六問目の棺
一
午前零時、嘘は一度だけ許された。
二度つけば、その場で敗北。
一度もつかなければ、それも敗北。
白い卓を挟んで向かい合う二人の背後には、それぞれ一通の告白文が収められていた。負けた者の告白文だけが、検察、報道機関、被害者遺族の代理人へ同時送信される。
城ヶ崎廉の告白文には、三年前、ノクス製薬の閉鎖サーバーへ不正侵入した事実が記されている。送信されれば、彼は再び被告席へ戻る。今度こそ執行猶予はつかない。
向かいに座る琥沢朔の告白文には、第七码頭研究棟火災の避難記録を改竄した事実が記されている。
二十三人が死んだ火災だった。
その中に、廉の妹、澪もいた。
「まだ、その傷に触るんだな」
琥沢が言った。
廉の左手の親指には、三日月形の火傷痕がある。あの夜、研究棟の非常扉を素手でこじ開けようとしてできた傷だ。
廉は手を卓上に伏せた。
「君は嘘をつく直前、その傷をなぞる」
「三年前の聴聞会では、そういうことになった」
「なった、ではない。私が見つけた」
琥沢は笑った。
薄い唇だけが動き、目は笑わない。
三年前、廉は火災が事故ではないと訴えた。だが、不正侵入によって得た資料を証拠として提出し、琥沢にその違法性を突かれた。さらに琥沢は、廉が質問をかわすたび、左手の傷へ触れる癖を指摘した。
その瞬間から、聴聞会は火災の真相を問う場ではなく、廉という証人の信用を解体する場になった。
廉は職を失い、証拠は排除され、ノクス製薬は「原因不明の設備事故」という報告書を出した。
琥沢は会社を救った。
二十三人の死体を、報告書の脚注へ押し込むことで。
「今夜も、その指が君を裏切る」
「そう思うなら、見ていろ」
二人の横に立つ執行人、榛名志乃が透明な封筒を掲げた。
「故・城ヶ崎澪氏がエスクローへ預託した原本データ《アイリス》は、後方の耐火金庫にあります。中には火災発生前後七十二時間の操作記録、役員間通信、避難制御ログが保存されています」
背後の壁に、黒い金庫が埋め込まれていた。
棺のように細長い扉には、数字キーが五つ並んでいる。
「勝者は原本を取得します。敗者の告白文は送信されます。暴力、通信妨害、執行人への干渉は即時敗北。異議は?」
「ない」
廉と琥沢の声が重なった。
榛名が卓上の端末へ指を置く。
「それでは、故人の指定した《片嘘解錠》を開始します」
二
金庫の暗証番号は五桁。
同じ数字は一度しか使われない。
二人には、それぞれ異なる五枚の手掛かり札が配られた。すべて真実だが、片方の札だけでは暗証番号は一つに定まらない。
廉の札には、こうあった。
一、一桁目は奇数。
二、二桁目は一桁目より四小さい。
三、四桁目は五桁目の二倍。
四、五つの数字の合計は二十三。
五、三桁目はゼロではない。
廉はメモ用紙へ数字を書き始めた。
一桁目が五なら二桁目は一。
一桁目が七なら二桁目は三。
一桁目が九なら二桁目は五。
四桁目と五桁目の組は、二倍の関係でなければならない。重複数字を除き、合計二十三、三桁目はゼロ以外。
三十秒後、廉の紙には四つの候補が並んだ。
51863
73184
95342
95621
琥沢もまた、黒いガラス板へ四つの数字列を書き終えていた。ただし、互いの手掛かりも候補も見えない。
榛名がルールを読み上げる。
「各自、暗証番号について六つの質問を作成してください。答えが『はい』または『いいえ』で確定する質問に限ります。五桁の番号そのものを一度に尋ねること、同一命題を反復すること、ゲームの進行状態を質問することは禁止です」
質問は先にすべて提出され、端末が適否を判定する。
