『八番目の河』

 紫葉ミツハは、自分の死体から宝を盗んだ。

 死体は、四千年前の排水路に流れ着いた倒木のように引っかかっていた。塩で白くなった黒髪。左の眉を横切る古傷。右耳の銀の輪。どれも見間違えようのない自分のものだった。

 違うのは胸に空いた銃創と、死んでいることだけだ。

 排水路の天井は低く、ミツハは膝まで黒い水に浸かっていた。水は冷たくない。むしろ人肌に近かった。かすかな脈動さえあり、巨大な獣の血管を歩いているような気分にさせた。

 死体の右手が、四センチ四方の凍石印章を握っていた。

 角の生えた獣。向かい合う二匹の魚。七つの壺。そして、まだ誰にも読めない短い文字列。

 ミツハが手を伸ばすと、死体の瞼が開いた。

「十七秒後」

 塩の結晶がこびりついた唇が動いた。

「右へ倒れろ」

 ミツハは数を数えなかった。

 死体の指をこじ開け、印章を奪い、右へ身を投げた。

 直後、銃弾が左耳のあった空間を裂いた。

 乾いた発砲音が石の腸内を何度も跳ね返る。

「そこにいるな、紫葉!」

 排水路の向こうで、ルーク・ハーランが叫んだ。

 ミツハは伏せたまま印章を胸元へ滑り込ませた。掌の中には、すでに同じ印章がもう一つある。

 世界に一つしかないはずの宝が、二つ。

 その片方を握った自分が、足元で死んでいる。

「なるほど」

 ミツハは泥を頬から拭った。

「今日は、ずいぶん縁起がいい」

 死体が笑ったように見えた。

 黒い水が盛り上がり、その顔を覆った。

 六時間前、白い砂漠は、まだ何も知らないふりをしていた。

 カッチ大湿地の乾季は、海から水だけを抜き取ったような景色をつくる。

 地平線まで続く塩の平原。雲の影さえ白く焼きつき、遠くを走る車は宙に浮いて見えた。

 ミツハを乗せた四輪駆動車は、ひび割れた塩殻を砕きながら北へ進んでいた。運転席ではバシール・ラーマンが、四十年前の映画音楽を鼻歌で奏でている。音程は砂漠より平坦だった。

「あと何分?」

 後部座席のミツハが訊いた。

「信用できる答えと、客が喜ぶ答えと、神だけが知る答えがある」

「いちばん短いやつ」

「十五分」

 助手席のサミラ・カーンが振り返った。

 細い銀縁眼鏡の奥に、呆れた目がある。

「三十分前にも十五分と言っていました」

「客が喜ぶ答えは、更新されないんだ」

 バシールは悪びれなかった。

 サミラはインダス文字を専門とする考古学者で、この一帯の発掘責任者だった。三日前、季節外れの地盤沈下で地下空洞が露出し、そこから未知の印章と石積みの入口が見つかった。

 サミラは公的な調査隊の増員を要請した。

 ところが先に来たのは、発掘費用の大半を出しているバルデン財団の人間たちだった。

「あなたを呼ぶことには最後まで反対でした」

 サミラが言った。

「聞いてる。盗掘屋だからだろ」

「自覚はあるのですね」

「政府や博物館の依頼で盗品を取り戻す、善良で納税意識の高い盗掘屋」

「言葉を長くしても犯罪臭は薄まりません」

 ミツハは肩をすくめた。

 世間は彼女をトレジャーハンターと呼ぶ。本人は回収屋と名乗った。沈没船、戦場跡、密輸商の地下倉庫。金になるものなら何でも探したが、依頼主へ渡すべきものは渡す。

 少なくとも、渡さないより高くつくときは。

「財団のエイドリアン・バルデンが、あなたを指名した理由は?」

「知らない。宝の匂いがする女だと思ったんじゃないか」

「実際には?」

「借金の匂いならする」

 バシールが笑い、車が大きく跳ねた。

 白い平原の先に、黒い点が浮かんだ。

 発掘キャンプだった。大型テント三張り、衛星通信車、発電機、掘削機。そして、塩の大地へ口を開けた長方形の陥没穴。

 車を降りると、熱気が靴底から上がってきた。

 陥没穴の縁に、エイドリアン・バルデンが立っていた。五十代半ば。灰色のシャツを肘までまくり、砂漠には不似合いな革靴を履いている。左手の薬指だけが白く、長く指輪を外していることを示していた。

