『十三番目の冥府門』

 神代岳が、死者の舌を盗んだのは、晩餐のスープがまだ温かいうちだった。

 カイロ旧市街、ナイル河畔に建つ無名の宮殿。英国統治時代の銀行家が建て、革命の夜に主人ごと忘れ去られた館である。その地下食堂では今夜、招待客十二名だけの競売会が開かれていた。

 壁には剥製の鷹、天井には逆さ吊りの舟。長卓の上には銀器と白磁が並び、金持ちたちは「古代の葬送食を再現した」という黒いスープを啜っている。

 給仕服に身を包んだ岳は、最後の客の背後を通り過ぎながら、銀盆の蓋へ指をかけた。

 盆に載っているのは料理ではない。

 黒曜石を削った、十二センチほどの舌だった。

 表面には細い象形文字が刻まれている。死者の口に入れ、冥界で言葉を取り戻させる呪具――競売目録にはそう記されていた。

 だが岳は知っていた。

 これは副葬品ではない。鍵だ。

「お下げしましょう」

 アラビア語で囁き、蓋を閉じる。盆を胸元へ寄せ、そのまま回廊へ向かった。

 あと七歩で扉。

 六歩。

 五歩。

「ムッシュ・カミシロ」

 穏やかなフランス語が背中を撫でた。

 岳は足を止めなかった。

「人違いです」

「あなたは三年前、マルセイユ沖で私のフェニキア船を沈めた」

「沈んでいた船を、少し深い場所へ移しただけです」

「そして今夜は、私の舌を盗む」

 食堂の奥で、アドリアン・ヴァルガ博士がナプキンを畳んだ。

 六十歳を越えているはずなのに、背筋は剣のように真っ直ぐだった。銀髪、薄い唇、葡萄酒色の燕尾服。神経外科医として名を上げ、引退後は美術財団と食文化研究所を運営している。新聞は彼を「味覚の考古学者」と呼ぶ。

 岳の知る別の呼び名は、死体の美食家だった。

「その黒曜石は、ある男の口から取り出したものだ」とヴァルガは言った。「三千年の沈黙を味わった舌だ。雑に扱わないでほしい」

「だったら博物館へ寄贈しろ」

「博物館は物を保存する。私は意味を蘇らせる」

 招待客たちは誰一人、席を立たない。これは余興だと思っている。あるいは、本物の銃声がどんな味か知りたがっている。

 岳は銀盆を投げた。

 蓋と皿が照明を弾き、食堂が一瞬、白く爆ぜる。岳は長卓へ飛び乗り、皿を蹴散らして走った。客たちの悲鳴。背後で二発の銃声。ワイングラスが砕け、赤い飛沫が白布に薔薇を描く。

 岳は卓の端から跳び、逆さ吊りの舟へぶら下がった。固定金具が外れ、三百キロの木造船が天井から落ちる。

 ヴァルガの護衛たちが逃げ惑った。

 岳は落下する舟を踏み台にして回廊の欄干へ飛び移り、そのまま配膳用昇降機へ身体を滑り込ませた。

「君はいつも出口を壊す」

 下へ落ちていく箱の中まで、ヴァルガの声が追ってきた。

「だから入口を覚えられないのだ」

 岳は暗闇で笑い、胸ポケットを叩いた。

 黒曜石の舌は、盆を投げる前に抜き取ってある。

 昇降機が厨房へ激突した。

 岳は扉を蹴破り、湯気と怒号の中を突っ切る。裏口を出ると、夜のナイルが目の前に光っていた。河岸へ係留された小舟のエンジンが唸る。

「遅い!」

 操舵席で、マリアム・サリームが叫んだ。

 岳が飛び乗ると同時に舟は岸を離れた。銃弾が水面を走り、月を細かく砕く。

 マリアムは黒髪をスカーフで束ね、片手で舵を切りながら、もう片方の手を差し出した。

「鍵は?」

「先に、いい夜だったと言ってくれ」

「あなたと仕事をすると、いつも誰かが建物を壊す」

「今夜は船だけだ」

「建物の中でね」

 岳は黒い舌を渡した。

 マリアムの表情から苛立ちが消えた。

 彼女はカイロ考古博物館の碑文学者で、古王国時代の口開けの儀式を専門にしている。十八年前、父ハリド・サリームもまた同じ研究をしていた。そして西方砂漠の調査で失踪した。

