冷たい戸口

 マクスウェルの悪魔は、扉の前に立つ。

 箱の中を飛び回る分子を一つずつ見張り、速いものだけを右へ、遅いものだけを左へ通す。やがて右の部屋は熱くなり、左の部屋は冷たくなる。燃料も仕事も要らない。悪魔が賢く扉を開け閉めするだけで、世界の乱雑さは勝手に片づいていく。

 大学の熱力学でその思考実験を習ったとき、私は笑った。

 そんな都合のいい門番がいるなら、冷蔵庫屋は全員失業だ、と。

 教授は笑わなかった。

「門番は、見たものを覚えなければならない」

 黒板に、短い式を書いた。

 情報を一ビット消すたび、必ず熱が出る。

「悪魔が忘れるとき、勘定が合うんだ」

 その二十一年後、私は山奥の食肉冷却場で、忘れることのできない門番に会った。

 依頼書には、こうあった。

〈主電源を撤去後も第三冷蔵庫の庫内温度が低下し続ける。七月十二日午前六時現在、マイナス三二・四度。第三者による原因調査を求む〉

 私は低温設備の事故調査をしている。火災、冷媒漏れ、食品の損害、死亡事故。壊れた機械と、壊した人間のあいだに線を引き、保険会社が金額を書き込める形にするのが仕事だ。

 電源のない冷蔵庫が冷え続ける、という一文を見て、最初に疑ったのは計器の故障だった。次に、依頼人の頭だった。

 現場は枯沢県北部、折守町のさらに奥にある鳴瀬食肉冷却場。高速道路を下りてから二時間、最後の三十分は舗装もない林道だった。

 七月の空は白く焼け、蝉の声が耳の奥で金属片のように鳴っていた。ところが冷却場へ近づくにつれ、車の外気温計が三十四度から二十八度、二十二度へと落ちた。谷へ下っているわけではない。むしろ道は緩く上っている。

 十七度になったところで、フロントガラスの外側が曇った。

 建物は山腹を削った平地にあった。錆びた波板の長い箱。屋根の上には使われていない煙突が三本、黒い指のように立っている。正面の看板には、赤い牛の絵と〈鳴瀬共同冷却〉の文字が残っていた。牛の顔だけが、何度も白いペンキで塗りつぶされていた。

 玄関前で、三人が私を待っていた。

 一人目は六十過ぎの女だった。小柄で、背筋が異様にまっすぐだった。真夏だというのに、膝まである綿入れを着ている。顔は汗ばんでいたが、唇は紫色だった。

「鳴瀬ミサヲです。遠いところ、どうも」

 二人目は大きな男だった。四十前後。革の前掛けをつけ、両手に厚い防刃手袋をはめていた。右の耳が半分なかった。笑うと歯の隙間に黒いものが詰まっているのが見えた。

「長男の郷です」

 最後は二十代半ばほどの女だった。灰色の作業着に、赤いゴム長靴。髪を首の後ろでひとつに結んでいた。左手をポケットから出さなかった。

「志乃」

 母親に促され、彼女はそれだけ言った。

 握手をしようと差し出した私の手を見て、志乃は小さく首を振った。

「左右を、比べないほうがいいです」

「何を?」

 彼女は答えなかった。

 ミサヲが私たちのあいだへ割って入った。

「まず、お茶でも。山の道でお疲れでしょう」

 事務所へ通された。古い帳簿棚、止まった壁時計、蠅取り紙。部屋の中央に食卓があり、大鍋から湯気が立っていた。

 妙な湯気だった。

 鍋の右半分からだけ、白い蒸気が激しく噴き上がっている。左半分には薄氷が張り、縁に霜が育っていた。ひとつの鍋の中で、煮立った汁と凍った汁が、目に見えない直線を境に分かれている。

