六時半の家族
日曜の午後六時二十九分、柴田家では、コロッケをめぐる小規模な戦争が起きていた。
「健太、それ、お姉ちゃんの」
「名前書いてない」
「衣に“芽衣”って彫っておけばよかった?」
「ソースかけたら消えるよ」
十四歳の芽衣と九歳の健太が、最後の一個を箸で挟み合う。その横で、父の達夫はキャベツを噛みながら言った。
「証拠の保全が先だ。現場に触るな」
「お父さん、家でも保険調査員やるのやめて」
妻の七海が呆れ、向かいに座った母の千鶴が笑った。
「達夫は昔からそう。遠足のお菓子が一個なくなっただけで、全員の指紋を取ろうとしたんだから」
「母さん、それは三十五年前の話だ」
「三十五年前でも、やったことはやったこと」
柴田達夫、四十四歳。損害保険会社の調査員である。
火事、水漏れ、盗難、偽装事故。嘘をつく人間は大勢見てきたが、日曜の夕食くらいは平穏であってほしいと願っていた。
もっとも、三世代五人と猫一匹で暮らしている時点で、平穏など高望みなのかもしれない。
居間のテレビでは、聞き覚えのない古い音楽が流れていた。
七海が首をかしげる。
「こんな番組、あった?」
画面には、妙に奥行きのないスタジオが映っていた。黄色いカーテン、造花の植木、赤い丸テーブル。その中央に、銀色の髪をきっちり分けた男性司会者が座っている。
『皆さま、こんばんは。お茶の間定時便のお時間です』
低く、穏やかな声だった。
『毎週日曜、午後六時三十分。ご家庭の役割を、より円滑に更新いたします』
「なにそれ。怖い」
芽衣が笑いながらスマートフォンを向けた。
時計の長針が真下を指す。
午後六時三十分。
ぷつん、と家中の音が消えた。
冷蔵庫のうなりも、換気扇も、外を走る車の音も、健太がすする味噌汁の音さえも。
世界が一秒だけ、息を止めた。
テレビの司会者がこちらを見た。
『柴田家の皆さま。今週も、よい家族を』
白い光が居間を満たした。
達夫は思わず目を閉じた。
再び目を開けたとき、母の席には、知らない女が座っていた。
年齢は七十前後。丸眼鏡に、薄桃色のカーディガン。髪はふわりと巻かれ、口元には上品な笑みがある。
女は千鶴の箸でコロッケを半分に切り、健太の皿へ載せた。
「けんちゃんは育ち盛りだものねえ」
「やった。おばあちゃん大好き」
健太が笑う。
達夫は立ち上がった。
「誰だ、あんた」
全員の箸が止まった。
「ちょっと、あなた」
七海が困った顔をする。
「お義母さんに、なんてこと言うの」
「母さんじゃない」
「お父さん、また推理ごっこ?」
「ごっこじゃない。この人は知らない人だ。母さんはどこへ行った」
女は悲しげに眉を下げた。
「達夫ちゃん、疲れているのねえ」
その呼び方を聞いた瞬間、達夫の背中に冷たいものが走った。
千鶴は、息子を“達夫ちゃん”などと呼ばない。
達夫が中学一年のとき、友人の前で一度そう呼んで以来、二度と呼ばなくなった。本人いわく、「子どもの面子も守れない親は三流」だった。
「全員、動くな」
達夫は居間を見回した。
掃き出し窓には内側から鍵がかかっている。廊下への扉は、達夫のすぐ横。台所へ通じる引き戸は七海の背後にあり、事件の瞬間まで彼女が料理を運んでいた。
光が走ったのは、ほんの一秒。
誰かが出入りできる状況ではない。
千鶴が消え、見知らぬ女が現れた。
五人全員がそろった、完全な密室で。
「お父さん、顔が本気で怖い」
芽衣がスマートフォンを下ろした。
「動画、撮れてるか」
「撮ってたけど……普通だよ」
画面を再生すると、光が走る前から、丸眼鏡の女が千鶴の席に座っていた。
達夫は息をのんだ。
食卓の端では、飼い猫のシオだけが背中の毛を逆立て、女に向かって低く唸っていた。
達夫は家族を居間に残し、家中を調べた。
寝室、浴室、押し入れ、天袋。千鶴の姿はない。
玄関には、千鶴の茶色い靴があった。財布も携帯電話も、いつもの布バッグに入っている。裏口には補助錠。庭の土に足跡はない。
家族写真を確認すると、どの写真にも丸眼鏡の女が写っていた。
運動会で健太に水筒を渡しているのも、芽衣の入学式で目を赤くしているのも、正月に七海と黒豆を煮ているのも、すべてあの女だ。
だが、写真立ての裏に挟まっていた古い証明写真だけは違った。
若いころの千鶴が、しかめ面でこちらを見ている。
達夫は写真を握りしめ、居間へ戻った。
「この人を知ってるか」
家族に見せる。
七海は首を振った。
「誰?」
「母さんだ」
「達夫ちゃん、本当にどうしたの?」
丸眼鏡の女が立ち上がり、達夫の額へ手を伸ばした。
達夫はその手首をつかんだ。
女は左手で箸を持っていた。
千鶴は右利きだ。七年前に左手首を骨折して以来、重い物を持つと痛むと言っていた。
