『十三番目の夕鐘』

 この町では、夕方六時、鐘は十二回鳴る。

 十三回目を聞いた者は、翌朝、誰か一人を忘れている。

 最初の十二回は、いつもと同じだった。

 山の中腹にある夕凪神社から、重い鐘の音が町へ転がり落ちる。商店街のシャッターが震え、電線の雀がいっせいに飛び立ち、海へ沈みかけた夕日が、古い家々の窓を赤く燃やした。

 日下石朝陽は自転車を押しながら、無意識に数えていた。

「……十、十一、十二」

 そこで音は止まった。

 隣を歩く桐里小夜が、紙袋からたい焼きの尻尾をのぞかせたまま、得意げに笑う。

「ほら。十二回。『十三回目を聞くと呪われる』なんて、観光協会が作った怪談だって」

「観光協会が、客の来なくなる怪談を作るかよ」

「逆に来るかも。心霊スポット目当てで」

「うちの町に来ても、海と坂と、やたらうるさいカモメしかないぞ」

「あと、無愛想な鋳物屋の孫」

「それは観光資源じゃない」

 小夜が笑った、その瞬間だった。

 ――ごおん。

 音は耳から入ってこなかった。

 骨の内側で鳴った。

 朝陽の歯がかちりと噛み合い、胸ポケットの中で、母の形見だと聞かされている小さな青銅片が震えた。鐘の舌を欠いたような、指先ほどの金属片だ。

 十三回目。

 商店街を歩いていた人々が、いっせいに足を止めた。

 八百屋の主人は包丁を持ったまま宙を見つめ、バス停の老人は隣の空席に向かって「誰だっけ」とつぶやいた。信号機の赤だけが、血のように瞬いている。

 朝陽の隣で、紙袋が落ちた。

「小夜?」

 彼女は両手で喉を押さえていた。

「今……誰かに、名前を呼ばれた」

「俺には鐘しか聞こえなかった」

「鐘じゃない。下から」

 小夜が指さしたのは、地面だった。

 アスファルトの上に伸びた彼女の影が、夕日とは反対の山側へ向かっていた。

 影の頭がゆっくりと持ち上がる。

 黒い平面の中に、細い亀裂が走った。

 口だった。

 ――きりさと、さよ。

 影が笑った。

 次の瞬間、小夜の影は地面から剥がれ、濡れた布のようにうねりながら路地へ逃げ込んだ。

 小夜は膝から崩れ落ちた。

 朝陽が抱きとめたとき、通りの人々はもう歩き始めていた。誰もこちらを見ない。たい焼きだけが、夕焼けの路上で湯気を失っていった。

 翌朝、教室には一つ、見覚えのない空席があった。

 窓側の後ろから二番目。

 机の横には猫のキーホルダーがついた紺色の鞄。机の中には、昨日の数学で小夜が「余裕」と言いながら三問中二問を間違えた小テスト。黒板の当番表には、白いチョークで消したような跡がある。

