『八番目の河』
一
紫葉ミツハは、自分の死体から宝を盗んだ。
死体は、四千年前の排水路に流れ着いた倒木のように引っかかっていた。塩で白くなった黒髪。左の眉を横切る古傷。右耳の銀の輪。どれも見間違えようのない自分のものだった。
違うのは胸に空いた銃創と、死んでいることだけだ。
排水路の天井は低く、ミツハは膝まで黒い水に浸かっていた。水は冷たくない。むしろ人肌に近かった。かすかな脈動さえあり、巨大な獣の血管を歩いているような気分にさせた。
死体の右手が、四センチ四方の凍石印章を握っていた。
角の生えた獣。向かい合う二匹の魚。七つの壺。そして、まだ誰にも読めない短い文字列。
ミツハが手を伸ばすと、死体の瞼が開いた。
「十七秒後」
塩の結晶がこびりついた唇が動いた。
「右へ倒れろ」
ミツハは数を数えなかった。
死体の指をこじ開け、印章を奪い、右へ身を投げた。
直後、銃弾が左耳のあった空間を裂いた。
乾いた発砲音が石の腸内を何度も跳ね返る。
「そこにいるな、紫葉!」
排水路の向こうで、ルーク・ハーランが叫んだ。
ミツハは伏せたまま印章を胸元へ滑り込ませた。掌の中には、すでに同じ印章がもう一つある。
世界に一つしかないはずの宝が、二つ。
その片方を握った自分が、足元で死んでいる。
「なるほど」
ミツハは泥を頬から拭った。
「今日は、ずいぶん縁起がいい」
死体が笑ったように見えた。
黒い水が盛り上がり、その顔を覆った。
六時間前、白い砂漠は、まだ何も知らないふりをしていた。
二
カッチ大湿地の乾季は、海から水だけを抜き取ったような景色をつくる。
地平線まで続く塩の平原。雲の影さえ白く焼きつき、遠くを走る車は宙に浮いて見えた。
ミツハを乗せた四輪駆動車は、ひび割れた塩殻を砕きながら北へ進んでいた。運転席ではバシール・ラーマンが、四十年前の映画音楽を鼻歌で奏でている。音程は砂漠より平坦だった。
「あと何分?」
後部座席のミツハが訊いた。
「信用できる答えと、客が喜ぶ答えと、神だけが知る答えがある」
「いちばん短いやつ」
「十五分」
助手席のサミラ・カーンが振り返った。
細い銀縁眼鏡の奥に、呆れた目がある。
「三十分前にも十五分と言っていました」
「客が喜ぶ答えは、更新されないんだ」
バシールは悪びれなかった。
サミラはインダス文字を専門とする考古学者で、この一帯の発掘責任者だった。三日前、季節外れの地盤沈下で地下空洞が露出し、そこから未知の印章と石積みの入口が見つかった。
サミラは公的な調査隊の増員を要請した。
ところが先に来たのは、発掘費用の大半を出しているバルデン財団の人間たちだった。
「あなたを呼ぶことには最後まで反対でした」
サミラが言った。
「聞いてる。盗掘屋だからだろ」
「自覚はあるのですね」
「政府や博物館の依頼で盗品を取り戻す、善良で納税意識の高い盗掘屋」
「言葉を長くしても犯罪臭は薄まりません」
ミツハは肩をすくめた。
世間は彼女をトレジャーハンターと呼ぶ。本人は回収屋と名乗った。沈没船、戦場跡、密輸商の地下倉庫。金になるものなら何でも探したが、依頼主へ渡すべきものは渡す。
少なくとも、渡さないより高くつくときは。
「財団のエイドリアン・バルデンが、あなたを指名した理由は?」
「知らない。宝の匂いがする女だと思ったんじゃないか」
「実際には?」
「借金の匂いならする」
バシールが笑い、車が大きく跳ねた。
白い平原の先に、黒い点が浮かんだ。
発掘キャンプだった。大型テント三張り、衛星通信車、発電機、掘削機。そして、塩の大地へ口を開けた長方形の陥没穴。
車を降りると、熱気が靴底から上がってきた。
陥没穴の縁に、エイドリアン・バルデンが立っていた。五十代半ば。灰色のシャツを肘までまくり、砂漠には不似合いな革靴を履いている。左手の薬指だけが白く、長く指輪を外していることを示していた。
隣には、傭兵上がりの警備主任ルーク・ハーラン。首が太く、笑わない男だった。
「紫葉ミツハ」
バルデンは握手より先に、小さな布包みを差し出した。
「あなたなら、これを見れば来ると思った」
包みの中には、淡い灰緑色の凍石印章があった。
角のある獣。二匹の魚。七つの壺。上辺には六つの短い記号。
ミツハは息を止めた。
印章を裏返す。
そこには、鋭い刃物で漢字が一字、刻まれていた。
――凪。
古代の傷ではない。線の縁が新しく、塩がまだ入り込んでいない。
そして、その字の最後の払いは、兄の海斗が書くときだけ不自然に跳ねた。
ミツハの右手が、無意識に上着の内側へ動いた。
