『世界は君を中心に回らない』
一
閉館後のプラネタリウムで、星が一斉に僕のほうを向いた。
比喩ではない。
投映機の電源は落ちている。非常灯だけが青白く床をなぞるなか、ドームに貼りついていたはずの星々が、音もなく滑り始めた。北極星も、夏の大三角も、名前を知らない無数の光も、僕を囲む同心円になって回っている。
足もとが傾いた。
実際に床が傾いたのか、僕の平衡感覚が壊れたのかはわからない。けれど、観客席の手すりが軋み、天井から細かな埃が降った。
「動かないで、央路」
制御卓の陰から、遠野志弦が言った。
いつもは人を食ったように笑う男が、今は血の気のない顔で僕を見ている。右手には、錆びた真鍮の輪が握られていた。
「君が動けば、空が裂ける」
「先生」
「その呼び方、久しぶりだな」
僕には、その意味がわからなかった。
遠野と会ったのは、三週間前が初めてだったからだ。
二
三週間前、東都天文資料館の収蔵庫に、一冊の焼けた写本が運び込まれた。
羊皮紙の半分は炭になり、表紙には刃物で抉ったような穴があった。来歴は不明。閉鎖された私設天文台の地下から、真鍮製の天球儀と一緒に見つかったという。
僕――牧瀬央路は、その写本の保存修復を担当することになった。
二十八歳。契約職員。肩書だけ聞けば専門家らしいが、実際の仕事は、黴の胞子を払い、破れた紙を繊維一本ずつつなぎ、誰にも読まれない研究報告書を書くことだ。
その日、作業台の向かいに座った男は、挨拶より先に僕のマグカップを指さした。
「砂糖は入れないほうがいい」
「入れませんけど」
「そうだった」
男は、しまった、という顔をした。
遠野志弦。三十四歳。科学史家。大学では天文学史を教えているらしい。細身で、前髪が少し長く、白衣より黒いシャツのほうが似合う。経歴書には『近世宇宙論史』『異端思想と観測技術』など、僕には眩しい題名が並んでいた。
「初対面ですよね」
「もちろん」
「では、どうして僕が砂糖を入れないと?」
「観測」
「まだ一分も観測されていません」
「一分あれば、惑星の動きだって測れる」
「惑星と一緒にしないでください」
「君のほうが面倒だよ。惑星は急に怒らない」
腹の立つ男だった。
それなのに、僕は彼の声をどこかで知っている気がした。
写本の本文は、古い西方語と数字の羅列で書かれていた。仮題は『無中心論』。およそ四百年前、暦法院という学術機関に追われた天文学者アウレルが記したものらしい。
当時の公認宇宙論では、世界の中心には「聖都」があり、太陽も星も、その都を讃えるために周回するとされた。単なる宗教上の比喩ではない。暦も航海も税の徴収日も、その宇宙像に従って定められていた。
アウレルは、地が動くと書いた。
さらに悪いことに、宇宙には固定された中心などない、と書いた。
「どうして、そこまで中心を嫌ったんでしょう」
赤外線画像に浮かんだ文字を追いながら、僕は訊いた。
「中心は便利だからだ」
遠野は答えた。
「便利?」
「中心を決めれば、他のものの位置が全部決まる。正しい、間違い。高い、低い。味方、敵。中心に近いものほど価値があることにできる」
「でも、天文学上は座標の基準点が必要でしょう」
「基準点と支配者は違う。基準点は取り替えられる。支配者は、自分が取り替えられると困る」
彼はピンセットで羊皮紙の端を押さえた。
長い指だった。爪の脇に、インクの落ちない黒い染みがあった。
写本の余白には、本文とは別の筆跡があった。
――地は動く。
――だが人は、自分が動いていると認めるより、空のすべてが自分のために回っていると信じたがる。
「弟子の書き込みでしょうか」
「たぶん。名はノエ。アウレルの観測助手で、写本の筆写者でもあった」
「詳しいですね」
「昔、調べたから」
遠野は、焼け落ちた行を指でなぞった。
「二人は同じ罪で捕まった。アウレルだけが処刑され、ノエは記録から消えた」
「逃げた?」
「存在した証拠が、途中からなくなっている。出生簿も、裁判記録も、同僚の手紙も。最初からいなかったみたいに」
その言い方に、僕は妙な寒気を覚えた。
三
異変は、ささやかな忘れものから始まった。
同僚が僕の昼食を数え忘れた。
