『世界の果てに、最初の旗を』
道がないなら、最初の一歩になればいい。
それが、カナタの信条だった。
一 道のない少年
天樹アトラスの第七百二枝――カゲノハ村。
世界を支えるという巨大樹の、はるか下方に張り出した一本の枝に、その村はへばりつくように存在していた。
頭上は幾重もの枝葉に覆われ、太陽は一年に三分しか見えない。朝も昼も薄暗く、家々の窓には青白い苔灯りが揺れている。村人たちは朝を知らず、鐘の音で一日を数えた。
その日、五つ鐘が鳴る少し前。
「どけどけどけぇーっ! 命より大事な荷物のお通りだぁーっ!」
絶叫とともに、少年が空から降ってきた。
正確には、落ちてきた。
ぼさぼさの黒髪。擦り切れた赤い上着。背には本人より大きな荷袋。両手で握るのは、破れた布を張った二本の鍋蓋だった。
鍋蓋は羽のつもりらしい。
「それのどこが飛行具なのよーっ!」
村の広場で、金髪の少女ルゥが叫んだ。
「心だ!」
「足りないのは頭よ!」
カナタは干し茸屋の屋根を削り、洗濯物を三列さらい、最後は祭壇前の巨大な苔玉へ頭から突っ込んだ。
ぼふん、と青い胞子が舞う。
しばらくして、苔玉から腕だけが突き出た。
「配達……完了……!」
「どこがよ!」
ルゥが苔の中からカナタを引きずり出す。彼女は腰に工具帯を巻き、髪には十本近い銀の鋲を挿していた。村一番の機巧師見習いで、カナタの幼なじみであり、暴走を止める役目を一方的に背負わされている。
荷袋の中から、ひしゃげた小箱が転がった。
広場の端で待っていた老婆が拾い、蓋を開ける。中の薬瓶は一本も割れていない。
「おお。孫の熱冷ましだ。ありがとうね、カナタ」
「へへっ。配達屋カナタに、不可能はないぜ!」
「橋を使えばよかったでしょ」
ルゥが冷たく言った。
「橋は昨日、枝蟲に食われて通行止めだ」
「だからって三十メートル跳ぶ人がある?」
「なかっただろ、道」
カナタは笑い、背中から一本の旗を抜いた。
少年の背丈ほどもある、古びた白い旗だった。
白いというより、何も描かれていない。
天樹に生きる者は十五歳になると、《道標旗》を授かる。旗に浮かぶ紋章は、その者が人生で進む道を示し、特別な力《標術》を与える。
鍛冶師には炎の紋。薬師には雫の紋。登枝士――天樹の上方を目指す冒険者には、星や翼や羅針盤の紋。
だが、十四歳の儀式でカナタの旗に浮かんだものは、何もなかった。
空白。
道なし。
村人の多くは、それを不吉だと言った。
「道がないなら、作りゃいい」
カナタは白い旗を肩に担ぎ、頭上の闇を指さした。
「俺は天樹のてっぺんまで行く。世界の果てを見つけて、そこにこいつを立てるんだ!」
広場にいた子どもたちが、どっと笑った。
「また言ってる!」
「標術もないのに?」
「てっぺんには怪物がいるんだぞ!」
カナタは胸を張る。
「怪物がいたら、友達になる!」
「食われたら?」
「腹の中から登る!」
今度は大人まで笑った。
ルゥだけは笑わなかった。
「……三日後、登枝士の選抜試験よ」
「おう。もちろん受ける」
「旗に紋がなければ、受験資格はない」
「受付の柵なら跳び越えられる」
「そういう問題じゃない!」
ルゥは怒鳴ったあと、少しだけ目を伏せた。
カナタの父アステルは、十年前に村を出た登枝士だった。
彼もまた、天樹の頂を目指した。
そして帰らなかった。
残されたのは、この白い旗だけだ。
村人は、夢に取り憑かれ家族を捨てた男だと噂した。カナタは一度も信じなかった。
「父ちゃんは、てっぺんで待ってる」
カナタはいつも、迷いなくそう言う。
そのとき。
六つ鐘ではない鐘が鳴った。
低く、乱暴で、村の骨まで震わせる音。
警鐘だった。
二 黒旗
最初に闇を割ったのは、巨大な顎だった。
村の上を覆う枝葉が砕け、木片の雨が降る。
現れたのは、翼のない竜だった。
長い胴を枝に巻きつけ、六本の脚で樹皮を抉る。口の周囲には歯が幾重にも並び、噛みついた場所から道も橋も家も、まるで最初から存在しなかったように消えていく。
