『十三番目の夕鐘』
この町では、夕方六時、鐘は十二回鳴る。
十三回目を聞いた者は、翌朝、誰か一人を忘れている。
一
最初の十二回は、いつもと同じだった。
山の中腹にある夕凪神社から、重い鐘の音が町へ転がり落ちる。商店街のシャッターが震え、電線の雀がいっせいに飛び立ち、海へ沈みかけた夕日が、古い家々の窓を赤く燃やした。
日下石朝陽は自転車を押しながら、無意識に数えていた。
「……十、十一、十二」
そこで音は止まった。
隣を歩く桐里小夜が、紙袋からたい焼きの尻尾をのぞかせたまま、得意げに笑う。
「ほら。十二回。『十三回目を聞くと呪われる』なんて、観光協会が作った怪談だって」
「観光協会が、客の来なくなる怪談を作るかよ」
「逆に来るかも。心霊スポット目当てで」
「うちの町に来ても、海と坂と、やたらうるさいカモメしかないぞ」
「あと、無愛想な鋳物屋の孫」
「それは観光資源じゃない」
小夜が笑った、その瞬間だった。
――ごおん。
音は耳から入ってこなかった。
骨の内側で鳴った。
朝陽の歯がかちりと噛み合い、胸ポケットの中で、母の形見だと聞かされている小さな青銅片が震えた。鐘の舌を欠いたような、指先ほどの金属片だ。
十三回目。
商店街を歩いていた人々が、いっせいに足を止めた。
八百屋の主人は包丁を持ったまま宙を見つめ、バス停の老人は隣の空席に向かって「誰だっけ」とつぶやいた。信号機の赤だけが、血のように瞬いている。
朝陽の隣で、紙袋が落ちた。
「小夜?」
彼女は両手で喉を押さえていた。
「今……誰かに、名前を呼ばれた」
「俺には鐘しか聞こえなかった」
「鐘じゃない。下から」
小夜が指さしたのは、地面だった。
アスファルトの上に伸びた彼女の影が、夕日とは反対の山側へ向かっていた。
影の頭がゆっくりと持ち上がる。
黒い平面の中に、細い亀裂が走った。
口だった。
――きりさと、さよ。
影が笑った。
次の瞬間、小夜の影は地面から剥がれ、濡れた布のようにうねりながら路地へ逃げ込んだ。
小夜は膝から崩れ落ちた。
朝陽が抱きとめたとき、通りの人々はもう歩き始めていた。誰もこちらを見ない。たい焼きだけが、夕焼けの路上で湯気を失っていった。
二
翌朝、教室には一つ、見覚えのない空席があった。
窓側の後ろから二番目。
机の横には猫のキーホルダーがついた紺色の鞄。机の中には、昨日の数学で小夜が「余裕」と言いながら三問中二問を間違えた小テスト。黒板の当番表には、白いチョークで消したような跡がある。
なのに、担任は出席簿を読み上げるとき、その席を飛ばした。
「先生」
朝陽が手を挙げる。
「桐里は?」
教室が静まった。
担任の眉が寄る。
「きりさと?」
「桐里小夜。そこ、あいつの席でしょう」
前の席の男子が振り返った。
「日下石、寝ぼけてんの? そこ、ずっと空席じゃん」
「昨日までいただろ。放課後、一緒に帰って――」
「朝陽」
声は窓の外からした。
小夜が、校舎の外壁に張りつくように立っていた。
三階だ。
彼女の髪は重力を無視して上へ流れ、制服の裾から下は、薄い煙のように透けている。顔色は悪いが、本人はいつものように眉を吊り上げた。
「ちょっと! 勝手に私を過去形にしないで!」
朝陽は椅子を蹴って立ち上がった。
クラス全員がびくりとする。
けれど、誰も窓の外を見なかった。
「……見えてないのか」
昼休み、朝陽は屋上へ向かった。
立入禁止の札が下がった扉を、肩で押し開ける。潮風が吹き込み、フェンスのそばに座っていた小夜の輪郭を揺らした。
「遅い」
「授業中に三階の窓へ出るな。心臓が止まる」
「止まったら仲間だね」
「縁起でもない」
朝陽は彼女の隣へ座った。触れようとして、手を止める。
小夜の右肩の向こうに、青い空が透けていた。
「家は?」
