再生者の家

 姉は、「再生するな」と書いた。

 映像修復を仕事にしている羽鳥理世には、それが命令ではなく、ほとんど挑発に見えた。

 メールが届いたのは午前三時十三分だった。差出人は十日前から行方の知れない姉、景香。件名は〈D・D〉。本文は一行だけで、二十四秒の動画ファイルが添付されていた。

 再生するな。

 再生は、繁殖だ。

 理世は三度読み返した。

 景香は国立大学で進化生態学を研究していた。笑うときに鼻へ皺を寄せ、実験動物の死にはひどく弱く、迷信という言葉を侮辱として使う人だった。そんな姉が、脅かすような文面を残すはずがない。

 だから理世は再生した。

 画面に白い部屋が現れた。

 家畜用の分娩室らしい。黄ばんだタイル。天井から垂れる鎖。奥には腹を上にした大きな雌豚が、鉄枠へ固定されている。腹部は縦に裂かれ、切り口から透明な袋がいくつも葡萄のように下がっていた。

 音はなかった。

 十八秒目、画面の右端を白衣の女が横切った。景香だった。頬が痩せ、髪が濡れて顔に貼りついている。彼女はカメラに気づくと足を止め、こちらへ歩いてきた。

 二十三秒目。景香の顔が画面いっぱいになる。

 唇が動く。

 音声はないはずなのに、理世には言葉がわかった。

 ――見た器官から、産まれる。

 そこで映像は終わった。

 理世は停止した画面を見つめた。マウスを握る指が、じっとり濡れていた。

 雌豚の腹から下がる袋の一つに、小さな眼球が入っていた。

 最初に見たとき、あんなものはなかった。

 理世は動画を先頭へ戻し、もう一度再生した。

 今度は二十四秒と一フレームあった。

 ファイルサイズは増えていなかった。

 ハッシュ値も同じだった。動画の中身が変われば必ず変化するはずの数字が、一桁も違わない。それなのに再生するたび、末尾へ一フレームずつ新しい映像が加わった。

 三回目、景香は画面の外へ手を伸ばした。

 四回目、カメラのレンズに指が触れた。

 五回目、黒い指紋が画面の内側へ残った。

 六回目を再生しかけたところで、理世はノートパソコンを閉じた。

 部屋が暗くなった。

 閉じた液晶の黒い表面に、自分の顔が映っている。左目の白目に、髪の毛ほど細い黒い線があった。線は瞬きのたびに位置を変え、瞳孔へ少しずつ近づいていた。

 理世は洗面所へ駆け込み、鏡に顔を寄せた。

 線は消えていた。

 寝不足だ、と自分へ言い聞かせた。目をこすり、冷水で顔を洗った。だが蛇口を閉めても、排水口の奥で水音が続いた。

 ぴちゃ。

 ぴちゃ。

 ぴちゃ。

 生まれたばかりの何かが、濡れた床を這うような音だった。

 朝になると、理世は同僚の大庭修司を呼び出した。

 大庭は大学映像資料室の音響担当で、壊れた磁気テープから咳払い一つまで拾い上げる耳を持っていた。三十五歳。体格がよく、怖いものを見ると冗談が増える男だった。

 理世は動画そのものを見せず、音声トラックだけを解析させた。

「無音じゃないな」

 大庭はヘッドホンを片耳だけに当て、波形を拡大した。

「可聴域の上に何かある。周期信号……いや、鳴き声か」

「豚?」

「豚ならまだ可愛い」

 彼は速度を落とし、周波数を下げた。

 スピーカーから、低い呼吸音が流れた。

 吸う音が二回。吐く音が一回。吸う音が三回。吐く音が一回。