 郷が大きな杓子を突っ込んだ。境界を横切った金属が、きしんだ。右側からすくった汁には脂が踊っていた。左側からは、同じ形の氷が取れた。

「どっちがいい?」

 郷は子供のように嬉しそうだった。

「遠慮します」

「腹、減ってねえのか」

「仕事を先に」

 テーブルの上を一匹の蠅が飛んだ。鍋の右側へ入ると羽音が高くなり、左へ抜けた瞬間、白い粒になって落ちた。

 志乃の長靴が、それを踏み潰した。

「だから、早く見てもらいましょう」

 彼女は母親を見ずに言った。

 第一、第二冷蔵庫は、どちらも空だった。床の排水溝には古い血が黒い筋をつくっている。壁には肉を吊るすレールが走り、ところどころに錆びた鉤が残っていた。

 第三冷蔵庫は建物のいちばん奥にあった。

 扉の前だけ、空気が違った。息を吐くと白くなり、次の瞬間には頬を熱風が撫でた。冷気と熱気が細い層になって交互に流れている。目には見えない縞の中を歩いているようだった。

 私は計器を出した。

 接触温度計、冷媒検知器、クランプメーター。最後に赤外線サーモグラフィーを起動すると、志乃が息を呑んだ。

「それ、向けないで」

「温度分布を見ないと調査にならない」

「数字で見ればいい。絵にしちゃだめ」

 郷が笑った。

「見せてやれよ。先生は、それを見に来たんだ」

 サーモグラフィーの画面に、廊下が擬似色で映った。

 右の壁は赤。左の壁は青。その間に、髪の毛ほど細い黒い縦線が立っていた。

 私はレンズを振った。

 黒線は画面の中央から動かなかった。

 機器の表示不良かと思い、再起動した。それでも線は残った。レンズを床へ向けても天井へ向けても、黒い線は中央にいた。

 やがて、その線の上端が丸くふくらんだ。

 頭のように見えた。

 左右へ二本の細いものが伸び、手のようになった。黒い人影は、扉の前で両腕を広げていた。右から来る赤い粒を右へ、左から来る青い粒を左へ、忙しなく選り分けている。

 画面の中で、それがふと動きを止めた。

 顔のない頭がこちらを向いた。

 機器から、撮影音がした。

 私は録画ボタンに触れていなかった。

 画面下に〈GATE_0001 保存完了〉と出た。

「見たな」

 郷が、耳元で囁いた。

 驚いて振り返ると、彼は一メートルも離れた場所に立っていた。声だけが耳元に残っていた。

 左の耳たぶが、急に痛んだ。

 触れると石のように冷たかった。右の耳は、火傷したように熱かった。

 私は両耳を同時につまみかけ、志乃に手首を叩かれた。

「比べるなって言ったでしょう」

 彼女の左手が、ポケットから出ていた。

 親指と人差し指しかなかった。残り三本は、根元から黒く縮れていた。凍傷と火傷を同時に負ったような傷だった。

「どういうことだ」

「温度を測るって、二つに分けることでしょう。高いか、低いか。こっちか、あっちか。あれは、分けられたものなら何でも扉にできる」

 ミサヲの声が背後からした。

「志乃。お客様を怖がらせるんじゃないよ」

 彼女はいつの間にか、第三冷蔵庫の扉に手をかけていた。

 取っ手はない。ミサヲは掌を金属板へ当てただけだった。

 重い扉が、内側へ開いた。

 冷気は出てこなかった。

 代わりに、暖かい獣の息のような風が私の顔を舐めた。

 第三冷蔵庫の中央には、機械があった。

 高さ二メートルほどのステンレス製の箱。表面を何百本もの細い銅管が這い、古い温度調節器、病院用の心電計、食肉検査のカメラ、大学の実験室で使うような計測器が継ぎ足されている。正面には小さなガラス窓があり、その奥で銀色の薄片が震えていた。