 黒曜石の舌を月へかざす。

 刻線の隙間に、青白い光が走った。

「やっぱり」と彼女は呟いた。「これは父が探していたものよ」

「何を開ける?」

「王墓」

「それだけなら、ヴァルガが晩餐会まで開く理由にならない」

「墓の名は〈影を持たぬ家〉。古代エジプトのどの王名表にも載っていない王、ネフェル=セトが造ったとされる」

「存在しない王か」

「存在を消された王よ」

 舟は橋脚の影へ滑り込んだ。

 背後の宮殿で、何かが燃え始めている。炎を背に、テラスへ出たヴァルガが小さく見えた。追わせようともせず、こちらへグラスを掲げている。

 乾杯ではない。

 予約済みの席を示す仕草だった。

 翌朝、マリアムは黒曜石の舌をホテルの洗面台へ置き、歯ブラシで砂を落とした。

「国宝級の遺物を、歯磨き粉の隣に置くな」

「あなたの靴下より清潔よ」

 岳は黙って靴下を鞄へ押し込んだ。

 拡大鏡の下で見ると、舌の表面には文字ではなく、無数の小孔が並んでいた。マリアムが薄紙を当て、鉛筆で擦り出す。点は星座となり、星座は一頭のジャッカルを形作った。

 その腹に一本の線がある。

 ナイルではない。西方砂漠を南北に走る、すでに涸れた古代河川の跡だった。

「ここ」マリアムが指を置く。「ワディ・アル=アズラク。青い谷。衛星写真では何もないけれど、父の手帳に同じ星図があった」

「手帳は残ったのか」

「ヴァルガが持ち帰った。父の隊に資金を出していたのは、彼よ」

 岳は窓辺へ寄った。

 朝のカイロはクラクションと砂埃に満ち、街そのものが巨大な生き物のように肺を動かしている。

「失踪した調査隊は七人」とマリアムは続けた。「戻ったのはヴァルガ一人。彼は砂嵐で隊が離散したと証言した。でも三か月後、父の未発表論文にあった遺物が、ヴァルガ財団の収蔵庫へ入った」

「警察は?」

「金と外交特権に勝てなかった」

「それで俺を雇った」

「あなたは金に勝てないけれど、金庫には勝てるでしょう」

 正論だった。

 岳は元々、海底遺跡の測量士だった。十年前、雇い主が発掘許可を偽造していたことが発覚し、彼だけが現場に残って沈没船の略奪を止めた。結果として職も学会の席も失い、今では「返還専門のトレジャーハンター」を名乗っている。

 盗まれたものを盗み返す。

 報酬は高い。評判は最低だ。

「目的を確認する」と岳は言った。「墓を見つけ、父親の記録を回収し、遺物はエジプト政府へ渡す」

「ええ」

「ヴァルガより先に」

「ええ」

「墓に呪いがあっても?」

「呪いは観光局が作るものよ」

「怪物がいても?」

「怪物は男たちが作るもの」

「俺も男だ」

「自覚があるなら改善の余地はあるわ」

 そのとき、洗面台の黒曜石が小さく震えた。

 二人とも黙った。

 舌の孔から、細い音が漏れている。

 風のようでもあり、遠い人声のようでもあった。マリアムが耳を近づけると、音はぴたりと止まる。

 代わりに鏡が曇った。

 白い曇りの中へ、内側から指でなぞったような文字が浮かぶ。

 口を開くな。

 岳はタオルで鏡を拭いた。

「観光局へ苦情を入れよう」

「すぐ出発するわ」

 二人はその日のうちにカイロを離れた。

 ワディ・アル=アズラクまで、舗装路はない。

 岳とマリアムはバハリヤの町で、サミール・ラヒムという案内人を雇った。三十歳そこそこの小柄な男で、砂漠用トラックの荷台に、飲料水より多くの工具と香辛料を積んでいた。

「砂漠では水と同じくらい、退屈が人を殺す」とサミールは言った。「だから料理はうまくなくちゃいけない」

 彼のトラックは旧ソ連製で、車体の半分は針金、残り半分は祈りで組み上げられているように見えた。だが砂丘を越える足は軽く、夕方には黒い礫地を抜け、青灰色の谷へ入った。

