九回裏の忘れもの

 浜風市民球場のスコアボードは、海に背を向けて立っている。

 潮をまともに受けると数字板が錆びるからだ、と祖父は言っていた。けれど片瀬蒼には、あれは海を見ないようにしているのだと思えた。

 負けた選手が泣くところも、勝った選手が空へ帽子を投げるところも、スコアボードだけは正面から見つづける。だからせめて、海ぐらいは見なくていいように建てられたのだ。

 七月。県大会一回戦の前日。

 市立凪浜高校のエースである蒼は、誰もいない外野を歩いていた。

 明日から始まる大会が終われば、この球場は取り壊される。老朽化と、海風による腐食。行政の説明は正しかったし、反対署名も目標には届かなかった。

 蒼の祖父は、三十七年間、この球場のスコアボード係をしていた。

 まだ電光表示ではなく、人が裏側から数字板を差し替えていたころの話だ。小学生の蒼と、幼なじみの鷹野颯真、それから篠崎灯は、夏休みになると祖父の後ろをついて回った。

「スコアは最後に残る一行だ」

 祖父はよくそう言った。

「でもな、野球はその一行になる前の全部だ。だから数字だけ見て、試合が分かった気になるなよ」

 祖父は二年前に亡くなった。

 蒼はマウンドの土を靴先でならした。明日の相手は大崎工業。打線は強くないが、守備が堅い。凪浜も似たようなものだった。県内で名前の知られた選手は蒼一人もいない。百三十キロ台後半の直球と、曲がりの小さいスライダー。良く言えばまとまっている。悪く言えば、怖さがない。

 対して颯真は、私立白嶺学院の四番捕手だった。右にも左にも長打を打ち、強肩で、すでに複数の球団が調査書を出しているらしい。

 小学生のころは、蒼が投げ、颯真が受けていた。

 中学を卒業するとき、颯真は白嶺へ行き、蒼は地元の凪浜に残った。

 それでも二人は、最後の夏にこの球場で会うことになっていた。

 ――なっていたはずだ。

 風に飛ばされた白い紙が、センター後方のフェンスに張りついた。蒼が拾うと、それは古いスコアカードだった。黄ばんだ紙の隅に、祖父の字で「平成二十一年 少年野球決勝」とある。

 裏には、見覚えのない鍵がテープで留めてあった。

 祖父の字で、もう一行。

「数字の裏を見たくなったときだけ使え」

 蒼はしばらく鍵を見つめ、それからスコアボード裏の通路へ向かった。

 スコアボードの内部は、昼でも薄暗かった。

 錆びた階段を上がると、左右に細長い作業床が延びている。昔はここから数字板を入れ替えた。今は簡易電光式に改修され、使われていない。

 突き当たりに、小さな鉄扉があった。

 蒼はこれまで何度も祖父について中へ入ったが、そんな扉を見た記憶はなかった。

 鍵はぴたりと合った。

 扉の向こうは、電話ボックスほどの部屋だった。

 壁に古いスコアボードの操作盤があり、その中央に、野球ボールほどの真鍮のハンドルがついている。上には二つの数字窓。左に「凪浜」、右に「大崎工」と紙札が差し込まれていた。