 その間隔は一定ではなかった。だが理世には、何かが数を増やしているように聞こえた。

 一、二。

 一、二、三。

 一、二、三、四。

 やがて呼吸の下から、景香の声が浮かび上がった。

『朽縄峠。旧・七窪家畜適応試験場』

 大庭がヘッドホンを外した。

「場所を埋め込んだのか。姉さん、助けを呼んでる」

「警察に知らせる」

「十日前から探して、見つけられてないんだろ。先に行って場所だけ確認しよう。山道なら説明するより座標を渡した方が早い」

 理世は反対した。

 反対しながら、もう車の鍵を鞄へ入れていた。

 朽縄峠へ入る県道は、午後四時を過ぎると急に細くなった。

 山は夏の湿気を抱え込み、樹木の隙間から白い霧を吐いていた。携帯電話の電波は消え、カーナビの地図から道路がなくなった。それでも古いガードレールには、赤い塗料で矢印が描かれていた。

 矢印は山の奥を指していた。

「親切な秘境だな」

 大庭が言った。

 次のカーブで、矢印の正体がわかった。

 ガードレールへ小動物の死骸が針金で括りつけられていた。狸、兎、猫。腹を裂かれ、赤黒い内臓を道路側へ垂らしている。乾いた血が矢印の形に塗り広げられていた。

 大庭は冗談を言わなかった。

 七窪家畜適応試験場は、峠の行き止まりにあった。

 低い研究棟と、波板で囲われた畜舎。それらへ古い農家が継ぎ足され、全体が一匹の巨大な虫のように斜面へ貼りついている。屋根にはテレビアンテナが何十本も立ち、すべて違う方向を向いていた。

 門柱の看板は錆びていた。

〈より強く より早く より多く〉

 その下に、誰かが爪で文字を刻んでいた。

〈次へ〉

 車を降りた瞬間、甘い腐敗臭が鼻へ入った。

 畜舎から豚の鳴き声がした。苦痛の叫びではない。短く、規則正しく、合図を送り合うような声だった。

 一頭が鳴く。

 二頭が答える。

 四頭が続く。

 理世は大庭を見た。

 彼も同じ数え方をしていた。

 農家の引き戸が開いた。

 出てきたのは、背の低い老女だった。白髪を頭へ貼りつけ、ゴム製の前掛けを胸まで着けている。前掛けには新しい血が飛んでいた。

「羽鳥の妹さんだね」

 理世は足を止めた。

「姉はどこです」

「中で増えてる」

 老女は笑った。歯は一本もなく、歯茎の奥に小さな乳歯のようなものが列を作っていた。

「私は呉木イト。ここを預かってる。お姉さんから聞いてるよ。妹さんは、壊れたものを元に戻す仕事だって」

「姉に会わせてください」

「もちろん。そのために種を送ったんだから」

 理世の背中で、大庭が息を呑んだ。

「メールを送ったのは、あんたか」

「送ったのは景香さんだよ。書いたのが景香さんかどうかは、もうわからないけどね」

 家の奥で、電動機械の回る音がした。

 ぎゅるるるる、と鈍い回転音。

 続いて、骨が砕ける乾いた破裂音。

 イトは二人を招き入れた。

「日が落ちる前に入んな。暗くなると、目じゃないもので見始めるから」

 家の中には、時計がなかった。

 代わりにテレビがあった。

 廊下、台所、仏間、階段の踊り場。大小のブラウン管が積み上げられ、どの画面にも白い分娩室が映っていた。映像は少しずつ時間がずれている。ある画面では雌豚がまだ生きていて、別の画面では腹から袋が下がり、さらに別の画面では袋の中の眼球がまばたきしていた。