 砂漠は、何もない場所ではない。

 乾いた川床には貝殻があり、崖には魚の骨が埋まり、風が吹くたび、海だった時代の記憶が露出する。

 マリアムは助手席で父の古い写真を見ていた。

 写真のハリドは、同じ谷に立っている。背後には三角形の岩山。その頂に、太陽を戴く雌獅子の像が見えた。

「今はないな」と岳。

「砂に埋まったのかもしれない」

「あるいは、写真を撮った場所が違う」

「星図はここを示してる」

「星は動く」

「十八年ではほとんど動かない」

「人間は動く」

 サミールがバックミラーを見た。

「後ろの人間もね」

 遠くに砂煙が三本立っていた。

 双眼鏡を覗く。黒い四輪駆動車が三台、谷を塞ぐように広がってくる。先頭車のボンネットに、銀色の牡鹿の紋章。

 ヴァルガ財団だ。

「追いつくのが早すぎる」とマリアム。

「追跡装置だな」

「どこに?」

「俺たちじゃない」

 岳は黒曜石の舌を取り出した。

 表面の小孔が、微かに赤く脈打っている。

「鍵が鍵穴を呼んでるのか、その逆か」

「詩は後にして。逃げられる?」

 サミールは嬉しそうに笑った。

「この車を侮辱する質問だ」

 トラックが咆哮した。

 乾いた川床を外れ、礫地へ突っ込む。荷台の鍋や予備燃料缶が跳ね上がった。背後から銃声。右のミラーが吹き飛ぶ。

 岳は荷台へ移り、キャンバスを剥いだ。積まれていたのは水、ロープ、発電機、それに長い鉄板が二枚。

「これは?」

「砂から脱出する板だ!」

「今使うぞ!」

 岳は鉄板を一枚、道路へ落とした。

 追ってきた四輪駆動車が踏み、板が跳ね上がってフロントガラスへ突き刺さる。車は横転し、砂煙の中へ消えた。

 残り二台。

 一台が左へ回り込み、護衛が窓から自動小銃を構える。

「伏せろ!」

 弾丸が荷台を縫った。水タンクに穴が開き、噴き出した水が虹を作る。

 岳は燃料缶を持ち上げたが、サミールが叫ぶ。

「それは水だ!」

「燃料は?」

「運転席の下! 安全のためだ!」

「安全の意味を辞書で引け!」

 前方に白く平らな地面が現れた。塩湖の跡だ。

 サミールは速度を落とさない。

「表面の下が泥なら沈むぞ」

「知ってる」

「道は?」

「ない」

「策は?」

「軽くなる!」

 サミールが運転席のレバーを引いた。

 荷台後部の留め金が外れ、水タンク、工具箱、香辛料の袋がまとめて転げ落ちた。追跡車が避けきれず、巨大な鍋を踏んで片輪を浮かせる。

 トラックは塩の平原へ突入した。

 白い表面に黒い亀裂が走る。

 タイヤが沈み、エンジンが唸る。背後の一台は重量に耐えられず、塩殻を割って泥へ落ちた。

 最後の車だけがついてくる。

 そしてその助手席には、白い帽子を被ったヴァルガが座っていた。

 彼は窓を開け、こちらへ何かを掲げた。

 銀のフォークだった。

「食事に遅れるな、だとさ」と岳。

「前を見て!」マリアムが叫んだ。

 塩湖の中央に、円形の穴が開いていた。

 サミールはハンドルを切った。だが遅い。

 トラックの後輪が崩れた縁へ滑り、車体が大きく傾く。岳はロープを掴み、マリアムの腰へ巻きつけた。三人は反対側へ飛び出す。

 次の瞬間、トラックは白い地面を突き破り、闇へ落ちた。

 長い落下音。

 遠く下で水が弾けた。

 三人は穴の縁に這いつくばった。

 ヴァルガの車は手前で止まり、護衛たちが降りてくる。

「跳べ!」岳は叫んだ。

「どこへ?」

「穴だ!」

 三人は崩れる塩殻とともに、地底へ落ちた。

 水は冷たく、深かった。

 岳は沈みながら、上も下も分からなくなった。塩の破片が白い鳥のように周囲を舞う。肺が焼け、手を伸ばすと、指先が石へ触れた。

 彫刻された石だ。

 獅子の鬣。

 岳はそれを蹴り、水面へ浮上した。

「マリアム! サミール!」

 暗闇の向こうで咳が二つ返る。

 ヘッドランプを点けると、巨大な地下湖が現れた。天井は二十メートルほど上。彼らが落ちた穴から夕陽が一筋、斜めに差し込んでいる。

 水中から突き出しているのは、雌獅子の頭部だった。

 写真に写っていた像である。

 像は埋まったのではない。湖ごと地中へ沈んでいたのだ。

 三人は像の肩へよじ登った。

 サミールは息を整え、濡れたポケットから小瓶を出した。

「香辛料が一つ、生き残った」

「水は?」

「死んだ」

「役に立たない奇跡だな」

「人生はだいたいそうだ」

 マリアムは像の額を照らした。