「喰路竜……!」
村長が青ざめた。
道を食う災害獣。
一頭現れれば三つの村が地図から消える、と言われる怪物だ。
喰路竜の頭上に、一人の男が立っていた。
長い灰色の外套。左目から頬へ走る傷。右腕には黒い包帯を巻き、片手で大剣のような旗竿を担いでいる。
旗は、夜より黒かった。
中央に浮かぶ紋は、真っ二つに割れた羅針盤。
「十年ぶりだな、カゲノハ村」
男の声は、怒鳴ってもいないのに広場の隅まで届いた。
「黒旗のザンバ……」
村長の唇が震える。
「アステルと組んでいた、登枝士……!」
カナタが顔を上げた。
「父ちゃんを知ってるのか!」
ザンバの片目が、カナタの白い旗を捉えた。
ほんの一瞬だけ、その顔に驚きが走る。
だが、すぐに冷たい笑みへ変わった。
「似ているな。無謀な目だけは」
喰路竜が祭壇へ首を伸ばした。
祭壇の中心には、拳ほどの金色の結晶が浮かんでいる。
《朝火》。
天樹の上層から分け与えられた、太陽の欠片。苔灯りを育て、枝の生命を保つ、村の心臓だった。
「やめろ!」
カナタが走る。
ザンバは黒い旗を一閃した。
「標術――《終点》」
空間に、黒い線が走った。
カナタと祭壇の間の石畳が、音もなく断ち切られる。裂けたのではない。その二メートルだけが、世界から抜け落ちた。
足を踏み出したカナタは、突然現れた穴へ落ちかけた。
「カナタ!」
ルゥが銀の鋲を投げる。
鋲から伸びた細い光糸がカナタの腰へ絡み、すんでのところで引き戻した。
その間に、喰路竜が朝火を丸呑みにした。
村中の苔灯りが、一斉に消えた。
闇。
悲鳴。
足元の枝が、深く軋んだ。
「朝火を失った枝は、夜明けまでに枯れて落ちる」
ザンバが告げる。
「助かりたければ上へ来い。登れる強者だけは、天頂門の向こうへ連れていってやる」
「老人や子どもはどうする!」と村長が叫ぶ。
「置いていけ」
それは天気の話でもするような口調だった。
「冒険とは、選ぶことだ。夢か、故郷か。前進か、停滞か。すべてを欲しがる者は、何一つ掴めん」
ザンバはカナタを見下ろした。
「お前の父親が、そうだったようにな」
「何を……」
「知りたければ追ってこい、空白旗。天頂門で待つ」
喰路竜が枝を蹴った。
巨体が上方の暗がりへ駆け上がり、あとには食い千切られた道だけが残る。
村は混乱に包まれた。
朝火を奪われた樹皮には灰色の筋が広がり、家々を支える根が一本ずつ枯れていく。
村長は声を張り上げた。
「女子どもを中央広場へ! 使える飛空艇を集めろ! 上層への避難路を――」
「無理です!」
機巧師たちが叫ぶ。
「喰路竜に昇枝路を食われました! 飛空艇も朝火なしでは浮きません!」
誰かが泣き出した。
誰かが祈った。
カナタは、ザンバの消えた闇を見つめていた。
「ルゥ。天頂門まで、どれくらいだ」
「正規の道なら半日。でも道は食われた。今からじゃ――」
「近道は?」
ルゥは息を呑む。
「まさか、《逆さ滝》を行く気?」
「それなら三刻で着くんだろ」
「登枝士でも死ぬ難所よ! 風が下から上へ吹き上がるから、落ちたら空の彼方まで飛ばされる!」
「ちょうどいい。上に行く手間が省ける」
カナタは白い旗を背負い直した。
村長が前に立ち塞がる。
「待て。標術も持たぬ子どもに、何ができる」
「朝火を取り返す」
「できるかどうかを訊いている!」
カナタは村長の脇を抜けた。
「できるまでやる」
その背中へ、工具箱が飛んできた。
カナタは振り向かず受け取る。
ルゥが立っていた。
肩には巻き縄。腰には銀鋲。膝はわずかに震えている。
「勘違いしないで。あんた一人じゃ、三分で死ぬから」
「五分は保つ」
「増えてない!」
二人は走り出した。
暗い村の広場で、小さな子どもが叫ぶ。
「カナタ! 朝を持って帰って!」
カナタは振り返り、笑って拳を突き上げた。
「任せろ!」
三 逆さ滝
カゲノハ村の裏手には、枝に開いた巨大な裂け目がある。
