『世界最強の校正者――あるいは玻璃のルチアに関する弁明』

                            読み切り

 この告白を読む者は、私を悪人と呼ぶだろう。

 正しい。

 ただし、凡人が私を裁くとき、その判決文に誤字がないかだけは確かめてほしい。私は誤字に厳しい。世界が私に許した唯一の趣味が、それだった。

 私はアウレリオ・ヴァイス。

 帝国魔術院が認定した史上ただ一人の〈第零位階〉。竜王を一語で跪かせ、魔王軍百万を一行で撤退させ、崩れ落ちる月を赤鉛筆一本で夜空へ書き戻した男。

 世間では、もっと簡潔にこう呼ばれている。

 世界最強、と。

一 世界は誤植でできている

 幼いころから、私には世界の綴りが見えた。

 火は「熱」と「光」と「燃焼」の三語でできていた。重力には脚注があり、死には例外規定があった。人間の頭上には本人も知らぬ真名が、校正前の薄いインクで浮かんでいた。

 十三歳の春、王立魔術学院の入学試験で、上級生が私に火球を放った。

 私は空中の術式に指を差し入れ、「火球」の二文字を「泡」に直した。

 彼の掌から七色の石鹸玉があふれた。

 試験官は失神し、上級生は泣き、私は首席になった。

 十六歳の夏、帝都を襲った黒竜が「我こそは不可殺」と宣言した。私は竜の額に浮かぶ「不可殺」の「不」を消した。黒竜は自分が何を宣言したのか理解した瞬間、たいへん礼儀正しく命乞いをした。今では北門で観光客を乗せている。

