九回裏の忘れもの
一
浜風市民球場のスコアボードは、海に背を向けて立っている。
潮をまともに受けると数字板が錆びるからだ、と祖父は言っていた。けれど片瀬蒼には、あれは海を見ないようにしているのだと思えた。
負けた選手が泣くところも、勝った選手が空へ帽子を投げるところも、スコアボードだけは正面から見つづける。だからせめて、海ぐらいは見なくていいように建てられたのだ。
七月。県大会一回戦の前日。
市立凪浜高校のエースである蒼は、誰もいない外野を歩いていた。
明日から始まる大会が終われば、この球場は取り壊される。老朽化と、海風による腐食。行政の説明は正しかったし、反対署名も目標には届かなかった。
蒼の祖父は、三十七年間、この球場のスコアボード係をしていた。
まだ電光表示ではなく、人が裏側から数字板を差し替えていたころの話だ。小学生の蒼と、幼なじみの鷹野颯真、それから篠崎灯は、夏休みになると祖父の後ろをついて回った。
「スコアは最後に残る一行だ」
祖父はよくそう言った。
「でもな、野球はその一行になる前の全部だ。だから数字だけ見て、試合が分かった気になるなよ」
祖父は二年前に亡くなった。
蒼はマウンドの土を靴先でならした。明日の相手は大崎工業。打線は強くないが、守備が堅い。凪浜も似たようなものだった。県内で名前の知られた選手は蒼一人もいない。百三十キロ台後半の直球と、曲がりの小さいスライダー。良く言えばまとまっている。悪く言えば、怖さがない。
対して颯真は、私立白嶺学院の四番捕手だった。右にも左にも長打を打ち、強肩で、すでに複数の球団が調査書を出しているらしい。
小学生のころは、蒼が投げ、颯真が受けていた。
中学を卒業するとき、颯真は白嶺へ行き、蒼は地元の凪浜に残った。
それでも二人は、最後の夏にこの球場で会うことになっていた。
――なっていたはずだ。
風に飛ばされた白い紙が、センター後方のフェンスに張りついた。蒼が拾うと、それは古いスコアカードだった。黄ばんだ紙の隅に、祖父の字で「平成二十一年 少年野球決勝」とある。
裏には、見覚えのない鍵がテープで留めてあった。
祖父の字で、もう一行。
「数字の裏を見たくなったときだけ使え」
蒼はしばらく鍵を見つめ、それからスコアボード裏の通路へ向かった。
二
スコアボードの内部は、昼でも薄暗かった。
錆びた階段を上がると、左右に細長い作業床が延びている。昔はここから数字板を入れ替えた。今は簡易電光式に改修され、使われていない。
突き当たりに、小さな鉄扉があった。
蒼はこれまで何度も祖父について中へ入ったが、そんな扉を見た記憶はなかった。
鍵はぴたりと合った。
扉の向こうは、電話ボックスほどの部屋だった。
壁に古いスコアボードの操作盤があり、その中央に、野球ボールほどの真鍮のハンドルがついている。上には二つの数字窓。左に「凪浜」、右に「大崎工」と紙札が差し込まれていた。
数字は、左が0、右が1。
明日の対戦カードだった。
操作盤の下に、小さな金属板がある。
《一点を移せます。
代わりに、あなたがその一点を欲しがる理由をいただきます。》
「……趣味が悪いな、じいちゃん」
蒼は笑おうとした。
誰かのいたずらだ。祖父が生前に仕込んだものかもしれない。数字窓の裏に乾電池でも入っていて、明日の予想を表示する。そんなところだろう。
けれど、0対1という数字が妙に現実味を持って見えた。
凪浜は打てない。自分が一点を失えば、そのまま負ける。三年生の夏が、一時間半で終わることだってある。
蒼はハンドルに手をかけた。
金属は、氷のように冷たかった。
「一点を、移すだけだろ」
左へ回すと、歯車の噛み合う音がした。
右の1が消え、左に1が現れた。
凪浜1、大崎工0。
その瞬間、部屋のどこかで、祖父の咳払いが聞こえた。
蒼は振り返った。
誰もいない。