回答者の側には、遮光板の内側にだけ正しい答えが表示される。回答者はそれを見たうえで、「はい」か「いいえ」を口にする。
六回答のうち、必ず一つだけ嘘を混ぜなければならない。
「二つ以上の虚偽回答をした時点で敗北。一つも虚偽回答をしないまま六問目を終えた場合も敗北です。また、各問終了後、質問者には告発権が与えられます。暗証番号と、相手が嘘をついた回答番号を同時に宣言してください。両方正しければ即時勝利。一つでも誤れば即時敗北です」
廉が先問者だった。
各回、まず廉が質問し、琥沢が答える。廉に告発権が与えられ、その後、琥沢が質問し、廉が答える。最後に琥沢へ告発権が与えられる。
六問目も同じ順序だ。
つまり六回目に入れば、廉は琥沢の最後の答えを聞いた直後、琥沢が自分の六問目を尋ねるより先に告発できる。
小さな順序だった。
だが、この部屋では、順序が刃になる。
廉は六つの質問を入力した。
一問目。一桁目は五か。
二問目。一桁目は七か。
三問目。一桁目は九か。
四問目。三桁目は三か。
五問目。三桁目は六か。
六問目。三桁目は四以上か。
琥沢は表示された質問を見て、初めて声を上げて笑った。
「六問の半分を、一桁目に使うのか」
「そうだ」
「君の妹は、もっと大胆だった。必要な情報を最短で奪った」
「その結果を知っている人間が、効率を説くのか」
笑いが止まった。
琥沢は廉の六問をもう一度見た。そして数秒後、その目から侮りが消えた。
「なるほど。情報を集める質問ではない」
廉の四候補に対し、六つの質問へすべて正直に答えた場合の並びは、こうなる。
51863 はい・いいえ・いいえ・いいえ・いいえ・はい
73184 いいえ・はい・いいえ・いいえ・いいえ・いいえ
95342 いいえ・いいえ・はい・はい・いいえ・いいえ
95621 いいえ・いいえ・はい・いいえ・はい・はい
どの二列を比べても、少なくとも三か所が異なる。
一つだけ答えを反転されても、観測された六回答に最も近い列は一つしか残らない。暗証番号だけでなく、反転した位置――嘘をついた回答番号まで特定できる。
通信の世界では、雑音で壊れた一ビットを復元するために使われる考え方だ。
「誤り訂正か」
琥沢が呟いた。
「相手が嘘をつくことを防げないなら、嘘を含んだまま復元すればいい」
「理屈は正しい。六問目まで生きていればな」
琥沢も六つの質問を提出した。
一問目。一桁目は七か。
二問目。三桁目は奇数か。
三問目。四桁目は八か。
四問目。五桁目は偶数か。
五問目。四桁目は七より大きいか。
六問目。五つの数字の合計は二十三か。
廉は質問列を見た。
最初と四番目は、おそらく琥沢が自分の札だけで答えを知っている確認問題だ。嘘を見抜くため、廉の平常時の声、瞬き、呼吸を測る。
三番目と五番目は似ているが、同一ではない。
四桁目が八なら、七より大きい。
しかし、七より大きい数が八とは限らない。
琥沢は論理だけで解くつもりがない。
同じ数字を別角度から二度刺し、廉の反応を比較するつもりだ。
「質問は確定しました」
榛名が二人の間へ細い銀色のベルを置いた。
「開始後、会話は質問文、回答、告発宣言に限ります。第一問をどうぞ」
室内の照明が落ちた。
金庫の数字キーだけが、墓標のように白く浮かんだ。
三
「一桁目は五か」
廉の第一問。
琥沢の前で遮光板が淡く光る。
正解を見た琥沢は、二秒置いて答えた。
「いいえ」
端末には回答だけが記録される。真偽はゲーム終了まで表示されない。
51863なら、本当は「はい」。
残る三候補なら「いいえ」。
廉の候補は、まだ何も消えない。
琥沢が今、嘘を使った可能性があるからだ。
告発時間を示す三秒が減る。