 隣には、傭兵上がりの警備主任ルーク・ハーラン。首が太く、笑わない男だった。

「紫葉ミツハ」

 バルデンは握手より先に、小さな布包みを差し出した。

「あなたなら、これを見れば来ると思った」

 包みの中には、淡い灰緑色の凍石印章があった。

 角のある獣。二匹の魚。七つの壺。上辺には六つの短い記号。

 ミツハは息を止めた。

 印章を裏返す。

 そこには、鋭い刃物で漢字が一字、刻まれていた。

 ――凪。

 古代の傷ではない。線の縁が新しく、塩がまだ入り込んでいない。

 そして、その字の最後の払いは、兄の海斗が書くときだけ不自然に跳ねた。

 ミツハの右手が、無意識に上着の内側へ動いた。

 そこには壊れた潜水時計がある。十二年前、オマーン沖の海底洞窟から引き上げられた兄の遺品。針は午後四時十七分で止まっていた。

「どこで見つけた」

 声が低くなった。

「穴の下、封鎖された水路の前だ。昨日まで誰も入っていない」

「嘘だ」

「だから、あなたを呼んだ」

 バルデンは穏やかに言った。

「あなたの兄、紫葉海斗は、十二年前にマガン交易路を追っていた。古代メソポタミアが銅の産地として記した海の向こう側だ。彼の日誌には、この印章と同じ図がある」

「兄の日誌は海に沈んだ」

「一冊は浮いた」

「誰の懐へ?」

「値段のつく懐へ」

 ミツハはバルデンの顔を見た。

 殴るのは簡単だった。だが、簡単なことほど後で高くつく。

「入口を見せろ」

 サミラが間へ入った。

「その前に条件を確認します。発見物はすべて文化財当局の管理下に置く。持ち出しは禁止。調査記録は私のチームにも同時共有する」

「もちろんだ」

 バルデンは笑った。

 嘘をつく者の笑顔ではない。

 嘘を条件の一部だと思っていない者の笑顔だった。

 陥没穴の底には、切石で組まれた壁が現れていた。

 石材は乾燥した泥煉瓦ではなく、薄い灰色の石灰岩だった。中央に高さ三メートルほどの門があり、その上へ白い石膏で大きな記号が象嵌されている。

 魚。

 櫛。

 壺。

 角。

 横棒。

 もう一匹の魚。

 そして、円の中に点を持つ、眼のような印。

「ドーラヴィーラで見つかった大型文字を思わせるけれど、配列が違う」

 サミラは門をライトでなぞった。

「都市名でしょうか」

「文字だと決めつけるのは早い」

 ミツハは門柱へしゃがみ込んだ。

 左右の石には、指ほどの溝が何本も刻まれている。溝は記号の下へつながり、最後は七つの小さなくぼみに落ちていた。

「これは読むものじゃない。流すものだ」

 バシールが水筒を抱えた。

「砂漠で水を無駄にする提案なら、学術的な説明を頼む」

「一口でいい」

 ミツハは水を受け、いちばん左の溝へ注いだ。

 水は途中で二つに分かれた。一方は魚へ、もう一方は壺へ。だが壺の下で止まった。

「勾配が足りない?」

 サミラが覗き込む。

「いや。石の組み方が違う」

 ミツハは門柱を叩いた。

 上から順に、長い石、半分の石、そのまた半分の石。比率は四、二、一。

 古代都市の煉瓦に繰り返し現れる寸法比だった。

 四の石を押し、二の石を引き、一の石を回す。

 内部で何かが落ちた。

 止まっていた水が細い筋となって走り、七つのくぼみを順番に満たした。

 門が低く唸った。

「当たりだ」

 ミツハが立ち上がった瞬間、頭上で石の擦れる音がした。

「いや」

 サミラの顔色が変わる。

「開いたのは門じゃない!」

 左右の壁から、赤い粒が噴き出した。

 数万、数十万の紅玉髄のビーズ。小指の爪ほどの石粒が、液体のように斜面を駆け下りる。

「走れ!」

 足を取られた作業員が転んだ。ハーランが引き上げようとしたが、ビーズの奔流が膝まで達する。

 ミツハは腰の射出器を抜き、門上の梁へ細い鋼索を撃ち込んだ。巻取り装置が唸り、彼女の身体が斜面から浮く。

 振り子のように横切りながら、作業員の襟を掴む。

 もう一方の手でハーランのベルトを蹴り上げた。

「掴め!」

 ハーランは一瞬ためらい、鋼索へ腕を絡めた。

 三人の重みで梁がきしんだ。

 赤い波が足元を洗い、陥没穴のさらに深い亀裂へ吸い込まれていく。

 やがて静かになった。

 門は半ば開き、暗い階段を見せていた。

 ハーランは立ち上がると、礼の代わりにミツハの射出器を見た。

「軍用品か」

「釣具だよ。大物用の」

「次は助けなくていい」

「先に言え」

 サミラは拾ったビーズを掌で転がしていた。

「罠ではないかもしれません」

「歓迎の紙吹雪にしては重かったぞ」

「貯蔵庫です。扉を誤った順序で操作したため、側室が開いた。ビーズは交易品だった」

 ミツハは暗い階段を見下ろした。

「四千年分の歓迎だ。次はもっと愛想が悪い」

 バルデンが印章を光へかざした。

「だから、あなたがいる」

 階段は、都市の下へ都市があると思えるほど深く続いた。

 壁には排水溝が走り、一定の間隔で点検口が設けられている。空気は乾いていたが、どこかで水が滴る音がした。

 地上に水はない。

 それでも音だけは、ずっと彼らを追ってきた。