テーブルの上のコロッケを見る。
真円に近い、きれいな小判形。
千鶴のコロッケは、必ず片側がとがっていた。家族はそれを“千葉県”と呼んでいた。千鶴が成形を面倒くさがり、最後に手のひらで一度だけ押すせいだった。
「このコロッケ、あんたが作ったのか」
「ええ。みんなの好物でしょう?」
「中に何を入れた」
「ひき肉と玉ねぎよ」
「違う」
達夫はコロッケを割った。
「母さんは、余ったたくあんを刻んで入れる。七海は嫌がる。芽衣は気づかない。健太は黄色いのが入ってると喜ぶ」
「そうだっけ?」と七海。
「入ってないよ」と芽衣。
「黄色いの、たまごじゃないの?」と健太。
全員の記憶が書き換わっている。
だが、完全ではない。
シオはまだ唸っている。古い証明写真も残った。達夫の記憶も消えていない。
何か、規則がある。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
立っていたのは、灰色の作業服を着た小柄な女だった。
帽子を深くかぶり、顔の半分を白いマスクで隠している。
「電気メーターの点検です」
「日曜の夜に?」
達夫が尋ねると、女は黙った。
胸元に身分証はない。工具箱も持っていない。
「会社名は」
「……忘れました」
「帰ってください」
達夫が扉を閉めかけたとき、女の右手が見えた。
親指の付け根に、古い三日月形の火傷痕がある。
どこかで見たことがある気がした。
「達夫」
女が小さく呼んだ。
胸の奥がざわついた。
しかし顔を見ても、知らない人間にしか見えない。目を離すと、年齢すら思い出せなくなる。
「帰ってください」
達夫は扉を閉めた。
鍵をかけた直後、なぜかひどく大切なものを捨てた気がした。
居間へ戻ると、テレビの司会者が微笑んでいた。
『役割から離れた方は、ご家族には認識されません』
達夫は画面へ駆け寄った。
『ご安心ください。代わりの役割担当者が、食事、会話、思い出、年中行事を滞りなく代行いたします』
「なんだ、これは」
『家族役割休暇サービスでございます』
司会者は赤い丸テーブルの上へ、一枚の申込書を置いた。
『“お母さん”“お父さん”“おばあちゃん”“お兄ちゃん”。役名でしか呼ばれなくなった皆さまへ、束の間の自由を』
画面に、小さな文字が流れた。
――無料体験は番組終了まで。
――午後七時までに本人確認が行われない場合、代行者を正式登録します。
――本人確認には、役割名ではなく個人名を使用してください。
――さらに、その方が家族内で担う役割と無関係な特徴を三点、お答えください。
時計は六時四十二分を指していた。
達夫は千鶴の携帯電話を開いた。
発信履歴の一番上に、番号のない通話記録がある。午後六時二十六分、通話時間三分四秒。
メモ帳には、千鶴の字で一行だけ残されていた。
〈一晩だけ、誰の世話もしない人になってみたい〉
「お義母さん……」
七海がようやく青ざめた。
「でも、さっき来た人がそうだったとして、どうして私は分からなかったの?」
「役割を外れた人間は、家族に認識されない。俺も顔を見たのに、知らない人にしか見えなかった」
「おばあちゃん、どこ行ったの?」
健太の声が震えた。
達夫は玄関へ走った。
外は雨だった。
作業服の女の姿はない。
達夫は傘もささず、家の周囲を探した。細い路地、駐車場、コンビニの軒下。通行人に尋ねても、「そんな人は見ていない」と言う。
六時四十八分。
家の前へ戻ると、シオが門の外にいた。
「おまえ、いつ出た」
シオは達夫を一度見て、雨の中を走り出した。
猫は角を二つ曲がり、古い児童公園へ入った。
ブランコのそばのベンチに、三人の女が座っていた。
一人は赤い傘を持つ若い女。
一人は犬を抱いた中年の女。
一人は灰色の作業服を着た小柄な女。
だが顔を見比べると、三人とも輪郭がぼやけた。目を閉じると、誰がどこに座っていたのかさえ曖昧になる。
「母さん!」
呼んでも、誰も振り向かない。
役割名ではだめだ。
個人名。
達夫は口を開き、絶句した。
母の名前が出てこない。
“母さん”という言葉が、喉に蓋をしている。
免許証、保険証、年賀状。何度も目にしてきたはずなのに、名前だけが白く抜け落ちている。
六時五十二分。
達夫はポケットの証明写真を取り出した。
写真の裏に、青いボールペンで書かれていた。
〈柴田千鶴 二十七歳。車掌試験、二次で落ちる。悔しい。〉
「千鶴!」
灰色の作業服の女が、わずかに顔を上げた。
輪郭のぼやけ方が弱くなる。
「柴田千鶴!」
達夫はベンチへ駆け寄った。
役割と無関係な特徴を三つ。
母親らしさでも、祖母らしさでもない、その人自身のこと。