 数字は、左が0、右が1。

 明日の対戦カードだった。

 操作盤の下に、小さな金属板がある。

 《一点を移せます。

  代わりに、あなたがその一点を欲しがる理由をいただきます。》

「……趣味が悪いな、じいちゃん」

 蒼は笑おうとした。

 誰かのいたずらだ。祖父が生前に仕込んだものかもしれない。数字窓の裏に乾電池でも入っていて、明日の予想を表示する。そんなところだろう。

 けれど、0対1という数字が妙に現実味を持って見えた。

 凪浜は打てない。自分が一点を失えば、そのまま負ける。三年生の夏が、一時間半で終わることだってある。

 蒼はハンドルに手をかけた。

 金属は、氷のように冷たかった。

「一点を、移すだけだろ」

 左へ回すと、歯車の噛み合う音がした。

 右の1が消え、左に1が現れた。

 凪浜1、大崎工0。

 その瞬間、部屋のどこかで、祖父の咳払いが聞こえた。

 蒼は振り返った。

 誰もいない。

 外へ出ると、夕焼けのグラウンドに灯が立っていた。肩からカメラを提げ、もう片方の手に三冊目のスコアブックを抱えている。

「やっぱりここにいた」

「なんで分かった」

「蒼が考えごとするとき、マウンドか、ここだから」

 灯は高校で写真部に入りながら、野球部の試合だけは毎回スコアをつけていた。小学生のころからそうだ。颯真が白嶺へ進んでからも、二人分の新聞記事を切り抜いている。

「中、入ったの?」

「ちょっとな」

「おじいちゃんの秘密基地?」

「大したものはなかった」

 嘘をついたとき、潮風が強く吹いた。

 灯の前髪が揺れた。彼女は目を細めて、蒼の顔を見た。

「明日、勝ってね」

「ああ」

「勝ったら、ちゃんと写真撮る」

「負けたら?」

「もっとちゃんと撮る。最後になるから」

 蒼は返事をしなかった。

 最後になんか、したくなかった。

 翌日の試合は、1対0だった。

 七回表、凪浜の八番打者が四球で出て、送りバントと内野ゴロで二死三塁。九番の玄司が、詰まりながらも一、二塁間へ落とした。

 それが唯一の得点になった。

 蒼は九回を四安打、無失点。最後の打者を外角低めの直球で見逃し三振に取った。

 歓声の中で、蒼はスコアボードを見上げた。

 そこには昨夜と同じ数字があった。

 凪浜1、大崎工0。

 偶然だ、と言い聞かせた。

 だが試合後、祖父の古い友人だという男性が声をかけてきた。

「征一さんも喜んどるだろう。お前さんが小さいころ、毎朝あの人とキャッチボールしとったもんなあ」

 蒼は礼を言った。

 言いながら、胸の奥が冷えた。

 祖父とキャッチボールをしたことは覚えている。黄色いグラブを買ってもらったことも、始発電車の音を聞きながら堤防で投げたことも、事実として知っている。

 なのに、祖父の声が思い出せなかった。

 笑い声も、叱る声も、「いい球だ」と言った声も。

 頭の中に口の動きだけがあり、音がない。

 ハンドルを回したときに聞こえた咳払いだけが、妙にはっきり残っていた。

 灯が撮った写真には、勝利の輪の中で、一人だけスコアボードを見つめる蒼が写っていた。

「変な顔」

 放課後、写真部の暗室前で灯は言った。

「勝った人の顔じゃない」

「どんな顔だよ」

「答えを先に見た人の顔」

 蒼は思わず灯を見た。

「何か知ってるのか」

「何を?」

 灯は本当に知らない顔をしていた。

 蒼は写真を裏返した。

「別に」

 次の二回戦、凪浜は六対四で勝った。

 スコアボードの部屋へは行かなかった。三点差を追いつき、八回に玄司の二塁打で勝ち越した。蒼は本調子ではなかったが、打線が救った。

 試合後、灯は言った。

「今日は、ちゃんと勝った顔してる」

 蒼にも分かった。

 怖くても、先が見えなくても、一球ずつ進んだ試合だった。九回が終わるまで、どちらが勝つか誰にも分からなかった。