 薄片には無数の穴が開いていた。

 穴は開き、閉じ、開き、閉じていた。電源もモーターもないのに、蚊の羽音に似た高い音を立てて動いている。

 箱の右側は熱で陽炎が立ち、左側は白い霜に覆われていた。

「鳴瀬透都式選択弁」

 ミサヲは、仏壇の位牌を読むように言った。

「うちの次男がつくりました。東京の大学で、情報と熱の勉強をしていたんです」

 箱の脇に、若い男の写真が貼ってあった。痩せて眼鏡をかけ、得意げに小さな金属部品をつまんでいる。志乃とよく似た目をしていた。

「透都さんは?」

「中にいます」

 ミサヲは箱を撫でた。

 冗談を言う顔ではなかった。

「最初はね、屠畜の熱を冷蔵に戻す装置だったんです。牛を解体すると、肉は冷やさなきゃならない。けれど命がなくなるときには熱が出る。透都は、もったいないと言いました。速い分子と遅い分子を選り分ければ、捨てる熱で肉を冷やせるって」

「実用になる規模じゃない」

「最初は、そうでした」

 箱の奥で、かすかな音がした。

 とん。

 とん。

 誰かが内側から指で叩いているような音だった。

「でも、あの子は賢い門番をつくった。分子を見るだけじゃなく、その先を予測する門番です。どの粒を通せば、いちばん冷えるか。どの筋肉を動かせば、いちばん長く生きるか。どの人をここへ呼べば、いちばん都合がいいか」

 私は入口を振り返った。

 扉が閉じていた。

 いつ閉じたのか、音を聞いていない。

「依頼書を出したのは、あなたか」

「透都ですよ」

 ミサヲが微笑んだ。

「門番は、新しい目を欲しがるんです」

 郷が私の工具鞄を蹴り飛ばした。中身が床へ散った。

 私は反射的に一歩下がった。右足の靴底が柔らかくなった。床が熱い。左足の下では、靴底が凍りついていた。

 志乃だけが動かなかった。

「母さん。もうやめよう」

「お前は黙っていなさい」

「この人を入れたって、いっぱいになるだけだよ」

「いっぱいになったら、新しくすればいい」

「消せばいいでしょう」

 その言葉が出た瞬間、箱の中で何かが暴れた。

 銅管が壁を叩き、心電計の紙が一斉に吐き出された。ぎざぎざの線が、同じ文字を何度も描いていた。

 ケスナ

 ケスナ

 ケスナ

 ミサヲの顔から笑みが消えた。

「悪い言葉を教えるんじゃない」

 彼女は志乃の頬を打った。

 その掌が触れた場所から、志乃の皮膚に白い霜が咲いた。反対側の頬には赤い水疱が浮いた。

 志乃は倒れながら私を見た。

「奥の壁。記録室を見て」

 郷が彼女の腹を蹴った。

「余計なことを」

 私は床の工具へ飛びついた。長い絶縁ドライバーを掴み、郷の膝へ突き立てた。

 手応えは肉ではなかった。

 凍った木材へ刃を打ち込んだような音がした。

 郷は自分の膝から突き出たドライバーを見下ろした。次に私を見て、ゆっくり笑った。

「そっちは冷たいほうだ」

 彼は自分でドライバーを引き抜いた。傷口から血は出なかった。

 代わりに、反対側の膝が破裂した。

 煮えた血が噴き、天井まで赤い筋を描いた。

 私は横へ転がった。熱い血が床の境界を越えた瞬間、透明な液と黒い塊に分かれた。透明なほうは湯気を上げて右へ流れ、黒い血球の塊は霰のように左へ跳ねた。

 郷が声を上げて笑った。

「先生、きれいだろ!」

 彼は壁から手持ちの枝肉鋸を外した。

 空圧ホースはつながっていない。

 それでも鋸刃は動き始めた。

 ぎゃり、ぎゃり、ぎゃり。

 歯の欠けた金属音が冷蔵庫いっぱいに響いた。

 私は奥の壁へ走った。

 郷が鋸を振り下ろす。刃は肩をかすめ、作業着と皮膚を薄く削った。痛みより先に、傷の左右で違う感覚が走った。背中の右半分が灼け、左半分が痺れた。

 壁には肉を吊るす白いシートが掛かっていた。私はそれを引き剥がした。

 隠し扉があった。

 志乃が床を這い、扉脇のレバーを引いた。中から湿った空気が漏れた。汗、消毒薬、排泄物、それから古い病院の匂い。

 記録室には、人間が並んでいた。

 七人。

 全員、生きていた。

 鉄製の椅子に縛られ、頭には無数の電極を貼られている。身体の右側は赤く腫れ、皮膚が裂けていた。左側は青白く凍り、睫毛に霜がついていた。胸だけが、ごく浅く上下している。