三。
二。
一。
廉はベルに触れなかった。
今度は琥沢の第一問だった。
「一桁目は七か」
廉の遮光板に《TRUE》が浮かぶ。
「はい」
琥沢は廉の顔ではなく、左手を見ていた。
親指は動かない。
三秒。
琥沢も告発しない。
第二問。
「一桁目は七か」
廉が尋ねる。
琥沢の遮光板に、廉からは見えない答えが浮かぶ。
琥沢は息を吸うこともなく言った。
「いいえ」
廉の目がわずかに細くなった。
第一問も、第二問も「いいえ」。
一桁目が五でも七でもないとすれば九だ。
だが、どちらか一つが嘘なら、一桁目は五か七かもしれない。
琥沢は、廉の六質問が作る構造を理解している。
理解したうえで、最も遅くまで候補が残るように嘘を配置するはずだ。
廉は告発しなかった。
琥沢の第二問。
「三桁目は奇数か」
正解は《TRUE》。
「はい」
廉は答えた。
琥沢の視線が、廉の喉、目尻、左手を順に走る。
人を見る目ではなかった。計器盤を読む目だった。
第三問。
「一桁目は九か」
「いいえ」
琥沢の回答は、また同じだった。
いいえ。
いいえ。
いいえ。
三つの数字を一つずつ尋ね、そのすべてを否定した。
暗証番号の一桁目は五、七、九のどれかである。それは廉の札から確定している。
したがって、三回答のうち少なくとも一つは嘘だ。
そして嘘は一つしか許されない。
残る三回答で琥沢は、必ず真実を言う。
――そう見える。
だが、どの「いいえ」が嘘なのかは、まだ分からない。
51863なら第一問が嘘。
73184なら第二問が嘘。
95342か95621なら第三問が嘘。
琥沢は早くも嘘を使い切った。
あるいは、廉にそう確信させる形を選んだ。
「面白い顔をするな」
会話禁止の赤灯が点いた。
琥沢は肩をすくめ、規定の質問へ移る。
「四桁目は八か」
廉の遮光板に《TRUE》。
廉は一度だけ瞬きをした。
「いいえ」
これが廉の嘘だった。
声は平坦だった。
左の親指も動かなかった。
琥沢の瞳だけが、ほんの少し光を増した。
三年前の聴聞会で、廉は琥沢にこう言われた。
――人間は、嘘そのものに反応するのではない。
――嘘によって失うものを想像した瞬間に反応する。
当時の廉は、真相へ近づくほど焦った。
質問に答えるたび、妹の名誉、遺族の期待、自分の職を同時に守ろうとした。
守ろうとするものが多すぎて、身体のどこかが必ず遅れた。
琥沢はその遅れを「嘘」と呼んだ。
第三問の告発時間が減る。
三。
二。
一。
琥沢はベルを鳴らさなかった。
「まだだと思ったか」
廉は胸の内でだけ言った。
口には出さない。
四
第四問。
「三桁目は三か」
「いいえ」
琥沢の四つ目の回答も否定だった。
廉の四候補のうち、三桁目が三なのは95342だけ。
琥沢がすでに一桁目に関する三問のどこかで嘘を使ったなら、この「いいえ」は真実だ。
しかし、ルール上、琥沢が二つ目の嘘を言った瞬間に敗北となる。何も起きていない以上、最初の三問に嘘が一つあることは確定していた。
だから第四回答は真実。
95342は消える。
残るのは、
51863
73184
95621
ただし第五、第六の回答まで含めれば、どれか一つへ収束する。
琥沢の第四問。
「五桁目は偶数か」
《TRUE》。
「はい」
廉は答えた。
琥沢は自分の爪先を一度見た。
それから廉の左手へ視線を戻す。
第一問と第四問は、おそらく正解を知ったうえでの基準測定。
廉はどちらにも「はい」と答え、身体反応にも差を出さなかった。
琥沢の中で、廉の「真実の型」ができつつある。
呼吸の間隔。
声帯が開く速さ。
語尾の落ち方。
指の静止。