 先頭はハーランと二人の警備員。次にサミラ、バルデン、ミツハ。最後尾をバシールが工具箱を提げて歩く。

「この深さに排水施設をつくる意味がありません」

 サミラが壁を調べながら言った。

「上の都市の貯水池より低すぎる。排水した水を戻せない」

「戻す気がなかったなら?」

「どこへ捨てるのです」

 ミツハは答えず、足を止めた。

 前方の床に、濡れた足跡があった。

 裸足の人間のもの。小さく、子供ほどの大きさだ。暗闇の奥からこちらへ向かい、途中で壁へ曲がり、そのまま石の中へ消えている。

「誰か先に入ったのか」

 ハーランが銃を構えた。

「門は封鎖されていたはずです」

 サミラの声が硬い。

 滴る音が近づいた。

 天井からではない。

 壁の向こうを、何かが泳いでいる。

 石灰岩の表面が波打った。

 黒い染みが広がり、そこから細い腕のようなものが突き出した。皮膚は半透明で、内部を銀色の粒が流れている。指は七本あり、先端が魚の鰓のように開閉した。

 警備員の一人が発砲した。

 弾丸は腕をちぎった。

 ちぎれた先が床へ落ち、二匹の細い生き物に分かれた。

「撃つな!」

 サミラの叫びより早く、壁全体が崩れた。

 黒い水が人の形をとって廊下へ滑り出す。

 顔のある位置には、印章と同じ眼の記号が一つ浮かんでいた。

 それは最初の警備員へ抱きついた。

 男は悲鳴を上げ、引き剥がそうとした。ハーランが腕を掴む。

 だが、男の口から水が溢れた。

 鼻からも、耳からも。

 乾いた廊下で、彼は溺れていた。

 ミツハは工具箱を蹴り開け、バシールの発煙筒を一本奪った。

 点火して怪物の胸へ突き刺す。

 赤い火花が噴き、黒い身体が沸騰した。人の形が崩れ、水たまりになって排水溝へ逃げていく。

 溺れた警備員は動かなかった。

 その肺から流れ出した水に、小さな白いものが混じっていた。

 歯だった。

 乳歯ほどの歯が何十本も、床の上で魚のように跳ねている。

 バシールが発煙筒をもう一本点けた。

「今のは、考古学の範囲か?」

「少なくとも私の契約書の範囲外です」

 サミラは青ざめながらも、死体のそばへ膝をついた。

 水を採取しようとした彼女の手を、ミツハが止める。

「触るな」

「分析しなければ」

「分析する前に、向こうが君を覚える」

 排水溝の奥から、声がした。

「水を、くれ」

 死んだ警備員と同じ声だった。

「水を、くれ。水を、くれ。水を――」

 ハーランが排水口へ銃口を向ける。

 ミツハはその腕を押し下げた。

「弾は水を殺せない」

「なら、どうする」

「水が嫌うものを探す」

 バルデンだけが、怪物の消えた溝を興味深そうに見ていた。

「記録は正しかった」

 ミツハは振り返った。

「何の記録だ」

「メソポタミアで見つかった粘土板だ。メルッハから来た商人が、王へ贈ったものについて書かれている」

「インダスの名を、向こうではそう呼んだとされている」

 サミラが言った。

「何を贈ったのです」

 バルデンは印章を握った。

「まだ来ていない洪水の、水だ」

 廊下の終わりに、七つの貯水槽があった。

 円形の大空洞を囲み、階段状の槽が花弁のように配置されている。どの槽も空だった。底には白い塩が積もり、中央には黒い石の球体が宙吊りになっていた。

 球体は直径二メートルほど。隕石のように滑らかで、石とも金属ともつかない。七本の石樋がそこから各貯水槽へ伸びている。

 壁面には都市の浮彫が並んでいた。

 一つ目では、川が涸れている。

 二つ目では、城壁を洪水が越えている。

 三つ目では、家々が火に包まれている。

 四つ目では、人々が門から去っていく。

 残りの三つは削り取られ、何が描かれていたのかわからない。

「同じ都市の、異なる終わり方」

 サミラがライトを動かした。

「年代の記録ではありません。建物の欠け方まで同じです」

「予言か」

 ハーランが言う。

「設計図かもしれない」

 ミツハは中央の床を調べた。

 黒い球体の真下に、浅い円形の水盤がある。縁には八つの記号。七つは入口の壺と対応し、最後の一つだけが眼だった。

 水盤の脇へ、バルデンの部下たちが金属ケースを運んできた。

 中にはポンプ、透明な管、折り畳み式の水槽。そして、二十リットルの水缶が十本。

 サミラが振り返った。

「最初から、ここを作動させるつもりだったのですね」

「発掘には仮説が必要だ」

「これは発掘ではない」

 バルデンが指を鳴らすと、ハーランが銃を向けた。

 もう一人の警備員がバシールから工具箱を奪い、ミツハの射出器も取り上げる。

「文化財当局の許可は?」

「書類は人間がつくる。歴史は、つくった者の名前を残さない」

 サミラは唇を噛んだ。

 バルデンはミツハへ近づき、彼女の上着から壊れた潜水時計を抜き取った。

 ミツハの拳が動きかけた。

 ハーランの銃口がサミラへ向く。

「兄の日誌を読んだと言ったな」

「ああ。海斗はオマーン沖で、これと同じ施設を見つけた。規模は小さいが、中心に黒い石があった。彼は最後にこう書いている。“水は過去へ流れているのではない。過去のほうが、水へ沈んでくる”」