そこには壊れた潜水時計がある。十二年前、オマーン沖の海底洞窟から引き上げられた兄の遺品。針は午後四時十七分で止まっていた。
「どこで見つけた」
声が低くなった。
「穴の下、封鎖された水路の前だ。昨日まで誰も入っていない」
「嘘だ」
「だから、あなたを呼んだ」
バルデンは穏やかに言った。
「あなたの兄、紫葉海斗は、十二年前にマガン交易路を追っていた。古代メソポタミアが銅の産地として記した海の向こう側だ。彼の日誌には、この印章と同じ図がある」
「兄の日誌は海に沈んだ」
「一冊は浮いた」
「誰の懐へ?」
「値段のつく懐へ」
ミツハはバルデンの顔を見た。
殴るのは簡単だった。だが、簡単なことほど後で高くつく。
「入口を見せろ」
サミラが間へ入った。
「その前に条件を確認します。発見物はすべて文化財当局の管理下に置く。持ち出しは禁止。調査記録は私のチームにも同時共有する」
「もちろんだ」
バルデンは笑った。
嘘をつく者の笑顔ではない。
嘘を条件の一部だと思っていない者の笑顔だった。
三
陥没穴の底には、切石で組まれた壁が現れていた。
石材は乾燥した泥煉瓦ではなく、薄い灰色の石灰岩だった。中央に高さ三メートルほどの門があり、その上へ白い石膏で大きな記号が象嵌されている。
魚。
櫛。
壺。
角。
横棒。
もう一匹の魚。
そして、円の中に点を持つ、眼のような印。
「ドーラヴィーラで見つかった大型文字を思わせるけれど、配列が違う」
サミラは門をライトでなぞった。
「都市名でしょうか」
「文字だと決めつけるのは早い」
ミツハは門柱へしゃがみ込んだ。
左右の石には、指ほどの溝が何本も刻まれている。溝は記号の下へつながり、最後は七つの小さなくぼみに落ちていた。
「これは読むものじゃない。流すものだ」
バシールが水筒を抱えた。
「砂漠で水を無駄にする提案なら、学術的な説明を頼む」
「一口でいい」
ミツハは水を受け、いちばん左の溝へ注いだ。
水は途中で二つに分かれた。一方は魚へ、もう一方は壺へ。だが壺の下で止まった。
「勾配が足りない?」
サミラが覗き込む。
「いや。石の組み方が違う」
ミツハは門柱を叩いた。
上から順に、長い石、半分の石、そのまた半分の石。比率は四、二、一。
古代都市の煉瓦に繰り返し現れる寸法比だった。
四の石を押し、二の石を引き、一の石を回す。
内部で何かが落ちた。
止まっていた水が細い筋となって走り、七つのくぼみを順番に満たした。
門が低く唸った。
「当たりだ」
ミツハが立ち上がった瞬間、頭上で石の擦れる音がした。
「いや」
サミラの顔色が変わる。
「開いたのは門じゃない!」
左右の壁から、赤い粒が噴き出した。
数万、数十万の紅玉髄のビーズ。小指の爪ほどの石粒が、液体のように斜面を駆け下りる。
「走れ!」
足を取られた作業員が転んだ。ハーランが引き上げようとしたが、ビーズの奔流が膝まで達する。
ミツハは腰の射出器を抜き、門上の梁へ細い鋼索を撃ち込んだ。巻取り装置が唸り、彼女の身体が斜面から浮く。
振り子のように横切りながら、作業員の襟を掴む。
もう一方の手でハーランのベルトを蹴り上げた。
「掴め!」
ハーランは一瞬ためらい、鋼索へ腕を絡めた。
三人の重みで梁がきしんだ。
赤い波が足元を洗い、陥没穴のさらに深い亀裂へ吸い込まれていく。
やがて静かになった。
門は半ば開き、暗い階段を見せていた。
ハーランは立ち上がると、礼の代わりにミツハの射出器を見た。
「軍用品か」
「釣具だよ。大物用の」
「次は助けなくていい」
「先に言え」
サミラは拾ったビーズを掌で転がしていた。
「罠ではないかもしれません」
「歓迎の紙吹雪にしては重かったぞ」
「貯蔵庫です。扉を誤った順序で操作したため、側室が開いた。ビーズは交易品だった」
ミツハは暗い階段を見下ろした。
「四千年分の歓迎だ。次はもっと愛想が悪い」
バルデンが印章を光へかざした。
「だから、あなたがいる」
四
階段は、都市の下へ都市があると思えるほど深く続いた。
壁には排水溝が走り、一定の間隔で点検口が設けられている。空気は乾いていたが、どこかで水が滴る音がした。
地上に水はない。
それでも音だけは、ずっと彼らを追ってきた。
先頭はハーランと二人の警備員。次にサミラ、バルデン、ミツハ。最後尾をバシールが工具箱を提げて歩く。
「この深さに排水施設をつくる意味がありません」
サミラが壁を調べながら言った。
「上の都市の貯水池より低すぎる。排水した水を戻せない」
「戻す気がなかったなら?」
「どこへ捨てるのです」
ミツハは答えず、足を止めた。
前方の床に、濡れた足跡があった。