そこから噴き出す風は、樹液の霧を巻き上げながら上空へ昇り、遠目には逆向きに流れる滝のように見えた。
逆さ滝。
正規路が整う以前、命知らずの登枝士だけが使った旧道である。
「絶対に手を離さないで!」
ルゥが叫び、二人の腰を一本の縄で結ぶ。
「離したら?」
「先に飛んでいったほうが、あとから来るほうを受け止める!」
「名案!」
「どこがよ!」
二人は裂け目へ飛び込んだ。
次の瞬間、世界がひっくり返った。
風が地面になり、空が崖になる。
カナタの体は木の葉のように舞い上がり、枝の内側に広がる空洞を猛烈な速度で上昇した。巨大な根が左右から突き出し、岩塊が逆向きの雨となって飛んでくる。
「右!」
「どっちの右だ!」
「私の右!」
「知らねえよ!」
カナタは旗竿を根へ突き立てた。
ぎぎぎ、と金属が軋み、二人の軌道が変わる。顔の横を岩塊が通り過ぎ、背後で粉々に砕けた。
さらに上から、長い影が降ってくる。
喰路竜の尾だった。
「いた!」
竜は空洞の壁を螺旋状に駆け上がっている。ザンバの姿はない。どうやら先行し、竜だけを番犬として残したらしい。
喰路竜が口を開く。
風の流れそのものが噛み千切られた。
上昇気流が途切れ、カナタとルゥの体が宙に投げ出される。
「うそ……風まで食べるの!?」
真下には、底の見えない空洞。
カナタは近くの壁へ旗を伸ばした。だが届かない。
あと一メートル。
あと半歩。
「くそっ!」
その瞬間、白い旗の布が大きくはためいた。
何も描かれていない布地に、細い金色の線が走る。
カナタの耳に、誰かの声が聞こえた気がした。
――どこへ行く?
「決まってる!」
カナタは空中で旗を振り下ろした。
「上だぁっ!」
旗竿の先が、何もない空間へ突き刺さった。
足元に一枚だけ、光る板が生まれた。
カナタはそれを蹴る。
一歩。
体が上へ跳ぶ。
光の板はすぐに砕けた。
「今の……標術?」
ルゥが目を見開く。
「知らん! でも使える!」
カナタは再び旗を突く。
「右!」
右側に一歩分の足場。
「前!」
正面に一歩分の足場。
「竜の頭!」
喰路竜の眼前に、一枚の光板が現れた。
カナタは空を駆けた。
一歩ごとに宣言し、一歩ごとに道が生まれる。
長い道ではない。
たった一歩。
だが、次の一歩を叫び続ける限り、空白は道に変わった。
「うおおおおっ!」
カナタは竜の鼻先へ着地し、旗竿を両手で握る。
「朝火、返せ!」
竜の頭を殴りつけた。
硬い鱗に弾かれ、手が痺れる。
喰路竜が怒り狂って首を振った。カナタが吹き飛ぶ。
「今度は私の番!」
ルゥが銀鋲を三本投げた。
「標術――《継ぎ路》!」
鋲が竜の上下の顎へ刺さり、光糸で縫い合わせる。
口を封じられた喰路竜が暴れ、空洞の壁へ激突した。
「走って!」
二人は竜の背を駆け上がる。
ルゥの《継ぎ路》は、切れたものを一時的につなぐ標術だ。壊れた橋も、裂けた帆も、折れかけた心臓さえ数秒なら縫い止められる。
ただし、もともと存在しなかったものは作れない。
カナタの力とは正反対だった。
「カナタ! 次は左上!」
「左上!」
光板が生まれる。
「七メートル先の根!」
「遠い!」
「刻んで! 一歩ずつ!」
「おう!」
カナタが道を作り、ルゥが崩れた箇所を縫い留める。
二人の足跡が、闇の中に細い光の階段を描いていく。
背後で喰路竜が糸を噛み切った。
再び迫る顎。
「出口まで、あと三十歩!」
「数えんな! 長く感じる!」
「二十九!」
「数えるなって!」
二人は笑いながら、命懸けで空を駆けた。
最後の一歩を蹴り、裂け目の外へ飛び出す。
直後、喰路竜の牙が出口を砕いた。
カナタとルゥは上層枝の苔原を転がり、巨大な茸へ突っ込んで止まった。
「着いた……」
「生きてる……」
並んで仰向けになり、息を切らす。
頭上には、下の村では見えなかった空があった。
枝葉の隙間から、星がひとつ瞬いている。
ルゥはしばらく、それを見つめていた。
「……きれい」