その型から外れた答えを、琥沢は嘘と判定する。
廉はそれを知っていた。
琥沢も、廉が知っていることを知っていた。
だから単純な演技では足りない。
嘘を言うときに平静を装い、真実を言うときに震える。
そんな一段目の逆転は、琥沢なら最初から疑う。
必要なのは、演技ではない。
本物の反応を、別の原因で起こすことだった。
第五問へ入る前、榛名が残り時間を告げる。
「先問者、五問目」
「三桁目は六か」
琥沢は遮光板を見る。
「いいえ」
五つの回答が並んだ。
いいえ。
いいえ。
いいえ。
いいえ。
いいえ。
完全なゼロの列。
廉は頭の中で距離を測る。
51863の正直な列は、最初の五問だけなら、
はい・いいえ・いいえ・いいえ・いいえ。
観測された列との差は、一か所。
73184なら、
いいえ・はい・いいえ・いいえ・いいえ。
差は、やはり一か所。
95342は二か所違う。
95621も二か所違う。
したがって、候補は二つ。
51863で、琥沢の嘘は第一問。
73184で、琥沢の嘘は第二問。
第六問「三桁目は四以上か」への正しい答えは、51863なら「はい」、73184なら「いいえ」だ。
琥沢はもう嘘を使っている。
第六回答は必ず真実になる。
次の一問で終わる。
琥沢も同じことを理解していた。
その口元から、笑みが消えている。
廉の告発時間。
三。
二。
一。
廉はベルに触れない。
次は、琥沢の第五問。
琥沢にとっては、六問目へ進ませる前に勝負を決める最後の機会だった。
なぜなら次の回、先に質問するのは廉だからだ。
廉が六番目の答えを聞いた瞬間、暗証番号と琥沢の嘘は確定する。
その直後に告発できる。
琥沢の六問目が発せられることはない。
琥沢には、今ここで告発するか、次の一問で負けるかしか残されていなかった。
五
琥沢はすぐに第五問を読まなかった。
規定文の前に許されるのは、質問文そのものだけだ。
余計な言葉を挟めば反則になる。
だから彼は、提出済みの文を一字ずつ、意味を押し込むように読んだ。
「四桁目は――七より大きいか」
七より大きい。
すなわち八か九。
廉の遮光板に《TRUE》が浮かんだ。
四桁目は八。
答えは「はい」。
その瞬間、廉の頭に、火災当夜の時計が浮かんだ。
零時七分。
澪から最初の着信。
零時八分。
通話はつながったが、声は聞こえなかった。
零時九分。
非常扉の前へ着いた廉は、内側から何かが叩く音を聞いた。
七を越えた一分。
あの一分を境に、妹は「助けを待つ人」から「死亡者名簿の一人」になった。
廉の左親指が、火傷痕をゆっくりなぞった。
琥沢はそれを見逃さない。
「はい」
廉は真実を答えた。
声の奥に、わずかな摩擦音が混じった。
脈が一拍速くなった。
親指が傷へ触れた。
三年前、琥沢が「嘘の兆候」と名づけた反応が、すべて現れた。
琥沢の候補は、五回答を終えた時点で二つに絞られていた。
73184。
廉が嘘をついたのは第三問、「四桁目は八か」。
73164。
廉が嘘をついたのは第五問、「四桁目は七より大きいか」。
廉の実際の回答列は、
はい。
はい。
いいえ。
はい。
はい。
暗証番号が73184なら、第三回答だけが反転している。
暗証番号が73164なら、第五回答だけが反転している。
論理では決まらない。
だから琥沢は、身体を見る。
第三問で廉は「いいえ」と答えた。
手は動かなかった。
呼吸も乱れなかった。
第五問で「はい」と答えた。
傷に触れた。
声が軋んだ。
琥沢はベルへ手を伸ばした。
榛名が告発時間を数える。
「三」
廉は琥沢の目を見た。
「二」
琥沢の指が銀のベルを押し下げる。
澄んだ音が、地下室を一周した。