「お母さん、私を見ても『どちらさまですか』って。お父さんは、玄関に知らない靴があるって怒ってた」
声は明るかった。
明るすぎた。
「写真もだめ。卒業アルバムは顔が真っ黒。スマホの連絡先は、名前のところだけ空白。朝陽に電話しようとしたけど、自分の声が機械に入らない」
小夜は膝を抱えた。
「ねえ。私、死んだのかな」
「死んでたら、たい焼き代を請求できない」
「昨日の、私が払ったんだけど」
「じゃあ生きてる。借金は存在証明だ」
小夜が吹き出した。
その笑いが途切れる。
彼女の左手の小指が、先端から灰になって崩れた。
二人とも黙った。
灰は風に巻かれ、空へ消えた。小夜は震える手を背中へ隠す。
「昨日、影に名前を呼ばれた。たぶん、あれが私を消してる」
「十三番目の鐘だ」
朝陽は胸ポケットから青銅片を取り出した。
表面には細かな文字が刻まれている。幼いころは傷だと思っていたが、今見ると、いくつもの名前を無理やり削り取った跡に見えた。
「うちは代々、神社の鐘を鋳てきた。爺ちゃんが何か知ってる」
「聞けば教えてくれる?」
「たぶん、怒鳴る」
「じゃあ当たりだね。大人は隠してることを聞かれると、まず怒るから」
小夜は立ち上がった。
「行こう。私が全部消える前に」
「いつまでだ」
「わかんない。でも――」
彼女は目を閉じ、震える息を吐いた。
「自分の名字が、一瞬、思い出せなかった」
三
日下石鋳房は、町外れの川沿いにある。
工房へ入ると、金属と煤と油の匂いが鼻を刺した。天井から大小の鐘が吊られ、風もないのに、かすかに揺れている。
祖父の源造は、溶鉱炉の前に立っていた。
七十を越えても背中は曲がらず、腕は丸太のように太い。朝陽を見るなり、火箸を炉へ突っ込んだ。
「学校はどうした」
「桐里小夜を知ってるか」
火の粉が弾けた。
それだけで答えは十分だった。
「帰れ」
「やっぱり知ってるんだな」
「その名を口にするな」
「なんでだ。町中の人間が忘れてる。家族までだぞ」
源造は火箸を握る手に力を込めた。
「忘れたなら、それでいい」
工房の隅で、小夜が息を呑んだ。
源造には彼女が見えていない。それでも声だけは聞こえたらしく、老人の片眉が動く。
「……まだ、ここにいるのか」
「いるよ」
小夜が答える。
「勝手に消すな。私の人生は、町の備品じゃない」
源造は目を閉じた。
「夕凪の鐘は、町を守るためにある。十三年に一度、鐘は一つの名を食う。その名が人の世から消えれば、海は鎮まり、山は崩れず、町は次の十三年を生き延びる」
「生け贄じゃないか」
「そう呼びたければ呼べ」
「ふざけるな!」
朝陽の声が工房に反響した。吊られた鐘が、いっせいに低く唸る。
「十三年前は、誰だった」
源造の顔から血の気が引いた。
朝陽は青銅片を突き出した。
「これは母さんの形見だって言ったな。でも俺は、母さんの葬式を覚えてない。墓もない。写真も、一枚もない。なのに俺は、母さんが歌ってた歌だけ覚えてる。『夕焼け小焼け』の最後を、いつも間違えてた」
老人の口元が歪んだ。
「母さんも、鐘に食われたのか」
「違う」
「じゃあ、どうして名前を言えない」
「やめろ」
「母さんの名前は!」
「夕子だ!」
源造の怒声と同時に、天井の鐘がすべて鳴った。
何十もの音が重なり、工房の窓ガラスが粉々に砕ける。
小夜が頭を抱えてうずくまった。
床に落ちたガラス片の一つ一つに、女の顔が映った。長い髪。やさしい目。朝陽とよく似た眉。
すべての口が、同じ言葉を形作る。
――忘れないで。
炉の火が黒く染まった。
黒い炎の中から、長い腕が伸びる。指先には爪の代わりに小さな鐘がぶら下がり、その一つ一つから、泣き声が漏れていた。
「下がれ!」
源造が火箸で腕を叩く。
金属を打つような甲高い音。黒い腕は炉へ引っ込んだが、床に落ちた影がむくむくと膨らみ、人の形になった。