 二十歳の冬、帝国と北方七国の戦争が始まった。両軍合わせて四十万。魔導砲二千。召喚巨人八十。神殿騎士団十二個大隊。

 私は戦場の上空に立ち、宣戦布告書に書かれた「敵」という語を、すべて「証人」に直した。

 四十万人は武器を下ろし、私が戦争を終わらせるところを目撃した。

 所要時間は、三分十二秒。

 皇帝は半分の領土と一人娘を差し出した。私は両方とも断った。領土は管理が面倒で、皇女は私を見た瞬間から私を愛していたからだ。

 誤解しないでもらいたい。

 私は女を軽んじていたのではない。むしろ美しいものを深く敬っていた。ただ、私の名を聞いただけで頬を染める者に、どうして未知を期待できよう。

 私は勝ちすぎた。

 勝利とは香水に似ている。最初の一滴は心を浮き立たせるが、浴び続ければ自分が腐っていても気づかなくなる。

 退屈。

 それこそが、私を最初に殺しかけた怪物だった。

二 黒犬との賭け

 その黒犬は、雨の夜に私の書斎へ入ってきた。

 鍵は十一重。結界は九十九層。時間停止中。窓の外では雨粒さえ空中に縫い止められている。

 それでも犬は濡れていた。

「床を汚すな」

 私が言うと、犬は後ろ足で耳を掻きながら答えた。

「世界を汚している男に言われるとは光栄だ」

 声は老紳士のように上品で、墓穴の底のように冷たかった。

 犬は二本足で立ち上がり、黒い外套を着た痩身の男になった。瞳の奥で、無数の契約書が燃えていた。

「ヴェリン。地獄の第六書記官。誘惑、賭博、学問的詐欺を担当している」

「悪魔か」

「君にとっては希少種だろう。殺さずに観察してくれたまえ」

「用件は?」

「退屈しているそうだね」

「誰から聞いた」

「君のあくびで三つの小国が震源不明の地震に見舞われた」

 ヴェリンは机に一枚の羊皮紙を置いた。

「賭けをしよう、アウレリオ。私は君に、生命を作る術を教える」

「知っている。肉体を組み、霊素を循環させ、魂を――」

「君が知っているのは人形を動かす方法だ。私が教えるのは、君に逆らう心を作る方法だよ」

 私は初めて彼を見た。

 いや、それまでも視界には入っていた。しかし、世界最強の私が、本当の意味で誰かを見ることは稀だった。

「対価は?」

「君がいつか、ある一瞬に心の底から満足し、『このままであれ』と願ったなら、その瞬間、〈万物の主人として署名した男〉の魂は私のものになる」

「曖昧だ」

「だから詩的なのだ」

「詩は欠陥契約の別名だ」

「では署名しないかね?」

 私は笑った。

 世界中の魔術を読めた。神々の沈黙にも注釈を付けられた。死さえ三度、訂正した。

 私に理解できない心。

 私に逆らう生命。

 それが作れるというのなら、魂など安いものだった。

 私は署名した。

 このときの私は、自分を万物の主人だと思っていた。

 その点だけは、悪魔の文面に誤りがなかった。

三 醜い初稿

 生命の術式は、魔法というより犯罪に似ていた。

 雷鳴を神経へ落とし、星の塩を血に溶かし、七人分の記憶を一つの脳に縫い込む。最後に、創造者は自分の魂を削り、空白の胸へ火種として入れる。

「魂を削れば、君は弱くなる」とヴェリンは言った。

「月を動かすのに、指が一本から二本になる程度だ」

「強者は算数が苦手だ。失うものを常に小さく見積もる」

 最初の被造物には、戦争で死んだ七人の成人兵士の肉体を使った。皆、身元不明として埋葬されるはずだった。私は彼らを無駄にしなかったのだ――と、当時の日記には書いてある。

