び越える。

「右!」リグレ。

「舵が左にしか回らない!」

「じゃあ左を三回!」

「そういう問題じゃない!」

 ボグが帆柱へぶら下がり、体重で船を傾ける。

 小帆船は石像の鼻先をかすめ、円井戸の広場へ出た。

 井戸の蓋は半分開いていた。

 向こう側に、星の渦。

 目ではない。

 眼という考えそのもの。

 見るという行為だけが巨大になり、世界の外からこちらへ押し込まれている。

 それに見られた石像は、自分の形を忘れて溶けた。

 建物は上下を忘れ、空へ落ちた。

 時間さえ順番を失い、四人は一瞬、幼い自分と年老いた自分を同時に見た。

 ボグが三歳の声で泣き、百歳の声で笑った。

 リリクの角が伸び、折れ、また戻る。

 リグレの髪が白くなり、次の瞬間には赤くなる。

「名前を言え!」イオは叫んだ。「自分の名前を!」

「ミナ・セイル! ネムラス島、東工房の娘!」

「ボグ・ダンダ! 煮込みは豆多め!」

「リリク・フェン! 借金は忘れない!」

「イオ・マルハ!」

 自分でも驚いた。

 けれど、その名は胸の奥で正しく響いた。

 母から受け継いだ名。

 空賊の名。

 失敗した見習いの名。

 影とひとつになった者の名。

 時間が彼らを見失い、元の順番へ戻った。

「星金を!」リグレ。

 ボグが円盤を持ち上げる。

 船を井戸の蓋へ寄せる。

 しかし黒い腕が縁から伸び、星金をつかんだ。

 何百、何千という指。

 それぞれの爪に、小さな星空。

 ボグが引く。

 腕が引く。

 船が井戸へ傾く。

「無理だ!」ボグの足もとで甲板が割れる。

 リリクが風晶の安全弁を蹴り折った。

「十秒だけ出力三倍! そのあと爆発!」

「先に言って!」

「いま言った!」

 船が跳ねた。

 星金ごと黒い腕へ突っ込み、井戸の蓋へ激突する。

 イオは円盤へ両手を置いた。

 無数の響きが流れ込む。

 この都を築いた者たちの最後の記憶。

 子を抱く腕。

 パンを焼く匂い。

 窓辺の歌。

 橋を直す金槌。

 喧嘩。

 仲直り。

 誰かを待つ灯り。

 名は消えていなかった。

 ひとつずつは失われても、互いの記憶のなかに残っていた。

 イオはそれらを呼んだ。

「最初に振り返った者。あなたは、怖くても確かめた」

 石像の一体に、顔が戻る。

「最後まで歌わなかった者。あなたは、隣の者の耳を塞いだ」

 もう一体。

「七番目の鍵を作った者。あなたは、完成した日に指を火傷した」

「自分の子の名を忘れた者。あなたの子は、それでもあなたの手を覚えていた」

 像が次々に人の形を取り戻す。

 名前そのものではない。

 だが、誰かが誰かであった証が、都へ輪郭を返していく。

 家々に灯りがともる。

 橋がつながる。

 窓が開く。

 都全体が、ひとつの巨大な名として響いた。

 それは人の喉では発音できない。

 けれどイオは意味を理解した。

 《帰る場所》

「おまえの名は――」

 イオは都へ向かって言った。

「帰る場所だ!」

 星金が井戸の蓋へ沈み込んだ。

 青白い光が七つに分かれ、新しい鎖となって星の眼へ巻きつく。黒い腕が裂け、歌が絶叫へ変わる。

 ――小さきもの。

 ――束の間のもの。

 ――名など、いずれ消える。

「消えるよ!」

 イオは叫び返した。

「だから呼ぶんだ!」

 蓋が閉じた。

 星々が一本の線になり、消える。

 最後に残った巨大な瞳孔が、怒りとも悲しみともつかない動きで細くなった。

 闇。

 そして静寂。

 次の瞬間、小帆船の風晶が爆発した。

七 帰り道は四人分

 気がつくと、イオは逆さの街路樹に引っかかっていた。

 下に空。

 さらに下に、暗い下海。

 片足だけが枝へ絡み、体がぶら下がっている。

「起きた?」リグレの声。

 隣の枝に、リグレもぶら下がっていた。髪が重力に従って真上へ伸びているように見える。

「みんなは?」

「ボグはあそこ」

 広場の石像二体に挟まれ、ボグが寝ている。いびきが都中に響いていた。

「リリクは?」

「船」

 小帆船は噴水へ突き刺さっていた。

 船尾から煙が上がり、リリクが嬉しそうに中を覗いている。

「直せる!」と彼女は叫んだ。「壊れ方が素直!」

 四人とも生きていた。

 井戸は閉じている。

 七本の青い鎖が蓋を覆い、脈打つように光っていた。

 サルダンと仮面人たちは消えていた。

 広場の端に、白い仮面だけが七つ落ちている。

 イオたちは塔へ戻った。

 宝の半分は崩落で埋まり、残りも小帆船には積めない。持ち帰れたのは宝箱二つと、マルハの日誌。それでも十分だった。

「町、買えるかな」とボグ。

「たぶん」とリグレ。「でも問題は商会。採掘を止めさせないと」

「証拠ならある」

 イオは日誌を開いた。

 後半には、商会の前身組織と〈聞かれる者たち〉が交わした契約、採掘量、封印を弱らせる計画が記されている。マルハが奪った金貨は、その組織の資金だった。

「二百年前の日誌を、商会が認める?」

「認めなくても、都を見せればいい」とリリク。

「大人をここへ連れてくるの?」イオ。