顔がない。
首から上は青銅の鐘で、裾の裂け目が口のように開いている。
その内側で、白い歯が何列も鳴った。
「名を、よこせ」
鐘の怪物が、小夜へ手を伸ばす。
朝陽は作業台の木槌をつかみ、横殴りに振り抜いた。
ごん、と鈍い音。
怪物の頭がへこみ、歯の隙間から黒い泥が噴き出す。泥が床へ落ちるたび、人の声になった。
「お母さん」
「先生」
「ぼくは、ここに」
「忘れないで」
小夜の顔が青ざめる。
「これ……今まで消された人たち?」
怪物の腕がしなる。
朝陽は木槌で受けた。衝撃が肩まで突き抜け、壁へ叩きつけられる。
「朝陽!」
小夜が駆け寄ろうとした瞬間、怪物の指の鐘が鳴った。
彼女の左腕が肘まで透けた。
「やめろ!」
朝陽は立ち上がり、胸の青銅片を怪物へ投げつけた。
青銅片が額に刺さる。
怪物は絶叫した。
人の声ではない。千人が同時に名前を呼ばれ、同時に忘れられるような声だった。
黒い体が裂け、煙となって炉の奥へ吸い込まれる。
あとに残った青銅片を、源造が拾った。
「鐘の舌の欠片だ。夕凪神社の地下にある、最初の鐘のな」
「最初の鐘?」
「今、山で鳴っているものは抜け殻だ。本物は、三百年前から地の底に逆さに吊られている」
源造は、削られた文字を親指でなぞった。
「十三年前、小夜の兄――桐里朔が選ばれた。夕子は儀式を止めようとした。地下の鐘へ入り、朔の名を取り戻そうとして……鐘に呑まれた」
小夜が顔を上げた。
「兄……?」
目の奥に、古い光景がよみがえったようだった。
雨の日。黄色い傘。小さな自分の手を引く、少年の背中。
「朔兄……」
名前を口にした途端、工房の奥で何かが泣いた。
「私、兄がいた。ずっと、夢の中の人だと思ってた」
「だから今回、お前が選ばれた」
源造の声は低かった。
「忘れられた名を思い出す者は、空鐘様にとって傷になる。十三年前に取りこぼした記憶を、今度こそ食い尽くすつもりだ」
「じゃあ地下の鐘を壊せばいい」
朝陽が言う。
「できん。あれを壊せば、町を押さえているものまで解ける」
「本当に町を守ってるのか?」
「何?」
「さっきの化け物は、守り神の顔じゃなかった。忘れられた人間を腹に詰めて、もっと名前を欲しがってた」
朝陽は青銅片を奪い返す。
「守ってるんじゃない。育ってるんだ。俺たちが忘れるたびに」
源造は答えなかった。
その沈黙を、小夜が破った。
「地下へ行く道を教えて」
「ならん」
「私は今夜までに消える」
「一人で済むなら――」
乾いた音がした。
小夜の平手が、源造の頬を打っていた。
透けた手だった。それでも老人の顔は横を向いた。
「一人で済む、じゃない」
小夜の声は震えていた。
「一人が消えたら、その人を好きだった人の中にも穴が空く。何を失くしたかもわからない穴が。町中が穴だらけになるまで続けて、それを平和って呼ぶの?」
源造の足元に、涙が一滴落ちた。
消えかけた少女の涙だけは、床に残った。
四
夕凪神社へ続く石段は、六百六十六段あると言われている。
実際に数えた者はいない。途中から、上った段と下りた段の数が合わなくなるからだ。
午後五時四十分。
朝陽と小夜は、赤い鳥居をくぐった。
源造は工房に残った。地下への道は教えない、と最後まで言い張ったが、朝陽の青銅片に付着した黒い泥が、山へ向かって細い筋を引いていた。
「お爺さん、来ないかな」
「来ない」
「即答」
「あの人は昔から、決めたことを曲げない」
「朝陽もそっくりだよ」
「どこが」
「眉間」
小夜は笑った。
その顔の左半分が、もう薄かった。
石段の左右には、赤い前掛けをつけた地蔵が並んでいる。どれも顔を削られ、胸に小さな札を抱えていた。札には何も書かれていない。
一段上るたび、背後で足音が増えた。
一人分。二人分。十人分。