 その不自由さが、心地よかった。

 だから準決勝の前夜、蒼は球場へ行かないつもりだった。

 つもりだったのだ。

 準決勝の相手、港南大附属は、県内一の機動力を持つチームだった。

 凪浜の捕手・大迫は、前日の練習で右手の親指を痛めた。出場はできるが、二塁送球には不安がある。港南に走られれば、蒼一人では止めきれない。

 夜、蒼は自宅の机に向かったまま眠れなかった。

 スマートフォンが震えた。

 颯真からだった。

《明日、勝てよ。決勝で待ってる》

 白嶺学院はすでに決勝進出を決めていた。颯真は二安打三打点。盗塁も一つ刺したとニュースに出ている。

 蒼は短く《分かってる》と返した。

 そのあと、足が勝手に球場へ向かった。

 鉄扉の奥で、数字窓は凪浜2、港南3を示していた。

 金属板の文言は変わらない。

 《一点を移せます。

  代わりに、あなたがその一点を欲しがる理由をいただきます。》

「理由なんか、一つしかない」

 蒼はつぶやいた。

 颯真と決勝で戦うためだ。

 小学生の最後の大会で、二人は同じチームだった。中学でもバッテリーを組んだ。別々の高校へ行くと決めた夜、三人でこの球場に忍び込み、何かを約束した。

 その場面までは思い出せる。

 外野席。紙コップのサイダー。灯が懐中電灯を持っていて、颯真がフェンスを越えるときにズボンを破いた。

 ただ、何を約束したのかが、急に曖昧になった。

 蒼はまだハンドルを回していなかった。

 なのに、忘れ始めている。

 怖くなって手を離す。

 そのとき、操作盤の中で数字が一度だけ明滅した。

 2対3。

 颯真のメッセージが頭に浮かぶ。

《決勝で待ってる》

 蒼は歯を食いしばり、ハンドルを左へ回した。

 3対2。

 歯車の音の向こうで、子どもの笑い声がした。

 颯真の声だった気がする。

 扉を開けると、通路に灯がいた。

 蒼は息を止めた。

「何してる」

「それ、こっちの台詞」

 灯は蒼の手元を見た。真鍮のハンドルは、冷気をまとったまま微かに光っていた。

「今の音、何?」

「古い機械が動いただけだ」

「嘘」

「帰れ」

「蒼」

「帰れよ」

 強い声を出すと、灯は黙った。

 それから、蒼の胸元を指さした。

「それ、どうしたの」

 ユニフォームの下につけていた小さな革紐。先には、縫い目のほどけたミニチュアの野球ボールがある。

 蒼は首から外して眺めた。

「知らない」

「知らないって……」

「いつからつけてた?」

 灯の顔から色が消えた。

「中学の卒業式。颯真と私で渡した。三人で決勝に来ようって」

 蒼は革紐を握った。

「そんな約束、したか?」

 潮風が、通路の隙間から低く鳴った。

 灯は何も言わず、鉄扉の向こうを見た。

 準決勝は、3対2で凪浜が勝った。

 港南は初回から走った。三盗まで決められ、一点を先制された。四回にもスクイズで追加点。だが凪浜は六回に玄司の三塁打で追いつき、八回、蒼自身の犠牲フライで勝ち越した。

 九回裏、二死一、三塁。

 蒼は一塁走者がスタートするのを無視し、打者の内角へ直球を投げ込んだ。詰まった打球を大迫が捕り、試合終了。

 歓声の向こうで、スコアボードが3対2を示していた。

 颯真がバックネット裏に来ていた。

 白嶺の帽子を後ろ向きにかぶり、フェンス越しに拳を突き出す。

「遅い」

 蒼も拳を合わせた。

「待たせたな」

「約束、忘れてないだろうな」

 蒼は答えられなかった。

 颯真は冗談だと思ったのか、笑った。

「明日は全部受けてやるよ。お前の球」

「敵の捕手が受けるな」

「昔から受けてただろ」

 その言葉にも、蒼の胸は反応しなかった。

 事実は知っている。颯真が自分の捕手だった。何百球も受けた。けれど思い出の中のミットに、音がない。颯真の声も、サインを出す指も、薄いガラスの向こうにあるようだった。