 理世は視線を床へ落とした。

「全部消してください」

「消したら見えなくなるだけだよ」

 イトは台所へ入り、大鍋の蓋を開けた。

 白い湯気とともに、脂の匂いが広がった。鍋の中では肉の塊が煮えていた。皮膚のついた細長い肉。表面に、指紋のような渦がある。

「食べな。ここじゃ、食べたものが早く身につく」

 大庭が吐き気をこらえるように口を押さえた。

「姉さんは研究棟か」

 理世は訊いた。

 イトは鍋をかき回した。

「景香さんは賢かった。あれが生き物じゃないって、すぐ気づいた」

「あれ?」

「おつぎさま」

 老女は、幼い子供の名を呼ぶように言った。

「昔の先生たちは〈DD〉って呼んでた。ダーウィンの悪魔。生まれた瞬間から子を作り、永遠に死なず、どんな場所にも適応し、子を無限に増やす生き物。そんなものは本当にはいない。生きるには飯が要るし、強くなるには時間が要る。何かを得れば、何かを捨てなきゃならない」

 イトは鍋から肉を一つ掬い上げた。

 肉の端に爪があった。

「でもね。捨てるものを、他人に持たせたらどうなる?」

 大庭が後ずさった。

 その拍子にポケットの中で電子音が鳴った。

 彼のスマートフォンだった。

 画面に動画の再生マークが浮かんでいる。

「何で……」

 大庭が取り出すと、あの動画が自動再生された。

 理世は送っていない。コピーもさせていない。だが音声解析のために接続した機器が、一時ファイルを作っていたのだ。

 画面の中で景香が振り向いた。

「見るな!」

 理世はスマートフォンを叩き落とした。

 床へ落ちた画面に亀裂が走った。大庭は両手で右耳を押さえ、膝をついた。

「中に、虫が」

 耳の穴から血が流れた。

 彼は爪を差し込み、悲鳴を上げながら掻きむしった。皮膚が裂け、耳たぶが半分ちぎれた。

 血まみれの軟骨の下で、もう一つの小さな耳が開いた。

 赤子の耳だった。

 それがぴくりと動き、床のスマートフォンへ向いた。

 イトは嬉しそうに手を叩いた。

「早い。都会の人は、覚えるのが早いねえ」

 大庭は立ち上がった。

 顔から苦痛が消えていた。

「理世」

 彼は穏やかな声で言った。

「聞こえるよ。壁の中で、姉さんが息してる」

 右耳の下で、新しい耳が次々に芽を出した。首筋、頬、まぶた。濡れた茸のように皮膚を押し上げ、すべてが別々の方向へ向いた。

 大庭は笑った。

「お前の眼球が動く音も聞こえる」

 理世は椅子を掴み、彼へ投げつけた。

 大庭は片腕で受けた。木の脚が前腕を突き抜け、骨が折れた。だが折れた腕は床へ垂れず、途中から新しい関節を作って逆向きに曲がった。指が椅子の脚を包み込み、握り潰した。

「痛いと、よくわかる」

 大庭の喉から、景香の声がした。

「壊されるたび、次は壊れなくなる」

 廊下の奥で扉が開いた。

 大男が立っていた。

 上半身は裸で、透明な防水フードを頭から被っている。フードの内側は曇り、顔は見えない。両目の位置に丸い鏡が貼られ、そこへ理世の姿が小さく映っていた。

 男は枝肉を縦に割る電動鋸を持っていた。

 刃が回り始めた。

 ぎゅるるるる。

 大庭が男へ振り向く。

「伍作、切ってやりな」

 イトが言った。

「新しいことを教えてあげな」

 大男――伍作は、大庭の肩へ鋸を振り下ろした。

 回転刃が鎖骨を砕き、胸まで食い込んだ。血と骨片が壁のテレビへ飛び散る。大庭は絶叫したが、伍作は止めなかった。刃を押し下げ、胴体を斜めに裂いた。

「やめろ!」

 理世が叫んだ。

 イトは首を振った。

「殺すんじゃない。教えるんだよ」

 大庭の裂けた胸から、白い肋骨が何本も伸びた。

 骨は鋸の刃を挟み込み、火花を散らして止めた。切り口の肉が泡立ち、左右の半身を縫い合わせる。しかも元どおりではなかった。胸郭は二重になり、心臓の鼓動が二つ、わずかにずれて鳴り始めた。