「告発する」
琥沢は言った。
「暗証番号は73164。城ヶ崎廉の嘘は、第五回答だ」
端末の画面が白くなる。
一秒。
二秒。
琥沢は廉の左手を見たままだった。
廉の親指は、もう傷から離れている。
機械音声が告げた。
《告発、不成立》
琥沢の瞳から、初めて計算が消えた。
《暗証番号不一致。虚偽回答番号不一致》
《敗者、琥沢朔》
《勝者、城ヶ崎廉》
背後で重いロックが外れた。
同時に、琥沢側の告白文を収めた箱が赤く点灯する。
《送信を開始します》
琥沢はベルに置いた指を動かさなかった。
「第三問か」
「そうだ」
「四桁目は八か、と聞かれて、君は『いいえ』と嘘をついた」
「ああ」
「五問目は真実だった」
「ああ」
「では、あの傷は何だ」
廉は左手を持ち上げた。
「痛かっただけだ」
琥沢の眉が初めて動く。
「そんな説明で――」
「お前は質問を提出した時点で、五問目に何を使うか決めていた。三問目と同じ数字を、別の形でもう一度聞く。私の反応を比較するために」
「だから演じたと?」
「演じていない」
廉は傷を見た。
「七を越えた一分を思い出した。あの夜、澪から着信があったのは零時七分。声が途切れたのは零時八分だ。『七より大きい』と聞かれた瞬間、身体が勝手に思い出した」
琥沢は黙った。
「私は五問目で、本当に怖かった。勝って金庫を開けたとき、澪が何を残しているのか知るのが怖かった。だから傷に触れた」
「恐怖を、嘘に見せた」
「違う。恐怖は最初から恐怖だった。お前が勝手に、嘘という名前をつけた」
廉は琥沢を見た。
「お前が見抜いていたのは嘘じゃない。人間が何かを守ろうとして、感情を押し殺した瞬間だ。三年前の私は、澪の名誉と自分の立場を同時に守ろうとした。だから傷に触れた。今夜は、記憶を押し殺そうとして触れた」
「第三問では、なぜ反応しなかった」
「嘘しか言っていなかったからだ」
琥沢の目が細くなる。
「意味が分からないな」
「第三問で守るものはなかった。嘘はルールで義務づけられている。そこで『いいえ』と言っても、誰も傷つかない。失うものを想像しなければ、身体は反応しない」
廉は銀のベルを指先で回した。
「お前自身が三年前に教えた。人は嘘に反応するんじゃない。嘘で失うものに反応する、と」
琥沢は、乾いた息を吐いた。
「私の言葉で、私を殺したわけか」
「お前を殺したのは六問目だ」
「六問目は、まだ聞かれていない」
「だからだ」
廉は自分の質問列を指した。
「五問終了時点で、私の候補は51863と73184の二つ。お前の嘘は第一問か第二問。六問目を聞けば必ず決まる。先問者は私だ。お前は六問目へ入った瞬間に負ける」
琥沢が画面を見る。
六問目。「三桁目は四以上か」。
「お前は第二問で嘘をつき、六つすべてを『いいえ』に揃えるつもりだった。五問目までは二候補を残せる。最善の配置だ」
「分かっていたのか」
「四問目で確信した。だから私は、お前にも五問目で二候補が残るよう、第三問を嘘に選んだ」
琥沢の候補を廉が知ることはできない。
だが、琥沢が「四桁目は八か」と「四桁目は七より大きいか」を重ねた時点で、二つの回答を比較して嘘を特定しようとしていることは分かった。
「お前は論理で決められない差を、私の身体で埋めるしかない。六問目まで待てないからだ」
「私が告発しなければ?」
「次の質問で私が告発する」
「私が指の反応を信じなければ?」
「その場合も、次の質問で私が告発する」
廉は静かに言った。
「私は、お前に正解を選ばせようとしたんじゃない。五問目で賭けるか、六問目で確実に負けるかを選ばせた。お前が自分の目を信じる人間だと知っていたから、五問目で賭ける方へ追い込んだ」