裸足の人間のもの。小さく、子供ほどの大きさだ。暗闇の奥からこちらへ向かい、途中で壁へ曲がり、そのまま石の中へ消えている。
「誰か先に入ったのか」
ハーランが銃を構えた。
「門は封鎖されていたはずです」
サミラの声が硬い。
滴る音が近づいた。
天井からではない。
壁の向こうを、何かが泳いでいる。
石灰岩の表面が波打った。
黒い染みが広がり、そこから細い腕のようなものが突き出した。皮膚は半透明で、内部を銀色の粒が流れている。指は七本あり、先端が魚の鰓のように開閉した。
警備員の一人が発砲した。
弾丸は腕をちぎった。
ちぎれた先が床へ落ち、二匹の細い生き物に分かれた。
「撃つな!」
サミラの叫びより早く、壁全体が崩れた。
黒い水が人の形をとって廊下へ滑り出す。
顔のある位置には、印章と同じ眼の記号が一つ浮かんでいた。
それは最初の警備員へ抱きついた。
男は悲鳴を上げ、引き剥がそうとした。ハーランが腕を掴む。
だが、男の口から水が溢れた。
鼻からも、耳からも。
乾いた廊下で、彼は溺れていた。
ミツハは工具箱を蹴り開け、バシールの発煙筒を一本奪った。
点火して怪物の胸へ突き刺す。
赤い火花が噴き、黒い身体が沸騰した。人の形が崩れ、水たまりになって排水溝へ逃げていく。
溺れた警備員は動かなかった。
その肺から流れ出した水に、小さな白いものが混じっていた。
歯だった。
乳歯ほどの歯が何十本も、床の上で魚のように跳ねている。
バシールが発煙筒をもう一本点けた。
「今のは、考古学の範囲か?」
「少なくとも私の契約書の範囲外です」
サミラは青ざめながらも、死体のそばへ膝をついた。
水を採取しようとした彼女の手を、ミツハが止める。
「触るな」
「分析しなければ」
「分析する前に、向こうが君を覚える」
排水溝の奥から、声がした。
「水を、くれ」
死んだ警備員と同じ声だった。
「水を、くれ。水を、くれ。水を――」
ハーランが排水口へ銃口を向ける。
ミツハはその腕を押し下げた。
「弾は水を殺せない」
「なら、どうする」
「水が嫌うものを探す」
バルデンだけが、怪物の消えた溝を興味深そうに見ていた。
「記録は正しかった」
ミツハは振り返った。
「何の記録だ」
「メソポタミアで見つかった粘土板だ。メルッハから来た商人が、王へ贈ったものについて書かれている」
「インダスの名を、向こうではそう呼んだとされている」
サミラが言った。
「何を贈ったのです」
バルデンは印章を握った。
「まだ来ていない洪水の、水だ」
五
廊下の終わりに、七つの貯水槽があった。
円形の大空洞を囲み、階段状の槽が花弁のように配置されている。どの槽も空だった。底には白い塩が積もり、中央には黒い石の球体が宙吊りになっていた。
球体は直径二メートルほど。隕石のように滑らかで、石とも金属ともつかない。七本の石樋がそこから各貯水槽へ伸びている。
壁面には都市の浮彫が並んでいた。
一つ目では、川が涸れている。
二つ目では、城壁を洪水が越えている。
三つ目では、家々が火に包まれている。
四つ目では、人々が門から去っていく。
残りの三つは削り取られ、何が描かれていたのかわからない。
「同じ都市の、異なる終わり方」
サミラがライトを動かした。
「年代の記録ではありません。建物の欠け方まで同じです」
「予言か」
ハーランが言う。
「設計図かもしれない」
ミツハは中央の床を調べた。
黒い球体の真下に、浅い円形の水盤がある。縁には八つの記号。七つは入口の壺と対応し、最後の一つだけが眼だった。
水盤の脇へ、バルデンの部下たちが金属ケースを運んできた。
中にはポンプ、透明な管、折り畳み式の水槽。そして、二十リットルの水缶が十本。
サミラが振り返った。
「最初から、ここを作動させるつもりだったのですね」
「発掘には仮説が必要だ」
「これは発掘ではない」
バルデンが指を鳴らすと、ハーランが銃を向けた。
もう一人の警備員がバシールから工具箱を奪い、ミツハの射出器も取り上げる。
「文化財当局の許可は?」
「書類は人間がつくる。歴史は、つくった者の名前を残さない」
サミラは唇を噛んだ。
バルデンはミツハへ近づき、彼女の上着から壊れた潜水時計を抜き取った。
ミツハの拳が動きかけた。
ハーランの銃口がサミラへ向く。
「兄の日誌を読んだと言ったな」
「ああ。海斗はオマーン沖で、これと同じ施設を見つけた。規模は小さいが、中心に黒い石があった。彼は最後にこう書いている。“水は過去へ流れているのではない。過去のほうが、水へ沈んでくる”」
「それで死んだ」
「彼は入口を爆破した。だが、その直前に一度だけ装置を動かした形跡がある」