 どくん。

  どくん。

 大庭は伍作の腕を掴み、ありえない方向へ捻った。

 伍作は声を上げず、折れた腕をぶら下げたまま後退した。鏡の目に映る理世が、細かく震えていた。

 理世は床のスマートフォンを踏み砕いた。

 画面が消える。

 同時に、家中のテレビが一斉に砂嵐へ変わった。

 砂嵐の向こうで、誰かが笑った。

 景香の声だった。

『理世、地下へ』

 台所の床下収納を開けると、コンクリートの階段があった。

 理世は暗闇へ飛び込んだ。背後で大庭が何かを引き裂く音と、イトの甲高い笑い声が響いた。

 階段の下は研究棟へ繋がっていた。

 非常灯が赤く点滅し、廊下の両側に実験室が並んでいる。扉の小窓には内側から肉が貼りついていた。薄い膜状の肉。呼吸するたびに膨らみ、ガラスを舐めるように収縮する。

 壁には古い研究ポスターが残っていた。

〈家畜における全環境適応性の獲得〉

〈情報性病原体による表現型誘導〉

〈観察行為を介した非接触継代〉

 最後の一枚へ、景香の字で書き込みがあった。

 個体ではない。

 配列でもない。

 これは「選択」そのもの。

 器官を持たず、器官を借りる。

 身体を持たず、観察者を身体にする。

 その下に、赤いペンで何度も丸がつけられていた。

 再生=継代。

 理世は実験机の上に、景香のノートを見つけた。

 ページは湿り、ところどころ指の形に変色していた。

 七窪試験場では、四十年以上前、感染した動物の映像を別の動物へ見せる実験が行われていた。病原体を移さず、適応だけを移す。寒冷地で生き残った豚の神経反応を映像と音へ変換し、温暖地の豚へ見せる。飢餓、熱、毒、外傷。死ぬ直前の反応を記録し、次の個体へ「学習」させる。