振り返ってはいけない、と町の子どもは教えられる。
小夜が小声で言った。
「後ろ、何人いると思う?」
「数えるな」
「百人くらい?」
「数えるなって」
「私たちが知ってる人数より、多いね」
足音の中に、子どもの草履、杖、ハイヒール、裸足が混じっている。誰も息をしていない。
五時五十分。
二人は拝殿へ着いた。
扉は開いていた。
中には祭壇がなく、畳の中央に四角い穴が口を開けている。冷たい風が地下から吹き上がり、何百枚もの白い紙札を天井へ舞い上げていた。
札には、途中まで書かれた名前がある。
「桐里 朔」
小夜が一枚をつかんだ。
墨の文字が血のように滲む。
ほかにも、古い名、新しい名、外国人らしい名、幼い字で書かれた名が、床一面を埋めていた。
「こんなに……」
「十三年に一人じゃない」
朝陽は札を拾い上げる。
「儀式を見た人。止めようとした人。忘れられた人を思い出した人。全部、食われたんだ」
穴の底から、鐘の音がした。
まだ六時前なのに、一回。
小夜の右足が消えた。
彼女は倒れ、朝陽が腕をつかむ。触れた感触は、霧より薄い。
「時間がない」
二人は穴へ下りた。
石の階段は、地中へ向かって螺旋を描いていた。壁には古い絵が彫られている。
海から黒い波が来る。
人々が逃げる。
一人の女が、家々の鏡や鍋や鈴を集め、巨大な鐘を鋳る。
鐘の表面に、死者の名前を刻む。
最後の絵で、町の人々は鐘を囲み、一人ずつ名を読み上げていた。
怪物へ人を差し出す絵は、どこにもない。
「これが本当の儀式だ」
朝陽は壁をなぞった。
「死んだ人を忘れないために、鐘を鳴らしたんだ。町を守ったのは生け贄じゃない。記憶だ」
その先の壁だけ、後世に塗りつぶされていた。
黒い漆の下から、乱暴に削られた文字が覗いている。
――鐘は死者を世に返すにあらず。
――名を人の胸へ返すものなり。
小夜が息を吸った。
「誰かが意味を逆にした」
「忘れた方が楽だったんだ。悲しい名前も、都合の悪い名前も、鐘に食わせればいい。そうやって守り神を、名喰いの化け物に変えた」
「じゃあ、元の儀式をすれば」
「名前を全部、読み上げる」
朝陽は床に落ちていた白札を束ねた。
「鐘を鳴らして、町に返す」
「何人いると思ってるの」
「知らない。でもやる」
「六時まで、あと七分」
「七分あれば、かなり喋れる」
小夜は呆れ、それから笑った。
「無愛想なくせに、こういうときだけ前向き」
階段の最下部に、巨大な扉があった。
青銅でできた扉には、十三の手形が押されている。最後の一つだけ新しく、指先から黒い泥が流れていた。
小夜が近づく。
手形が彼女の手を引いた。
「小夜!」
扉が開く。
闇の向こうから、無数の腕が伸び、小夜をさらった。
五
地下の空洞は、町が一つ入るほど広かった。
天井から、逆さまの鐘が吊られている。
高さは五階建ての校舎ほど。青銅の表面は黒く腐食し、削られた名前の跡が、無数の爪痕のように走っていた。鐘の口は上を向き、その底から、黒い根が地中へ伸びている。
根には人が実っていた。
目を閉じた子ども。
制服姿の学生。
作業着の男。
赤ん坊を抱いた女。
誰も顔がない。
誰も名前がない。
中央の根に、小夜が絡め取られていた。身体は胸から下が消え、輪郭が砂のようにこぼれている。
鐘の内側から、あの怪物が這い出した。
今度は工房で見たものより何倍も大きい。胴体は黒い縄と人の髪で編まれ、頭の鐘には、歯の代わりに無数の舌が垂れている。舌の一枚一枚に、名前が刻まれていた。
「桐里、小夜」
怪物が名を舐める。
小夜の制服から校章が消えた。
「返せ!」
朝陽は木槌を構え、床を蹴った。
怪物の腕をかいくぐり、膝へ叩き込む。青銅がへこみ、内側から子どもの泣き声が漏れた。
反撃の腕が飛ぶ。