 通常、女神セクメトの額には太陽円盤がある。だがこの像が戴いているのは、放射状の溝が刻まれた黒い円盤だった。

 中央に、舌の形をした窪みがある。

「鍵穴」と岳。

「でも黒曜石を入れたら、ヴァルガにも場所が分かる」

「もう真上にいる」

 穴の縁からロープが垂れてきた。黒い人影が降下を始めている。

 岳は舌を窪みへ差し込んだ。

 石像の両眼が青く光った。

 地底湖の水が震え、像の胸から低い音が響く。人の声ではない。鯨の歌にも似ているが、音の間隔があまりに規則的だった。

 やがて像の台座が割れ、水面下に階段が現れた。

「入ったら退路がなくなる」とマリアム。

「上に戻れば銃がある」

「下には?」

 岳は暗い階段を見た。

「たぶん、もっと古い銃だ」

 三人が階段へ移ると、背後で石扉が閉じ始めた。

 最後に岳が身体を滑り込ませる。

 扉の隙間から、上陸した護衛の足が見えた。続いて白い帽子。

 ヴァルガは閉じる扉の向こうで、微笑んでいた。

 完全な闇が訪れた。

 マリアムのヘッドランプが点く。

 壁一面に星が描かれていた。

 青い顔料で描かれた夜空。その星々の間を、黄金の舟が進んでいる。舟に乗るのは太陽神ラーではない。頭部を布で覆われた王と、四十二人の縛られた人間だった。

「古代エジプトの冥界は、夜の十二時間に分かれている」とマリアムが言った。「太陽は十二の門を通り、朝に再生する」

「ここには?」

 岳は壁画を数えた。

「十三の門がある」

 最後の門だけ、星の外へ開いていた。

 その向こうに描かれたものを見て、サミールが祈りの言葉を呟く。

 無数の脚を持つ黒い獣。

 ジャッカルの頭、甲虫の胴、尾の代わりに人間の腕が束になって伸びている。

 獣の口から出た細い糸が、王と囚人たちの口へ繋がっていた。

 壁画の下に碑文がある。

 マリアムが砂を払い、読み上げた。

「『王ネフェル=セトは空より落ちた子を迎え、その声を食らって神となった』」

「比喩か?」

「そう願うわ」

 背後で、石を擦る音がした。

 閉じたはずの扉の継ぎ目から、細い刃が差し込まれている。

 油圧ジャッキだ。

「願い事は歩きながらしよう」と岳が言った。

 最初の罠は、心臓を量った。

 回廊の先に四十二枚の石板が並び、それぞれに罪の名が刻まれていた。

 盗み。

 殺し。

 偽証。

 飢えた者からパンを奪うこと。

 川を汚すこと。

 他人の恐怖を楽しむこと。

 石板の向こうには、羽根の形をした扉がある。

 天井には何百本もの青銅針。床の隙間には乾いた血が黒く残っていた。

「死者の審判ね」とマリアム。「四十二の否定告白。正しい者は『私は罪を犯していない』と神々へ宣言する」

「正しい板だけ踏めばいい?」

「全部、正しい文章よ」

「なら罠にならない」

「王が何を罪と考えたか、ということかもしれない」

 サミールが小石を投げた。

 〈盗み〉の板へ落ちた瞬間、天井の針が三本、音もなく突き出した。

「盗人に厳しい王だ」とサミール。

「俺はここで待つ」

「あなたは今夜だけでも、舌、車、私のライターを盗んでる」

「ライターは借りた」

「返す相手が生きているうちに言う台詞だ」

 岳は壁画を照らした。

 審判の場面で、通常なら心臓と羽根を量る天秤が描かれる。だがここでは、片方の皿に口、もう片方に耳が載っていた。

 天秤の下では、書記神テリュレが目を閉じている。

「見ていない」と岳。

「何を?」

「神が罪を見ていない。聞いているんだ」

 岳は〈盗み〉の板へ足を乗せ、同時に言った。

「俺は盗んだ」

 針は動かなかった。

 マリアムの目が細くなる。

「否定告白の逆。罪を認めれば軽くなる」

「秘密の重さを量ってる」

 三人は一枚ずつ進んだ。

「私は偽証した」

「私は飢えた者を追い返した」

「私は人の恐怖を楽しんだ」

 サミールは〈川を汚す〉で、砂漠に空き缶を捨てたことを白状した。

 マリアムは〈死者を辱める〉で、父の名誉を取り戻すためなら墓を壊してもいいと思っていた、と告げた。

 岳は最後から二枚目、〈友を見捨てる〉の上で止まった。

 十年前の海底遺跡。

 崩れた船倉。

 相棒の手が、濁った水の向こうから伸びていた。

 岳は酸素残量を見て、その手を離した。

 救助は不可能だったと、何百回も自分に言い聞かせてきた。

「俺は――」

 喉が固まる。

 背後で石扉が割れた。