 最初は効果がなかった。

 千二百七十六回目の再生で、一頭の豚が映像に映っていない傷を作った。

 千二百七十七回目、その傷に耐える骨格を持つ子を産んだ。

 千二百七十八回目、映像を見ていない飼育員の妻が、同じ骨格の子を流産した。

 研究は中止された。

 だが映像は消えなかった。

 焼いたフィルムの灰に模様が残り、磁気テープを消去した装置から呼吸音が出た。内容を知る人間が夢で見れば、翌朝には別の媒体へ記録されていた。

 それは情報に感染するのではない。

 情報を理解した脳に、次の世代を作らせる。

 ノートの最後に、景香はダーウィンの悪魔について書いていた。

 完全な生物は存在できない。

 繁殖へ全資源を使えば生存できず、生存へ全資源を使えば繁殖できない。速さ、強さ、多産、寿命。すべてには代価がある。

 しかし、DDは代価を宿主へ払わせる。

 自分は規則だけであり、肉も時間も持たない。

 見る者が目を払い、聞く者が耳を払い、触れる者が皮膚を払う。

 悪魔が完璧なのではない。

 私たちが、悪魔の不足分なのだ。

 廊下の奥から、弱い声がした。

「理世」

 姉の声だった。

 理世はノートを抱え、走った。

 突き当たりの扉には〈環境負荷統合室〉と書かれていた。電子錠は壊れ、隙間から温かい風が漏れている。

 扉を開けると、白い分娩室があった。

 動画と同じ部屋。

 黄ばんだタイル。天井の鎖。奥の鉄枠。

 ただし、固定されていたのは豚ではなかった。

 景香だった。

 姉の身体は、腰から下が壁へ埋まっていた。

 白衣は腹まで裂かれ、皮膚から透明な管が何十本も伸びている。管は床、天井、ブラウン管、空調ダクトへ繋がり、脈打つたびに乳白色の液体を送っていた。

 両目には黒い布が巻かれ、耳は縫い閉じられていた。

「来ちゃだめだった」

 景香の唇はほとんど動かなかった。それでも声は部屋中のスピーカーから聞こえた。

「動画を送ったのは姉さん?」

「途中までは」

「助けに来た」

「違う。あれは、あなたを呼んだ」

 理世は鉄枠へ駆け寄った。管を掴むと、内部の液体が逆流し、手のひらへ微かな振動が伝わった。

 言葉だった。

 開けて。

 見せて。

 次へ。

 理世は手を離した。

「どうすれば出せる?」

「出したら、私の形で増える」

 景香は苦しそうに息を吸った。

「私はここへ来て、映像を全部見た。消す方法を探した。焼いた。砕いた。自分の目も潰そうとした。でも遅かった。見たものは、記憶の中で何度でも再生される」

「なら、どうすれば」

「選ばせる」

 背後で扉が閉まった。

 大庭が立っていた。

 上半身の裂け目は塞がっていたが、左右の肩から別々の首が伸びかけていた。一つは大庭の顔。もう一つはまだ皮膚のない赤い頭部で、無数の耳だけが花弁のように開いている。

 彼の後ろに伍作がいた。

 折れた腕は金属の添え木で固定され、もう片方の手には枝肉鋸がある。透明フードの鏡へ、分娩室全体が映っていた。

 イトもいた。

「姉妹は似てるけど、同じじゃない」

 老女は言った。

「同じ血が、違う暮らしで何を覚えるか。おつぎさまは、それが欲しいんだよ。景香さんだけじゃ片方だからね」

 大庭の二つの口が同時に開いた。

「理世、見て」

 部屋のブラウン管が点いた。

 画面には理世自身が映っていた。

 今、この部屋に立つ理世を、天井のカメラが撮っている。映像の理世は、現実より一秒早く動いた。

 画面の中で、彼女は右を向いた。

 一秒後、現実の首が勝手に右へ回った。

 画面の理世が腕を上げる。

 現実の腕が持ち上がる。

 画面の理世は笑っていた。

 現実の理世の頬も、意思に逆らって吊り上がった。

「予測してるんじゃない」

 景香の声がスピーカーから響く。

「次のあなたを産んでる。画面が親で、あなたが子」

 画面の理世が、自分の左目へ指を入れた。

 理世の左手が上がった。