 灯は少し離れたところで、カメラを下ろしたまま二人を見ていた。

 帰り道、彼女は蒼に並んだ。

「明日の数字も、もう出てるの?」

 蒼は足を止めた。

「中を見たのか」

「見てない。でも分かる」

「何が」

「蒼が、勝つたびに減ってる」

 灯はスコアブックを胸に抱えた。

「一回戦のあと、おじいちゃんの声を思い出せなくなった。昨日は、三人の約束を忘れた。次は何?」

「勝手に決めるな」

「じゃあ違うって言って」

 蒼は言えなかった。

「結果だけ残って、理由がなくなったら、それは勝ったって言えるの?」

「負けたら、何も残らない」

「残るよ」

 灯は即座に言った。

「悔しかったことも、頑張ったことも、誰とやったかも。結果より残るもの、いっぱいある」

「きれいごとだ」

「そうだよ」

 灯は目を逸らさなかった。

「でも、きれいごとを信じられなくなった蒼を、私は応援してきたんじゃない」

 彼女は走って行った。

 蒼の手には、革紐のミニチュアボールが残った。

 誰にもらったかは、もう覚えていない。

 それでも捨てることはできなかった。

 決勝前夜。

 浜風市民球場には、海霧が流れ込んでいた。

 蒼は一人でスコアボードへ上がった。

 鉄扉の向こうで、数字窓はすでに光っていた。

 凪浜1、白嶺2。

 予想していた数字なのに、呼吸が浅くなった。

 あと一度、ハンドルを回せばいい。

 右の一点を左へ移す。

 凪浜2、白嶺1。

 県大会優勝。甲子園。祖父が働いた最後の球場で、颯真を倒す。

 手を伸ばすと、操作盤の金属板に新しい文字が浮かんだ。

 《次に失うものを、声に出してください。》

「知らないよ」

 文字は消えない。

 蒼はハンドルを握った。

 頭に浮かんだのは、チームメートでも、甲子園でも、祖父でも、颯真でもなかった。

 スタンドの一番前で、カメラを構える灯だった。

 勝ったら、ちゃんと写真を撮る。

 負けたら、もっとちゃんと撮る。

 そう言った顔。

 なぜ彼女に見ていてほしいのか、蒼は説明できなかった。ただ、明日の自分を彼女の記憶に残したかった。結果だけではなく、投げる前に息を吐く癖も、苦しいときに帽子のつばを触ることも、打たれたあとに誰にも見えないよう土を蹴ることも。