 光が差し込み、銃声が回廊を裂く。弾丸が岳の頬をかすめた。

「言って!」マリアムが叫ぶ。

「俺は友を見捨てた!」

 岳は板を蹴った。

 針は落ちない。

 三人が羽根の扉へ駆け込むのと同時に、ヴァルガの護衛が罠の部屋へ踏み込んだ。

 先頭の男は仕組みを知らず、〈殺し〉の石板へ乗る。

 天井が一斉に降った。

 悲鳴と金属音。

 後続の男たちは止まった。

 その間を、ヴァルガだけが静かに歩いてくる。

「私は殺した」

 一歩。

「私は偽証した」

 一歩。

「私は、飢えた者から未来を奪った」

 一歩。

 針は一本も落ちない。

 彼は罪を悔いていない。

 だが、隠してもいない。

「正直さは美徳ではない」とヴァルガは言った。「ただの切れ味だよ」

 羽根の扉が閉じる直前、岳は彼の微笑みを見た。

 獲物ではなく、同席者を見る目だった。

 十三番目の門の内側には、庭園があった。

 地下数百メートルの空洞を、青い光が満たしている。

 光源は天井から垂れ下がる無数の結晶だった。鍾乳石ではない。透明な袋の中で、蛍のようなものが脈打っている。

 地面には白い葦。葉のない蓮。水路には黒い水が流れ、その中を細長い魚が泳いでいる。

 魚には、人間の歯があった。

「自然環境じゃない」とマリアム。「誰かが造った」

「王墓より古いかもしれない」と岳。

 壁は切り出した石ではなく、滑らかな黒い物質でできている。触れると温かく、ごく微かに鼓動していた。

 サミールが香辛料の小瓶を開け、白い葦へ振りかけた。

 粉が触れた場所だけ、葦が一斉に身を引く。

「植物が嫌がってる」

「クミンが嫌いな生き物とは友達になれない」とサミールは言った。

 庭園の中央には石造りの舟があった。

 三人が乗り込むと、舟は水路の流れに乗って動き始めた。櫂も帆もない。船底の下で、何かが水を押している。

 左右の岸に、ミイラが並んでいた。

 王の家臣、兵士、書記、子供。すべて口を黄金の糸で縫われ、両手で喉を押さえている。

 その数は百を越える。

 マリアムが一体を照らした。

 胸元に近代の革製カメラケースがある。

「待って」

 彼女は舟から身を乗り出した。

 ケースの留め具に、H・Sの刻印。

 ハリド・サリーム。

「父のものよ」

 岸へ飛び移ろうとするマリアムを、岳が掴んだ。

「罠かもしれない」

「放して」

「確認する」

 岳はロープをケースへ投げ、鉤を引っかけた。

 ゆっくり引く。

 ケースはミイラの胸から離れた。

 その下には、人間の身体がなかった。

 包帯がほどけ、内側から白い脚が何十本も伸びる。

 蟹にも蜘蛛にも似た生き物が、金色の糸を引きちぎって跳ねた。口の代わりに円形の穴があり、その縁に小さな人間の唇が並んでいる。

 岳はケースごと怪物を水路へ叩き落とした。

 黒い水が沸騰する。

 歯を持つ魚が群がったが、怪物は逆に魚を掴み、唇の穴へ押し込んだ。

 岸のミイラたちが一斉に動き始めた。

「舟を速くしろ!」マリアム。

「どうやって!」

 サミールが残った香辛料を水へ全部投げた。

 黒い水が爆発した。

 魚が狂ったように跳ね、何か巨大なものが水底で身をくねらせる。石舟が波に押され、急加速した。

 ミイラの怪物たちが岸から飛びかかる。

 岳は一体を蹴り落とし、もう一体の脚をナイフで断った。切り口から血ではなく、青い光を帯びた砂が噴き出す。

 サミールの肩に一体が取りついた。

 円形の口が開き、彼の顔へ迫る。

 マリアムがカメラケースで殴った。

 怪物はよろめき、岳が黄金の縫い糸を掴んで水へ投げる。

 舟は水路の終端へ突っ込んだ。

 石壁しかない。

「行き止まり!」

「伏せろ!」

 舟首が壁へ衝突する。

 黒い壁は水面のように揺れ、舟を飲み込んだ。

 一瞬の暗闇。

 次に三人は、乾いた石床へ投げ出された。

 背後の壁は元通り固くなり、怪物たちの影が向こう側で蠢いている。

 サミールが肩を押さえた。服が裂け、皮膚に細い傷が走っている。

「噛まれてない?」

「口が多すぎて、どれを数えればいいか分からない」

 岳が傷を見ると、出血は少ない。

 だが皮膚の下を、青い光が一度だけ走った。

 カメラケースの中身は、十八年前のまま乾燥していた。

 フィルム三本。

 折れた万年筆。

 銀の指輪。

 そして小さな録音機。

 マリアムが再生ボタンを押す。