警備員が職員証を見て、「見学の方はもう入れません」と言った。
週報の担当者欄から、僕の名前だけが消えた。
単なる事務ミスだと思った。契約職員など、組織にとっては薄い鉛筆書きのようなものだ。消しゴムを一度かければ、いなくなる。
けれど、母からの電話で笑えなくなった。
『央路って、誰だったかしら』
母は冗談を言う人ではない。
「僕だよ。母さんの息子」
『うちに息子はいないわよ』
電話の向こうで食器の触れ合う音がした。
『娘なら一人いるけど。あなた、番号を間違えていませんか』
姉は、僕が生まれる前に死んでいる。
母の家の仏壇には、小さな写真がある。僕は子どものころ、その写真の少女がいつか帰ってくると思っていた。
電話を切ったあと、手が震えた。
連絡先の「母」を開くと、登録名が「牧瀬志保」から「不明な発信者」に変わっていた。
翌朝、遠野は僕の顔を見るなり言った。
「誰に忘れられた?」
僕は返事をしなかった。
代わりに、彼の胸ぐらをつかんだ。
「何を知っているんです」
「央路」
「どうして、僕の名前をそんなふうに呼ぶんです。初対面のくせに。どうしてコーヒーの飲み方を知っていた。どうして昨日、僕が右の肩から鞄をかけると言い当てた。どうして――」
言葉が詰まった。
遠野は抵抗しなかった。僕の指がシャツを歪ませるに任せて、ただ悲しそうに見下ろしていた。
「忘れられるのは、初めてじゃない」
彼は静かに言った。
「君が僕を忘れたのは、三年前だ」
四
遠野は、資料館の屋上へ僕を連れていった。
冬の終わりの空は薄く曇り、星はほとんど見えなかった。彼は古い革の手帳を差し出した。
最初の数ページは観測記録だった。月の高度、木星の衛星、流星群の出現数。途中から、授業中の走り書きになる。
遠野先生の話は速すぎる。
板書も汚い。
質問すると嬉しそうなのが少し腹立つ。
でも、もっと聞きたい。
僕の字だった。
ページをめくると、押し花になった青い花が挟まっていた。その下に、一行。
先生と見た星は、全部、前より近く見える。
「僕は、あなたの学生だった?」
「非常勤講師と、他学科の聴講生。正式な指導関係じゃない。君は保存科学が専攻で、天文学史の授業に勝手に潜り込んできた」
「覚えていません」
「知ってる」
遠野は笑った。
笑顔だけが、ひどく疲れていた。
「授業のあと、毎週、質問に来た。質問のふりをして、僕の研究室のコーヒーを飲みに」
「砂糖は」
「入れなかった」
「それで」
「それで、僕は君を好きになった」
風が強くなった。
曇り空の向こうで、見えない星が動いている。
「三年前の十二月二十一日。僕たちは、この資料館の旧館で『無中心論』の一部を見つけた。アウレルの計算を再現して、地下室にあった装置を動かした」
「真鍮の天球儀」
「正確には、天球儀じゃない。世界の模型だ」
「模型?」
「模型は現実を説明するためにある。普通はね。だが、あれは逆だ。模型に合わせて、現実のほうを修正する」
遠野の声が掠れた。
「その夜、君は道路に飛び出した。僕が落とした手帳を拾おうとして、バスに轢かれた」
頭の奥で、白い光が弾けた。
ブレーキの音。
濡れたアスファルト。
誰かが、僕の名を叫ぶ声。
僕は手すりをつかんだ。
「死んだのか、僕は」
「僕の腕の中で」
遠野は目を伏せた。
「だから装置を使った。君を世界の中心に置いた。君が死なないように、因果のほうを回した」
「そんなことが」
「起きた。事故はなかったことになり、君は別の道を通って帰った。けれど世界を一人の人間のために作り替えれば、矛盾が出る。装置は矛盾を消すために、君につながる記憶を少しずつ切り捨てる」
「僕があなたを忘れたのも?」
「僕と出会わなければ、君はあの夜、旧館へ来なかった。僕との関係は、事故の原因に近すぎた。だから最初に消された」
「なのに、あなたは覚えている」
「装置を動かした観測者だけは、最後まで元の世界を覚えている」
「最後まで?」
遠野は答えなかった。
代わりに、手帳の最終ページを開いた。
そこには、僕の字で日付と待ち合わせ場所が書かれていた。
十二月二十二日 午後七時 中央駅北口。