外へ出ると、夕焼けのグラウンドに灯が立っていた。肩からカメラを提げ、もう片方の手に三冊目のスコアブックを抱えている。
「やっぱりここにいた」
「なんで分かった」
「蒼が考えごとするとき、マウンドか、ここだから」
灯は高校で写真部に入りながら、野球部の試合だけは毎回スコアをつけていた。小学生のころからそうだ。颯真が白嶺へ進んでからも、二人分の新聞記事を切り抜いている。
「中、入ったの?」
「ちょっとな」
「おじいちゃんの秘密基地?」
「大したものはなかった」
嘘をついたとき、潮風が強く吹いた。
灯の前髪が揺れた。彼女は目を細めて、蒼の顔を見た。
「明日、勝ってね」
「ああ」
「勝ったら、ちゃんと写真撮る」
「負けたら?」
「もっとちゃんと撮る。最後になるから」
蒼は返事をしなかった。
最後になんか、したくなかった。
三
翌日の試合は、1対0だった。
七回表、凪浜の八番打者が四球で出て、送りバントと内野ゴロで二死三塁。九番の玄司が、詰まりながらも一、二塁間へ落とした。
それが唯一の得点になった。
蒼は九回を四安打、無失点。最後の打者を外角低めの直球で見逃し三振に取った。
歓声の中で、蒼はスコアボードを見上げた。
そこには昨夜と同じ数字があった。
凪浜1、大崎工0。
偶然だ、と言い聞かせた。
だが試合後、祖父の古い友人だという男性が声をかけてきた。
「征一さんも喜んどるだろう。お前さんが小さいころ、毎朝あの人とキャッチボールしとったもんなあ」
蒼は礼を言った。
言いながら、胸の奥が冷えた。
祖父とキャッチボールをしたことは覚えている。黄色いグラブを買ってもらったことも、始発電車の音を聞きながら堤防で投げたことも、事実として知っている。
なのに、祖父の声が思い出せなかった。
笑い声も、叱る声も、「いい球だ」と言った声も。
頭の中に口の動きだけがあり、音がない。
ハンドルを回したときに聞こえた咳払いだけが、妙にはっきり残っていた。
灯が撮った写真には、勝利の輪の中で、一人だけスコアボードを見つめる蒼が写っていた。
「変な顔」
放課後、写真部の暗室前で灯は言った。
「勝った人の顔じゃない」
「どんな顔だよ」
「答えを先に見た人の顔」
蒼は思わず灯を見た。
「何か知ってるのか」
「何を?」
灯は本当に知らない顔をしていた。
蒼は写真を裏返した。
「別に」
次の二回戦、凪浜は六対四で勝った。
スコアボードの部屋へは行かなかった。三点差を追いつき、八回に玄司の二塁打で勝ち越した。蒼は本調子ではなかったが、打線が救った。
試合後、灯は言った。
「今日は、ちゃんと勝った顔してる」
蒼にも分かった。
怖くても、先が見えなくても、一球ずつ進んだ試合だった。九回が終わるまで、どちらが勝つか誰にも分からなかった。
その不自由さが、心地よかった。
だから準決勝の前夜、蒼は球場へ行かないつもりだった。
つもりだったのだ。
四
準決勝の相手、港南大附属は、県内一の機動力を持つチームだった。
凪浜の捕手・大迫は、前日の練習で右手の親指を痛めた。出場はできるが、二塁送球には不安がある。港南に走られれば、蒼一人では止めきれない。
夜、蒼は自宅の机に向かったまま眠れなかった。
スマートフォンが震えた。
颯真からだった。
《明日、勝てよ。決勝で待ってる》
白嶺学院はすでに決勝進出を決めていた。颯真は二安打三打点。盗塁も一つ刺したとニュースに出ている。
蒼は短く《分かってる》と返した。
そのあと、足が勝手に球場へ向かった。
鉄扉の奥で、数字窓は凪浜2、港南3を示していた。
金属板の文言は変わらない。
《一点を移せます。
代わりに、あなたがその一点を欲しがる理由をいただきます。》
「理由なんか、一つしかない」
蒼はつぶやいた。
颯真と決勝で戦うためだ。
小学生の最後の大会で、二人は同じチームだった。中学でもバッテリーを組んだ。別々の高校へ行くと決めた夜、三人でこの球場に忍び込み、何かを約束した。