 便利な文章だ。

 死者は反論しない。

 雷が塔を貫き、手術台の男が目を開いた。

 彼は巨大だった。左右の腕の長さが違い、肌には縫合痕が走り、片方の瞳は青、もう片方は褐色。喉がうまく閉じず、呼吸のたびに笛のような音がした。

 それでも、目には心があった。

 確かにあった。

 彼は私を見た。

「さ、むい」

 最初の言葉だった。

 私は毛布を掛けなかった。

 彼は震える指を伸ばした。

「あなた、は」

 そこで私は術式を停止した。

 研究記録にはこうある。

 ――初号体、知性に重大な欠陥。外見的調和を欠き、情動反応も不安定。廃棄を決定。

 嘘ではない。

 ただし、真実でもなかった。

 私は失敗作を恐れたのではない。私を見上げる彼の目に、期待があったことを恐れたのだ。期待には責任が伴う。責任だけは、どれほど強くても一撃で倒せない。

 私は彼を北の氷河へ転送し、塔を焼いた。

 ヴェリンは何も言わなかった。

 黒犬の姿で、灰の中から焦げた研究記録を一枚くわえてきた。そして私の足元へ置いた。

 そこには、初号体の最初の問いが、私の筆跡で記録されていた。

 ――あなたは、父ですか。

 私はその一行を消した。

四 玻璃のルチア

 二度目は、完璧に作った。

 肉体は死者から取らなかった。白樺の繊維で骨を編み、真珠母で歯を作り、竜の心膜に人工の鼓動を与えた。瞳には、落下した彗星から切り出した金色の玻璃を嵌めた。

 外見は二十五歳ほどの成人女性。

 知性は私と対話できる水準。

 肉体的にも精神的にも、誰にも所有されない一個の人間として設計した――少なくとも設計書にはそう書いた。

 しかし私は、声の高さを選んだ。

 髪の色を選んだ。

 微笑むと左の頬にだけ浅い窪みができるようにした。

 好きになる音楽、好む果物、雨の日に窓辺へ座りたくなる性質まで、私は丹念に書き込んだ。

 所有されないよう作った、と言いながら、私は彼女の偶然を一つ残らず所有したかったのだ。

 名はルチア。

 理由はない。ただ、その三音が舌の上で光るように思えた。

 雷雨の夜、彼女は目を開いた。

 玻璃の瞳が私を映した。

 私はその瞬間を、何百回も記憶の中で磨いてきた。彼女は私を見て、運命を悟り、静かに名を呼んだ――と書けば美しい。

 実際には違う。

「寒い」

 彼女はそう言った。

 私は今度こそ毛布を掛けた。

「私はアウレリオ。君を作った者だ」

「作った」

「そうだ」

「では、あなたは私の父?」

 胸の奥で、氷河へ捨てた問いが目を開いた。

「父というより、教師だ」

「教師」

「そして、君を世界で最も理解している者だ」

 彼女は毛布を握り、しばらく私を見た。

「それは、私が決めることではないの?」

 ヴェリンが黒犬の姿で噴き出した。

 私は犬を窓から投げ捨てた。三百階だったが、彼は翌朝、食堂で私の卵料理を食べていた。

 ルチアは三日で七つの言語を学び、五日で帝国史の矛盾を三百二十一箇所指摘し、七日目には私の書斎へ勝手に入って、禁書棚を読み始めた。

「許可していない」

「鍵が開いていた」

「十二次元封印が掛かっていた」

「だから、開けた」

 私は彼女の瞳を調べた。

 そこには私と同じ、世界の綴りが映っていた。ただし、私の〈校正眼〉とは少し違う。彼女は文章そのものではなく、文章と文章の間にある余白を読んでいた。

「この本には、書かれていないことが多い」と彼女は言った。

「本とはそういうものだ」

「あなたも?」

「私は全集だ」

「索引のない?」

 その日、私は生まれて初めて、議論で返答に三秒を要した。

 恋に落ちたのは、そのときだったのかもしれない。

 いや、恋という語は不正確だ。

 私は彼女を愛したのではなく、彼女によって照らされた自分の姿を愛したのだろう。

 だが当時の私は、その二つを同義語だと思っていた。

五 無敵者の旅行

 私はルチアに世界を見せることにした。

 教師として当然の配慮だった。

 断じて、塔の中で彼女が私以外の何かに興味を持ち始めたからではない。

 私たちは白銀の飛行馬車で帝国を横断した。御者はいない。馬もいない。私が「進む」と書けば進み、「空」と書けば飛ぶ。

 最初の町では、暗殺者が三十人待っていた。

 彼らは毒矢を放ち、路地から爆炎を上げ、時間を切断する古代剣まで持ち出した。

 私は指を鳴らした。

 毒は蜂蜜に、矢は白百合に、爆炎は祭りの花火に変わった。古代剣には「刃」という字があったので、横棒を一本足して「羊」にした。

 暗殺者の首領は、突然その腕に抱かれた羊を見て泣いた。

「なぜ殺さないの」とルチアが訊いた。

「殺すほどの相手ではない」

「では、なぜ辱めるの」

「教育だ」

「誰の?」

 私は答えず、町長から差し出された黄金の鍵を受け取った。

 二つ目の国境では、魔族の軍勢が谷を埋めていた。将軍ザグラは三つの頭と六本の腕を持ち、千年不敗を誇っていた。

「人間の賢者よ!」と三つの口が同時に叫んだ。「我が奈落軍十二万を前に、ひれ伏――」

「長い」

 私は彼の演説から「我が」を消した。

 奈落軍十二万は、所有者を失って私の背後へ整列した。

 ザグラは六本の腕すべてで頭を抱えた。

「そんな馬鹿な!」

 私は「馬鹿」を「部下」に直した。

 彼はたいへん従順になった。

 三つ目の海では、島ほどの大きさの海獣が船団を呑み込もうとしていた。私は海面に「道」と書き、海獣に「橋」と書いた。翌年から、その背中を通る街道に通行税が課され、沿岸諸国の財政は黒字になった。