琥沢はようやくベルから指を離した。
「見事だ」
その言葉に、悔しさはなかった。
代わりに、獣が罠の構造を褒めるような、冷たい愉悦があった。
「だが、君はまだ金庫を開けていない」
六
琥沢の告白文が送信される。
端末には宛先ごとの受領通知が並んだ。
東京地方検察庁。
薬害被害者弁護団。
三つの報道機関。
ノクス製薬外部監査委員会。
琥沢朔本人の電子署名と音声認証が付いた告白文だった。
内容は、火災当夜の避難制御ログを改竄し、遠隔操作記録を削除し、二名の技術者へ虚偽証言を指示した事実。
それだけでも、三年前に閉じられた捜査を開き直すには足りる。
「原本が偽物なら、告白文だけでは私を火災の実行者にできない」
琥沢が言った。
「改竄は認めても、火をつけたとは書いていない」
「お前が火をつけたかどうかは、私が決めることじゃない」
「法廷に任せる、と?」
「お前が閉じた法廷を、もう一度開ける」
榛名が、敗者側の手掛かり札を廉へ渡した。
一、一桁目は七。
二、二桁目は三。
三、五桁目は四。
四、四桁目は偶数で、三桁目より大きい。
五、三桁目と四桁目の和は六以上九以下であり、三桁目は二ではない。
候補は四つだった。
73064
73084
73164
73184
廉の札から得た四候補との共通項は、一つしかない。
73184。
廉は金庫の前へ立った。
七。
三。
一。
八。
四。
最後のキーを押す。
低い駆動音とともに、扉が手前へせり出した。
中にあったのは、黒い記憶媒体と、白い封筒だった。
廉は先に封筒を取る。
表には、澪の字でこう書かれていた。
――お兄ちゃんへ。勝っても、すぐ全部を公開しないで。
廉の手が止まる。
琥沢が小さく笑った。
「君の妹は最後まで分かっていた。原本には役員の命令だけでなく、治験参加者の氏名、遺伝情報、投薬履歴が含まれている。無加工で公表すれば、ノクスを倒す代わりに、生き残った患者たちの人生を壊す」
「お前はそれを盾に、原本を消すつもりだった」
「私は現実的なだけだ。真実は、公開すれば善になる物質ではない」
廉は封筒を開いた。
中には短い手紙と、小さな音声タグが入っていた。
タグを押すと、三年ぶりに妹の声が流れた。
『これを聞いているのが誰か、私は分かりません』
わずかな雑音。
澪は、火災の二日前に録音していた。
『お兄ちゃんかもしれないし、琥沢さんかもしれない。二人とも、正しいことより、勝つことに向いている人だから』
琥沢の表情から笑みが消える。
『《アイリス》には、火災の命令系統があります。でも同時に、何の罪もない患者さんの情報があります。だから、勝者にお願いがあります。原本を世間へ投げないでください。原本の存在と改竄の事実を公的機関へ届け、裁判所の保全命令を取ってください』
廉は目を閉じた。
『琥沢さん。あなたが聞いているなら、あなたはきっと、情報を消す方を選ぶ。患者を守るためだと言いながら、自分を守るために』
琥沢の顎がわずかに硬くなる。
『お兄ちゃん。あなたが聞いているなら、あなたはきっと、全部を公開したくなる。私の死を無駄にしないためだと言いながら、自分の三年間を正当化するために』
廉の指が、音声タグを強く挟んだ。
『どちらも、たぶん嘘です』
澪の声は穏やかだった。
『人は、自分を守りたいときほど、大きな正義を主語にします。だからこのゲームでは、一度だけ嘘を義務にしました。嘘をつかない人を選びたかったのではありません。自分が、何を守るために嘘を使うのか分かっている人を選びたかった』
数秒の沈黙。