「それで死んだ」

「彼は入口を爆破した。だが、その直前に一度だけ装置を動かした形跡がある」

 バルデンは印章の裏を見せた。

「そのとき、彼が刻んだものが、十二年後にここへ流れ着いた」

 凪、という一字。

 ミツハは兄の手を思い出した。

 潜水艇の窓を叩く指。ロープを切れと叫んだ口。濁流に消えたライト。

「何のために私を呼んだ」

「印章は、誰にでも同じ扉を開くわけではない。血と記憶を鍵にする。海斗が最後に思った相手は、おそらく君だ」

「兄の死を鍵穴に使う気か」

「死は、閉じた扉だ。私は開けたい」

 バルデンの目が、初めて印章以外のものを見た。

 彼の左薬指に残る白い輪。

 ミツハは、そこに誰の不在が巻きついているのかを悟った。

 ハーランが水缶を開けた。

 ポンプが唸り、透明な管を通って水盤へ水が注がれる。

 最初は何も起きなかった。

 やがて、黒い球体の表面に星のような点が一つ灯った。

 次に二つ。

 無数の点が現れ、互いを結ぶ。

 夜空ではない。

 巨大な眼の毛細血管だった。

 水盤の水が、重力に逆らって上へ伸びた。

 細い柱となり、黒い球体へ吸い込まれる。

「印章を」

 バルデンが命じた。

 ハーランがミツハの手を掴み、刃物で掌を浅く切った。

 血が落ちる。

 ミツハは反射的に手を引き、印章を水盤へ落とした。

 時刻は午後四時八分四十三秒。

 黒い球体が、瞬きをした。

 最初の八分十七秒で、バシールが死んだ。

 何かが起こることは全員が予想していた。

 だが、起こり方を知る者はいなかった。

 黒い球体から流れ出した水が、七本の石樋を逆向きに走った。空だった貯水槽へ黒い水が満ちていく。壁の浮彫が濡れ、涸れた都市では雨が降り、洪水の都市では水が引いた。

 削り取られていた三つの場面には、人影が浮かび上がった。

 同じ人物が、違う死に方をしている。

 ミツハ。

 サミラ。

 バシール。

「止めろ!」

 サミラが水盤へ向かった。

 ハーランが彼女を押し返す。

 バシールは工具箱へ飛びつき、隠していた短いレンチを掴んだ。

 警備員が銃を上げた。

 ミツハはその腕を蹴った。

 弾丸が天井の鎖を切り、石樋の一つが落下する。

 バシールの頭上へ。

 鈍い音がした。

 彼は声もなく崩れた。

 ミツハが駆け寄ったとき、時計は午後四時十六分五十八秒を示していた。

 バシールの目は、まだ彼女を見ていた。

「客が……喜ぶ答えは」

 血が唇を濡らす。

「更新、しない……」

 背後でハーランが叫んだ。

「印章から離れろ!」

 ミツハが振り向いた。

 銃口が火を噴き、胸の中心へ鉄槌のような衝撃が来た。

 午後四時十七分。

 彼女は水盤へ倒れ込み、血に濡れた手で印章を掴んだ。

 黒い水がミツハの腕へ巻きつく。

 世界が、一度吸い込んだ息を吐き戻した。

 銃声が銃口へ戻る。

 落ちた石樋が宙へ上がる。

 血がバシールの頭から消える。

 言葉が口へ逆流する。

 水が七つの槽を駆け上がり、黒い球体へ戻り、透明な管を通って水缶へ収まった。

 午後四時八分四十三秒。

 ミツハは立っていた。

 掌の傷から、一滴目の血が落ちるところだった。

「印章を」

 バルデンが言った。

 まったく同じ声。

 まったく同じ角度。

 ミツハは印章を空中で掴んだ。

「伏せろ、バシール!」

「何だ?」

 彼女はハーランの膝を蹴り、警備員の銃を奪った。

 天井の鎖へ向けて発砲するはずだった男の手首を、銃床で砕く。

「紫葉!」

 ハーランが殴りかかる。

 ミツハは身を沈め、彼の勢いを利用して水盤へ投げた。

 黒い水がハーランの顔を舐め、彼は絶叫して転がった。

 バシールは生きている。

 石樋は落ちない。

 だが午後四時十六分五十九秒、別の鎖が切れた。

 今度はサミラの足元の床が開いた。

 彼女の身体が、黒い水で満ちた下層槽へ落ちる。

 ミツハは腕を掴んだ。片手では支えきれない。

 水面から七本指の腕が伸び、サミラの足首へ絡みついた。

「離して!」

「嫌だ」

「一緒に落ちます!」

 時計が四時十七分を打つ。

 サミラの指が滑った。

 ミツハは印章を水盤へ叩きつけた。

 また世界が逆流した。

 三度目の午後四時八分四十三秒。

 ミツハの掌には、二本の浅い傷があった。

 一度目にはなかった傷。

 二度目の時間が、完全には消えていない。

 そして水盤の印章には、髪の毛ほどの亀裂が一本増えていた。

「印章を」

 バルデンが言う。

「断る」

 ミツハは水盤から印章を拾い、走った。

 ハーランが追う。

 サミラとバシールへ叫ぶ。

「十六時十七分まで、中央槽に近づくな! 鎖の下にも立つな!」

「説明を!」

「八分後にする!」

 ミツハは七つの貯水槽の間を抜け、最初に来た排水路へ飛び込んだ。

 背後で銃声。

 石壁が欠ける。

 彼女は記憶していた角を曲がった。