 砂嵐のような雑音の後、男の声が流れた。

『六月十七日。地下構造は王墓ではない。ネフェル=セトはこれを築いたのではなく、封じるために王国を使い潰した』

 マリアムは息を呑んだ。

 父の声だった。

『壁面の年代は測定不能。石ではなく、生物由来の組織に近い。ヴァルガは興奮している。彼は墓を発見したいのではない。ここで行われた「宴」を再現したいのだ』

 録音の向こうで、別の男が笑っている。

 若いヴァルガの声。

『ハリド、学者はいつも理解しただけで満足する。料理人は違う。理解は、口に入れて初めて身体になる』

 銃声。

 録音が乱れた。

『マリアムへ』

 父の声が低くなる。

『これを聞くなら、私は帰れなかったのだろう。東から三番目の石を――』

 激しい衝撃音。

 テープが止まった。

 マリアムは何度も再生ボタンを押した。

 続きはない。

「東から三番目の石」と岳。

「何のことか分からない」

「奥へ行けば分かる」

 サミールが壁にもたれた。

 顔色が悪い。

「休もう」と岳。

「だめだ」サミールは首を振った。「皮膚の下で、何かが言葉を探してる」

 彼は口元を押さえた。

 喉が不自然に膨らみ、次の瞬間、彼の声ではない囁きが漏れた。

『水をくれ』

 女の声だった。

『母さん』

『暗い』

『私の名前を返して』

 無数の声が、サミールの喉から重なって聞こえる。

 マリアムが駆け寄る。

「さっきの生物が、何かを入れたの?」

「違う」サミールは苦しげに笑った。「持っていった。僕の言葉を掘って、昔の声を出してる」

 岳は傷口へ黒曜石の舌を近づけた。

 舌の小孔が青く光る。

 サミールの皮膚の下で動いていた光が、傷口へ集まってきた。

 岳はナイフで傷を浅く開き、黒曜石を押し当てた。

 細い糸のような生物が引きずり出される。透明な体内に、小さな口がいくつも浮かんでいる。

 糸は黒曜石へ吸い込まれ、消えた。

 サミールが床へ崩れた。

 呼吸はある。

「この鍵は、声を集める器でもある」とマリアム。「だから〈舌〉なのね」

「王は人間の声を怪物へ食わせた」

「違うかもしれない。怪物から声を奪って、封じるために使ったのかも」

 拍手が響いた。

 回廊の入口に、ヴァルガが立っている。

 左右には護衛が二人。罠の部屋を抜けたのはそれだけらしい。

 ヴァルガの白い帽子には血が一滴ついていたが、服には皺ひとつない。

「すばらしい処置だ、ムッシュ・カミシロ。外科医の道へ進むべきだった」

「患者を食べない病院ならな」

 ヴァルガは微笑んだ。

「食べるという言葉を、君たちは狭く使いすぎる。人は他者の時間を食べ、労働を食べ、愛情を食べて生きる。私はただ、比喩を誠実にしただけだ」

 マリアムが父の録音機を掲げた。

「父を殺したの?」

「いいや。彼は自分で残った」

「嘘」

「東から三番目の石を守るためにね」

 ヴァルガは護衛へ合図した。

 二人が銃を向ける。

「黒い舌を渡したまえ。そうすれば、サミール君には薬を与えよう」

「薬があるのか」

「ない。だが希望は、時に薬よりよく効く」

 サミールが片目を開けた。

「この人、友達が少なそうだ」

 彼の手には、岳が落とした照明弾が握られていた。

 引き金を引く。

 白熱した火球が護衛の足元へ飛び、回廊が昼のように明るくなった。男たちが目を覆う。

 岳は一人の銃身を掴んで捻り、肘を顎へ叩き込む。発砲。弾丸が天井の結晶を割った。

 青い液体が降り注ぎ、もう一人の護衛の肩へ付着する。

 男は悲鳴を上げた。

 液体は皮膚を焼くのではなく、皮膚を透明にしていく。筋肉、骨、脈打つ血管が青く透けて見えた。

 その透明な身体の内側で、小さな口が一斉に開いた。

 ヴァルガだけが動じなかった。

 彼は岳の胸元へ手を伸ばし、黒曜石の舌を抜き取る。

 岳が殴りかかるより早く、細身の注射器が首へ刺さった。

「食前酒だ」とヴァルガが囁く。

 世界が横倒しになった。

 岳が目を覚ましたとき、晩餐の席に着かされていた。

 長い石卓。

 黄金の皿。

 三千年前の油が灯るランプ。

 卓の両側にはミイラ化した貴族たちが座り、空洞の眼で中央の料理を見つめている。

 料理は、人間の心臓だった。

 少なくとも形はそう見える。

 黒い樹脂で固められ、香草と金箔がまぶされている。甘い没薬の匂いがした。

 岳の両手は椅子へ縛られている。