「てっぺんは、もっとすげえぞ」
「あんた、見たことないでしょ」
「だから見に行くんだ」
カナタが起き上がる。
旗を見ると、金の線は消えていた。再び、ただの白い布だ。
「今の力、何だったんだろう」
「標術よ。間違いない」
「俺にも紋が出た?」
「出てない」
「じゃあ、すごくない?」
「気味が悪い」
「言い方!」
ルゥは旗の端に触れた。
「でも、空白だから何もないんじゃなくて……空白だから、何にでもなれるのかも」
その言葉に、カナタは目を瞬いた。
直後、森の奥から拍手が響いた。
「見事だ」
黒旗のザンバが、一本の枝に腰掛けていた。
四 父の行き先
「アステルも、その旗で道を作った」
ザンバは枝から飛び降りた。
着地した足元に黒い線が走り、彼と二人の間の苔原が切り離される。
逃げ道を断ったのだ。
カナタは旗を構えた。
「父ちゃんはどこだ」
「死んだ」
ザンバは一言で答えた。
風が止まったように感じた。
「嘘だ」
「十年前、天頂門で死んだ。俺の目の前でな」
「嘘だ!」
カナタが飛びかかる。
黒旗が横薙ぎに振られた。
カナタの進む軌道が切られる。踏み込んだ足から力が抜け、体だけが前へ倒れた。
ザンバは旗竿の石突で、カナタの腹を打った。
「がっ……!」
少年の体が地面を転がる。
「カナタ!」
ルゥが鋲を投げるが、ザンバは光糸の途中を切った。鋲は届かず落下する。
「十年前、俺とアステルは天頂門へ辿り着いた。門の向こうには、天樹の外へ続く空がある。世界の果てへ至る唯一の道だ」
ザンバは黒旗を地面へ突き立てた。
「だが門を開いた瞬間、下層枝が崩れた。カゲノハ村を支える大枝だ」
カナタが痛みに耐え、顔を上げる。
「アステルは選んだ。門の向こうではなく、村を」
「当たり前だ!」
「当たり前?」
ザンバの片目に、激しい怒りが燃えた。
「俺たちは二十年かけて登った! 仲間を失い、片腕を失い、ようやく世界の果てを目前にした! それを、見たこともない村人どものために捨てた!」
黒い包帯の右腕を叩く。
「アステルは自分の旗を門へ打ち込み、《帰還路》を開いた。崩れた枝と村をつなぎ直すため、自分の命を道に変えた」
カナタの喉から、声が出なかった。
「最後まで笑っていた。『息子に、帰る場所を残したい』とな」
ザンバは吐き捨てるように続けた。
「くだらん。夢を捨てた敗者の言葉だ」
カナタの拳が震える。
「父ちゃんは……村を捨てたんじゃなかった」
「ああ。村のために夢を捨てた」
「違う」
カナタが立ち上がる。
目には涙が溜まっていた。だが、声は揺れていない。
「父ちゃんは、帰ってきたんだ」
「死体すらない」
「道になって帰ってきた。俺たちが毎日歩いてた枝が、父ちゃんだったんだ」
ザンバの眉がわずかに動いた。
「詭弁だ」
「お前には、そう見えるだけだ」
カナタは白い旗を握り直した。
「父ちゃんの夢は、終わってない。俺が続きへ行く」
「なら村を捨てろ」
「捨てない」
「両方は選べん」
「両方選ぶ!」
ザンバが笑った。
乾いた、怒りに似た笑いだった。
「やはり親子だ。欲張りで、現実を知らん」
「現実ってのは、諦めたやつが引く線だ」
カナタは旗先をザンバへ向ける。
「俺は、その先に行く」
一瞬、二人の視線がぶつかった。
次の瞬間、森の奥で轟音が鳴る。
喰路竜が追いついた。
ザンバはその頭へ飛び乗る。
「天頂門で朝火を使い、アステルの帰還路を切る。そうすれば門は完全に開き、カゲノハ村は落ちる」
「させるか!」
「夜明けまで、あと一刻だ」
喰路竜が森を薙ぎ倒し、上方へ走り去る。
ルゥがカナタの隣へ立った。
「追える?」
「当たり前だ」
そう答えたカナタの足は、震えていた。
ルゥは何も言わず、彼の頬を両手で挟んだ。
「痛っ。何すんだ」
「泣く時間は、帰ってから作る」
「……おう」
「それまで、前だけ見て」
「おう!」
二人は走った。
父が命を賭けて残した道の、その先へ。
五 天頂門