 最初の時間には通らなかった道。

 二度目の時間で、サミラを引き上げようとしたときに見えた脇道。

 黒い水が膝まで上がっている。

 時刻は午後四時十六分四十三秒。

 そこで、紫葉ミツハは自分の死体を見つけた。

 胸を撃たれ、印章を握った自分。

 存在しなかったはずの、一度目の結末。

 死体の目が開く。

「十七秒後、右へ倒れろ」

 ミツハは印章を奪い、右へ身を投げた。

 ハーランの銃弾が通り過ぎる。

 午後四時十七分。

 だが今度は、世界が戻らなかった。

 ミツハが水盤の印章を持ち出していたからだ。

「どこへ逃げても同じだ!」

 ハーランが排水路へ入ってくる。

 ミツハは胸元から二つの印章を出した。

 一つは現在のもの。

 もう一つは、捨てられた未来の死体が持っていたもの。

 ハーランの足が止まった。

「それは何だ」

「利子だよ」

 ミツハは片方を投げた。

 ハーランは反射的に受け取る。

 その一瞬に間合いを詰め、喉へ肘を叩き込み、銃を奪った。

「助けなくていいと言ったな」

 銃床で顎を打つ。

「今回は希望どおりだ」

 ハーランが黒い水へ倒れた。

 水面から無数の指が出たが、ミツハは彼の襟を掴み、乾いた床へ引きずり上げた。

「なぜ助けた」

「次に死体のおまえが現れたら、見分けがつかない」

 中央空洞へ戻ると、サミラはミツハの手にある二つの印章を見て言葉を失った。

「複製?」

「違う。廃棄物だ」

 ミツハは一度目と二度目に起きたことを話した。

 サミラは信じようとしなかった。

 しかし、下層槽から彼女自身の声がした。

「離して!」

 黒い水面に、もう一人のサミラが浮かんだ。

 足首を七本指に掴まれ、沈みながらミツハへ手を伸ばしている。

 二度目の未来で死んだサミラだ。

 現在のサミラが、息を呑んで水面へ近づいた。

 濡れた指先同士が触れる。

 彼女の背が弓なりに反った。

 洪水のように記憶が流れ込んだのだろう。

 落下。

 冷たい手。

 肺へ入る黒い水。

 ミツハの叫び。

 サミラは床へ倒れ、激しく咳き込んだ。

「これは……時間旅行ではありません」

 彼女は震える声で言った。

「では何だ」

 バシールが訊く。

「排水です」

 サミラは七つの貯水槽を見回した。

「私たちは、選ばなかった明日を下水へ捨てている」

 七つの槽は水を貯めるためのものではなかった。

 壁の浮彫を、サミラは記録としてではなく配管図として読み直した。

 魚は水。

 壺は貯留。

 櫛は分岐。

 横棒は閉鎖。

 角のある獣は都市そのもの。

 そして円の中の点は、中央の黒い球体。

「文字の音価はわかりません。でも、同じ記号が同じ装置の位置に刻まれている。これは操作表示です」

 彼女は削り取られた三つの浮彫を指した。

「古代の技術者たちは、災害が起きるたびに別の結果を選んだ。干ばつの都市を捨て、雨の降る都市へ移る。洪水の都市を捨て、水が引く都市へ移る」

「捨てられた都市は消えない」

 ミツハは下層槽を見た。

 黒い水の中で、何千もの窓が瞬いている。

「ここへ流れ込む」

「七つの貯水池が現実の水を蓄えたのなら」

 サミラは中央の眼を見上げた。

「八番目は、選ばれなかった世界を蓄えた」

 排水溝から、声が重なった。

 水をくれ。

 離して。

 伏せろ。

 印章を。

 客が喜ぶ答えは。

 彼ら自身の声だった。

 まだ口にしていない言葉まで混じっていた。

 黒い球体の表面で、人の顔が内側から押し上がった。

 ミツハ。

 サミラ。

 バシール。

 ハーラン。

 そして、見知らぬ古代の人々。

 数千年分の捨てられた結末が、一つの皮膜の下で息をしている。

「最初は単なる現象だったのでしょう」

 サミラが言った。

「でも、蓄積された。死、恐怖、記憶、選択。あまりに多くの人間を飲み込んで、飢えを学んだ」

「さっきの化け物は」

「八番目の貯水池が、外へ出るためにつくった手です」

 バルデンが小さく拍手した。

「見事だ、博士」

 ハーランが立ち上がっていた。

 喉を押さえながらも、銃は正確にサミラへ向いている。

 もう一人の警備員がバシールを拘束した。

 ミツハは二つの印章を握ったまま動かなかった。

「一つを渡せ」

 バルデンが言う。

「どちらを?」

「両方だ」

「欲張りは時間を食うぞ」

「時間ほど、独占する価値のある資源はない」

 バルデンは壊れた潜水時計を水盤の縁へ置いた。

 午後四時十七分で止まった針。

 さらに、塗装の剥げた小さな赤い髪留めを、その隣へ並べた。

「八分十七秒は、浅い層だ。装置が最後に記憶した現実へ戻るだけ。しかし血縁者の記憶と、死者が身につけていた物があれば、もっと深く潜れる」

 ミツハの背筋が冷えた。

「おまえは最初から、兄を餌にしていた」

「君も同じだ。でなければ、ここへ来なかった」

「あなたは誰を戻す」

 サミラが訊いた。