バルデンは印章の裏を見せた。
「そのとき、彼が刻んだものが、十二年後にここへ流れ着いた」
凪、という一字。
ミツハは兄の手を思い出した。
潜水艇の窓を叩く指。ロープを切れと叫んだ口。濁流に消えたライト。
「何のために私を呼んだ」
「印章は、誰にでも同じ扉を開くわけではない。血と記憶を鍵にする。海斗が最後に思った相手は、おそらく君だ」
「兄の死を鍵穴に使う気か」
「死は、閉じた扉だ。私は開けたい」
バルデンの目が、初めて印章以外のものを見た。
彼の左薬指に残る白い輪。
ミツハは、そこに誰の不在が巻きついているのかを悟った。
ハーランが水缶を開けた。
ポンプが唸り、透明な管を通って水盤へ水が注がれる。
最初は何も起きなかった。
やがて、黒い球体の表面に星のような点が一つ灯った。
次に二つ。
無数の点が現れ、互いを結ぶ。
夜空ではない。
巨大な眼の毛細血管だった。
水盤の水が、重力に逆らって上へ伸びた。
細い柱となり、黒い球体へ吸い込まれる。
「印章を」
バルデンが命じた。
ハーランがミツハの手を掴み、刃物で掌を浅く切った。
血が落ちる。
ミツハは反射的に手を引き、印章を水盤へ落とした。
時刻は午後四時八分四十三秒。
黒い球体が、瞬きをした。
六
最初の八分十七秒で、バシールが死んだ。
何かが起こることは全員が予想していた。
だが、起こり方を知る者はいなかった。
黒い球体から流れ出した水が、七本の石樋を逆向きに走った。空だった貯水槽へ黒い水が満ちていく。壁の浮彫が濡れ、涸れた都市では雨が降り、洪水の都市では水が引いた。
削り取られていた三つの場面には、人影が浮かび上がった。
同じ人物が、違う死に方をしている。
ミツハ。
サミラ。
バシール。
「止めろ!」
サミラが水盤へ向かった。
ハーランが彼女を押し返す。
バシールは工具箱へ飛びつき、隠していた短いレンチを掴んだ。
警備員が銃を上げた。
ミツハはその腕を蹴った。
弾丸が天井の鎖を切り、石樋の一つが落下する。
バシールの頭上へ。
鈍い音がした。
彼は声もなく崩れた。
ミツハが駆け寄ったとき、時計は午後四時十六分五十八秒を示していた。
バシールの目は、まだ彼女を見ていた。
「客が……喜ぶ答えは」
血が唇を濡らす。
「更新、しない……」
背後でハーランが叫んだ。
「印章から離れろ!」
ミツハが振り向いた。
銃口が火を噴き、胸の中心へ鉄槌のような衝撃が来た。
午後四時十七分。
彼女は水盤へ倒れ込み、血に濡れた手で印章を掴んだ。
黒い水がミツハの腕へ巻きつく。
世界が、一度吸い込んだ息を吐き戻した。
銃声が銃口へ戻る。
落ちた石樋が宙へ上がる。
血がバシールの頭から消える。
言葉が口へ逆流する。
水が七つの槽を駆け上がり、黒い球体へ戻り、透明な管を通って水缶へ収まった。
午後四時八分四十三秒。
ミツハは立っていた。
掌の傷から、一滴目の血が落ちるところだった。
「印章を」
バルデンが言った。
まったく同じ声。
まったく同じ角度。
ミツハは印章を空中で掴んだ。
「伏せろ、バシール!」
「何だ?」
彼女はハーランの膝を蹴り、警備員の銃を奪った。
天井の鎖へ向けて発砲するはずだった男の手首を、銃床で砕く。
「紫葉!」
ハーランが殴りかかる。
ミツハは身を沈め、彼の勢いを利用して水盤へ投げた。
黒い水がハーランの顔を舐め、彼は絶叫して転がった。
バシールは生きている。
石樋は落ちない。
だが午後四時十六分五十九秒、別の鎖が切れた。
今度はサミラの足元の床が開いた。
彼女の身体が、黒い水で満ちた下層槽へ落ちる。
ミツハは腕を掴んだ。片手では支えきれない。
水面から七本指の腕が伸び、サミラの足首へ絡みついた。
「離して!」
「嫌だ」
「一緒に落ちます!」
時計が四時十七分を打つ。
サミラの指が滑った。
ミツハは印章を水盤へ叩きつけた。
また世界が逆流した。
七
三度目の午後四時八分四十三秒。
ミツハの掌には、二本の浅い傷があった。
一度目にはなかった傷。
二度目の時間が、完全には消えていない。
そして水盤の印章には、髪の毛ほどの亀裂が一本増えていた。
「印章を」
バルデンが言う。
「断る」
ミツハは水盤から印章を拾い、走った。
ハーランが追う。
サミラとバシールへ叫ぶ。
「十六時十七分まで、中央槽に近づくな! 鎖の下にも立つな!」
「説明を!」
「八分後にする!」
ミツハは七つの貯水槽の間を抜け、最初に来た排水路へ飛び込んだ。
背後で銃声。
石壁が欠ける。
彼女は記憶していた角を曲がった。
最初の時間には通らなかった道。
二度目の時間で、サミラを引き上げようとしたときに見えた脇道。