朝陽は転がって避けた。床が砕け、黒い根が蛇のように襲いかかる。木槌で一本を折ると、根の中から白い札が噴き出した。
名前だ。
朝陽は札をつかみ、叫ぶ。
「浜口清次!」
逆さの鐘が震えた。
根に実った老人の顔が戻る。
町のどこかで、誰かが「あっ」と声を上げた気がした。
怪物がのけぞる。
「名前を呼ばれるのが嫌なんだな」
朝陽は散らばる札を拾い、次々に読み上げた。
「三田村ハナ! 奥野譲! 小田桐美雪! 伊佐木蓮!」
一つ呼ぶたび、鐘の表面に文字が浮かぶ。
一つ呼ぶたび、怪物の身体から黒い縄がほどける。
だが札は多すぎた。
何百、何千。
六時まで、あと三分。
怪物が頭を振る。
十三枚の舌が、鐘のように鳴った。
衝撃波が朝陽を吹き飛ばす。背中から壁へ叩きつけられ、肺の空気が抜けた。木槌が手を離れ、闇へ転がる。
怪物の指が朝陽の胸をつかむ。
「おまえも、忘れろ」
視界が白く染まった。
母の顔が消える。
声が消える。
夕焼けの台所で歌っていた人が、ただの光になる。
「やめろ……」
「忘れれば、痛くない」
甘い声だった。
「喪った者を忘れれば、悲しみも消える。罪を忘れれば、眠れる。名を忘れれば、死者は最初からいなかったことになる」
朝陽の中から、小夜との記憶が抜けていく。
たい焼き。
屋上。
強がった笑い。
空席。
少女の名前が、喉の奥でほどけ始める。
「朝陽!」
小夜の声がした。
彼女は根に縛られたまま、残った右手で胸を叩いていた。
「私の名前、言って!」
朝陽は口を開く。
出てこない。
「何回でも!」
「……さ」
「もっと!」
「小夜!」
怪物の指に亀裂が入る。
「桐里小夜!」
朝陽は叫んだ。
「十五歳! 辛いものが苦手なくせに見栄を張る! 数学が得意って言うけど、昨日の小テストは三十三点! たい焼きは頭から食う! 猫に好かれたいのに毎回逃げられる!」
「最後のは言わなくていい!」
「うるさい! 俺が覚えてる! お前が忘れても、町中が忘れても、俺が覚えてる!」
小夜の輪郭が光った。
消えた左手が戻る。
怪物の腕が砕け、朝陽は床へ落ちた。
六時まで、あと一分。
地上で一回目の鐘が鳴った。
逆さの鐘が共鳴する。
怪物が咆哮し、空洞の黒い根が一斉に朝陽へ迫った。
そのとき、天井から太い綱が落ちてきた。
根を薙ぎ払い、源造が滑り降りる。肩には、工房で最も大きな撞木を担いでいた。
「遅い!」
朝陽が叫ぶ。
「年寄りに六百六十六段はきついんだ!」
源造は撞木を振り回し、怪物の胸へ叩きつけた。
ごおん。
鐘の音が空洞を揺らす。
怪物の胴から、一人の女がこぼれ落ちた。
長い髪。やさしい目。朝陽とよく似た眉。
「母さん……」
夕子は透き通った姿で立ち、息子の頬へ手を伸ばした。
温かくはなかった。
それでも、触れた場所に懐かしい歌がよみがえった。
「ごめんな」
源造が、娘へ言った。
「十三年前、わしは町を選んだ。お前の言葉を信じなかった」
夕子は首を横に振る。
そして、逆さの鐘を指さした。
鐘の頂上――本来なら底にあたる場所に、一文字だけ、削られず残っている。
名。
朝陽は気づいた。
「怪物にも、名前がある」
小夜が根を引きちぎりながら叫ぶ。
「最初の守り神の名前!」
地上で二回、三回、四回と鐘が鳴る。
壁画の最初の女。
死者の名を刻んだ鐘。
忘却ではなく、記憶を守った神。
朝陽は青銅片を握りしめた。
削り跡の間に残った細い線を、指でなぞる。欠けた文字が、逆さの鐘に反射した光の中でつながっていく。
「名守……」
怪物が初めて怯えた。
「言うな」
「夕名守」
「言うな!」
怪物の舌が一斉に伸びる。
源造が撞木で受け止めた。肩が裂け、血が飛ぶ。それでも老人は退かない。
「朝陽! 呼べ!」
五回、六回、七回。
小夜が朝陽の手を握った。
今度は、はっきりと温かかった。
二人で息を吸う。
「夕名守大神!」