 バルデンの視線が左手の白い指輪跡へ落ちた。

「娘だ。エリーゼは七歳だった。庭のプールで溺れた。私は三メートル先にいた」

「それで四千年前の墓を掘ったのか」

「墓ではない。扉だ」

「扉の向こうにいるのは娘さんではありません」

 サミラは黒い球体を見た。

「娘さんが生きた可能性です。あなたを知らないかもしれない。あなたを憎んでいるかもしれない。別の誰かを父と呼ぶかもしれない」

「生きていればいい」

 バルデンの声が初めて揺れた。

 ミツハは、その揺れを理解してしまった。

 理解できることと、許せることは違う。

「印章を水盤へ置け」

 ハーランがサミラのこめかみに銃口を当てた。

 ミツハは片方を差し出した。

 自分の死体から奪った印章だった。

 もう片方は掌の内側へ隠す。

 バルデンは受け取った印章を時計の上に置き、ミツハの血を垂らした。

 黒い球体の眼が開いた。

 海が、天井から落ちてきた。

 ミツハは水中にいた。

 十二年前のオマーン沖。水深四十七メートル。崩れかけた海底洞窟。

 自分の呼吸音が、潜水マスクの中で鳴っている。

 前方に兄の海斗がいた。

 岩の亀裂へ片脚を挟まれ、腰のロープが黒い穴へ引かれている。

 穴の中には、眼があった。

 ドーラヴィーラ近郊の地下で見た、あの黒い球体と同じ眼。

 海斗の手には印章がある。

 彼は潜水ナイフで裏面を削った。

 凪。

 妹の名を一字。

 ミツハは叫んだ。

 だが十二年前の自分に声は届かない。

 若いミツハはロープを両手で掴み、兄を引き戻そうとしている。

 黒い穴から七本指の腕が伸びた。

 海斗のタンクへ絡みつく。

『凪、切れ!』

 記憶の中の兄が叫んだ。

 ミツハは、そこまでしか覚えていなかった。

 水の轟音と警報に、続きは消されていた。

 だが今は聞こえた。

『ロープを切れ! こいつに出口を覚えさせるな!』

 海斗は印章を黒い穴へ投げた。

 印章は沈まず、水面のような膜を抜けて消えた。

 十二年後、塩の砂漠の地下へ現れるために。

 若いミツハはナイフを抜いた。

 迷った。

 ほんの一秒。

 海斗は笑った。

『早くしろ。酸素代は割り勘だぞ』

 ミツハはロープを切った。

 兄は黒い穴へ引かれた。

 眼が閉じ、洞窟が崩れた。

 時計の針が午後四時十七分で止まる。

 そこで記憶は終わるはずだった。

 だが、黒い水の中に別の道が開いた。

 ロープを切らなかった世界。

 海斗を救い出した世界。

 兄妹は海面へ戻る。

 抱き合う。

 泣き、笑い、病院でくだらない口論をする。

 海斗は生きている。

 場面が跳んだ。

 半年後、海斗は眠れなくなっていた。

 皮膚の下を黒い水が流れ、鏡へ映るたび、背後に七本指の影が立つ。

 彼は装置を理解しようとする。

 資金を求める。

 エイドリアン・バルデンと会う。

 さらに場面が跳ぶ。

 黒い水が港を満たす。

 乾いた街で、人々が溺れる。

 無数の声が排水口から家族の名を呼ぶ。

 また別の道。

 海斗を救ったが、ミツハが死ぬ世界。

 兄が一生、自分を責める世界。

 二人とも助かるが、サミラがこの遺跡で死ぬ世界。

 バルデンが装置を持ち帰る世界。

 誰も遺跡を見つけず、百年後の地震で眼だけが地上へ出る世界。

 可能性は枝ではなかった。

 洪水だった。

 どれか一つへ手を伸ばすたび、無数の別の誰かが流される。

「凪」

 兄の声がした。

 現在の海斗ではない。

 十二年前に捨てられた記憶が、黒い水の形を借りて立っている。

「俺を助けたいか」

 ミツハは答えられなかった。

「助けたいに決まってる」

 ようやく言う。

「じゃあ、俺が死ななかった世界を選べ」

「それは、あなたじゃない」

 海斗の顔が少し笑った。

「そうだ」

「ここにいるあなたも違う」

「そうだ」

「本物は死んだ」

「ようやく、ちゃんと言ったな」

 ミツハの喉が痛んだ。

「私が切った」

「俺が切らせた」

「それでも」

「それでも、だ」

 海斗の姿が水へ崩れ始める。

「後悔は、消すものじゃない。持って泳げ」

 遠くで、子供の笑い声がした。

 エイドリアン・バルデンが、別の記憶の中を走っている。

 夏の庭。青いプール。水面に浮かぶ赤い玩具。

 七歳の少女が、水の底へ沈みかけている。

「エリーゼ!」

 バルデンが飛び込む。

 少女を抱き上げる。

 咳。

 呼吸。

 彼女は生きている。

 バルデンは泣きながら笑った。

 その背後に、もう一人のバルデンが立っていた。

 次にもう一人。

 救助に一秒遅れたバルデン。

 電話を受けなかったバルデン。

 その日、家にいなかったバルデン。

 娘を救ったが、妻を失ったバルデン。

 娘を救ったため、別の子供を死なせたバルデン。

 何十人ものバルデンが、同じ少女へ手を伸ばす。

「私の娘だ!」

 彼は叫んだ。

 少女が振り返った。