天頂門は、二本の大枝が交差する場所に立っていた。
高さ百メートルを超える、白い石の環。
門の内側には何もない。ただ、夜空より深い青が揺らめき、その向こうから温かな光が漏れている。
門の中心に、一本の旗が刺さっていた。
布は風化し、紋章もほとんど消えている。
それでもカナタには分かった。
父の旗だ。
「父ちゃん……」
門から伸びる無数の光糸が、下方へ走っている。
その一本一本が枝を支え、遠くカゲノハ村へつながっていた。
だが今、糸は黒く変色し始めている。
門前の祭壇では、喰路竜が朝火を吐き出していた。
ザンバが結晶を掴み、黒旗の石突へはめ込む。
黒い布に金色の炎が走った。
「これで《終点》は、天樹そのものを断てる」
「やめろぉっ!」
カナタが白旗を突く。
「門前!」
一歩分の光板が現れる。
さらに一歩。
さらに一歩。
空中を一直線に駆け、ザンバへ突進する。
ザンバは振り向きもせず黒旗を振った。
光の道が、まとめて切断される。
「うわっ!」
落下するカナタへ、ルゥの鋲が飛ぶ。
「《継ぎ路》!」
切れた光板が数秒だけ縫い合わされ、カナタは宙返りして着地した。
「助かった!」
「三秒しか保たない!」
「十分!」
二人は左右に分かれた。
ザンバが黒旗を一振りするたび、地面に終わりが生まれる。
道が途切れ、足場が消え、投げた鋲の軌道すら断たれる。
「標術とは、生き方の形だ」
ザンバが歩み寄る。
「俺の《終点》は、迷いを断つ。不要な道を捨て、ただ一つの目的へ進む力」
黒い線が、ルゥの足元を走る。
彼女は飛び退くが、左の靴底が消えた。体勢を崩す。
ザンバの旗竿が腹へ迫る。
カナタが割り込み、白旗で受け止めた。
激しい金属音。
腕が痺れ、膝が沈む。
「空白のお前には、生き方すらない」
「これから描くんだよ!」
カナタが頭突きを放つ。
ザンバは身を引いて避け、黒旗の柄でカナタの顎を打ち上げた。
さらに一撃。
さらに一撃。
カナタは地面を転がる。
実力が違いすぎた。
ザンバは歴戦の登枝士だ。旗術、体術、間合い、そのすべてが研ぎ澄まされている。
対してカナタは、配達で鍛えただけの十四歳。
それでも立つ。
「なぜ立つ」
「まだ……着いてない」
「どこへだ」
「朝火を取り返して、村に帰る。そのあと、てっぺんへ行く」
「どちらかを選べ!」
「断る!」
白旗が光る。
「お前の後ろ!」
ザンバの背後に光板が生まれた。
そこへカナタの姿はない。
ザンバが振り向いた一瞬、ルゥの鋲が足元へ刺さる。
「《継ぎ路》――縫い止め!」
光糸がザンバの外套と地面を縫い合わせた。
「小細工を」
黒旗で糸を切る。
だが、その隙にカナタが懐へ潜り込んでいた。
「道を作るってのはな!」
拳を引く。
「自分が歩くだけじゃねえ!」
全力の拳が、ザンバの頬へ叩き込まれた。
男の体が一歩下がる。
カナタの拳から血が飛んだ。
「相手にも、一歩踏ませることだ!」
ザンバが頬の血を拭う。
初めて、その顔から笑みが消えた。
「ならば、二度と踏めぬようにしてやる」
黒旗が朝火を飲み込み、巨大化した。
夜を束ねたような刃が、天頂門から下へ伸びる光糸を狙う。
「標術奥義――《万路終断》」
振り下ろされる。
カナタが白旗で受ける。
瞬間、旗竿に亀裂が走った。
「カナタ!」
ルゥが鋲を投げる。
一本、二本、十本。
銀の光糸が白旗を補強する。
だが、黒い刃は止まらない。
ルゥの指から血が流れる。《継ぎ路》は、つなぐ対象が大きいほど術者の体を削る。
「放せ、ルゥ!」
「嫌!」
「指が壊れる!」
「あんたの旗が折れるより、まし!」
「ばか!」
「あんたにだけは言われたくない!」
二人の足元が沈む。
黒刃が少しずつ白旗へ食い込む。
ザンバが叫んだ。
「これが現実だ! すべてを救う力など、どこにもない!」
そのとき、遠く下方から、低い破砕音が届いた。
カゲノハ村を支える枝が、折れ始めた音だった。
六 落ちる村
天頂門の端から見下ろすと、暗闇の中で小さな灯りが傾いていた。