 右隣にマリアム、左隣にサミール。サミールはまだ意識が朦朧としていた。

 卓の向こうにはヴァルガ。

 葡萄酒色の上着を脱ぎ、白いシャツの袖を正確に二回折っている。

「歓迎しよう」と彼は言った。「ネフェル=セト王、最後の晩餐の間へ」

 背後には巨大な石棺があった。

 蓋に彫られた王の顔は、黄金の仮面を被っている。仮面の口だけが大きく開き、舌のない暗い穴を見せていた。

「父はどこで死んだの」とマリアム。

「ここだ」

「遺体は?」

「庭園が利用した」

「あなたは見捨てた」

「彼は私を撃った。私は彼の胸を刺した。公平な結末だった」

 ヴァルガは銀の小箱を開けた。

 中には古びた砂糖菓子ほどの、茶色い欠片が入っている。

「ハリドの心臓の一部だ」

 マリアムの顔から血の気が引いた。

「私は敵を侮辱するために食べるのではない」とヴァルガは続けた。「敬意を払うためだ。彼の勇気、頑固さ、娘への愛。それらは腐敗させるには惜しかった」

「あなたの中に父は一片もいない」

「それは今夜、確かめられる」

 岳は椅子の脚へ靴底を押しつけた。

 石床に小さな突起がある。

 ロープを切れそうな角ではない。文字だ。

 東から三番目。

 父の録音が脳裏に蘇る。

「儀式には三人の生者が必要だ」とヴァルガは言った。「盗む者。読む者。食べる者。古代の碑文は役割をそう定めている。私は食べる者だ」

「ずいぶん都合よく配役したな」

「人は望んだ役しか演じられない」

 ヴァルガは黒曜石の舌を、黄金仮面の口へ差し込んだ。

 石棺の内部で、何かが息を吸った。

 ランプの炎が一斉に石棺へ傾く。

 黄金仮面の眼が開いた。

 空洞の奥に、星空が見える。

『名を』

 声は部屋全体から響いた。

 男とも女とも、老いとも幼さともつかない。

 ヴァルガは恍惚とした表情で答える。

「アドリアン・エティエンヌ・ヴァルガ」

『飢えを』

「記憶だ。失われた時代の味。死者が最後に抱いた感情。神が人を見下ろした高さ」

『代価を』

「ここに三人の声がある」

 マリアムが叫んだ。

「碑文を読み違えてる! その王は神になったんじゃない。神の餌になったのよ!」

 黄金仮面の口が笑った。

 石棺の蓋が、内側から持ち上がる。

 隙間から黒い糸が何百本も這い出した。糸の一本一本に小さな唇があり、乾いた囁きを撒き散らす。

 ミイラの貴族たちが同時に頭を上げた。

 サミールの喉からも声が漏れる。

『開けて』

『星が寒い』

『口を返せ』

 ヴァルガは恐怖ではなく、歓喜に震えていた。

「聞こえるか。三千年の記憶だ」

 彼は黄金の皿から樹脂の心臓を切り取り、口へ入れた。

 一度、噛む。

 その瞬間、彼の腹から悲鳴が上がった。

 口ではない。

 胸、喉、頬、腕。皮膚の下から無数の声が押し寄せ、身体を内側から震わせる。

『暗い部屋』

『赤いナプキン』

『お願い、先生』

『私はまだ生きている』

『娘に伝えて』

 ヴァルガがこれまで食べた者たちの声だった。

 彼はよろめき、卓へ手をつく。

「これは……記憶の再生だ」

「違う」とマリアム。「告発よ」

 黄金仮面の口から、さらに太い糸が伸びた。

 それはヴァルガの唇へ触れ、ゆっくり中へ潜り込む。

 彼はなおも笑おうとした。

 だが笑い声に、別人の泣き声が混じった。

 岳は足元の突起を探った。

 東の壁から数える。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 椅子ごと身体を倒し、三番目の床石へ肩を叩きつける。

 石が沈んだ。

 部屋の奥で、巨大な歯車が回り始めた。

 東から三番目の石は、墓の排水門を開いた。

 轟音とともに壁が割れ、地下湖の水が奔流となって晩餐室へ突入する。

 石卓が持ち上がり、ミイラたちが押し流された。岳の椅子も横転し、床へ叩きつけられる。

 縛り目が石の角へ当たった。

 一度。

 二度。

 縄が切れる。

「マリアム!」

 岳は水中へ潜り、彼女の椅子を起こした。ナイフで縄を切る。

 サミールの方へ泳ごうとしたとき、床が裂け、黒い脚が突き出した。

 石棺から〈それ〉が起き上がる。

 壁画の怪物は、誇張ではなかった。

 ジャッカルに似た頭部は半透明で、内部に人間の顔が何層も浮かんでいる。甲虫のような胴は石棺いっぱいに膨れ、濡れた翼を畳んでいた。腹から伸びる無数の腕が床を掻き、先端の手がそれぞれ別の祈りの形を作っている。