黒い水が膝まで上がっている。
時刻は午後四時十六分四十三秒。
そこで、紫葉ミツハは自分の死体を見つけた。
胸を撃たれ、印章を握った自分。
存在しなかったはずの、一度目の結末。
死体の目が開く。
「十七秒後、右へ倒れろ」
ミツハは印章を奪い、右へ身を投げた。
ハーランの銃弾が通り過ぎる。
午後四時十七分。
だが今度は、世界が戻らなかった。
ミツハが水盤の印章を持ち出していたからだ。
「どこへ逃げても同じだ!」
ハーランが排水路へ入ってくる。
ミツハは胸元から二つの印章を出した。
一つは現在のもの。
もう一つは、捨てられた未来の死体が持っていたもの。
ハーランの足が止まった。
「それは何だ」
「利子だよ」
ミツハは片方を投げた。
ハーランは反射的に受け取る。
その一瞬に間合いを詰め、喉へ肘を叩き込み、銃を奪った。
「助けなくていいと言ったな」
銃床で顎を打つ。
「今回は希望どおりだ」
ハーランが黒い水へ倒れた。
水面から無数の指が出たが、ミツハは彼の襟を掴み、乾いた床へ引きずり上げた。
「なぜ助けた」
「次に死体のおまえが現れたら、見分けがつかない」
中央空洞へ戻ると、サミラはミツハの手にある二つの印章を見て言葉を失った。
「複製?」
「違う。廃棄物だ」
ミツハは一度目と二度目に起きたことを話した。
サミラは信じようとしなかった。
しかし、下層槽から彼女自身の声がした。
「離して!」
黒い水面に、もう一人のサミラが浮かんだ。
足首を七本指に掴まれ、沈みながらミツハへ手を伸ばしている。
二度目の未来で死んだサミラだ。
現在のサミラが、息を呑んで水面へ近づいた。
濡れた指先同士が触れる。
彼女の背が弓なりに反った。
洪水のように記憶が流れ込んだのだろう。
落下。
冷たい手。
肺へ入る黒い水。
ミツハの叫び。
サミラは床へ倒れ、激しく咳き込んだ。
「これは……時間旅行ではありません」
彼女は震える声で言った。
「では何だ」
バシールが訊く。
「排水です」
サミラは七つの貯水槽を見回した。
「私たちは、選ばなかった明日を下水へ捨てている」
八
七つの槽は水を貯めるためのものではなかった。
壁の浮彫を、サミラは記録としてではなく配管図として読み直した。
魚は水。
壺は貯留。
櫛は分岐。
横棒は閉鎖。
角のある獣は都市そのもの。
そして円の中の点は、中央の黒い球体。
「文字の音価はわかりません。でも、同じ記号が同じ装置の位置に刻まれている。これは操作表示です」
彼女は削り取られた三つの浮彫を指した。
「古代の技術者たちは、災害が起きるたびに別の結果を選んだ。干ばつの都市を捨て、雨の降る都市へ移る。洪水の都市を捨て、水が引く都市へ移る」
「捨てられた都市は消えない」
ミツハは下層槽を見た。
黒い水の中で、何千もの窓が瞬いている。
「ここへ流れ込む」
「七つの貯水池が現実の水を蓄えたのなら」
サミラは中央の眼を見上げた。
「八番目は、選ばれなかった世界を蓄えた」
排水溝から、声が重なった。
水をくれ。
離して。
伏せろ。
印章を。
客が喜ぶ答えは。
彼ら自身の声だった。
まだ口にしていない言葉まで混じっていた。
黒い球体の表面で、人の顔が内側から押し上がった。
ミツハ。
サミラ。
バシール。
ハーラン。
そして、見知らぬ古代の人々。
数千年分の捨てられた結末が、一つの皮膜の下で息をしている。
「最初は単なる現象だったのでしょう」
サミラが言った。
「でも、蓄積された。死、恐怖、記憶、選択。あまりに多くの人間を飲み込んで、飢えを学んだ」
「さっきの化け物は」
「八番目の貯水池が、外へ出るためにつくった手です」
バルデンが小さく拍手した。
「見事だ、博士」
ハーランが立ち上がっていた。
喉を押さえながらも、銃は正確にサミラへ向いている。
もう一人の警備員がバシールを拘束した。
ミツハは二つの印章を握ったまま動かなかった。
「一つを渡せ」
バルデンが言う。
「どちらを?」
「両方だ」
「欲張りは時間を食うぞ」
「時間ほど、独占する価値のある資源はない」
バルデンは壊れた潜水時計を水盤の縁へ置いた。
午後四時十七分で止まった針。
さらに、塗装の剥げた小さな赤い髪留めを、その隣へ並べた。
「八分十七秒は、浅い層だ。装置が最後に記憶した現実へ戻るだけ。しかし血縁者の記憶と、死者が身につけていた物があれば、もっと深く潜れる」
ミツハの背筋が冷えた。
「おまえは最初から、兄を餌にしていた」
「君も同じだ。でなければ、ここへ来なかった」
「あなたは誰を戻す」
サミラが訊いた。
バルデンの視線が左手の白い指輪跡へ落ちた。