 顔のある場所に、円の中の点があった。

 黒い水がバルデンたちをまとめて飲み込む。

 現実の空洞で、黒い球体が割れたような叫びを上げた。

 ミツハは水盤のそばへ投げ出された。

 時間は午後四時十七分を過ぎていた。

 だが秒針が前後へ震え、進む方向を決められずにいる。

 黒い球体から、バルデンの上半身が生えていた。

 同じ顔が肩や背中にも浮かび、口々に娘の名を呼ぶ。腕は二本ではない。何十本もの腕が互いを掴み、どれが本体かわからない。

「扉を閉じろ!」

 サミラが叫んだ。

「方法は?」

「入口の大型記号です。最後の眼だけ、横棒で切られていた。七つを満たし、八つ目を壊す!」

 七つの貯水槽は、すでに黒い水で半ば満ちている。

 各槽の底に、巨大な石の弁があった。全部を開けば、水は中央へ集中する。

「弁は反対側だ!」

 バシールが拘束を解いていた。手首に隠した細い鋸で縄を切ったらしい。

「三つは私がやる。博士は二つ。残りは?」

「私が行く」

 ミツハは走った。

 ハーランが前へ出た。

 銃口が向く。

「印章を渡せ」

「未来が欲しいのか?」

「金になる未来だけでいい」

 引き金が絞られる直前、彼の背後の壁から腕が伸びた。

 胸を撃たれたハーラン。

 首を折られたハーラン。

 黒い水へ引きずり込まれたハーラン。

 まだ起きていない死に方をした彼自身が、何人も石壁から這い出してくる。

 ハーランは反射的に撃った。

 一人を撃つたび、黒い水が飛び散り、二人に増えた。

「弾は水を殺せないと言っただろ」

 ミツハは床を滑り、ハーランの足首を払った。

 銃が落ちる。

 彼女は拾わず、石弁へ飛びついた。

 弁の輪は固着している。

 体重をかけても動かない。

 ミツハは隠していた二つ目の印章を取り出し、輪の中央の窪みへ押し込んだ。

 石の内部で、何かが噛み合った。

 弁が回る。

 第一の槽が開いた。

 黒い水が中央へ流れ込む。

 向こうでバシールが二つ目を開けた。

 サミラが三つ目。

 水位が急激に下がり、底から古代の階段が現れる。

 黒い球体のバルデンが吠えた。

 何十本もの腕が伸び、サミラを掴もうとする。

 彼女は身を伏せ、四つ目の弁へ印章の拓本板を差し込んで梃子にした。

「これは文化財です!」

 バシールが叫ぶ。

「今だけは道具です!」

 板が折れ、弁が回った。

 ハーランは自分自身の死体たちに押さえ込まれていた。

 ミツハへ手を伸ばす。

「助けろ!」

 ミツハは一歩戻った。

 その手を掴む。

 ハーランの顔に安堵が浮かんだ。

 次の瞬間、彼はミツハの腕を引き、代わりに自分が上がろうとした。

「そう来ると思った」

 ミツハは手を離した。

 ハーランは、自分の死体の群れとともに黒い水へ落ちた。

 水面に銃声が一つ響き、消えた。

 第五、第六の弁が開く。

 最後の弁は、黒い球体の真下にあった。

 そこへ至る石橋は、流れ込む水で崩れ始めている。

「ミツハ!」

 サミラが鋼索の射出器を投げた。

 ミツハは受け取り、天井の梁へ撃つ。

 巻取り装置が彼女を宙へ引き上げた。

 黒い球体の前を横切る。

 無数のバルデンの顔が彼女を見る。

「待て」

 そのうち一つだけが、静かな声を出した。

「君の兄も戻せる。まだ選べる」

 黒い表面に、海斗の姿が浮かぶ。

 生きている兄。

 年を取り、白髪を混ぜ、ミツハへ笑いかけている。

「凪。帰ろう」

 胸が裂けそうになった。

 ミツハは腰のポケットから壊れた潜水時計を出した。

 午後四時十七分で止まった、兄の時計。

 最後の弁の歯車へ差し込む。

 時計の金属ケースが軋み、針が砕けた。

 歯車が噛み、弁が開く。

 七つの槽の水が、一斉に中央へ落ちた。

 黒い球体が激しく揺れる。

 サミラが叫ぶ。

「眼を壊して!」

 ミツハは鋼索を切り離し、球体の上へ着地した。

 表面は柔らかかった。

 足元で、数え切れない心臓が鼓動している。

 バルデンの腕が足首を掴む。

 海斗の顔が眼前に浮かぶ。

「今なら間に合う」

「そうだな」

 ミツハは印章を逆手に持った。

 兄の名が刻まれた面を、自分へ向ける。

「だから、間に合わせない」

 印章の角を、円の中の点へ叩き込んだ。

 一度。

 亀裂が走る。

 二度。

 海斗の顔が水へ戻る。

 三度。

 黒い球体が割れた。

 中から溢れたのは水ではなかった。

 白い光だった。

 選ばれなかった朝、言わなかった言葉、死ななかった人、出会わなかった恋人、建たなかった家。

 無数の可能性が、音もなく空洞を満たした。

 ミツハは一瞬だけ、すべてを見た。

 そして、何も選ばなかった。

十一

 四千年前の貯水都市が、最後の排水を始めた。

 壁が裂け、地下水が噴き出す。

 七つの槽から中央へ落ちた水は、砕けた眼を巻き込み、巨大な渦となった。

「出口へ!」

 サミラが叫ぶ。

 だが来た道は崩れていた。