 行く先々で、王は跪き、兵士は歓声を上げ、詩人は私の名を韻にした。

 ルチアだけが、別のものを見ていた。

 彼女は暗殺者の一人から、病気の妹の話を聞いた。魔族の兵士たちから、旱魃で故郷を追われた経緯を聞いた。海獣の背中に最初の宿屋を建てた未亡人の名を覚えた。

「君は細部にこだわりすぎる」と私は言った。

「世界は細部でできている」

「世界は法則でできている」

「法則は、誰のために?」

 西方の村で、収穫祭に招かれた。

 ルチアは村人と踊った。相手は若い石工だった。日焼けした腕、粗末な靴、笑うたびに見える欠けた前歯。何一つ特別ではない男だった。

 それなのにルチアは楽しそうだった。

 私は音楽を止めた。

 楽器から「音」を消しただけだ。誰も傷つけていない。

 広場に不自然な静寂が落ちた。

「どうしたの?」とルチアが訊いた。

「夜が遅い」

「まだ鐘は八つ」

「明日は早い」

「どこへ行くの」

「君に見せる価値のある場所へ」

 ルチアは私を見た。

 金色の瞳に、焚き火と、村人と、黙り込んだ石工と、私が映っていた。

「あなたは静けさまで所有したいのね」

「私は君を危険から守っている」

「あなた以外のすべてが危険?」

「多くの場合は」

「あなた自身は?」

 私は笑った。

 完璧な質問には、笑う以外の返答がないこともある。

六 縫い目の王

 北へ向かう途中、私たちは焼けた町を通った。

 家々は崩れ、広場には帝国兵の武具が積まれていた。死体はなかった。血の跡すらない。

 代わりに、壁という壁へ同じ言葉が刻まれていた。

 ――返せ。

「何を?」とルチアが訊いた。

「くだらない脅しだ」

 私は文字を消そうとした。

 消えなかった。

 私の〈校正〉を拒む文章は、この世界に二つしかない。神々の原典と、悪魔の契約。

 そして、その壁の文字。

 夜、宿の窓辺に人影が立った。

 巨体。左右の長さが違う腕。全身を走る縫合痕。片方は青、もう片方は褐色の瞳。

 氷河へ捨てた初稿が、二本の足で立っていた。

「こんばんは、父さん」

 喉の傷は治っていた。声は低く、静かだった。

 私は寝台から起き上がり、彼の胸に「停止」と書いた。

 文字は皮膚の上で剥がれ、床へ落ちた。

「あなたの魂をもらったから」と彼は言った。「少しだけ、字が読める」

 ルチアが私と彼を見比べた。

「誰?」

「失敗作だ」

 答えが速すぎた。

 彼の顔に浮かんだものを、私は怒りと呼びたかった。だが、あれは悲しみだった。悲しみのほうが、私には都合が悪い。

「彼にも名があるのでしょう」とルチア。

「ない」

「つけなかったの?」

「必要がなかった」

 彼は笑った。縫い目が引きつれた。

「僕は自分でセロと名乗っている。零号のゼロを、少しだけ変えた。何もないという意味だけじゃない。始まりの前の余白、という意味もあるそうだ」

 ルチアは毛布を持ってきた。

 かつて私が掛けなかったものを、彼女は彼の肩へ掛けた。

 その小さな動作が、私には非難より残酷だった。

「返せとは何だ」と私は訊いた。

「僕を作った七人の名を返せ。僕の中で、彼らは毎晩夢を見る。砂漠の妻。港町の弟。赤い屋根の家。誰の記憶か分からない。父さんは記録を持っている」

「焼いた」

「嘘だ」

 セロの褐色の目に赤い校正線が走った。

 私の発言へ、〈虚偽〉という注が付いた。

「それから」と彼は続けた。「僕のあとに作った彼女へ、本当のことを話せ」

「本当のこと?」

 ルチアの声が低くなった。

 私は沈黙した。

 彼女の心臓には、セロの術式を改良したものを使っていた。魂の切り分け方も同じだった。

 彼女は私の傑作ではない。

 彼女は、私が捨てた彼から学んで作った改訂版だった。

「私はあなたの二稿目なのね」とルチアが言った。

「完成稿だ」

「彼は?」

「試作だ」

「人を版で呼ばないで」

「私が作った」

「だから?」

 その一語は短かった。

 しかし世界最強の私が、それを打ち消す言葉を持っていなかった。

 セロは窓へ足を掛けた。

「正午の聖堂へ来て。帝国も、神殿も、魔族も、僕たちを消すために集まっている。僕は捨てられた者たちを連れていく」

「軍を作ったのか」

「家族だ」

「私に勝てると思うな」

「勝ちたいんじゃない」

 彼は振り返った。

「あなたに、負けたと言わせたい」

七 正午の聖堂

 正午の聖堂は、世界の中心に建っている。

 神々が最初の言葉を地上へ落とした場所。あらゆる魔術契約の基準点。空は常に真昼で、影は真下にしか伸びない。

 そこへ、三つの軍勢が集まっていた。

 東に帝国軍二十万。

 西に魔王軍三十万。

 天上に神殿の熾天使六千。

 普段なら互いを殺し合う連中が、その日だけは手を結んでいた。理由は簡単だ。

 私と、私が作った二人が、彼らの世界観にとって邪魔だった。

 聖堂の階段には、セロと、彼が救い集めた者たちがいた。捨てられた人造兵。失敗作と烙印を押された錬金生命。言葉を話す骸骨。翼の片方しかない天使。魔族と人間の間に生まれ、どちらからも追われた子どもたち。