『勝った人へ。原本を棺にしないでください。誰かを閉じ込めるためではなく、扉を開けるために使ってください』
録音が終わった。
地下室に、金庫の冷却音だけが残る。
琥沢が言った。
「どうする。公表すれば私を今夜中に終わらせられる。保全命令を待てば、ノクスには証拠を潰す時間ができる」
「もうない」
「何?」
廉は自分の上着から、薄い紙片を取り出した。
東京地方裁判所の受付印がある、証拠保全申立書の写しだった。
「ゲーム開始の四時間前に申立てた。琥沢朔の署名付き告白文が送信された時点で、緊急保全を執行する条件になっている」
榛名が端末を確認する。
「たった今、執行開始の通知が届きました。ノクス製薬本社、第七码頭データセンター、外部保管庫の三か所です」
琥沢は初めて、金庫ではなく廉を見た。
「原本を取ることが目的ではなかったのか」
「原本だけなら、また違法取得だと潰される。三年前と同じだ」
「私の告白文を、令状の鍵にした」
「お前は勝てると思って署名した。だから証拠能力がある」
「私がゲームへ来なければ?」
「来る。原本を放置できないから」
「私が告白文への署名を拒めば?」
「拒めない。拒めば原本は被害者弁護団へ自動送付される契約だった」
琥沢はしばらく黙り、それから低く笑った。
「金庫も、暗証番号も、君にとっては二番目だったわけか」
「違う」
廉は黒い記憶媒体を取り出し、榛名へ渡した。
榛名は証拠袋へ収め、封印番号を読み上げる。
「金庫は必要だった。だが、勝つだけでは足りなかった」
「では、何が一番だった」
廉は琥沢の告白文が送信された宛先を見た。
「お前が、自分の意思で負けることだ」
琥沢の笑みが消えた。
「私は負けを選んでいない」
「選んだ」
廉は銀のベルを指した。
「五問目で告発したのはお前だ。六問目まで待てなかったのも、お前だ。私の傷を嘘だと決めたのも、お前だ」
琥沢は答えなかった。
「人を操るとき、お前はいつも選択肢を二つにする。会社を守るか、遺族を救うか。秘密を守るか、患者を晒すか。黙るか、社会的に死ぬか」
廉は金庫の扉を閉じた。
「今夜は私が、お前に二つだけ与えた。五問目で賭けるか、六問目で負けるか」
「同じ穴の狢だと言いたいのか」
「違う。私は、お前が選んだことを記録に残した」
遠くで、重い扉の解錠音がした。
執行官と捜査員が地下区画へ入る合図だった。
琥沢は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「最後に一つだけ教えろ」
ゲームは終わっている。
会話を禁じる赤灯も消えていた。
「何だ」
「君は五問目で、本当に妹を思い出したのか。それとも、私にそう信じさせるため、今も嘘をついているのか」
廉は左手の傷を見る。
答えれば、琥沢は声を測る。
瞬きを測る。
指を見る。
最後まで、自分の方法が敗れたのではなく、ただ一度読み違えただけだと思おうとする。
廉は親指で傷をなぞった。
琥沢の目が鋭くなる。
「その質問への答えは――」
廉は、わずかに笑った。
「七問目だ」
捜査員が扉を開いた。
琥沢はしばらく廉を見つめていたが、やがて立ち上がり、差し出された手錠へ両手を揃えた。
机の上には、使われなかった六問目が残っていた。
三桁目は、四以上か。
答えは「いいえ」。
けれど、その一語が口にされることはなかった。
嘘を見破ったから勝ったのではない。
嘘をつかせたからでもない。
六問目に真実が待っていると、相手に理解させた。
だから相手は、五問目で自分から賭けた。
地下室を出る直前、廉は一度だけ振り返った。
空になった金庫は、もう棺には見えなかった。
扉を開けたままの、ただの箱だった。
了