今度こそ、ちゃんとデートする。
日付は、僕が死んだ翌日だった。
「僕たちは」
「付き合ってはいなかった」
遠野は、苦い顔で笑った。
「始まる一日前だった」
五
世界から消えるとは、暗闇に落ちることではない。
もっと事務的で、もっと静かだった。
職員証が反応しなくなる。
銀行口座にログインできなくなる。
住民票の写しに、僕の名前だけが印字されない。
僕が書いた報告書は、共有フォルダから消える。
同僚は僕を見れば話す。けれど、目を離すと会話そのものを忘れた。
遠野だけが忘れなかった。
彼は毎朝、僕の名を呼んだ。
昼には写真を撮り、夜には日記を書いた。
牧瀬央路は今日もいた。
九時十二分に笑った。
十三時四十分、紙で左の人差し指を切った。
十八時五分、眠いのに眠くないと言った。
まるで観測記録だった。
「そこまでしなくても、僕はいます」
「観測されない星は、ないのと同じだ」
「それは極端です」
「僕は三年間、極端なことしかしていない」
遠野はそう言って、僕の左手を取った。
切り傷に絆創膏を巻く指が、少し震えていた。
僕は、その指を振りほどけなかった。
知らないはずの男だった。
けれど、近づかれると胸の奥のどこかが、遅れて彼を思い出そうとした。
「僕は前にも、あなたを好きだったんでしょうか」
「それを僕に訊くのは卑怯だ」
「どうして」
「僕が肯定したら、君は過去の自分に従わなきゃいけないと思う」
遠野は僕の手を離した。
「今の君が僕を嫌いなら、それが答えだ」
「嫌いではありません」
「じゃあ、好き?」
「そういう聞き方が嫌いです」
「やっぱり君だな」
彼は笑った。
その笑い方を、僕の身体は知っていた。
その晩、僕たちは焼けた写本の残りを読んだ。
本文の下に、ノエの筆跡で短い文章があった。
――師よ。あなたが正しいと証明したいのではない。
――あなたを、一人で正しくさせたくないのだ。
僕は長いあいだ、その二行から目を離せなかった。
「ノエは、アウレルを愛していたんでしょうか」
「記録にはない」
「記録から消えたから?」
「愛は、記録がなくても推測できる。だが推測を事実のふりで語るのは、研究者の悪い癖だ」
「あなたは、どう思います」
遠野は僕を見た。
「愛していたと思う」
その答えが、誰についてのものなのか、僕には訊けなかった。
六
写本の最終章には、装置の原理が記されていた。
世界は一つではない。
無数の可能性が重なり、そのうち最も矛盾の少ないものが、現実として観測される。
真鍮の輪は、任意の人物を「固定点」に指定し、その人物が存続する可能性を最優先する。
けれど、固定点は動けない。
動かないものに合わせるため、他のすべてが回らなければならない。
「中心に置かれた人間は、最後にどうなるんです」
僕が訊くと、遠野は沈黙した。
「言ってください」
「外界との因果が、全部切れる」
「死ぬ?」
「死なない。老いるかどうかもわからない。存在はする。ただ、誰にも触れられず、誰の記憶にも残らない」
「あなたにも?」
「僕が最後だ」
彼は淡々と言った。
「装置は今夜、僕の記憶を修正する。午前零時を過ぎれば、僕も君を知らない人間になる」
机の上の時計は、二十三時十七分を示していた。
「止める方法は」
「ある」
「なぜ黙っていたんです」
「止めれば、三年前の因果が戻る」
「僕が死ぬ」
「そうだ」
遠野は初めて声を荒らげた。
「だから言わなかった。君は必ず止めると言うから」
「当然でしょう」
「当然じゃない!」
収蔵庫に彼の声が反響した。
「真実なら何でも受け入れられると思うな。正しい宇宙像が一人を救うわけじゃない。地球が動こうが、太陽が燃え尽きようが、僕には関係ない。君がいない世界のほうが間違っている」
「それは愛じゃない」
口にした瞬間、彼の顔から表情が消えた。
それでも僕は続けた。
「僕を救ったんじゃない。僕を、あなたしか見えない場所に閉じ込めた。僕を中心にして、世界を従わせた」
「他にどうすればよかった」
「わからない。でも、わからないからって、僕の代わりに僕の世界を決めないでください」
「目の前で死んでいく君に、許可を取れと?」
「そうじゃない」