 黒い水が廊下を塞ぎ、無数の手を伸ばしている。

「別の出口がある!」

 バシールが壁の浮彫を指した。

「七つの壺の下に、一本の線。排水口だ!」

「どこへ出る?」

「客が喜ぶ答えなら地上だ!」

「信用できる答えは?」

「海の底かもしれん!」

 三人は最下段の槽へ駆け下りた。

 塩の下から、半円形の水門が現れている。サミラとバシールが輪を回し、ミツハが射出器の鋼索を巻きつけた。

 背後で、八番目の河が迫る。

 黒い水の壁。

 そこにバルデン、ハーラン、死んだ警備員、古代の人々、そしてミツハ自身の死体が浮かんでいる。

 死体のミツハが口を動かした。

「今度は、左だ」

「信用できる?」

「自分を信じろ」

「いちばん難しいやつだ」

 水門が開いた。

 向こうは闇だった。

 濁流が三人を飲み込む。

 古代の排水路を、身体が矢のように運ばれた。

 石壁が肩をかすめ、曲がり角ごとに骨が軋む。バシールが背負っていた緊急用の折り畳み浮袋を開き、三人は辛うじて一本の索へ掴まった。

 前方で水路が二つに分かれる。

 右は広く、穏やか。

 左は狭く、轟音がする。

「右だ!」

 サミラが叫ぶ。

 ミツハは、最後に見た自分の死体を思い出した。

 今度は左だ。

 だが、その死体は捨てられた未来の自分だ。

 正しいとは限らない。

 未来を知ることと、未来を選べることは違う。

 右の水路の天井に、白い根のようなものが揺れていた。

 七本指。

 八番目の河が先回りしている。

「左!」

 ミツハは浮袋の舵索を切った。

 三人は轟音の水路へ吸い込まれる。

 落下した。

 何十メートルかわからない。

 胃が喉へ浮く。

 次の瞬間、浮袋ごと水面へ叩きつけられた。

 上に星があった。

 地下ではない。

 夜になった塩の平原、その真ん中に開いた水穴だった。

 三人は白い塩湖へ放り出され、転がった。

 直後、背後の穴から黒い水柱が天へ噴き上がる。

 水柱の中で、無数の人影がほどけた。

 風に散る布のように薄くなり、星空へ消えていく。

 最後に、海斗の姿が見えた。

 彼は何も言わなかった。

 ただ片手を上げた。

 ミツハも上げた。

 黒い水柱は白い塩へ変わり、静かに降った。

 地面が大きく揺れた。

 発掘キャンプの照明が一つずつ消える。

 地下空洞が崩れ、陥没穴は塩と水に埋まった。

 しばらく、誰も口をきかなかった。

 やがてバシールが仰向けのまま言った。

「車が潰れた」

「生きてる第一声がそれ?」

 ミツハが訊く。

「請求書は死なない」

 サミラが笑った。

 笑いは咳になり、咳はまた笑いになった。

 ミツハは掌を開いた。

 二つあった印章は、どちらも消えていた。

 兄の時計もない。

 何も持ち帰れなかった。

 それでよかった。

十二

 三か月後。

 カッチ考古博物館の収蔵室で、サミラは一枚の写真を机へ置いた。

 崩壊直前、壁面を撮影した高解像度画像だった。

 魚。

 櫛。

 七つの壺。

 横棒で断ち切られた眼。

「論文では、緊急排水手順を示す図像とします」

 サミラが言った。

「時間を捨てる装置とは書かないのか」

「査読者の健康に配慮します」

 窓の外では、観光客の子供たちが古代都市の模型を覗き込んでいる。

 水路、井戸、貯水池。過酷な土地で水を集め、分け、守った人々の都市。

「文字は読めそう?」

「まだです。読めないから価値がある、とは言いません。読めないものを、読めないまま尊重する時間にも価値があるのです」

「考古学者らしい答えだ」

「盗掘屋には難しい?」

「私は回収屋」

「何を回収したのです」

 ミツハは答えず、写真の眼を指で隠した。

 七つの壺だけが残る。

 兄を救えなかった記憶は、消えていない。

 ロープを切った感触も、午後四時十七分を見るたびに胸が狭くなることも。

 けれど、それは罰ではなかった。

 彼女が生きている世界の一部だった。

「後悔はしてる」

 ミツハは言った。

「だから、やり直さない」

 サミラはしばらく黙り、机の引き出しから封筒を出した。

 中には、バシールの手書きの請求書が入っている。

 四輪駆動車一台。

 工具箱一式。

 発煙筒三本。

 命の危険手当。

 客が喜ぶ答えを提供した特別料金。

 いちばん下に追記があった。

 ――次の仕事は、川のない場所にしてくれ。

 ミツハは笑った。

 窓から差す午後の光が、写真の上をゆっくり移動する。

 魚の記号を照らし、壺を照らし、最後に隠された眼の縁で止まった。

 時計は四時十七分を過ぎた。

 何も戻らない。

 紫葉ミツハが白い海から持ち帰った唯一の宝は、

 まだ誰のものでもない、明日だった。

             〈了〉

※本作は、インダス文明の都市計画、水利施設、印章、未解読文字などを着想源としたフィクションです。登場人物、架空遺跡、超常現象および事件は創作です。