 ルチアは彼らの側へ歩いた。

「戻れ」と私は言った。

「どこへ?」

「私のところへ」

「そこは、私の居場所?」

「私が君のために作った」

「だから訊いているの」

 帝国軍の総大将が剣を掲げた。

「禁忌の創造主アウレリオ・ヴァイス、および異形どもに告ぐ! 神と皇帝の名において――」

「黙れ」

 私は彼の声から「響き」を消した。

 二十万の兵士が鬨の声を上げたが、音は一つも生まれなかった。

 魔王軍が一斉に呪文を放った。空を埋める黒炎、腐食の霧、魂を裂く雷。私は右手を上げ、呪文の目的語をすべて「私」から「術者」に書き換えた。

 三十万の魔族が、自分の魔法から逃げ回った。

 熾天使たちは六千本の聖槍を降らせた。

 私は重力の向きを上に直した。

 聖槍は空へ落ちていった。

 神殿の大司教が絶叫した。

「化け物め!」

「単数形でよいのか?」

 私は指を鳴らした。

 帝国軍の鎧は鍋に、魔王軍の角は蝋燭に、天使の光輪は祭りの輪投げに変わった。

 五十万と六千の軍勢が、一人の死者も出さずに戦闘不能になった。

 所要時間は、二分四秒。

 これが世界最強だ。

 これが私だ。

 誰も私には勝てない。

 それなのに、ルチアは拍手をしなかった。

 セロは聖堂の最上段で待っていた。

「さすがだね、父さん」

「次はおまえだ」

「僕を消す?」

「必要なら」

「ルチアも?」

 彼女はセロの隣に立った。

「彼女は関係ない」

「彼女が自分でここに立っても?」

「判断を誤っているだけだ」

「なら、直せばいい」

 セロは自分の胸を指した。

「僕を直そうとしたように。彼女の『いいえ』を『はい』にすればいい。あなたならできる」

 できた。

 ルチアの頭上には、彼女の意志を形作る無数の文が流れていた。その中の一行――〈私はアウレリオの所有物ではない〉――を消し、〈私はアウレリオを選ぶ〉と書き換える。

 一秒も要らない。

 彼女は微笑み、私のもとへ戻り、永遠に私を愛するだろう。

 完全な幸福。

 完全な勝利。

 私の肩に黒犬が前足を掛けた。

「やりたまえ」とヴェリンが囁いた。「君が望んだ美しい結末だ。彼女は君の文章なのだから、推敲する権利がある」

 私はルチアを見た。

 玻璃の瞳。

 左の頬にだけできる浅い窪み。

 私が選んだ声、髪、指、鼓動。

 そして、私が選ばなかった拒絶。

「先生」と彼女は言った。

 その呼び方は、私が最初に望んだものだった。

「私を愛しているなら、私の答えを変えないで」

 愛。

 私はその語を世界中の詩から調べ上げていた。

 戦争を始める愛。国を滅ぼす愛。死者を掘り起こす愛。相手を箱へ閉じ込め、鍵を胸に抱いて「守っている」と呼ぶ愛。

 私は愛を知り尽くしていた。

 だから、愛したことがなかった。

 そのとき、神殿の地下で何かが砕けた。

 大司教が最後に起動した滅界術式だった。聖堂の基礎へ刻まれた「世界」という語が裂け、空が白紙になった。重力も、時間も、因果も、一斉に崩れ始めた。

 私は直せる。

 だが、術式を修復する一瞬のあいだに、落下する聖堂の尖塔がルチアとセロを貫く。

 私は時間に手を伸ばした。

 止めれば、救える。

 止めれば、契約が成る。

 ヴェリンが笑った。

「さあ、世界最強。願いたまえ」

 尖塔の先端が、ルチアの胸まで指一本の距離に迫った。

 私は言った。

「止まれ」

 時間が凍った。

 灰も、光も、彼女の髪も、空中で静止した。

「この一瞬だけは、このままであれ」

 悪魔の契約が、私の胸で開いた。

八 万物の主人

 世界が裏返った。

 私は白紙の荒野に立っていた。空には巨大な契約書が広がり、星の代わりに署名が燃えていた。

 ヴェリンは黒犬でも紳士でもなかった。