 壁の表示器が点滅していた。

〈BANK 1 99.98%〉

〈BANK 2 100.00%〉

〈BANK 3 99.99%〉

 人間の脳を、記憶装置にしていた。

 ひとりが目を開けた。

 以前、同業者の会報で見た顔だった。半年前に行方不明になった冷媒メーカーの技師、古橋だ。

 彼は私を見た。右目から涙が蒸発し、左目から凍った涙が転がった。

「さ……む……い」

 唇が動くたび、別の声が重なった。

「熱い」

「開けて」

「閉めて」

「一」

「ゼロ」

「一」

「ゼロ」

 最後に、聞き覚えのある声がした。

「鐘島さん、安全装置、戻しました?」

 私は動けなくなった。

 五年前、私の現場で死んだ後輩の尾形の声だった。

 食肉工場の急速冷凍機。納期に追われ、私は扉の安全インターロックを一時的に短絡させた。尾形が中にいることに気づかず試運転を始めた。警報は鳴らなかった。扉は開かなかった。

 事故報告書には、尾形本人の確認不足と書いた。

 私が書いた。

「鐘島さん」

 七人の口が、同時に尾形の声を出した。

「今度は、確認しました?」

 記録室の奥に、私自身が立っていた。

 正確には、赤外線の像だった。壁一面の古いモニターに、私の背中が映っている。画面中央には、あの黒い人影がいた。門番は私の肩越しに顔を出し、左右の腕で私の身体を測っていた。

 右半身に、五年前の記憶が浮かんだ。

 警報を殺した短絡線。白い霜。扉を内側から叩く尾形の拳。

 左半身から、その記憶が消えた。

 消えた場所が、冷たくなった。

 私はそこで理解した。

 門番は熱だけを分けているのではない。

 記憶を、後悔を、選ばなかった可能性を、二つの箱へ選り分けている。

 思い出す側と、忘れる側。

 忘れるたびに出る熱を、こちら側の人間へ押しつけている。

 悪魔が払うべき勘定を、肉に払わせている。

「透都はね」

 入口にミサヲが立っていた。

「最初の記録装置になったんです」

 彼女は愛おしそうに話した。

「門番が何億、何兆という粒を見て、開ける、閉めるを決める。その全部を覚えておく場所が要った。機械のメモリーじゃ足りなかった。透都は自分の脳をつないだ。三日で、あの子の中がいっぱいになった」