「娘だ。エリーゼは七歳だった。庭のプールで溺れた。私は三メートル先にいた」
「それで四千年前の墓を掘ったのか」
「墓ではない。扉だ」
「扉の向こうにいるのは娘さんではありません」
サミラは黒い球体を見た。
「娘さんが生きた可能性です。あなたを知らないかもしれない。あなたを憎んでいるかもしれない。別の誰かを父と呼ぶかもしれない」
「生きていればいい」
バルデンの声が初めて揺れた。
ミツハは、その揺れを理解してしまった。
理解できることと、許せることは違う。
「印章を水盤へ置け」
ハーランがサミラのこめかみに銃口を当てた。
ミツハは片方を差し出した。
自分の死体から奪った印章だった。
もう片方は掌の内側へ隠す。
バルデンは受け取った印章を時計の上に置き、ミツハの血を垂らした。
黒い球体の眼が開いた。
九
海が、天井から落ちてきた。
ミツハは水中にいた。
十二年前のオマーン沖。水深四十七メートル。崩れかけた海底洞窟。
自分の呼吸音が、潜水マスクの中で鳴っている。
前方に兄の海斗がいた。
岩の亀裂へ片脚を挟まれ、腰のロープが黒い穴へ引かれている。
穴の中には、眼があった。
ドーラヴィーラ近郊の地下で見た、あの黒い球体と同じ眼。
海斗の手には印章がある。
彼は潜水ナイフで裏面を削った。
凪。
妹の名を一字。
ミツハは叫んだ。
だが十二年前の自分に声は届かない。
若いミツハはロープを両手で掴み、兄を引き戻そうとしている。
黒い穴から七本指の腕が伸びた。
海斗のタンクへ絡みつく。
『凪、切れ!』
記憶の中の兄が叫んだ。
ミツハは、そこまでしか覚えていなかった。
水の轟音と警報に、続きは消されていた。
だが今は聞こえた。
『ロープを切れ! こいつに出口を覚えさせるな!』
海斗は印章を黒い穴へ投げた。
印章は沈まず、水面のような膜を抜けて消えた。
十二年後、塩の砂漠の地下へ現れるために。
若いミツハはナイフを抜いた。
迷った。
ほんの一秒。
海斗は笑った。
『早くしろ。酸素代は割り勘だぞ』
ミツハはロープを切った。
兄は黒い穴へ引かれた。
眼が閉じ、洞窟が崩れた。
時計の針が午後四時十七分で止まる。
そこで記憶は終わるはずだった。
だが、黒い水の中に別の道が開いた。
ロープを切らなかった世界。
海斗を救い出した世界。
兄妹は海面へ戻る。
抱き合う。
泣き、笑い、病院でくだらない口論をする。
海斗は生きている。
場面が跳んだ。
半年後、海斗は眠れなくなっていた。
皮膚の下を黒い水が流れ、鏡へ映るたび、背後に七本指の影が立つ。
彼は装置を理解しようとする。
資金を求める。
エイドリアン・バルデンと会う。
さらに場面が跳ぶ。
黒い水が港を満たす。
乾いた街で、人々が溺れる。
無数の声が排水口から家族の名を呼ぶ。
また別の道。
海斗を救ったが、ミツハが死ぬ世界。
兄が一生、自分を責める世界。
二人とも助かるが、サミラがこの遺跡で死ぬ世界。
バルデンが装置を持ち帰る世界。
誰も遺跡を見つけず、百年後の地震で眼だけが地上へ出る世界。
可能性は枝ではなかった。
洪水だった。
どれか一つへ手を伸ばすたび、無数の別の誰かが流される。
「凪」
兄の声がした。
現在の海斗ではない。
十二年前に捨てられた記憶が、黒い水の形を借りて立っている。
「俺を助けたいか」
ミツハは答えられなかった。
「助けたいに決まってる」
ようやく言う。
「じゃあ、俺が死ななかった世界を選べ」
「それは、あなたじゃない」
海斗の顔が少し笑った。
「そうだ」
「ここにいるあなたも違う」
「そうだ」
「本物は死んだ」
「ようやく、ちゃんと言ったな」
ミツハの喉が痛んだ。
「私が切った」
「俺が切らせた」
「それでも」
「それでも、だ」
海斗の姿が水へ崩れ始める。
「後悔は、消すものじゃない。持って泳げ」
遠くで、子供の笑い声がした。
エイドリアン・バルデンが、別の記憶の中を走っている。
夏の庭。青いプール。水面に浮かぶ赤い玩具。
七歳の少女が、水の底へ沈みかけている。
「エリーゼ!」
バルデンが飛び込む。
少女を抱き上げる。
咳。
呼吸。
彼女は生きている。
バルデンは泣きながら笑った。
その背後に、もう一人のバルデンが立っていた。
次にもう一人。
救助に一秒遅れたバルデン。
電話を受けなかったバルデン。
その日、家にいなかったバルデン。
娘を救ったが、妻を失ったバルデン。
娘を救ったため、別の子供を死なせたバルデン。
何十人ものバルデンが、同じ少女へ手を伸ばす。
「私の娘だ!」
彼は叫んだ。
少女が振り返った。
顔のある場所に、円の中の点があった。