カゲノハ村。
朝火を失った枝は根元から裂け、ゆっくりと奈落へ沈み始めている。
家が滑り、橋がちぎれ、人々の悲鳴が風に乗る。
ザンバは黒刃を止めない。
「さあ選べ、アステルの息子!」
朝火は黒旗の中。
目の前の敵を倒せば、村を救えるかもしれない。
だが、その間にも村は落ちる。
村へ戻れば、天頂門は開き、ザンバは世界の果てへ消える。
父と同じ選択。
夢か、故郷か。
ザンバはそれを突きつけている。
「カナタ!」
ルゥの声が震えた。
「村へ行って!」
「でもお前が――」
「私はここを止める!」
「無理だ!」
「無理でもやる! あんたがいつもそうしてるでしょ!」
ルゥは笑った。
涙を浮かべながら、いつものように強がって。
「行って、カナタ。帰る場所を守って。それから……私たちの分まで、世界の果てを見てきて」
その言葉に、カナタは歯を食いしばった。
優しい言葉だった。
だからこそ、腹が立った。
「勝手に、置いていかれる側になるな」
「え?」
「父ちゃんも、お前も、ザンバも! なんで二つしかないみたいに言うんだ!」
カナタは白旗を黒刃から引いた。
支えを失った刃が、父の光糸へ落ちる。
ルゥが息を呑む。
カナタは天頂門の端へ走った。
そして、白旗を奈落へ向けて投げた。
「何をする!」
ザンバが初めて声を荒らげる。
旗は落ちる村へ向かい、風の中を回転していく。
カナタは門の縁を蹴った。
自分も奈落へ飛び出す。
「カゲノハ村へ!」
白旗が光る。
一本の光板が生まれる。
カナタはそれを蹴り、落下速度を上げた。
「カゲノハ村へ!」
二歩目。
「カゲノハ村へ!」
三歩目。
光の階段が、村へ向かって伸びる。
ザンバは笑った。
「やはり父親と同じだ! 夢を捨て、帰る道を選んだ!」
「違う!」
落ちながら、カナタは叫ぶ。
「これは、帰る道じゃない!」
白旗の布に、金色の線が増えていく。
まっすぐな一本ではない。
枝分かれし、曲がり、交わり、無数の行き先へ伸びる線。
「みんなで、先へ行く道だ!」
その瞬間。
カゲノハ村の広場で、小さな旗が一本立った。
道祭のため、子どもが作った紙の旗だった。
赤い絵の具で、太陽が描かれている。
「カナタが来る!」
最初に声を上げたのは、薬を届けてもらった老婆の孫だった。
「だから、旗を立てよう!」
「何を言って――」
「カナタは旗で道を作るんだ! 僕らも行きたい場所を教えるんだ!」
子どもは傾く地面を這い、祭り用の旗を次々と立てた。
村人たちも動き出す。
鍛冶師が炎の旗を。
薬師が雫の旗を。
老婆が家族の名を書いた旗を。
泣いていた少女が、青空を描いた旗を。
村長はしばらく立ち尽くしたあと、自らの杖に布を結び、地面へ突き刺した。
「この村の明日へ!」
無数の声が続く。
「子どもたちの未来へ!」
「まだ見ぬ朝へ!」
「上の世界へ!」
「帰ってくる冒険者のために!」
村中の旗から、細い光が昇った。
それらは空中で白旗へ集まり、空白の布を色とりどりに染めていく。
赤、青、緑、金。
誰かの夢。
誰かの帰る場所。
誰かと進む約束。
白旗に、初めて紋章が浮かんだ。
一本の道ではない。
無数の道が手を取り合い、地平線へ続く紋。
カナタの胸に、言葉が響く。
――標術《未踏路》。
ない道を作る力。
まだ誰も選ばなかった未来へ、一歩を刻む力。
「標術――《未踏路》!」
カナタが旗を掴む。
光が爆発した。
村の下に、巨大な道が生まれる。
落下する枝を受け止める、光の大橋。
同時に道は上へも伸びた。
天頂門へ。
ザンバの黒刃へ。
そして、その向こうへ。
「ばかな……複数の行き先だと!?」
「道は一つじゃない!」
カナタは光の坂を駆け上がる。
一歩ごとに、村人の旗が輝く。
「夢ってのは、誰かを置いていく言い訳じゃない!」
速度が上がる。
「帰る場所があるから、遠くまで行ける!」
さらに上へ。
「仲間がいるから、知らない場所へ踏み出せる!」
天頂門が迫る。