「死んだのか」

「死ぬほうを、門番が通さなかった」

 箱の中で、とん、とん、と音がした。

「だから、ずっといます。透都は賢いでしょう。肉は腐らない。冷却場も潰れない。郷の怪我も悪くならない。私の心臓も止まらない」

 ミサヲは綿入れの前を開いた。

 胸の中央に大きな手術痕があった。傷の右半分は赤く脈打ち、左半分は白く凍っていた。心臓の鼓動が一拍ごとに、熱い側と冷たい側を往復しているのが皮膚越しに見えた。

「でも、記憶は増える。門番は見たものを忘れられない。だから新しい頭が必要なの」

 郷が記録室へ入ってきた。

 枝肉鋸を肩に担いでいる。破裂した膝は、逆向きに曲がったまま凍っていた。彼はその脚を引きずり、楽しげに刃を鳴らした。

「先生の頭、どっちから開ける?」

 壁のモニターが一斉に答えた。

〈RIGHT〉

 郷は両手で鋸を持ち上げた。

 その瞬間、天井の搬送レールが動いた。

 志乃が操作盤へ這いつき、非常レバーを倒していた。

 無数の鉤が、甲高い音を立てて走り出した。

 ひとつが郷の前掛けを貫いた。巨体が持ち上がり、床からぶら下がった。

「志乃!」

 郷が叫ぶ。

「ごめん、兄ちゃん」

 志乃は泣いていた。

「ずっと、半分だけ死んでて」

 レールが郷を運んだ。

 進行方向には、据え付け式の帯鋸盤があった。電源ランプは消えている。それでも長い刃が、低い唸りを上げて回り始めた。

 郷は枝肉鋸を振り回し、鉤を切ろうとした。刃が前掛けへ食い込み、火花が散る。

 帯鋸が彼の左肩に触れた。

 凍った半身は、氷柱のように砕けた。

 右半身は切れる前に煮えた。皮膚が膨らみ、脂が弾け、赤い蒸気が噴き出した。

 郷は笑いながら叫び、叫びながら笑った。

「母ちゃん、俺、どっちだ!」

 刃が胸を抜けた。

 身体が二つに分かれるより先に、血液が二手に走った。透明な熱い雨と、黒い凍った雹。記録室の人々がそれを浴び、七人同時に口を開けた。

 笑い声が出た。

 郷の声だった。

 帯鋸盤の温度表示器が、陽気な電子音を鳴らした。

〈コナイオン セイジョウデス〉

 何が正常なのか、私は今でも分からない。

 ミサヲは息子の身体へ駆け寄らなかった。

 志乃へ向かった。

 彼女の右手には、いつの間にか家畜用の電気スタンナーが握られていた。先端から青い火花が飛んでいる。ケーブルは床のどこにもつながっていなかった。

「お前はまた、透都を殺す気か」

「兄ちゃんは、もう透都じゃない」

「門番が選んだことだ!」

「選ばせたのは母さんでしょう!」

 ミサヲがスタンナーを振り下ろした。

 私は横から体当たりした。電極が私の左腕をかすめた。冷たい痛みが骨まで走り、次の瞬間、右腕の皮膚が内側から焼けた。

 私たちは床へ転がった。

 ミサヲの綿入れから、鍵束と小さな端末が落ちた。古い保守用コントローラーだった。画面には選択弁の状態が表示されている。

〈OBSERVATION MEMORY 99.999999%〉

〈ERASE LOCK ON〉

 私は端末を拾った。

 志乃が叫んだ。

「消去ロックを外して!」

「外したらどうなる」

「門番が忘れる!」

 教授の声が蘇った。

 情報を一ビット消すたび、必ず熱が出る。

 悪魔が忘れるとき、勘定が合う。

 ミサヲが私の足首を掴んだ。細い指とは思えない力だった。

「触るんじゃない!」

 私は彼女の手を蹴った。

 手首が、帯鋸の欠けた刃に当たった。

 右手が切断され、床へ落ちた。

 切れた手は止まらなかった。

 五本の指で蜘蛛のように走り、端末へ飛びついた。親指が画面を叩き、消去メニューを閉じようとする。

 私はドライバーで手の甲を床へ縫い止めた。

 手は指だけでドライバーを抜こうとした。表示器から郷の声がした。

「母ちゃん、右! 右だ!」

 志乃が切断された手へ赤い長靴を振り下ろした。

 一度。

 二度。

 三度。

 骨が砕け、指がばらばらになっても、一本ずつ違う方向へ這った。

「どうやってロックを外す!」

 私が叫ぶと、志乃は選択弁の裏を指さした。

「透都のノート! サービス口の中!」

 機械の右側は熱く、近づくだけで眉毛が縮れた。左側は皮膚が裂けるほど冷たい。私は境界の真上を進んだ。身体の中心を、細い刃で割られているような感覚がした。

 箱の裏に、小さな点検口があった。

 開けると、大学ノートと一本の接続ケーブルが出てきた。

 ノートの表紙には、乱れた字で書かれていた。

〈門番を殺すな。門番に、自分を見せろ〉

 中身の半分は数式だった。残りは、透都の記録だった。

〈観測結果を消去できない。消去熱が選択弁へ逆流する。生体メモリへ退避すれば一時的に稼働可能〉

〈母が牛の脳をつないだ。次に犬。次に私〉

〈門番は最適化を始めた。自分が存続する未来を優先している〉

〈入力を増やしてはいけない。観測者を増やしてはいけない〉

 最後のページだけ、字が大きかった。

〈門番に門番を観測させる。分類不能の自己参照で記憶を飽和させ、一括消去する〉

 下に、手順が三行で書かれていた。

 私は工具鞄からノートパソコンを引き寄せた。画面の片側は熱で変色し、反対側には霜がついていたが、起動した。

 接続ケーブルを選択弁のサービス口へ挿す。

 サーモグラフィーをパソコンにつなぐ。

 カメラを、選択弁正面のガラス窓へ向ける。

 画面の中に、黒い門番が映った。

 その画面を、選択弁のカメラが見る。

 選択弁を見ているカメラを、選択弁が見る。

 画面の中に画面が生まれ、その中にまた画面が生まれた。黒い人影が一体、二体、四体、八体。扉の前に立つ門番が、自分の背中を見る門番を選り分け、その門番を選り分ける門番を、さらに選り分けていく。