 ハンドルがわずかに動いた。

 金属板の文字が変わる。

 《その理由で、よろしいですか。》

 蒼は手を離した。

「よくない」

 声が震えた。

「それをなくして勝っても、たぶん俺じゃない」

 数字窓は1対2のままだった。

 蒼は真鍮のハンドルを力任せに引いた。外れはしなかった。そこで革紐のミニチュアボールを巻きつけ、結び目を固くした。

 誰にも回せないように。

 部屋を出るとき、祖父の言葉が一瞬だけ戻った気がした。

 ――数字だけ見て、試合が分かった気になるなよ。

 振り返ったが、そこには暗い操作盤しかなかった。

 決勝の日、球場は満員になった。

 取り壊し前の最後の試合。地元の弱小校と、県内屈指の名門。客を呼ぶ理由はいくつもあった。

 ただ蒼にとって、理由は一つでよかった。

 投げたい。

 誰に勝つためでもなく、何かを残すためでもない。

 今日の自分が、次の一球を投げたがっている。

 それだけだった。

 白嶺の先発は、百四十七キロを投げる二年生左腕だった。颯真は四番、捕手。

 一回裏、白嶺は先頭打者が二塁打。送りバントのあと、三番の犠牲フライで先制した。

 0対1。

 蒼はスコアボードを見なかった。

 四回表、凪浜は玄司が内野安打で出塁した。二死二塁から、大迫が右前へ運ぶ。玄司は三塁を蹴った。

 右翼手の返球は正確だった。

 颯真が本塁前で受け、滑り込む玄司へタッチする。

 球審の両腕が横に広がった。

 セーフ。

 1対1。

 颯真は判定に抗議せず、立ち上がる玄司の背中を軽く叩いた。それからベンチへ戻る蒼を見た。

 口が動いた。

 まだだ。

 蒼にもそう読めた。

 七回裏、白嶺は一死満塁の好機をつくった。

 打席には颯真。

 白嶺応援団の音が、球場の空気を押し縮める。大迫がタイムを取り、マウンドへ来た。

「歩かせてもいい」

「押し出しになる」

「そうじゃなくて、無理に勝負するなってことだ」

 蒼はロージン袋を握った。

「あいつ、昔は俺の球を受けてたんだよな」

「何を今さら」

「いや。ちょっと確認しただけ」

 初球、外角のスライダー。颯真は見送った。ボール。

 二球目、内角直球。ファウル。

 三球目、低めのチェンジアップ。颯真のバットが止まる。ボール。

 四球目、外角直球。見逃し。二対二。

 颯真は打席を外し、右手でヘルメットのつばを押さえた。

 それは昔、蒼の決め球を待つときの癖だった。

 蒼の指が、無意識にボールの縫い目へかかった。

 握り方を教わった記憶はない。

 それでも指は知っていた。

 直球と同じ腕の振りから、最後にわずかに沈む球。中学時代、二人で何百球も試した球。名前すら思い出せない。

 蒼は投げた。

 颯真のバットが空を切る。

 三振。

 二死満塁。

 次の打者を二塁ゴロに打ち取り、蒼は無失点で切り抜けた。

 ベンチへ戻る途中、颯真がマスク越しに言った。

「思い出したか」

「何を」

「なら、まだ俺の勝ちだ」

 颯真は笑っていた。

 八回、九回と、両チーム無得点。

 1対1のまま延長に入った。

 未来の数字を、蒼は知っている。

 凪浜1、白嶺2。

 けれど九回が終わっても、その数字にはならなかった。

 十回表。

 凪浜は二死走者なしから、九番玄司が四球を選んだ。

 打席は蒼。

 初球、外角直球。ストライク。

 二球目、落ちる球。空振り。

 追い込まれた。

 颯真が返球しながら、何か言った。

「昔と同じだな」

「聞こえない」

「お前は、答えがないときだけ強い」

 三球目。

 左腕の投じた外角低めの直球を、蒼は逆らわず右へ打った。

 打球は一、二塁間を抜けた。

 玄司はスタートを切っていた。右翼手が処理する間に三塁を回る。

「行け!」

 蒼は一塁上で叫んだ。

 返球が本塁へ届く。

 颯真が捕る。

 玄司が滑る。

 砂煙の中で、球審の両腕が横へ開いた。

 セーフ。

 2対1。

 球場が揺れた。

 蒼は一塁上からスコアボードを見た。

 凪浜2、白嶺1。

 昨夜、ハンドルを回していれば表示されたはずの数字だった。

 胸の奥に、冷たいものが落ちた。

 しかし試合は終わっていない。

 十回裏、白嶺の攻撃。

 二死走者なしで、打席に颯真が入った。

 これが五度目の対戦だった。

 初球、直球。ファウル。

 二球目、スライダー。ボール。

 三球目、直球。ファウル。

 四球目、チェンジアップ。颯真はバットを止めた。ボール。

 二対二。

 大迫は外角のスライダーを要求した。

 蒼は首を振った。

 内角直球。

 大迫も首を振る。

 蒼はもう一度、首を振った。

 名前を忘れた球。

 大迫はしばらく動かなかったが、最後にミットを低く構えた。

 蒼は足を上げた。

 颯真の顔が、子どものころと重なった。

 堤防。夕暮れ。擦り切れたミット。

 声は聞こえない。

 約束も思い出せない。

 それでも、颯真がどんな球を待っているかは分かった。

 だから、その球を投げた。

 直球と同じ軌道から、ホームベースの手前で沈む。

 颯真のバットが出る。

 乾いた音がした。

 打球は高く上がり、三塁側のファウルグラウンドへ流れた。

 大迫がマスクを投げ、追う。

 フェンスぎりぎりで、ミットを伸ばす。

 白球が収まった。

 試合終了。

 凪浜高校、県大会優勝。

 蒼はマウンドで両膝をついた。

 仲間が走ってくる。

 帽子が飛ぶ。砂が舞う。誰かが泣き、誰かが笑っている。

 その輪の外で、颯真はホームベースの横に立ち、蒼を見ていた。

 悔しそうに、それでも少しだけ嬉しそうに。

 蒼は思った。

 これが、勝つということだ。