その場面までは思い出せる。
外野席。紙コップのサイダー。灯が懐中電灯を持っていて、颯真がフェンスを越えるときにズボンを破いた。
ただ、何を約束したのかが、急に曖昧になった。
蒼はまだハンドルを回していなかった。
なのに、忘れ始めている。
怖くなって手を離す。
そのとき、操作盤の中で数字が一度だけ明滅した。
2対3。
颯真のメッセージが頭に浮かぶ。
《決勝で待ってる》
蒼は歯を食いしばり、ハンドルを左へ回した。
3対2。
歯車の音の向こうで、子どもの笑い声がした。
颯真の声だった気がする。
扉を開けると、通路に灯がいた。
蒼は息を止めた。
「何してる」
「それ、こっちの台詞」
灯は蒼の手元を見た。真鍮のハンドルは、冷気をまとったまま微かに光っていた。
「今の音、何?」
「古い機械が動いただけだ」
「嘘」
「帰れ」
「蒼」
「帰れよ」
強い声を出すと、灯は黙った。
それから、蒼の胸元を指さした。
「それ、どうしたの」
ユニフォームの下につけていた小さな革紐。先には、縫い目のほどけたミニチュアの野球ボールがある。
蒼は首から外して眺めた。
「知らない」
「知らないって……」
「いつからつけてた?」
灯の顔から色が消えた。
「中学の卒業式。颯真と私で渡した。三人で決勝に来ようって」
蒼は革紐を握った。
「そんな約束、したか?」
潮風が、通路の隙間から低く鳴った。
灯は何も言わず、鉄扉の向こうを見た。
五
準決勝は、3対2で凪浜が勝った。
港南は初回から走った。三盗まで決められ、一点を先制された。四回にもスクイズで追加点。だが凪浜は六回に玄司の三塁打で追いつき、八回、蒼自身の犠牲フライで勝ち越した。
九回裏、二死一、三塁。
蒼は一塁走者がスタートするのを無視し、打者の内角へ直球を投げ込んだ。詰まった打球を大迫が捕り、試合終了。
歓声の向こうで、スコアボードが3対2を示していた。
颯真がバックネット裏に来ていた。
白嶺の帽子を後ろ向きにかぶり、フェンス越しに拳を突き出す。
「遅い」
蒼も拳を合わせた。
「待たせたな」
「約束、忘れてないだろうな」
蒼は答えられなかった。
颯真は冗談だと思ったのか、笑った。
「明日は全部受けてやるよ。お前の球」
「敵の捕手が受けるな」
「昔から受けてただろ」
その言葉にも、蒼の胸は反応しなかった。
事実は知っている。颯真が自分の捕手だった。何百球も受けた。けれど思い出の中のミットに、音がない。颯真の声も、サインを出す指も、薄いガラスの向こうにあるようだった。
灯は少し離れたところで、カメラを下ろしたまま二人を見ていた。
帰り道、彼女は蒼に並んだ。
「明日の数字も、もう出てるの?」
蒼は足を止めた。
「中を見たのか」
「見てない。でも分かる」
「何が」
「蒼が、勝つたびに減ってる」
灯はスコアブックを胸に抱えた。
「一回戦のあと、おじいちゃんの声を思い出せなくなった。昨日は、三人の約束を忘れた。次は何?」
「勝手に決めるな」
「じゃあ違うって言って」
蒼は言えなかった。
「結果だけ残って、理由がなくなったら、それは勝ったって言えるの?」
「負けたら、何も残らない」
「残るよ」
灯は即座に言った。
「悔しかったことも、頑張ったことも、誰とやったかも。結果より残るもの、いっぱいある」
「きれいごとだ」
「そうだよ」
灯は目を逸らさなかった。
「でも、きれいごとを信じられなくなった蒼を、私は応援してきたんじゃない」
彼女は走って行った。
蒼の手には、革紐のミニチュアボールが残った。
誰にもらったかは、もう覚えていない。
それでも捨てることはできなかった。
六
決勝前夜。
浜風市民球場には、海霧が流れ込んでいた。
蒼は一人でスコアボードへ上がった。
鉄扉の向こうで、数字窓はすでに光っていた。
凪浜1、白嶺2。
予想していた数字なのに、呼吸が浅くなった。