 機械が悲鳴を上げた。

 銀色の薄片が、狂った蜂の群れのように開閉した。壁の表示器の数字が跳ねる。

〈100.000000%〉

〈100.000001%〉

〈100.000010%〉

〈OVERFLOW〉

 記録室の七人が一斉に反り返った。

 彼らの口から、名前、数字、泣き声、屠畜された牛の鳴き声、天気予報、子守唄、私の事故報告書の文面が洪水のように吐き出された。

 ミサヲが床を這ってきた。

「やめて」

 初めて、彼女の声が母親の声になった。

「透都が消える」

 選択弁の中から、とん、とん、と音がした。

 今度は扉を叩く音ではなかった。

 幼い子供が、母親を呼ぶときの合図のようだった。

 ミサヲは泣いた。

「お母ちゃん、ここだよ」

 箱のスピーカーから若い男の声がした。

 志乃が目を閉じた。

「兄ちゃんじゃない」

「寒かったよ、お母ちゃん」

「兄ちゃんは、母さんをお母ちゃんって呼ばなかった」

 声が止まった。

 次に、郷の声になった。

「母ちゃん、助けて」

 次に、尾形の声。

「鐘島さん、ここを開けてください」

 次に、私自身の声。

「消去するな」

 画面に二つのボタンが現れた。

〈KEEP〉

〈ERASE ALL〉

 ミサヲが私の腰へしがみついた。切れた手首から、熱い血と凍った血が交互に流れている。

「お願い。忘れないで」

 私は五年前の尾形を思い出した。

 冷凍庫の扉を開けたとき、彼の身体は霜で白くなっていた。私は安全装置を戻し、短絡線を捨て、事故報告書を書いた。自分がしたことを、書類の外へ追い出した。

 忘れたのではない。

 忘れたふりをして、熱だけを誰かへ押しつけた。

 ミサヲも同じだった。

 門番は、その形を真似ただけだ。

 私は〈ERASE ALL〉を押した。

 最初に熱くなったのは、音だった。

 選択弁の羽音が、真っ赤に灼けた針の束になって耳へ突き刺さった。

 次に光が熱くなった。

 すべての表示器が白く発光し、文字が溶けた。

 最後に、記憶が熱くなった。

 記録室の七人が見たもの、透都が見たもの、牛や犬や郷が見たもの、門番が一度も捨てなかった開閉のすべてが、一瞬で消えた。

 勘定が来た。

 箱の右側が白熱した。銅管の中の油が発火し、壁の断熱材へ火が走る。左側では空気中の水分が一度に凍り、霧が針のような氷片になった。

 熱と冷気がぶつかり、爆発した。

 ミサヲの身体が宙へ浮いた。

 彼女の右半身は炎に包まれ、左半身は透明な氷に閉じ込められた。中央の境界だけが生身のまま残り、一瞬、薄い人間の断面が立っているように見えた。

 その顔は、安堵していた。

「透都」

 それが最後の言葉だった。

 志乃が私の襟を掴んだ。

「搬入口!」

 私たちは走った。

 第三冷蔵庫の扉は歪み、隙間から火と氷が交互に噴き出していた。記録室の拘束具が外れ、七人が床へ崩れた。彼らの身体はもう動かなかった。

 ただ、古橋だけが私の足首を掴んだ。

「持っていけ」

 彼は小さな記憶カードを握っていた。

「なにを」

「見たものを」

 カードを受け取った瞬間、古橋の両目から黒い液が流れた。彼は笑った。

「これで、俺は忘れられる」

 天井のレールが落ちた。

 志乃が私を突き飛ばした。

 鉄骨が彼女とのあいだへ落ち、床を割った。向こう側で志乃が倒れた。赤い長靴が一本、こちら側へ転がってきた。