 数字になる前の全部が、胸の中に残っている。

 そう思った。

 表彰式が終わったあと、蒼は一人でスコアボードへ向かった。

 真鍮のハンドルには、昨夜巻いたはずの革紐がなかった。

 数字窓は凪浜2、白嶺1。

 操作盤の下に、ミニチュアボールが落ちている。革紐は刃物で切られていた。

 蒼の背中を汗が流れた。

 金属板の文字が変わっていた。

 《一点、移動済み。

  代金、受領済み。》

 足元に、一枚の紙があった。

 灯のスコアブックから破った紙だった。

 丸い字で、こう書かれている。

《これを読んでいる私へ。

 たぶん私は、ここに来た理由を忘れています。

 蒼に勝ってほしいと思った理由も、きっと分からなくなっています。

 でも、それでいいと決めたのは私です。

 あの人は、勝つために大事なものを失いすぎました。

 だから最後の一点だけは、私が払います。

 試合が終わったら、教えてください。

 私はどうして、あの人に勝ってほしかったのでしょう。》

 蒼は紙を握ったまま、しばらく動けなかった。

 外へ飛び出す。

 灯は三塁側スタンドの最前列にいた。観客のほとんどが帰り、空になった座席を一つずつ写真に撮っていた。

「灯!」

 振り返った彼女は、いつもの顔をしていた。

 けれど蒼を見る目だけが、よそよそしかった。

「優勝、おめでとう」

「お前、あの部屋に入っただろ」

「うん、たぶん」

「たぶん?」

 灯はカメラを下ろした。

「紙、見つけた?」

「ああ」

「私の字だった?」

「ああ」

「じゃあ、入ったんだと思う」

 蒼は言葉を失った。

「覚えてないのか」

「部屋に入ったことは覚えてる。ハンドルを回したことも。でも、どうして回したのかが分からない」

 灯は困ったように笑った。

「もっと変なのはね、私の部屋、蒼の写真ばっかりなの。小学生のころから今日まで。何百枚も。颯真の写真もあるけど、蒼のだけピントの合わせ方が違う」

「……違うって?」

「近いの」

 灯は自分のカメラを見た。

「たぶん私は、あなたのことが好きだったんだと思う」

 平坦な声だった。

 告白ではなく、古い資料を読み上げるような声。

「でも今は、そういう気持ちがない」

 蒼の胸に、勝った直後より強い痛みが走った。

「ごめん」

「どうして蒼が謝るの?」

「俺が、先に使ったからだ」

「それも紙に書いてあった。だから私が決めたんでしょう」

「こんなの、勝ちじゃない」

「さっきまで勝った顔してたよ」

 灯は少し首をかしげた。

「試合、面白かった。特に最後の一球。理由は分からないけど、シャッターを切る手が震えた」

 彼女はカメラの画面を見せた。

 マウンドから投げ終えた蒼と、打席で振り切った颯真。白球はまだ空中にあり、試合の結果は決まっていない。

 数字になる前の一瞬だった。

「これ、いい写真だと思う」

 蒼はうなずいた。

「うん」

「じゃあ、あとで送るね」

 灯は立ち上がった。

 蒼の横を通り過ぎるとき、ほんの一瞬だけ足を止めた。

「ねえ」

「何だ」

「私は、どうして蒼に勝ってほしかったの?」

 紙に書かれていた問いだった。

 蒼は答えようとした。

 昔から一緒だったから。

 努力を知っていたから。

 好きだったから。

 どれも正しいはずなのに、他人の答えのように思えた。

「分からない」

 蒼は言った。

「俺も、忘れたものが多すぎる」

 灯は少し笑った。

「じゃあ、引き分けだね」

 秋、浜風市民球場の解体が始まった。

 蒼は甲子園で二回戦まで進み、ドラフトにはかからなかった。卒業後は大学で野球を続けることにした。

 颯真は四位でプロ球団から指名された。

 指名会見のあと、颯真は蒼に電話をかけてきた。

「お前、最後に投げた球の名前、思い出したか」

「まだ」

「俺は覚えてる」

「教えろ」

「嫌だね。次に対戦したとき、自分で思い出せ」

 電話の向こうで颯真は笑った。

 蒼はその笑い声を、今度こそ忘れないように聞いた。

 解体前の最後の日、蒼は灯と球場へ行った。

 立入禁止の柵の向こうで、外野席が崩され、スコアボードだけが残っていた。

 灯は今も蒼の試合を撮る。

 以前と同じ気持ちかどうか、彼女自身にも分からないらしい。けれど写真は少しずつ近くなっていた。

「中の部屋、結局なんだったんだろうね」

「解体の人に聞いた」

「何て?」

「設計図には、あんな部屋はないって」

 灯は眉をひそめた。

「じゃあ私たち、どこに入ったの?」

「数字の裏」

 祖父ならそう言った気がした。

 もちろん、声は思い出せない。

 ただ、その言葉を口にしたときの温度だけが胸に残った。

 作業員の合図で、重機のアームがスコアボードへ伸びた。

 その直前、消えているはずの数字窓が一度だけ点灯した。

 左に0。

 右に0。

 灯も見たらしく、息をのんだ。

「新しい試合みたい」

「ああ」

「今度は、先に結果を見ないでね」

「もう見ない」

 スコアボードがゆっくり倒れた。

 砂ぼこりの中で、蒼は灯に手を差し出した。

「帰る前に、キャッチボールしないか」

「私、下手だよ」

「知ってる」

「それは覚えてるんだ」

「今から覚え直す」

 二人は、球場の外にある小さな広場へ移った。

 蒼が緩く投げたボールを、灯は危なっかしく両手で捕った。

 返球は大きくそれて、蒼の頭を越えた。

 灯が笑った。

 その笑い声を聞いた瞬間、蒼の胸の奥で、失くしたはずの何かが微かに動いた。

 思い出したのではない。

 たぶん、新しく始まったのだ。

 蒼はボールを拾い、もう一度、灯へ投げた。

 まだ何点にもなっていない、最初の一球だった。