黒い水がバルデンたちをまとめて飲み込む。
現実の空洞で、黒い球体が割れたような叫びを上げた。
十
ミツハは水盤のそばへ投げ出された。
時間は午後四時十七分を過ぎていた。
だが秒針が前後へ震え、進む方向を決められずにいる。
黒い球体から、バルデンの上半身が生えていた。
同じ顔が肩や背中にも浮かび、口々に娘の名を呼ぶ。腕は二本ではない。何十本もの腕が互いを掴み、どれが本体かわからない。
「扉を閉じろ!」
サミラが叫んだ。
「方法は?」
「入口の大型記号です。最後の眼だけ、横棒で切られていた。七つを満たし、八つ目を壊す!」
七つの貯水槽は、すでに黒い水で半ば満ちている。
各槽の底に、巨大な石の弁があった。全部を開けば、水は中央へ集中する。
「弁は反対側だ!」
バシールが拘束を解いていた。手首に隠した細い鋸で縄を切ったらしい。
「三つは私がやる。博士は二つ。残りは?」
「私が行く」
ミツハは走った。
ハーランが前へ出た。
銃口が向く。
「印章を渡せ」
「未来が欲しいのか?」
「金になる未来だけでいい」
引き金が絞られる直前、彼の背後の壁から腕が伸びた。
胸を撃たれたハーラン。
首を折られたハーラン。
黒い水へ引きずり込まれたハーラン。
まだ起きていない死に方をした彼自身が、何人も石壁から這い出してくる。
ハーランは反射的に撃った。
一人を撃つたび、黒い水が飛び散り、二人に増えた。
「弾は水を殺せないと言っただろ」
ミツハは床を滑り、ハーランの足首を払った。
銃が落ちる。
彼女は拾わず、石弁へ飛びついた。
弁の輪は固着している。
体重をかけても動かない。
ミツハは隠していた二つ目の印章を取り出し、輪の中央の窪みへ押し込んだ。
石の内部で、何かが噛み合った。
弁が回る。
第一の槽が開いた。
黒い水が中央へ流れ込む。
向こうでバシールが二つ目を開けた。
サミラが三つ目。
水位が急激に下がり、底から古代の階段が現れる。
黒い球体のバルデンが吠えた。
何十本もの腕が伸び、サミラを掴もうとする。
彼女は身を伏せ、四つ目の弁へ印章の拓本板を差し込んで梃子にした。
「これは文化財です!」
バシールが叫ぶ。
「今だけは道具です!」
板が折れ、弁が回った。
ハーランは自分自身の死体たちに押さえ込まれていた。
ミツハへ手を伸ばす。
「助けろ!」
ミツハは一歩戻った。
その手を掴む。
ハーランの顔に安堵が浮かんだ。
次の瞬間、彼はミツハの腕を引き、代わりに自分が上がろうとした。
「そう来ると思った」
ミツハは手を離した。
ハーランは、自分の死体の群れとともに黒い水へ落ちた。
水面に銃声が一つ響き、消えた。
第五、第六の弁が開く。
最後の弁は、黒い球体の真下にあった。
そこへ至る石橋は、流れ込む水で崩れ始めている。
「ミツハ!」
サミラが鋼索の射出器を投げた。
ミツハは受け取り、天井の梁へ撃つ。
巻取り装置が彼女を宙へ引き上げた。
黒い球体の前を横切る。
無数のバルデンの顔が彼女を見る。
「待て」
そのうち一つだけが、静かな声を出した。
「君の兄も戻せる。まだ選べる」
黒い表面に、海斗の姿が浮かぶ。
生きている兄。
年を取り、白髪を混ぜ、ミツハへ笑いかけている。
「凪。帰ろう」
胸が裂けそうになった。
ミツハは腰のポケットから壊れた潜水時計を出した。
午後四時十七分で止まった、兄の時計。
最後の弁の歯車へ差し込む。
時計の金属ケースが軋み、針が砕けた。
歯車が噛み、弁が開く。
七つの槽の水が、一斉に中央へ落ちた。
黒い球体が激しく揺れる。
サミラが叫ぶ。
「眼を壊して!」
ミツハは鋼索を切り離し、球体の上へ着地した。
表面は柔らかかった。
足元で、数え切れない心臓が鼓動している。
バルデンの腕が足首を掴む。
海斗の顔が眼前に浮かぶ。
「今なら間に合う」
「そうだな」
ミツハは印章を逆手に持った。
兄の名が刻まれた面を、自分へ向ける。
「だから、間に合わせない」
印章の角を、円の中の点へ叩き込んだ。
一度。
亀裂が走る。
二度。
海斗の顔が水へ戻る。
三度。
黒い球体が割れた。
中から溢れたのは水ではなかった。
白い光だった。
選ばれなかった朝、言わなかった言葉、死ななかった人、出会わなかった恋人、建たなかった家。
無数の可能性が、音もなく空洞を満たした。
ミツハは一瞬だけ、すべてを見た。
そして、何も選ばなかった。
十一
四千年前の貯水都市が、最後の排水を始めた。
壁が裂け、地下水が噴き出す。
七つの槽から中央へ落ちた水は、砕けた眼を巻き込み、巨大な渦となった。
「出口へ!」
サミラが叫ぶ。
だが来た道は崩れていた。