「じゃあ何だ」
遠野は僕の肩をつかんだ。
指が食い込むほど強いのに、その手は震えていた。
「教えてくれ。君を失わず、君を縛らない方法を。僕は三年探した。論文も、写本も、数式も、全部読んだ。何もなかった。だから――」
声が途切れた。
僕は、その顔を見ていられなくなった。
胸の奥から、知らない記憶が浮かんだ。
大学の屋上。
流星群。
寒さをごまかすために二人で飲んだ、甘すぎる缶コーヒー。
遠野が何かを言いかけ、僕が笑って遮った。
思い出ではない。
装置に消された世界の残響だ。
僕は彼のシャツをつかみ、唇を重ねた。
一瞬、遠野は動かなかった。
次の瞬間、僕の後頭部に手を回した。
優しいキスではなかった。
三年分の怒りと後悔と、行き場のなかった言葉を、互いの呼吸で押しつけ合うようなキスだった。
離れたあと、彼は泣きそうな顔で言った。
「今のは、昔の君の代わりか」
「違います」
「同情?」
「違う」
「では何だ」
「再観測です」
遠野は呆れたように目を閉じた。
「本当に、君は」
「先生」
「その呼び方はやめろ。もう学生じゃない」
「志弦」
初めて名を呼ぶと、彼は目を開いた。
「僕を中心にしないでください」
僕は言った。
「でも、僕の隣で動いてください」
七
答えは、焼けた穴の中にあった。
写本の表紙に穿たれた不規則な穴を、遠野が星図の上に重ねた。穴は偶然の損傷ではなかった。十七の点が、一つの図形を作った。
二つの円。
その間の、空白の一点。
「連星だ」
遠野が呟いた。
二つの星は、一方がもう一方の周囲を回るのではない。互いの質量に応じて、両者のあいだにある重心を回る。
中心は星そのものではない。
関係の中に生じる、空っぽの場所だ。
赤外線画像を反転すると、炭化して読めなかった最終行が浮かんだ。
――愛する者を固定点にしてはならない。
――愛とは、相手のために世界を回すことではない。
――相手がいるために、自らも動くことだ。
その下に、ノエの筆跡が続いていた。
――師よ、中心は空でよい。
――そこにあなたを置かないなら、私はあなたと回れる。
「アウレルたちも、これを試したんでしょうか」
「わからない。ノエが消えたのは、失敗したからかもしれない」
「成功したからかもしれない」
「成功の定義による」
遠野は写本を閉じた。
「二人を一つの系として装置に登録すれば、固定点は消せる。だが閉じた系は、外の世界から切り離される可能性がある」
「どうなる?」
「予測できない」
「科学者らしくないですね」
「僕は科学史家だ。失敗した科学者の言い訳を読む専門家だよ」
「では、歴史から学びましょう」
「何を」
「誰か一人を中心にした世界は、長くもたない」
時計は二十三時四十分を過ぎていた。
僕たちは地下のプラネタリウムへ走った。
八
真鍮の装置は、投映機の下に隠されていた。
大きさは両手で抱えられるほど。幾重もの輪の内側で、黒い球と金色の球が回っている。地球と太陽の模型に見えるが、どちらにも中心軸はない。
遠野が外輪を回すと、ドームの星が点いた。
電源は入っていない。
星々は僕を囲み、同心円を描き始めた。
冒頭の夜へ、時間が追いついた。
「動かないで、央路」
「動かなければ、僕は固定点のままです」
「急に動けば、補正が破綻する」
「では、同時に動きましょう」
僕は右手を差し出した。
遠野は数秒ためらい、その手を取った。
指が絡んだ瞬間、ドームに亀裂のような光が走った。
北極星が落ちた。
オリオン座の肩が崩れ、銀河が白い濁流になって流れた。観客席が軋み、床が波打つ。
装置の内輪には、二つの小さなくぼみがあった。
僕たちはそこへ、片方ずつ手を置いた。
「宣言が必要だ」
遠野が叫んだ。
「何を?」
「固定点を解除する言葉だ」
僕は崩れる星空を見上げた。
三年前の僕は、遠野を好きだった。
今の僕も、たぶん好きなのだと思う。
けれど、好きという言葉は、相手を自分の物語の中心に据えるための王冠ではない。
僕は彼を見た。
「あなたは、僕の世界の中心じゃない」
遠野の顔が歪んだ。
僕は続けた。
「それでも、あなたがいるから、僕は動く」
遠野は息を呑んだ。