 指先がまぶたへ触れる。

「目を閉じて!」

 景香が叫んだ。

 理世は目を閉じた。

 指が眼球の表面を擦り、爪が角膜を傷つけた。激痛が走ったが、指は止まった。

 暗闇で景香が言った。

「完全な生き物に、選択肢はない。全部を選べるから悪魔なの。でも全部を選べない場所へ閉じ込めれば、ただの生き物になる」

「どうやって」

「この部屋は、環境を作る装置。熱、寒さ、乾燥、飢餓、毒。昔は順番に与えた。だから学べた」

 理世は目を閉じたまま、制御卓の位置を思い出した。動画修復のために何度も見た部屋だ。右の壁。鉄枠から六歩。高さは腰ほど。

「同時に与えるの」

 景香が言った。

「枝分かれさせて。全部の答えを、一度に産ませる」

「それなら、もっと強くなるだけじゃないの」

「外に代価を払わせられるうちはね」

 姉の声が少し笑った。

「だから家を閉じる。酸素も、餌も、熱も、全部この中だけ。無限に増えるものへ、有限を返す」

 伍作の鋸が唸った。

 理世は目を閉じたまま走った。

 刃が背中すれすれを通り、白衣ではなく上着を裂いた。理世は壁へ肩をぶつけ、手探りで制御卓を探した。

 大庭の声が四方から近づく。

「目を開けて。もう怖くない。怖さにも慣れられる」

 指先が金属のスイッチへ触れた。

 理世は一つずつ押した。

 冷却。

 加熱。

 減圧。

 加湿。

 高酸素。

 窒素置換。

 紫外線。

 栄養液循環。

 警報が鳴り始めた。

〈競合設定。安全限界を超過します〉

 理世は最後のレバーを倒した。

〈閉鎖循環モード〉

 分厚い隔壁が落ち、扉を塞いだ。

 空調が咆哮した。

 熱風と冷気が交互ではなく、別々の噴出口から同時に吹き出した。天井から熱湯が降り、床には液体窒素の白い霧が這う。紫外線灯が青白く点滅し、栄養液の管が破裂して甘い液体を撒いた。

 理世は薄目を開けた。

 大庭の身体が膨らんでいた。

 熱に耐えるため、皮膚が分厚い脂肪へ変わる。その上から冷気に耐える毛が生える。水中で呼吸する鰓が首に開き、乾燥を防ぐ殻が鰓を塞ぐ。紫外線を遮る黒い膜が眼球を覆い、暗闇を見るための新しい眼球が膜の下から押し出される。

 適応が適応を邪魔し始めていた。

 大庭の身体は答えを一つに決められず、次々と別の身体を産んだ。肩から腕が生え、腕の先から胸郭が生え、胸郭の内側に口が開いた。増えた器官は互いの血を奪い合い、噛み合い、食い始めた。

「ちがう」

 いくつもの口が叫んだ。

「これは、環境じゃない」

「そうだよ」

 景香が答えた。

「これは勘定」

 伍作が鋸を振り上げた。

 だが鏡の目に映った自分自身が、先に動いた。

 フードの内側から細い指が何本も伸び、伍作の眼窩へ潜り込んだ。彼は初めて声を上げた。透明フードが内側から赤く染まる。鏡が割れ、破片の一つ一つへ別々の伍作が映った。

 そのすべてが違う傷を負っていた。

 現実の伍作の身体に、傷だけが一斉に現れた。

 腹が裂け、喉が潰れ、脚が反対へ折れた。傷口は即座に再生しようとし、余分な肉を噴き出した。肉は鋸の回転刃へ絡みつき、機械と一体になって暴れ回った。

 刃がイトの腰を捉えた。

 老女の身体が半分に割れた。

 上半身が床へ落ちても、彼女は笑っていた。

「増えな。もっと増えな」

 切断面から、何十人もの小さなイトが顔を出した。乳歯を剥き、互いを押しのけ、母体の外へ出ようとする。

 しかし床にはもう空間がなかった。

 肉、骨、毛、殻、歯、眼球、耳。適応の枝が部屋を埋め、天井まで盛り上がっていた。閉鎖循環装置の酸素濃度表示が急速に下がる。

 二十パーセント。

 十五。

 九。

 増えるほど、呼吸する口も増えた。

 栄養液は数秒で吸い尽くされ、管の中を肉が逆流した。冷却装置へ侵入した組織は凍り、加熱装置へ侵入した組織は焼けた。それぞれに耐える子が生まれ、その子を養うため、別の子が食われた。