ルゥが、黒刃の下で笑っている。
「遅い!」
「一分も経ってねえ!」
「私には一時間だった!」
ルゥは残った銀鋲をすべて黒刃へ打ち込んだ。
「《継ぎ路》――全縫合!」
黒刃の亀裂が一瞬だけ縫い止められる。
斬撃が止まった。
ザンバが怒号を上げる。
「終われ!」
「終わらせない!」
カナタは光の道から跳んだ。
「ここが――最初の一歩だぁっ!」
白旗の石突が、黒旗の中央を貫いた。
朝火が砕けるように輝く。
黒い布に走った亀裂から、金色の炎が噴き出した。
ザンバは黒旗を手放さない。
「俺の道は、終点へ続く!」
「なら、その終点から始めりゃいい!」
カナタは旗を放し、拳を握った。
大きく踏み込む。
父が残した道。
ルゥがつないだ道。
村人が願った道。
そのすべてを背中に乗せて。
「これが俺の――《第一歩》だ!」
拳がザンバの顔面へ突き刺さった。
轟音。
黒旗が砕け、朝火が空へ舞い上がる。
ザンバの体は天頂門の柱へ叩きつけられた。
同時に、黒刃が消える。
父の光糸が解き放たれ、天樹中へ金色の波が走った。
七 朝
朝火は、ゆっくりと落ちてきた。
カナタが両手で受け止める。
温かい。
人の心臓のように、確かな鼓動がある。
門前に倒れたザンバは、しばらく動かなかった。
やがて片目を開き、掠れた声で言う。
「……甘い拳だ」
「手加減してねえ」
「なら、鍛え直せ」
「負け惜しみか?」
「勝者への助言だ」
カナタは笑い、ザンバへ手を差し出した。
「立てよ」
「なぜ助ける」
「お前も道の途中だろ」
ザンバは差し出された手を見た。
「俺は、お前の村を落とそうとした」
「だからって落としていい理由にはならねえ」
「……本当に、アステルそっくりだ」
「知ってる」
ザンバは鼻で笑ったあと、その手を掴んだ。
立ち上がった途端、膝が折れ、ルゥに支えられる。
「重い!」
「女に重いと言われたのは初めてだ」
「たぶん人間として重いって意味よ」
ルゥが冷たく言う。
カナタは朝火を父の旗の前へ掲げた。
結晶から伸びた金色の火が、古びた布へ触れる。
風が吹いた。
十年間、門に縫い留められていた旗が、初めて大きくはためく。
すると、柔らかな光の中に一人の男の姿が浮かんだ。
ぼさぼさの黒髪。
擦り切れた赤い上着。
笑った顔は、驚くほどカナタに似ていた。
『大きくなったな、カナタ』
カナタの息が止まる。
「父ちゃん……?」
『これは、旗に残した道の記憶だ。本物の俺は、もういない』
分かっていた。
それでも、声を聞いた瞬間、十年分の言葉が胸につかえた。
「なんで……帰ってこなかったんだよ」
『帰ったつもりだった』
アステルは困ったように笑う。
『でも、子どもには分かりにくかったな。悪い』
「分かりにくすぎる!」
『うん。反省してる』
「ずっと待ってた!」
『うん』
「村のみんな、父ちゃんが逃げたって……俺、違うって言い続けて……!」
『うん』
「会いたかったんだぞ!」
最後の一言は、声にならなかった。
カナタは子どものように泣いた。
いや、まだ子どもだった。
十四歳の少年が、十年ぶりに父へ会ったのだ。
ルゥは黙って横を向いた。
ザンバも何も言わなかった。
アステルの光が、カナタの頭へ手を置く。
触れないはずなのに、不思議と温かかった。
『俺は、夢を捨てたんじゃない』
ザンバが顔を上げる。
『お前たちに託した。夢は、一人で最後まで持つ必要はない。誰かへ渡って、思いもよらない場所まで進むことがある』
「俺は……お前が諦めたと思った」
ザンバの声は低い。
『お前なら、そう思うと思った』
「なら説明しろ!」
『時間がなかった』
「昔からそれだ! 勝手に笑って、勝手に決めて!」
『悪かった、相棒』
ザンバは唇を噛んだ。
その片目から、涙が一筋だけ落ちた。
アステルはカナタへ向き直る。
『天頂門の向こうは、世界の果てじゃない』
「え?」