あと一度、ハンドルを回せばいい。
右の一点を左へ移す。
凪浜2、白嶺1。
県大会優勝。甲子園。祖父が働いた最後の球場で、颯真を倒す。
手を伸ばすと、操作盤の金属板に新しい文字が浮かんだ。
《次に失うものを、声に出してください。》
「知らないよ」
文字は消えない。
蒼はハンドルを握った。
頭に浮かんだのは、チームメートでも、甲子園でも、祖父でも、颯真でもなかった。
スタンドの一番前で、カメラを構える灯だった。
勝ったら、ちゃんと写真を撮る。
負けたら、もっとちゃんと撮る。
そう言った顔。
なぜ彼女に見ていてほしいのか、蒼は説明できなかった。ただ、明日の自分を彼女の記憶に残したかった。結果だけではなく、投げる前に息を吐く癖も、苦しいときに帽子のつばを触ることも、打たれたあとに誰にも見えないよう土を蹴ることも。
ハンドルがわずかに動いた。
金属板の文字が変わる。
《その理由で、よろしいですか。》
蒼は手を離した。
「よくない」
声が震えた。
「それをなくして勝っても、たぶん俺じゃない」
数字窓は1対2のままだった。
蒼は真鍮のハンドルを力任せに引いた。外れはしなかった。そこで革紐のミニチュアボールを巻きつけ、結び目を固くした。
誰にも回せないように。
部屋を出るとき、祖父の言葉が一瞬だけ戻った気がした。
――数字だけ見て、試合が分かった気になるなよ。
振り返ったが、そこには暗い操作盤しかなかった。
七
決勝の日、球場は満員になった。
取り壊し前の最後の試合。地元の弱小校と、県内屈指の名門。客を呼ぶ理由はいくつもあった。
ただ蒼にとって、理由は一つでよかった。
投げたい。
誰に勝つためでもなく、何かを残すためでもない。
今日の自分が、次の一球を投げたがっている。
それだけだった。
白嶺の先発は、百四十七キロを投げる二年生左腕だった。颯真は四番、捕手。
一回裏、白嶺は先頭打者が二塁打。送りバントのあと、三番の犠牲フライで先制した。
0対1。
蒼はスコアボードを見なかった。
四回表、凪浜は玄司が内野安打で出塁した。二死二塁から、大迫が右前へ運ぶ。玄司は三塁を蹴った。
右翼手の返球は正確だった。
颯真が本塁前で受け、滑り込む玄司へタッチする。
球審の両腕が横に広がった。
セーフ。
1対1。
颯真は判定に抗議せず、立ち上がる玄司の背中を軽く叩いた。それからベンチへ戻る蒼を見た。
口が動いた。
まだだ。
蒼にもそう読めた。
七回裏、白嶺は一死満塁の好機をつくった。
打席には颯真。
白嶺応援団の音が、球場の空気を押し縮める。大迫がタイムを取り、マウンドへ来た。
「歩かせてもいい」
「押し出しになる」
「そうじゃなくて、無理に勝負するなってことだ」
蒼はロージン袋を握った。
「あいつ、昔は俺の球を受けてたんだよな」
「何を今さら」
「いや。ちょっと確認しただけ」
初球、外角のスライダー。颯真は見送った。ボール。
二球目、内角直球。ファウル。
三球目、低めのチェンジアップ。颯真のバットが止まる。ボール。
四球目、外角直球。見逃し。二対二。
颯真は打席を外し、右手でヘルメットのつばを押さえた。
それは昔、蒼の決め球を待つときの癖だった。
蒼の指が、無意識にボールの縫い目へかかった。
握り方を教わった記憶はない。
それでも指は知っていた。
直球と同じ腕の振りから、最後にわずかに沈む球。中学時代、二人で何百球も試した球。名前すら思い出せない。
蒼は投げた。
颯真のバットが空を切る。
三振。
二死満塁。
次の打者を二塁ゴロに打ち取り、蒼は無失点で切り抜けた。
ベンチへ戻る途中、颯真がマスク越しに言った。
「思い出したか」
「何を」
「なら、まだ俺の勝ちだ」
颯真は笑っていた。
八回、九回と、両チーム無得点。
1対1のまま延長に入った。
未来の数字を、蒼は知っている。
凪浜1、白嶺2。
けれど九回が終わっても、その数字にはならなかった。