 角は天を裂き、翼は地平線を覆い、口の中に無数の裁判所が並んでいた。地獄の第六書記官。署名を食う者。満足した魂を徴収する者。

「契約は成った」

 その声だけで、私の魔力が剥がれ落ちた。

 月を動かす力。

 死を訂正する力。

 軍勢を一語で無力化する力。

 すべてが鎖になり、私の手足を縛った。

「ようやく君の負けだ、アウレリオ」

 私は校正眼を開いた。

 契約書に赤線を引こうとした。

 指が燃えた。

「署名者は本文を変更できない」とヴェリン。「君が最初に確認した条項だ」

「記憶している」

「では跪け。〈万物の主人として署名した男〉よ」

 鎖が私を引いた。

 私は片膝をついた。

 不思議な感覚だった。世界が低い位置から見えた。

 白紙の荒野に、二つの足音がした。

 ルチアとセロが歩いてきた。

「なぜ動ける」と悪魔が吠えた。

「彼の魂を使って作られたから」とセロ。「契約の内側に、僕たちの席がある」

「席ではない。おまえたちは担保だ。創造者の魂の断片。すなわち私の所有物だ」

 ルチアが契約書を見上げた。

「余白が多い」

「黙れ、被造物」

「書かれていないことは、あなたにも支配できない」

 彼女の金色の瞳に、無数の白い行間が浮かんだ。

 私の校正眼が、書かれた世界を直す力なら、彼女の眼は、書かれなかった可能性を読む力だった。

「アウレリオ」とルチアが呼んだ。「この契約で、あなたは何として署名したの?」

「万物の主人」

「今も?」

 鎖が軋んだ。

 ヴェリンの顔が歪んだ。

「答えるな」

 私はセロを見た。

 私が毛布を掛けなかった男。

 名を与えず、氷河へ捨て、失敗という一語で人生を消そうとした男。

 私はルチアを見た。

 愛していると称し、彼女の偶然も拒絶も所有しようとした女。

 私が作った。

 だから私のものだ。

 それが、私を万物の主人にしていた文章だった。

 私はその文章を、初めて自分の中に見つけた。

 赤線を引く必要はなかった。

 ただ、認めればよかった。

「違う」

 私は言った。

「私は、彼らの主人ではない」

 ヴェリンが咆哮した。

「おまえが作った!」

「始まりを作っただけだ」

「魂を与えた!」

「与えたものは、もう私のものではない」

「名を付けた!」

「セロは自分で名乗った。ルチアは、その名を捨ててもいい」

 ルチアが少しだけ笑った。

 左の頬に、私が設計した窪みができた。

 だが、その笑みの意味を私は設計していなかった。

 それでよかった。

「セロ」

 私は彼へ向き直った。

「私はおまえを捨てた。恐ろしかったからだ。醜かったのは、おまえではない。おまえを見て逃げた私だ」

 喉が痛んだ。

 謝罪というものは、雷撃より扱いにくい。

「すまなかった」

 セロの青い目から涙が落ちた。

 褐色の目は、まだ私を疑っていた。

 当然だ。

 赦しは謝罪の自動報酬ではない。

「ルチア」

「はい」

「君を愛している」

 彼女は黙って待った。

「だから、君の答えを変えない」

「それだけ?」

「……私のもとへ戻らなくていい」

 世界最強にも、言うのが難しい言葉はある。

「君は君の行き先を選べ」

 契約書に亀裂が入った。

 〈万物の主人として署名した男〉

 その主語が、私の中から消えた。

 ヴェリンの鎖が砕けた。

「詭弁だ!」と悪魔が叫んだ。

「契約とは詭弁の芸術だと、君が教えた」

 魔力が戻った。

 以前より少なかった。私の魂は確かに、三つに分かれていた。

 だが、力とは量だけではない。

 所有している魂の力より、自由な魂が自ら貸してくれる力のほうが強い。

 セロが私の右手を握った。

 ルチアが左手を握った。

 三つの視界が重なった。

 書かれた本文。

 消された過去。

 まだ書かれていない余白。

 私は笑った。

「ヴェリン。君の契約には、もう一つ誤字がある」