達夫は記憶を探った。
朝食を作る姿。洗濯物をたたむ姿。孫を叱る姿。病院へ付き添う姿。
浮かぶのは、家族のために何かをしている母ばかりだった。
知らなかったのではない。
見ようとしてこなかったのだ。
六時五十五分。
女が立ち上がった。
「もういいよ」
声は雨音より小さかった。
「代わりの人、感じがよかったでしょう。コロッケもきれいで」
「母さ……千鶴さん、待ってくれ」
「無理しなくていい。私だって、自分のこと、三つも思いつかないもの」
女が背を向ける。
その右手の火傷痕を見て、達夫の記憶がはじけた。
「花火が嫌いだ」
女が止まる。
「俺が五歳のとき、倒れたろうそく花火を素手でつかんだ。それから線香花火まで怖がるようになった。夏祭りでは、いつも金魚すくいのところに逃げてた」
輪郭が少し戻った。
「二つ目。あんこが嫌いだ。家族には甘い物が苦手だって言ってるけど、チョコレートは夜中に一人で食べる。つぶあんだけが嫌いなんだ。小学校の給食で、あんパンを八個食べさせられたから」
「なんで、そんなこと覚えてるの」
「三つ目……」
達夫は息を切らした。
時計を見る。六時五十八分。
車掌試験。
証明写真の裏書き。
「電車の運転士になりたかった」
女の肩が揺れた。
「子どものころから、ずっと。女は無理だって言われて、駅員を受けて、車掌試験まで行った。父さんと結婚して辞めたあとも、時刻表を捨てなかった。踏切で特急が通ると、今でも車両番号を数える」
雨の向こうで、踏切の警報音が鳴った。
女が振り返る。
見慣れた細い目。少し曲がった鼻。怒る直前だけ片方が上がる眉。
柴田千鶴が、そこにいた。
「遅い」
千鶴は泣きながら言った。
「四十四年も息子やってて、思い出すのが遅い」
「悪かった」
「それに三つ目、半分間違い。なりたかったのは運転士じゃなくて車掌。運転は性に合わない」
「そこは今、採点を甘くしてくれ」
公園の時計が七時を告げた。
遠くの柴田家から、テレビの音が響いた。
『本人確認を受理しました』
白い光が、雨粒の一つ一つを照らした。
家へ戻ると、丸眼鏡の女は消えていた。
家族写真も元に戻っていた。
七海は千鶴へ抱きつき、芽衣は泣きながら「千鶴さん」と三回呼び、健太は「おばあちゃんじゃだめなの?」と困った。
「普段はいいよ」
千鶴は濡れた作業服を脱ぎながら言った。
「たまには名前も使っておくれ。忘れられたら困るからね」
食卓へ戻ると、コロッケはまだ温かかった。
千鶴は丸眼鏡の女が作った一個を食べ、顔をしかめた。
「味が上品すぎる」
「たくあん、入ってないもんね」と健太。
「今まで入ってたの?」と芽衣。
「おまえは本当に何も気づいてないな」と達夫。
家族は笑った。
テレビはコンセントを抜き、押し入れの奥へしまった。
それから一週間、家族は意識して互いを名前で呼んだ。
「七海、しょうゆ」
「自分で取って、達夫」
「芽衣、靴下が裏返し」
「見ないで、千鶴さん」
「健太、宿題」
「名前で呼ばれると逃げられない!」
日曜の午後六時二十九分。
柴田家では、再び最後のコロッケをめぐる戦争が起きていた。
「今日はじゃんけん」と七海。
「調査員としては、重量を測って二等分を提案する」と達夫。
「細かい男だねえ、達夫は」
千鶴が笑う。
六時三十分。
押し入れの奥から、音がした。
コンセントの抜けたテレビが、ひとりでに点いた。
『皆さま、こんばんは。お茶の間定時便のお時間です』
家族の笑いが止まった。
銀髪の司会者は、赤い丸テーブルの上に、新しい申込書を置いた。
『今週は、“お父さん役”の更新審査を行います』
「俺?」
達夫の前に、白い封筒が現れた。
宛名は、〈柴田家 お父さん役様〉。
個人名は書かれていない。
『ご家族の皆さま。役割と無関係な、この方の特徴を三つお答えください』
「簡単じゃん」
芽衣が手を挙げた。
「ネクタイがいつも曲がってる」
『それは勤務上の外見です』
「カレーを食べると絶対シャツに飛ばす!」と健太。
『それは家庭内での行動です』
「寝るとき、いびきがうるさい」と七海。
『それは同居人としての観察です』
画面の隅に、大きな数字が出た。
0/3。
「達夫、あんた、何になりたかった?」
千鶴が尋ねた。
達夫は答えようとした。
だが、思い出せなかった。
探偵でも、調査員でも、夫でも、父でも、息子でもなかった自分が、何を好きで、何を怖がり、どこへ行きたかったのか。
頭の中には、家族の予定と仕事の記録ばかりが詰まっていた。
テレビの司会者が、穏やかに微笑む。
『ご安心ください』
食卓の端で、シオが達夫の隣の空席に向かって毛を逆立てた。
『代わりの方は、もう到着しております』
了