 完璧な生き物が、自分自身を餌にし始めた。

 理世の左目に黒い線が戻った。

 視界の端から瞳孔へ伸びてくる。

 線は血管ではなかった。細い脚を持ち、眼球の表面を歩いていた。

 画面を見た代価が、まだ彼女の中に残っている。

「姉さん、私も感染してる」

「知ってる」

「一緒に焼けばいい?」

 景香は答えなかった。

 代わりに、鉄枠から伸びた一本の管が理世の手首へ巻きついた。

 管の中を温かいものが流れ込む。

 幼いころの記憶が見えた。

 夏の市民プール。姉に泳ぎを教わった日。水を怖がる理世へ、景香は言った。

 息を止めるんじゃない。

 吐ききれば、身体は勝手に次を欲しがる。

 記憶の中の姉が、今の声で囁いた。

「ここから出るまで、息を吐いて」

 鉄枠の横に、非常排出用の小さな扉が開いた。人一人が這えるほどの保守管路だ。

「姉さんは」

「私は家の一部。家を閉じる鍵」

「切れば出せる」

「切ったものは増える」

 景香の唇が、わずかに笑った。

「理世。壊れたものを、何でも元に戻さなくていい」

 背後で大庭だったものが盛り上がった。

 無数の耳が一斉に理世へ向き、声にならない声を聞き取った。肉の山から腕が伸びる。熱へ耐える鱗、冷気へ耐える毛、水を弾く脂に覆われた腕。

 理世は景香の手を握った。

 指先は冷たかった。

「ごめん」

「再生しないで」

 理世は管路へ飛び込んだ。

 背後で隔壁が閉じる。

 直前、景香の黒い目隠しが燃え、下から何もない眼窩が見えた。

 それでも姉は、まっすぐ理世を見た。

〈酸素濃度 三パーセント〉

〈閉鎖循環系 飽和〉

〈有機物総量 上限超過〉

 警報の最後に、景香の声が混じった。

「完璧なものは、完璧に飢える」

 理世は管路を這った。

 息を吐き続けた。

 後ろから、家全体が巨大な肺のように収縮する音がした。壁が内側へ凹み、床下の管が脈打つ。畜舎の豚が一斉に鳴いた。

 一頭。

 二頭。

 四頭。

 八頭。

 その声が頂点へ達した瞬間、七窪家畜適応試験場は破裂した。

 熱風が管路を走り、理世の身体を外へ吐き出した。

 理世が目を覚ましたのは、峠道の側溝だった。

 夜が明けていた。

 試験場のあった斜面から黒煙が上がっている。建物は崩れ、湿った灰の山になっていた。消防も警察も、焼け跡から人間の遺体を特定できなかった。見つかった骨は豚と人の特徴を同時に持ち、一本の骨の途中で年齢さえ変わっていたという。

 大庭の車は残っていた。

 運転席のダッシュボードに、彼のスマートフォンが置かれていた。理世が踏み砕いたはずの画面は新品のように滑らかだった。

 電源は入れなかった。

 ガソリンをかけ、灰になるまで燃やした。

 大学へ戻ると、理世は景香から届いたメールを削除した。サーバー管理者に頼み、バックアップも消した。解析機器の記憶媒体を砕き、音響室のスピーカーを廃棄した。

 それでも、夜になると左目の中で黒い線が動いた。

 医師は飛蚊症だと言った。

 線は日に日に枝分かれした。

 一本が二本に。

 二本が四本に。

 ただし、瞳孔へは近づかなかった。

 理世が何かを思い出すたび、線は増えた。

 白いタイル。

 雌豚の腹。

 景香の唇。

 大庭の耳。

 イトの乳歯。

 鏡の目。

 記憶が再生されるたび、眼球の中に細い枝が生まれる。

 理世は映像を残さないことにした。

 音も残さない。

 絵も、図も、数式も使わない。

 起きたことを伝える必要はある。だが、見たものをそのまま複製してはいけない。だから文字だけで記録することにした。

 文字は静止している。

 音を出さない。

 光景を映さない。

 ただ並んだ記号にすぎない。

 そう思って、ここまで書いた。

 けれど今、画面の端に白い部屋が見える。

 書いた覚えのない一文が、末尾に増えている。

 消しても、保存し直すたびに戻ってくる。

 文字は映像ではない。

 だが読む人の頭の中では、文字もまた再生される。

 だから、ここで読むのをやめてほしい。

 もう遅いかもしれない。

 今、あなたの頭の中に、黄ばんだタイルの部屋がある。

 天井から鎖が垂れている。

 奥で、腹を裂かれた雌豚が、ゆっくりと首をこちらへ向ける。

 最初の一フレームが、増えた。