 口から伸びた声の糸は、ヴァルガと繋がったままだ。

 ヴァルガの身体は水面から吊り上げられていた。

 皮膚が波打ち、彼が奪ってきた声が次々と放たれる。

『逃げろ』

『彼は毒を入れた』

『アドリアン』

『父さん』

『マリアム』

 最後の声に、マリアムが振り返った。

 ヴァルガの顔からではない。

 胸の奥から、ハリドの声が聞こえる。

『三番目の石で、水を入れろ。西の秤で、門を閉じろ』

「お父さん?」

 ヴァルガの瞳が一瞬だけ正気に戻った。

「君の父は、実に頑固だ」

 怪物の糸がさらに深く食い込む。

 ヴァルガの口が裂けんばかりに開いた。

 それでも彼は岳を見て、掠れた声で言った。

「神代君……料理には、最後の火加減が必要だ」

 彼の手には、先ほどの照明弾があった。

 引き金。

 火球が怪物の半透明の頭部へ突き刺さる。

 青い炎が走り、内部の顔たちが一斉に絶叫した。怪物はヴァルガを振り回し、石柱へ叩きつける。

 その衝撃で黄金仮面から黒曜石の舌が外れ、水へ落ちた。

 岳は飛び込んだ。

 濁流の中、黒い舌が沈んでいく。

 指先が触れる。

 同時に、透明な糸が岳の手首へ巻きついた。

 頭の中へ、他人の記憶が流れ込んだ。

 砂漠へ落ちる火の星。

 まだナイルが七本の大河だった時代。

 空から来た卵を掘り出す人々。

 卵の中で眠る飢え。

 王ネフェル=セトが、敵国の捕虜を差し出す姿。

 怪物は肉を食べない。

 声を食べる。

 言葉に結びついた記憶、名前、愛、恐怖を吸い取り、空っぽの身体を巣にする。

 やがて王は悟った。

 飢えは満たせない。

 そこで黒い舌を造り、怪物が集めた声を逆流させた。何千もの記憶を一度に返し、眠らせたのだ。

 封印の条件は一つ。

 最も多く奪った者を、餌として残すこと。

 岳は水面へ浮かんだ。

「西の秤だ!」

 マリアムはサミールを抱えながら、壁を照らした。

 水没しかけた西壁に、巨大な天秤の浮彫りがある。片方の皿に羽根、もう片方は空。

 空の皿には、人間ひとりが立てるほどの窪み。

「誰かを載せろってこと?」

「最も重い秘密を持つ者だ!」

 三人の視線がヴァルガへ向く。

 だが彼は怪物の腕に絡め取られ、天井近くまで持ち上げられている。

 岳は石卓へ上り、吊り下がるランプの鎖を掴んだ。振り子のように身体を振る。

 一往復。

 二往復。

 怪物の腕が迫る。

 岳は鎖を離し、ヴァルガへ飛びついた。

 二人はもつれたまま水へ落ちる。

 岳は黒曜石の舌を、ヴァルガの口へ押し込んだ。

「味わえ!」

 黒曜石が青く発光する。

 ヴァルガの身体から、奪われた声が奔流となって噴き出した。

 何十、何百という名前。

 助けを求める声。

 愛を告げる声。

 死の直前に誰かを許した声。

 言えなかった謝罪。

 完成しなかった歌。

 怪物は飢えたように全身を開いた。

 声の糸がヴァルガへ集中する。

 岳は彼の襟を掴み、天秤の皿へ叩き込んだ。

 皿が沈む。

 反対側の羽根が上がり、西壁が割れた。

 巨大な石扉が天井から落ち始める。

 怪物は気づき、ヴァルガを引きずって逃れようとした。

 ヴァルガは皿の中から岳を見た。

 顔には恐怖がある。

 だがそれ以上に、敗北を味わう者の好奇心があった。

「感想を聞きたいか」と岳。

「ぜひ」

「後味が悪い」

 石扉が落ちた。

 怪物の腕が潰れ、青い砂が噴き出す。

 ヴァルガと怪物の本体は、十三番目の門の向こうへ引きずり込まれた。

 最後まで聞こえていたのは悲鳴ではない。

 彼が何かのレシピを、静かに暗唱する声だった。

 封印が閉じると、晩餐室は崩れ始めた。

「出口は!」サミールが叫ぶ。

「水が入ってきた方へ戻る!」岳。

「流れに逆らえない!」

「なら流れの先だ!」

 三人は浮いた石卓の天板へしがみついた。

 濁流が部屋を満たし、天板を回廊へ押し流す。頭上すれすれを石梁が飛び、背後で柱が倒れる。

 黒曜石の舌は、ヴァルガとともに門の向こうへ消えた。

 黄金仮面も砕け、青い光となって水へ溶けていく。

 急流は庭園へ突入した。

 白い葦が倒れ、ミイラの怪物たちが水に呑まれる。天井の発光器官が次々と破裂し、青い雨が降った。

 石卓の天板は回転しながら水路を走る。

「前!」

 巨大な雌獅子像の裏側が迫っていた。

 岳はサミールの腰へロープを巻き、マリアムと結ぶ。

「息を吸え!」

 水が三人を像の内部へ吸い込んだ。

 暗い管。

 石に身体を打ちつけられながら、上へ、上へと運ばれる。

 肺が限界に近づいたとき、岳の頭が水面を破った。

 夜空があった。

 三人は塩湖の穴から噴き上げられ、白い地面へ転がった。

 地下から吹き出す水が即席の泉となり、月明かりを浴びている。

 マリアムが咳き込みながら笑った。

 サミールも仰向けになり、両腕を広げる。

「僕の車は?」

 泉の中央から、トラックのタイヤが一つ浮かんできた。

「半分は帰ってきた」と岳。

「一番安い半分だ」

 夜明けまでに水は止まり、塩湖には黒い円形の池が残った。

 地下への入口は完全に崩れていた。

 マリアムは濡れたカメラケースを開ける。

 録音機は壊れていた。

 だが銀の指輪は残っている。

 内側に、小さく名前が刻まれていた。

 Mariam.

 彼女は指輪を握り、しばらく泣いた。

 岳とサミールは何も言わず、東の空が赤くなるのを見ていた。

十一

 三か月後。

 ワディ・アル=アズラクで起きた地盤沈下は、政府発表では「古代地下水路の崩落」とされた。

 ヴァルガ財団の違法発掘に関する資料は、マリアムが持ち帰った録音と、カイロの宮殿に残された競売台帳によって明るみに出た。複数国の捜査機関が財団の倉庫を押収し、行方不明だった遺物の多くが返還された。

 アドリアン・ヴァルガ本人は、砂漠で消息を絶った。

 死亡は確認されていない。

 カイロ博物館の修復室で、マリアムは父の指輪を細い鎖へ通し、首にかけていた。

 岳は机の上に封筒を置く。

「請求書?」

「経費明細」

「宮殿の船、砂漠のトラック、照明弾十二本」

「船を落としたのは向こうだ」

「あなたが乗ったから落ちた」

「歴史的建造物は、もう少し丈夫であるべきだ」

「サミールの香辛料代が、水代の四倍ある」

「命を救ったクミンだぞ」

 マリアムはため息をつき、封筒を引き出しへ入れた。

「黒い舌も黄金仮面も失われた。あなたにしては、宝が一つもないわね」

「宝は戻すために見つけるものだ」

「ずいぶん立派になった」

「請求書を見る前に言ってくれ」

 岳が帰ろうとしたとき、マリアムが呼び止めた。

「ねえ。あのとき、黒い舌に触れて何を見たの?」

 岳は少し考えた。

「腹を空かせた生き物は、神に見えることがある」

「それだけ?」

「それだけだ」

 彼は修復室を出た。

 夕暮れの街へ入ると、香辛料、排気ガス、焼いた肉、ナイルの湿気が一度に押し寄せる。

 屋台の主人が、焼きたてのパンを差し出した。

 岳は一つ買い、歩きながら齧る。

 小麦。

 塩。

 焦げた胡麻。

 その奥に、知らない味がした。

 冷たい星空の味。

 砂の下で、何千もの口が夢を見る味。

 岳は足を止め、舌先で確かめた。

 もう何もない。

 通りの向こうで、白い帽子の男が角を曲がったように見えた。

 追いかける。

 だがそこにいたのは、果物籠を抱えた老人だけだった。

「誰か探しているのかい?」

 岳は首を振った。

「食事に遅れそうなだけだ」

 街の灯が一つずつ点る。

 その下を、彼は人波へ紛れて歩いていった。