それから、泣くように笑った。
「君は、僕の中心じゃない」
彼の指が、僕の指を強く握った。
「それでも君のせいで、僕の軌道は変わる」
二人で、同時に内輪を押した。
世界から音が消えた。
星が止まった。
次の瞬間、僕たちは互いに反対方向へ引かれた。手が離れそうになる。遠野の肩の向こうで、プラネタリウムの壁が紙のようにめくれ、その裏に夜より深い闇が見えた。
中心のない闇。
上も下もない。
僕たちのほかには、何もない。
「離すな!」
遠野が叫んだ。
「離しません!」
「今度こそ、絶対に」
「その言い方、固定点みたいで嫌です」
「こんなときまで理屈を言うな!」
「あなたに習いました!」
僕たちは、笑った。
世界が白く弾けた。
九
目を開けると、朝だった。
プラネタリウムの床に、僕と遠野は並んで倒れていた。
ドームには、いつもの星空が戻っている。
扉が開き、警備員が顔を出した。
「牧瀬さん、遠野先生。こんなところで何をしているんですか」
僕たちは同時に起き上がった。
「今、僕の名前を」
「そりゃ呼びますよ。二人とも、徹夜は禁止です」
警備員は呆れた顔で去っていった。
職員証は反応した。
端末には僕の勤務記録があり、報告書も、銀行口座も、住民票も戻っていた。
母へ電話すると、一声目で怒鳴られた。
『央路、昨日から何度かけても出ないじゃない。ちゃんと食べてるの?』
僕は「食べている」と答えながら、少し泣いた。
遠野は窓際に立って、朝の空を見ていた。
「成功したんでしょうか」
「今のところは」
「曖昧ですね」
「宇宙論に確定版はない」
「恋愛にも?」
「なおさらない」
彼は振り返った。
「それで、今度こそデートしてくれる?」
「三年前の僕と、どこまで進んでいたんです」
「屋上で一度、キスを」
「証拠は?」
「再現実験を提案する」
「却下します」
「では、査読に回そう」
「誰にですか」
「君に」
僕は笑った。
「条件付きで採択します」
「条件は?」
「もう二度と、僕の代わりに世界を決めないこと」
遠野は、冗談をやめた顔で頷いた。
「約束する」
「それから」
「まだあるのか」
「次に僕が死にそうになったら、まず救急車を呼んでください」
「善処する」
「約束してください」
「約束する」
僕たちは資料館を出た。
空は晴れていた。
太陽は地球の周りを回っているように見えた。
けれど、見えることと、そうであることは違う。
僕たちは並んで歩いた。
どちらが先でも、後でもなく。
十
東都天文資料館 収蔵品再調査記録
整理番号:A-0417
品名:真鍮製多重環式模型
年代:推定十七世紀後半
作者:不詳
用途:不明
再調査を担当した新人学芸員の弦司は、その模型を見て首をかしげた。
古い収蔵台帳によれば、模型は六十二年前から展示ケースに入ったままだ。貸出記録も、修復記録もない。
ところが内部の軸には、新しい摩耗があった。
つい最近、何者かが何度も輪を回したような跡だ。
監視映像を確認すると、三月十四日の午前零時前後、無人のプラネタリウムで星が勝手に点灯していた。
音声には、男女とも判別できない二人分の声が入っていた。
――君は、僕の中心じゃない。
――それでも、君がいるから動く。
職員名簿を検索したが、牧瀬央路という職員はいなかった。
遠野志弦という研究者も、大学の記録には存在しなかった。
弦司は報告書に「音声混入の原因は不明」と入力し、模型へ顔を近づけた。
幾重もの真鍮環の内側で、二つの小さな光が回っている。
中央には何もない。
空っぽの一点を挟み、光は決して触れず、決して離れず、同じ周期で互いの周囲を巡っていた。
よく見ると、それは光ではなかった。
人の形をした、二つの影だった。
一人がもう一人の手を取る。
もう一人が何かを言って笑う。
弦司は息を止めた。
影の片方が、ふいにこちらを向いた。
目が合った。
展示室の照明が落ちた。
暗闇の中で、弦司の職員証が短く電子音を鳴らした。胸もとの表示から、彼の名前が一文字ずつ消えていく。
模型の内側では、二つの影が身を寄せ合っていた。
そして空っぽだった中心のそばに、三つ目の小さな星が、ゆっくりと回り始めた。
(了)