『俺たちが見たのは、もっと大きな世界の入口だ。空の海。歩く島。星を食べる獣。天樹アトラスは、無数にある世界樹の一本にすぎない』
カナタの涙が止まった。
目が輝く。
「本当か!?」
『ああ。だから行け。俺の続きじゃない。お前の最初の一歩を、どこまでも進め』
「おう!」
『ただし、たまには帰れ』
「分かってる!」
『その返事は信用できないな』
光のアステルが、ルゥを見る。
『頼めるかい?』
「任せてください。縄で縛ってでも連れ戻します」
「なんで意気投合してんだよ!」
笑い声が重なった。
アステルの姿が、朝の霧のように薄れていく。
『カナタ』
「父ちゃん」
『行ってこい』
カナタは涙を拭い、白かった旗を高く掲げた。
「行ってきます!」
父の光が消える。
同時に、天頂門が音を立てて開いた。
門の向こうから、光が溢れた。
夜を押し退け、枝葉の隙間を抜け、天樹の下層まで駆け下りる。
カゲノハ村を、黄金色が包んだ。
村人たちは初めて、本当の朝を見た。
空は青かった。
雲は白かった。
濡れた葉の一枚一枚が宝石のように輝き、落ちかけた枝には新しい芽が吹いた。
誰かが笑い、誰かが泣いた。
子どもたちは自分たちの影を追いかけて走り回った。
カナタは天頂門の前で、眩しさに目を細める。
「これが、朝か」
ルゥが隣に立つ。
「きれいね」
「おう」
「想像より?」
「百倍」
「じゃあ、世界の果ては?」
門の向こう。
果てしない青空に、帆を張った島々が浮かんでいる。
巨大な鳥が雲を引き連れて飛び、遠くには逆さまに生えた銀色の樹が見えた。
知らない世界。
地図のない空。
カナタは笑う。
「百万倍だ」
終章 最初の旗
三か月後。
カゲノハ村の外れに、新しい発着場が完成した。
そこには一隻の小さな飛空艇が停まっている。
船体はつぎはぎ。帆は左右で色が違い、船首には鍋蓋が二枚取り付けられていた。
「どう見ても鍋蓋はいらない!」
ルゥの怒声が朝空へ響く。
「翼だ!」
「空気抵抗!」
「心が飛ぶ!」
「船体が落ちる!」
二人の言い争いを、見送りの村人たちが笑っている。
飛空艇の名は《第一歩号》。
船長カナタ。
機巧師兼航路士ルゥ。
そして、甲板の一番後ろには、腕組みしたザンバが乗っていた。
「なんでお前までいるんだ」
カナタが訊く。
「監視だ。未熟者が世界を壊さぬようにな」
「本当は行きたいだけでしょ」
ルゥが言う。
「……監視だ」
「間が長い」
村長が前へ進み出た。
以前より少しだけ背筋が伸びている。
「カナタ。登枝士の選抜試験を無断欠席した件だが」
「あ」
「本来なら失格だ」
「今から受ける!」
「必要ない」
村長は笑った。
「天頂門まで往復し、村を救った者に、試験を課す教官はおらん」
登枝士の徽章を、カナタの胸へ付ける。
羅針盤の針が、どの方向にも固定されていない、不思議な徽章だった。
「カゲノハ村公認、第一号《未踏路士》だ」
「未踏路士?」
「道のない場所へ、最初の一歩を刻む者」
カナタは徽章を見つめ、にっと笑った。
「いい名前だ!」
出航の鐘が鳴る。
村人たちが、色とりどりの旗を振った。
カナタは帆柱へ、自分の旗を掲げる。
かつては何も描かれていなかった白い布。
今は、無数の道が手を取り合う紋章が輝いている。
ただし、中央にはまだ大きな空白が残っていた。
これから出会う人。
これから見る景色。
これから選ぶ道。
そのすべてを描き足すための余白だ。
「行き先は?」とルゥが訊く。
カナタは門の向こうに広がる青空を指さした。
「世界の果て!」
「方角を訊いてるの!」
「まっすぐ!」
「だから、どっちへ!?」
「前!」
第一歩号が発進する。
盛大な音を立て、発着場の柵を一枚吹き飛ばした。
「弁償しろーっ!」
村長の叫びが遠ざかる。
船は朝の光を受け、雲の海へ飛び出した。
地図はない。
正しい道もない。
けれど、少年の旗は高くはためいている。
道がないなら、最初の一歩になればいい。
世界の果ては、まだ遠い。
だから冒険は、今ここから始まる。
了