名前が、地下から地上へ突き抜けた。
町中の窓が震えた。
人々の頭に、忘れていた顔が戻る。
八百屋の主人は包丁を落とし、幼いころに亡くした姉の名を叫んだ。
バス停の老人は隣の空席を抱きしめ、戦争から帰らなかった友の名を呼んだ。
小夜の母は夕食の皿を三枚並べたまま立ち尽くし、「朔、小夜」と泣いた。
八回、九回、十回。
怪物の黒い縄がほどけ、内側から青い光があふれる。
顔のない人々に、次々と顔が戻る。
十一回。
夕子が朝陽へ微笑んだ。
「ずっと、覚えてた」
朝陽は言った。
十二回。
彼女の唇が動く。
――知ってる。
夕子の姿は光になり、鐘の文字へ溶けた。
地上の音が止まる。
町全体が、息を止めた。
怪物はまだ残っていた。
胸の中心に、黒い穴が開いている。そこから、最後の舌が伸びた。
舌には何も刻まれていない。
名を失った神自身のための空白だった。
「十三回目は、誰かを消す鐘じゃない」
朝陽は転がっていた木槌を拾った。
「忘れた名前を、帰す鐘だ」
小夜が隣で木槌に手を添える。
源造が撞木を構える。
三人は、逆さの大鐘を同時に打った。
十三回目。
――ごおおおおおん。
今度の音は、骨の内側ではなく、町にいる全員の胸で鳴った。
怪物の黒い身体が裂ける。
中から現れたのは、白い髪の小さな子どもだった。古い装束をまとい、泣き腫らした目で、朝陽たちを見上げている。
「わたしを……覚えているか」
朝陽は答えた。
「ああ」
小夜も頷く。
「忘れない」
子どもは、ようやく笑った。
その姿は無数の白い鳥となり、逆さの鐘の口から地上へ飛び立った。
黒い根が崩れ、顔を取り戻した人々が光へ変わる。光は一つずつ、白札に吸い込まれていった。
やがて大鐘は、三百年ぶりに正しい向きへ回転した。
地の底へ、静かに着地する。
朝陽は小夜の手を握ったまま、力が抜けて座り込んだ。
「いるか」
「いるよ」
「名前は」
「桐里小夜。十五歳。数学は――」
「三十三点」
「それは忘れていい!」
小夜の拳が朝陽の肩を叩いた。
今度は、ちゃんと痛かった。
六
それから一か月、町は泣き続けた。
忘れていた家族を思い出した者。
墓すら作れなかった友を弔う者。
自分が誰かを忘れていたことに、初めて気づいた者。
夕凪神社の境内には、名を記すための石碑が建てられた。白札から読み取れた名は二千三百十四。読み取れないものも多く、石碑の最後には、空白のままの欄が残された。
空白もまた、誰かがいた証だと、源造が言った。
神社の鐘は新しく鋳直された。
表面には消されたすべての名と、中央に大きく「夕名守大神」と刻まれている。
毎日夕方六時、鐘は十三回鳴る。
今度は町中の人が、声に出して数える。
「十、十一、十二、十三」
十三回目のあと、誰かが必ず、忘れたくない名を一つ呼ぶ。
月曜日の朝。
担任は出席簿を開き、窓側の後ろから二番目を見た。
「桐里小夜」
「はい」
小夜が返事をする。
教室の全員が、当たり前のように彼女を見た。
朝陽は頬杖をついたまま、こっそり息を吐く。
放課後、小夜は彼の机へ紙袋を置いた。
「はい。たい焼き」
「借金の返済?」
「私が払ったって言ったでしょ。これはお礼」
「何の」
「覚えててくれた」
小夜は窓の外を見た。
山の鐘楼が、夕日に黒く浮かんでいる。
「人って、いつかは忘れるよね。声とか、顔とか。大事だった気持ちまで薄くなる」
「だから鐘があるんだろ」
「朝陽は、私のこと忘れない?」
「数学三十三点は一生忘れない」
「そこじゃない!」
たい焼きが飛んできた。
朝陽は片手で受け止め、尻尾からかじる。
小夜が「あ、そっちから食べる派なんだ」と笑った。
そのとき、遠くで一回目の鐘が鳴った。
二人は並んで数え始める。
夕焼けの町を、一つずつ、名前が帰ってくる。
十二。
そして――十三。
了