黒い水が廊下を塞ぎ、無数の手を伸ばしている。
「別の出口がある!」
バシールが壁の浮彫を指した。
「七つの壺の下に、一本の線。排水口だ!」
「どこへ出る?」
「客が喜ぶ答えなら地上だ!」
「信用できる答えは?」
「海の底かもしれん!」
三人は最下段の槽へ駆け下りた。
塩の下から、半円形の水門が現れている。サミラとバシールが輪を回し、ミツハが射出器の鋼索を巻きつけた。
背後で、八番目の河が迫る。
黒い水の壁。
そこにバルデン、ハーラン、死んだ警備員、古代の人々、そしてミツハ自身の死体が浮かんでいる。
死体のミツハが口を動かした。
「今度は、左だ」
「信用できる?」
「自分を信じろ」
「いちばん難しいやつだ」
水門が開いた。
向こうは闇だった。
濁流が三人を飲み込む。
古代の排水路を、身体が矢のように運ばれた。
石壁が肩をかすめ、曲がり角ごとに骨が軋む。バシールが背負っていた緊急用の折り畳み浮袋を開き、三人は辛うじて一本の索へ掴まった。
前方で水路が二つに分かれる。
右は広く、穏やか。
左は狭く、轟音がする。
「右だ!」
サミラが叫ぶ。
ミツハは、最後に見た自分の死体を思い出した。
今度は左だ。
だが、その死体は捨てられた未来の自分だ。
正しいとは限らない。
未来を知ることと、未来を選べることは違う。
右の水路の天井に、白い根のようなものが揺れていた。
七本指。
八番目の河が先回りしている。
「左!」
ミツハは浮袋の舵索を切った。
三人は轟音の水路へ吸い込まれる。
落下した。
何十メートルかわからない。
胃が喉へ浮く。
次の瞬間、浮袋ごと水面へ叩きつけられた。
上に星があった。
地下ではない。
夜になった塩の平原、その真ん中に開いた水穴だった。
三人は白い塩湖へ放り出され、転がった。
直後、背後の穴から黒い水柱が天へ噴き上がる。
水柱の中で、無数の人影がほどけた。
風に散る布のように薄くなり、星空へ消えていく。
最後に、海斗の姿が見えた。
彼は何も言わなかった。
ただ片手を上げた。
ミツハも上げた。
黒い水柱は白い塩へ変わり、静かに降った。
地面が大きく揺れた。
発掘キャンプの照明が一つずつ消える。
地下空洞が崩れ、陥没穴は塩と水に埋まった。
しばらく、誰も口をきかなかった。
やがてバシールが仰向けのまま言った。
「車が潰れた」
「生きてる第一声がそれ?」
ミツハが訊く。
「請求書は死なない」
サミラが笑った。
笑いは咳になり、咳はまた笑いになった。
ミツハは掌を開いた。
二つあった印章は、どちらも消えていた。
兄の時計もない。
何も持ち帰れなかった。
それでよかった。
十二
三か月後。
カッチ考古博物館の収蔵室で、サミラは一枚の写真を机へ置いた。
崩壊直前、壁面を撮影した高解像度画像だった。
魚。
櫛。
七つの壺。
横棒で断ち切られた眼。
「論文では、緊急排水手順を示す図像とします」
サミラが言った。
「時間を捨てる装置とは書かないのか」
「査読者の健康に配慮します」
窓の外では、観光客の子供たちが古代都市の模型を覗き込んでいる。
水路、井戸、貯水池。過酷な土地で水を集め、分け、守った人々の都市。
「文字は読めそう?」
「まだです。読めないから価値がある、とは言いません。読めないものを、読めないまま尊重する時間にも価値があるのです」
「考古学者らしい答えだ」
「盗掘屋には難しい?」
「私は回収屋」
「何を回収したのです」
ミツハは答えず、写真の眼を指で隠した。
七つの壺だけが残る。
兄を救えなかった記憶は、消えていない。
ロープを切った感触も、午後四時十七分を見るたびに胸が狭くなることも。
けれど、それは罰ではなかった。
彼女が生きている世界の一部だった。
「後悔はしてる」
ミツハは言った。
「だから、やり直さない」
サミラはしばらく黙り、机の引き出しから封筒を出した。
中には、バシールの手書きの請求書が入っている。
四輪駆動車一台。
工具箱一式。
発煙筒三本。
命の危険手当。
客が喜ぶ答えを提供した特別料金。
いちばん下に追記があった。
――次の仕事は、川のない場所にしてくれ。
ミツハは笑った。
窓から差す午後の光が、写真の上をゆっくり移動する。
魚の記号を照らし、壺を照らし、最後に隠された眼の縁で止まった。
時計は四時十七分を過ぎた。
何も戻らない。
紫葉ミツハが白い海から持ち帰った唯一の宝は、
まだ誰のものでもない、明日だった。
〈了〉
※本作は、インダス文明の都市計画、水利施設、印章、未解読文字などを着想源としたフィクションです。登場人物、架空遺跡、超常現象および事件は創作です。