「入口の扉はイオの影が開けた。今は?」

 四人が足もとを見る。

 イオの影は、普通に月明かりの反対側へ伸びていた。

 手を振らない。

 ため息もつかない。

 イオは少し寂しくなった。

 すると影の指先だけが、ほんのわずかに動いた。

 誰にも見られないように、イオも指を動かした。

「別の出口を探そう」とリグレ。

 灰帆のマルハの日誌には、帰路も記されていた。

 宝塔の地下から、古い昇降機で地上の風見塔へ出られる。ただし起動には都の力が必要。

 井戸が閉じたいま、街には淡い灯りが戻っている。

 リリクが昇降機の制御盤を叩くと、百年分の埃を吐いて動き始めた。

 円形の籠へ四人と宝箱二つを詰め込む。

 かなり狭い。

「誰か、俺の足踏んでる」とボグ。

「全員」

「誰か、私の角に鞄かけた」とリリク。

「便利だったから」

「使用料二ルク」

「誰か、笑ってる」とイオ。

 三人が黙る。

 ひひ。

 ひひひ。

 昇降路の下から、洞窟の笑い声が追ってくる。

 全員、息を止めた。

 ひひひひ。

 今度は、泣いているようにも聞こえた。

 イオは籠の底へ手を当てた。

 岩の名はまだ曖昧で、洞窟が生きているのか、都の一部なのかもわからない。

 それでも言った。

「また来るよ」

「来るの?」リグレ。

「いや、言ってから後悔した」

「名術師は言葉を大事にしなきゃ」

「まだ見習い」

「じゃあ見習いのうちに撤回しとけ」

 洞窟が、最後に一度だけ笑った。

 今度は四人も笑った。

 昇降機は上がり続ける。

 遠くで夜明けの風が動き始めた。

八 朝を買い戻す

 風見塔の床が割れ、昇降機が飛び出したのは、太陽が昇る少し前だった。

 塔の周りには大人が集まっていた。

 リグレの父。

 ボグの叔母。

 リリクの親方。

 イオの名術師匠。

 町長。

 そして、商会の護衛たち。

 子ども四人が埃まみれで現れ、宝箱を二つ転がし、二百年前の空賊の日誌を掲げたとき、誰もすぐには言葉を出せなかった。

 最初に口を開いたのは、ボグの叔母だった。

「その前髪、どうした」

「火柱」とボグ。

「あとで切る」

「宝は?」

「ある」

「怪我は?」

「少し」

「焼き芋は?」

「全部食われた」

 叔母はボグを抱きしめたあと、頭をはたいた。

 その日から、ネムラスは大騒ぎになった。

 日誌は名術院で検証され、偽造でないと認められた。

 都への入口も、別の名術師たちが開いた。井戸の歌は止んでいたが、七本の鎖と、商会の採掘器具が封印へつながっていることが確認された。

 空運商会は計画を否定した。

 だが、サルダン監査官と六人の護衛が消え、地下から契約書の石板が見つかると、態度を変えた。

 「一部職員の独断」と発表した。

 大人は、組織が追い詰められたときに使う便利な呪文だと言った。

 宝箱の金貨で、ネムラスの借地権は住民へ買い戻された。

 残りは採掘跡の修復と、地下都を守るために使われた。

 ただし、島をその場所に留めておくことはできなかった。

 錨鎖は弱りすぎていた。

 封印を守るためにも、地上の古い鎖を切り、島を静かな空域へ移さなければならない。

 出航の日、ネムラスの住民は家々に風帆を張った。

 船大工たちは屋根を補強し、名術師たちは道と建物の名を結び、沼人たちは巨大な綱を引いた。火鼠族は島の底へ新しい風晶機関を据えた。

 町全体が、一隻の船になった。

 イオたち四人は風見塔の屋根に座り、古い空域が遠ざかるのを見ていた。

「結局、町は動くんだな」とボグ。

「なくなるのとは違う」とリグレ。

「市場も学校もある」

「うちの親方もいる」とリリク。「最悪」

「嬉しそうだよ」

「工具代を請求できるから」

 島の下で、新しい七本の鎖が淡く光っている。

 さらに下には、見えない井戸。

 その向こうには、今も何かが待っている。

 封印は永遠ではない。

 名も、町も、人も、永遠ではない。

 だから守る。

 呼ぶ。

 忘れない。

「イオ」

 リグレが言った。

「昇級試験、受け直すんでしょ」

「考え中」

「火は呼べるようになった?」

「たぶん」

「たぶん禁止」とリリク。

「確実に呼べないよりいい」とボグ。

「それ、どこかで聞いた」

 イオは指先を立てた。

 火の名を探す。

 熱。光。食べ物を煮るもの。家を焼くもの。夜を退けるもの。怖がる影を、足もとへつなぎ止めるもの。

 以前のイオは、火の明るい部分だけを呼ぼうとした。

 危険も、煙も、燃え尽きることも、火の名から除こうとした。

 今は違う。

「来い」

 指先に、小さな炎が灯った。

 風に揺れ、少し煙を出し、危うく袖を焦がした。

 完璧ではない。

 けれど本物だった。

 ボグが歓声を上げる。

 リリクが袖の修理代を計算する。

 リグレが笑う。

 朝日が、移動する島の縁から差し込んだ。

 四人の影は長く伸び、ひとつになったり、離れたりしながら、新しい空へ向かって走っていく。

 その日、ネムラスは故郷を失わなかった。

 故郷のほうが、彼らと一緒に旅へ出たのだ。