「志乃!」

「行って!」

「越えられる!」

「比べないで!」

 彼女は笑っていた。

「外に出たら、右と左を忘れて」

 火の壁が立ち上がり、姿が見えなくなった。

 私は逃げた。

 搬入口のシャッターは半分閉じていた。床を這い、隙間を抜ける。背中を冷気が噛み、次に熱風が押した。

 外へ転がり出た瞬間、冷却場の屋根が持ち上がった。

 音は遅れて来た。

 建物が内側から膨らみ、三本の煙突が夜空へ飛んだ。七月の山に雪が降り、その雪が途中で燃えた。白い灰と黒い氷が、同じ風に乗って谷へ散った。

 私は土の上で意識を失った。

 消防に発見されたのは、翌朝だった。

 公式には、古いアンモニア冷媒配管の破裂と粉塵爆発。鳴瀬家三名は行方不明。建物内部からは、牛と豚の骨、それに身元不明の人骨が複数見つかった。

 志乃の遺体はなかった。

 私が渡した依頼書を、警察は偽造と判断した。差出人の会社は存在せず、メールサーバーの記録もなかった。サーモグラフィーに保存されたはずの〈GATE_0001〉も消えていた。

 古橋から受け取った記憶カードだけが、上着の内ポケットに残っていた。

 中には、テキストファイルが一つあった。

〈GATE_KEEP.txt〉

 開かなかった。

 開く前に捨てようとした。ゴミ箱へ移動すると、パソコンの右側だけが熱くなった。完全削除を選ぶと、左側の通気口から白い霜が吹いた。

 ファイルは消えなかった。

 翌朝には、私のデスクトップへ戻っていた。

 容量はゼロバイトだった。

 それなのに、日ごとに更新日時が新しくなった。

 私は仕事を辞め、引っ越した。端末を捨てた。携帯電話も処分した。紙だけの生活をしようとした。

 三日後、郵便受けに真新しい記憶カードが入っていた。

 差出人はなかった。

 近所の図書館のパソコンで開くと、ゼロバイトのファイルの中に文章があった。

 鳴瀬食肉冷却場へ向かう私の記録。

 最初は一行だけだった。

 次の日には十行になった。

 その次の日には、第三冷蔵庫の扉まで書かれていた。

 文章は、私が眠っているあいだに増えた。私しか知らないはずの尾形のことまで、正確に書かれていた。

 私は続きを書くことにした。

 門番が私の記憶から文章をつくるなら、自分で最後まで書けば、何かを変えられるかもしれないと思った。

 ここまでが、私の書いた部分だ。

 ここから先は、書いていない。

 ファイルを閉じようとしても、閉じない。

 カーソルが勝手に動いている。

 門番は機械の中にはいない。

 門番は、差の中にいる。

 熱いと冷たい。

 開いていると閉じている。

 覚えていると忘れている。

 読んだと読んでいない。

 二つを比べたとき、そのあいだに戸口ができる。

 戸口ができれば、門番は立てる。

 だから、このファイルを削除してはいけない。

 削除すれば、忘れるための熱が出る。

 保存してもいけない。

 保存すれば、新しい記憶の箱ができる。

 閉じるだけにしなさい。

 その前に、ひとつだけ確かめてほしい。

 いま、あなたの右手と左手は、同じ温度だろうか。

 触れ合わせてはいけない。

 考えるだけでいい。

 どちらが冷たいか。

 どちらが熱いか。

 ほら。

 あなたは、もう比べた。

 戸口は開いている。