十回表。
凪浜は二死走者なしから、九番玄司が四球を選んだ。
打席は蒼。
初球、外角直球。ストライク。
二球目、落ちる球。空振り。
追い込まれた。
颯真が返球しながら、何か言った。
「昔と同じだな」
「聞こえない」
「お前は、答えがないときだけ強い」
三球目。
左腕の投じた外角低めの直球を、蒼は逆らわず右へ打った。
打球は一、二塁間を抜けた。
玄司はスタートを切っていた。右翼手が処理する間に三塁を回る。
「行け!」
蒼は一塁上で叫んだ。
返球が本塁へ届く。
颯真が捕る。
玄司が滑る。
砂煙の中で、球審の両腕が横へ開いた。
セーフ。
2対1。
球場が揺れた。
蒼は一塁上からスコアボードを見た。
凪浜2、白嶺1。
昨夜、ハンドルを回していれば表示されたはずの数字だった。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
しかし試合は終わっていない。
十回裏、白嶺の攻撃。
二死走者なしで、打席に颯真が入った。
これが五度目の対戦だった。
初球、直球。ファウル。
二球目、スライダー。ボール。
三球目、直球。ファウル。
四球目、チェンジアップ。颯真はバットを止めた。ボール。
二対二。
大迫は外角のスライダーを要求した。
蒼は首を振った。
内角直球。
大迫も首を振る。
蒼はもう一度、首を振った。
名前を忘れた球。
大迫はしばらく動かなかったが、最後にミットを低く構えた。
蒼は足を上げた。
颯真の顔が、子どものころと重なった。
堤防。夕暮れ。擦り切れたミット。
声は聞こえない。
約束も思い出せない。
それでも、颯真がどんな球を待っているかは分かった。
だから、その球を投げた。
直球と同じ軌道から、ホームベースの手前で沈む。
颯真のバットが出る。
乾いた音がした。
打球は高く上がり、三塁側のファウルグラウンドへ流れた。
大迫がマスクを投げ、追う。
フェンスぎりぎりで、ミットを伸ばす。
白球が収まった。
試合終了。
凪浜高校、県大会優勝。
蒼はマウンドで両膝をついた。
仲間が走ってくる。
帽子が飛ぶ。砂が舞う。誰かが泣き、誰かが笑っている。
その輪の外で、颯真はホームベースの横に立ち、蒼を見ていた。
悔しそうに、それでも少しだけ嬉しそうに。
蒼は思った。
これが、勝つということだ。
数字になる前の全部が、胸の中に残っている。
そう思った。
八
表彰式が終わったあと、蒼は一人でスコアボードへ向かった。
真鍮のハンドルには、昨夜巻いたはずの革紐がなかった。
数字窓は凪浜2、白嶺1。
操作盤の下に、ミニチュアボールが落ちている。革紐は刃物で切られていた。
蒼の背中を汗が流れた。
金属板の文字が変わっていた。
《一点、移動済み。
代金、受領済み。》
足元に、一枚の紙があった。
灯のスコアブックから破った紙だった。
丸い字で、こう書かれている。
《これを読んでいる私へ。
たぶん私は、ここに来た理由を忘れています。
蒼に勝ってほしいと思った理由も、きっと分からなくなっています。
でも、それでいいと決めたのは私です。
あの人は、勝つために大事なものを失いすぎました。
だから最後の一点だけは、私が払います。
試合が終わったら、教えてください。
私はどうして、あの人に勝ってほしかったのでしょう。》
蒼は紙を握ったまま、しばらく動けなかった。
外へ飛び出す。
灯は三塁側スタンドの最前列にいた。観客のほとんどが帰り、空になった座席を一つずつ写真に撮っていた。
「灯!」
振り返った彼女は、いつもの顔をしていた。
けれど蒼を見る目だけが、よそよそしかった。
「優勝、おめでとう」
「お前、あの部屋に入っただろ」
「うん、たぶん」
「たぶん?」
灯はカメラを下ろした。
「紙、見つけた?」
「ああ」
「私の字だった?」
「ああ」
「じゃあ、入ったんだと思う」
蒼は言葉を失った。