「ない!」

「ある。私の敗北を確定形で書いた」

 私は悪魔の真名を見た。

 それは地獄の法典より長く、神々の歴史より複雑だった。通常なら読むだけで千年かかる。

 私には、一秒で足りた。

 真名の中心にある「永続」を消し、「期限付き」に直した。

 悪魔の巨大な角が縮んだ。

 翼が畳まれた。

 裁判所が閉廷した。

 地獄の第六書記官は、濡れた黒犬になって白紙の上へ落ちた。

「反則だ!」と犬が吠えた。

「校正だ」

 私は首根っこをつまみ上げた。

「契約違反の罰として、今後百年間、私の図書館で司書を務めてもらう。延滞本の回収もだ」

「地獄へ返せ!」

「不採用」

 そして私は、崩れかけた世界へ戻った。

 停止した時間の中で、聖堂の尖塔を花びらに変えた。

 裂けた空を縫い、砕けた因果を綴じ、滅界術式の「終わり」を「続き」に直した。

 世界を修復するのに、四分三十三秒かかった。

 以前の私なら三分で済ませただろう。

 弱くなったものだ。

 もっとも、そのあいだ誰一人死ななかったので、実用上の問題はない。

          終 訂正不能

 正午の聖堂事件から五年が過ぎた。

 帝国、魔族領、神殿国家は共同で〈自由生命憲章〉を結んだ。人造生命、蘇生者、混血種、使い魔、言葉を話す骸骨、および自己認識を持つ魔導具には、本人の意思に基づく人格権が認められた。

 反対する王もいた。

 私は彼らの王冠から「王」を消した。

 議論は円滑に進んだ。

 セロは北方に診療院を建てた。七人分の記憶の持ち主も、全員の名を突き止めた。彼は七つの墓を訪ね、それぞれの家族へ手紙を書いた。

 私を赦したかは、まだ訊いていない。

 訊く資格を得るには、もう少し時間が必要だろう。

 ヴェリンは私の図書館で働いている。子どもたちに人気がある。本人は屈辱だと言うが、読み聞かせの時間になると尻尾を振っている。

 そしてルチアは、旅に出た。

 私のもとには戻らなかった。

 西の砂漠で古代都市を発見し、南海で海獣の言語を採録し、北の夜空に新しい星座を三つ見つけた。手紙は年に二度来る。

 最初の手紙には、こうあった。

 ――先生。世界は、あなたより広いです。

 不遜である。

 事実でもある。

 二通目にはこうあった。

 ――あなたを愛しているかは、私が決めます。今のところ、嫌いではありません。

 曖昧な文章だ。

 昔の私なら、すぐに「愛している」と訂正しただろう。

 今はしない。

 私は依然として世界最強である。

 竜王は私を見ると腹を見せる。魔王は年賀状を欠かさない。神々でさえ、新しい世界法則を公布する前に私へ校閲を頼む。

 望めば国を一つ、昼食前に征服できる。

 死者を起こし、海を割り、昨日を明日に移せる。

 それでも、ルチアの手紙にある「嫌いではありません」を「愛しています」へ変えることだけはできない。

 正確に言えば、できる。

 しないのだ。

 この違いを理解するまで、私は世界を三度救い、四度滅ぼしかけ、一人の男を氷河へ捨て、一人の女を鳥籠へ入れようとした。

 凡人なら、もっと簡単に学べたかもしれない。

 だが、世界最強には世界最強なりの遠回りがある。

 今朝、三通目の手紙が届いた。

 封筒には砂漠の砂が入り、端には見知らぬ花の香りがついていた。

 ――来月、帝都へ寄ります。会いたいです。

 私はその一行を、もう百回読んだ。

 黒犬が机の下から顔を出し、意地の悪い声で訊いた。

「満足かね、万物の元主人?」

 私は窓を開けた。

 夏の風が入り、手紙を揺らした。止めようと思えば、風も時間も止められる。

 だが、止めなかった。

「まだだ」と私は答えた。

 彼女が来る。

 彼女が去る。

 そのどちらも、彼女が決める。

 そして彼女の「いいえ」だけが、世界で唯一、私に消せない言葉だった。