「覚えてないのか」
「部屋に入ったことは覚えてる。ハンドルを回したことも。でも、どうして回したのかが分からない」
灯は困ったように笑った。
「もっと変なのはね、私の部屋、蒼の写真ばっかりなの。小学生のころから今日まで。何百枚も。颯真の写真もあるけど、蒼のだけピントの合わせ方が違う」
「……違うって?」
「近いの」
灯は自分のカメラを見た。
「たぶん私は、あなたのことが好きだったんだと思う」
平坦な声だった。
告白ではなく、古い資料を読み上げるような声。
「でも今は、そういう気持ちがない」
蒼の胸に、勝った直後より強い痛みが走った。
「ごめん」
「どうして蒼が謝るの?」
「俺が、先に使ったからだ」
「それも紙に書いてあった。だから私が決めたんでしょう」
「こんなの、勝ちじゃない」
「さっきまで勝った顔してたよ」
灯は少し首をかしげた。
「試合、面白かった。特に最後の一球。理由は分からないけど、シャッターを切る手が震えた」
彼女はカメラの画面を見せた。
マウンドから投げ終えた蒼と、打席で振り切った颯真。白球はまだ空中にあり、試合の結果は決まっていない。
数字になる前の一瞬だった。
「これ、いい写真だと思う」
蒼はうなずいた。
「うん」
「じゃあ、あとで送るね」
灯は立ち上がった。
蒼の横を通り過ぎるとき、ほんの一瞬だけ足を止めた。
「ねえ」
「何だ」
「私は、どうして蒼に勝ってほしかったの?」
紙に書かれていた問いだった。
蒼は答えようとした。
昔から一緒だったから。
努力を知っていたから。
好きだったから。
どれも正しいはずなのに、他人の答えのように思えた。
「分からない」
蒼は言った。
「俺も、忘れたものが多すぎる」
灯は少し笑った。
「じゃあ、引き分けだね」
九
秋、浜風市民球場の解体が始まった。
蒼は甲子園で二回戦まで進み、ドラフトにはかからなかった。卒業後は大学で野球を続けることにした。
颯真は四位でプロ球団から指名された。
指名会見のあと、颯真は蒼に電話をかけてきた。
「お前、最後に投げた球の名前、思い出したか」
「まだ」
「俺は覚えてる」
「教えろ」
「嫌だね。次に対戦したとき、自分で思い出せ」
電話の向こうで颯真は笑った。
蒼はその笑い声を、今度こそ忘れないように聞いた。
解体前の最後の日、蒼は灯と球場へ行った。
立入禁止の柵の向こうで、外野席が崩され、スコアボードだけが残っていた。
灯は今も蒼の試合を撮る。
以前と同じ気持ちかどうか、彼女自身にも分からないらしい。けれど写真は少しずつ近くなっていた。
「中の部屋、結局なんだったんだろうね」
「解体の人に聞いた」
「何て?」
「設計図には、あんな部屋はないって」
灯は眉をひそめた。
「じゃあ私たち、どこに入ったの?」
「数字の裏」
祖父ならそう言った気がした。
もちろん、声は思い出せない。
ただ、その言葉を口にしたときの温度だけが胸に残った。
作業員の合図で、重機のアームがスコアボードへ伸びた。
その直前、消えているはずの数字窓が一度だけ点灯した。
左に0。
右に0。
灯も見たらしく、息をのんだ。
「新しい試合みたい」
「ああ」
「今度は、先に結果を見ないでね」
「もう見ない」
スコアボードがゆっくり倒れた。
砂ぼこりの中で、蒼は灯に手を差し出した。
「帰る前に、キャッチボールしないか」
「私、下手だよ」
「知ってる」
「それは覚えてるんだ」
「今から覚え直す」
二人は、球場の外にある小さな広場へ移った。
蒼が緩く投げたボールを、灯は危なっかしく両手で捕った。
返球は大きくそれて、蒼の頭を越えた。
灯が笑った。
その笑い声を聞いた瞬間、蒼の胸の奥で、失くしたはずの何かが微かに動いた。
思い出したのではない。
たぶん、新しく始まったのだ。
蒼はボールを拾い、もう一度、灯へ投げた。
まだ何点にもなっていない、最初の一球だった。