 なのに、担任は出席簿を読み上げるとき、その席を飛ばした。

「先生」

 朝陽が手を挙げる。

「桐里は?」

 教室が静まった。

 担任の眉が寄る。

「きりさと?」

「桐里小夜。そこ、あいつの席でしょう」

 前の席の男子が振り返った。

「日下石、寝ぼけてんの? そこ、ずっと空席じゃん」

「昨日までいただろ。放課後、一緒に帰って――」

「朝陽」

 声は窓の外からした。

 小夜が、校舎の外壁に張りつくように立っていた。

 三階だ。

 彼女の髪は重力を無視して上へ流れ、制服の裾から下は、薄い煙のように透けている。顔色は悪いが、本人はいつものように眉を吊り上げた。

「ちょっと! 勝手に私を過去形にしないで!」

 朝陽は椅子を蹴って立ち上がった。

 クラス全員がびくりとする。

 けれど、誰も窓の外を見なかった。

「……見えてないのか」

 昼休み、朝陽は屋上へ向かった。

 立入禁止の札が下がった扉を、肩で押し開ける。潮風が吹き込み、フェンスのそばに座っていた小夜の輪郭を揺らした。

「遅い」

「授業中に三階の窓へ出るな。心臓が止まる」

「止まったら仲間だね」

「縁起でもない」

 朝陽は彼女の隣へ座った。触れようとして、手を止める。

 小夜の右肩の向こうに、青い空が透けていた。

「家は?」

「お母さん、私を見ても『どちらさまですか』って。お父さんは、玄関に知らない靴があるって怒ってた」

 声は明るかった。

 明るすぎた。

「写真もだめ。卒業アルバムは顔が真っ黒。スマホの連絡先は、名前のところだけ空白。朝陽に電話しようとしたけど、自分の声が機械に入らない」

 小夜は膝を抱えた。

「ねえ。私、死んだのかな」

「死んでたら、たい焼き代を請求できない」

「昨日の、私が払ったんだけど」

「じゃあ生きてる。借金は存在証明だ」

 小夜が吹き出した。

 その笑いが途切れる。

 彼女の左手の小指が、先端から灰になって崩れた。

 二人とも黙った。

 灰は風に巻かれ、空へ消えた。小夜は震える手を背中へ隠す。

「昨日、影に名前を呼ばれた。たぶん、あれが私を消してる」

「十三番目の鐘だ」

 朝陽は胸ポケットから青銅片を取り出した。

 表面には細かな文字が刻まれている。幼いころは傷だと思っていたが、今見ると、いくつもの名前を無理やり削り取った跡に見えた。

「うちは代々、神社の鐘を鋳てきた。爺ちゃんが何か知ってる」

「聞けば教えてくれる?」

「たぶん、怒鳴る」

「じゃあ当たりだね。大人は隠してることを聞かれると、まず怒るから」

 小夜は立ち上がった。

「行こう。私が全部消える前に」

「いつまでだ」

「わかんない。でも――」

 彼女は目を閉じ、震える息を吐いた。

「自分の名字が、一瞬、思い出せなかった」

 日下石鋳房は、町外れの川沿いにある。

 工房へ入ると、金属と煤と油の匂いが鼻を刺した。天井から大小の鐘が吊られ、風もないのに、かすかに揺れている。

 祖父の源造は、溶鉱炉の前に立っていた。

 七十を越えても背中は曲がらず、腕は丸太のように太い。朝陽を見るなり、火箸を炉へ突っ込んだ。

「学校はどうした」

「桐里小夜を知ってるか」

 火の粉が弾けた。

 それだけで答えは十分だった。

「帰れ」

「やっぱり知ってるんだな」

「その名を口にするな」

「なんでだ。町中の人間が忘れてる。家族までだぞ」

 源造は火箸を握る手に力を込めた。

「忘れたなら、それでいい」

 工房の隅で、小夜が息を呑んだ。

 源造には彼女が見えていない。それでも声だけは聞こえたらしく、老人の片眉が動く。

「……まだ、ここにいるのか」

「いるよ」

 小夜が答える。

「勝手に消すな。私の人生は、町の備品じゃない」

 源造は目を閉じた。

「夕凪の鐘は、町を守るためにある。十三年に一度、鐘は一つの名を食う。その名が人の世から消えれば、海は鎮まり、山は崩れず、町は次の十三年を生き延びる」

「生け贄じゃないか」

「そう呼びたければ呼べ」

「ふざけるな!」

 朝陽の声が工房に反響した。吊られた鐘が、いっせいに低く唸る。

「十三年前は、誰だった」

 源造の顔から血の気が引いた。

 朝陽は青銅片を突き出した。

「これは母さんの形見だって言ったな。でも俺は、母さんの葬式を覚えてない。墓もない。写真も、一枚もない。なのに俺は、母さんが歌ってた歌だけ覚えてる。『夕焼け小焼け』の最後を、いつも間違えてた」

 老人の口元が歪んだ。

「母さんも、鐘に食われたのか」

「違う」

「じゃあ、どうして名前を言えない」

「やめろ」

「母さんの名前は!」

「夕子だ!」

 源造の怒声と同時に、天井の鐘がすべて鳴った。

 何十もの音が重なり、工房の窓ガラスが粉々に砕ける。

 小夜が頭を抱えてうずくまった。

 床に落ちたガラス片の一つ一つに、女の顔が映った。長い髪。やさしい目。朝陽とよく似た眉。

 すべての口が、同じ言葉を形作る。

 ――忘れないで。

 炉の火が黒く染まった。

 黒い炎の中から、長い腕が伸びる。指先には爪の代わりに小さな鐘がぶら下がり、その一つ一つから、泣き声が漏れていた。

「下がれ!」

 源造が火箸で腕を叩く。

 金属を打つような甲高い音。黒い腕は炉へ引っ込んだが、床に落ちた影がむくむくと膨らみ、人の形になった。

 顔がない。

 首から上は青銅の鐘で、裾の裂け目が口のように開いている。

 その内側で、白い歯が何列も鳴った。

「名を、よこせ」

 鐘の怪物が、小夜へ手を伸ばす。

 朝陽は作業台の木槌をつかみ、横殴りに振り抜いた。

 ごん、と鈍い音。

 怪物の頭がへこみ、歯の隙間から黒い泥が噴き出す。泥が床へ落ちるたび、人の声になった。

「お母さん」

「先生」

「ぼくは、ここに」

「忘れないで」

 小夜の顔が青ざめる。

「これ……今まで消された人たち?」

 怪物の腕がしなる。

 朝陽は木槌で受けた。衝撃が肩まで突き抜け、壁へ叩きつけられる。

「朝陽!」

 小夜が駆け寄ろうとした瞬間、怪物の指の鐘が鳴った。

 彼女の左腕が肘まで透けた。

「やめろ!」

 朝陽は立ち上がり、胸の青銅片を怪物へ投げつけた。

 青銅片が額に刺さる。

 怪物は絶叫した。

 人の声ではない。千人が同時に名前を呼ばれ、同時に忘れられるような声だった。

 黒い体が裂け、煙となって炉の奥へ吸い込まれる。

 あとに残った青銅片を、源造が拾った。

「鐘の舌の欠片だ。夕凪神社の地下にある、最初の鐘のな」

「最初の鐘?」

「今、山で鳴っているものは抜け殻だ。本物は、三百年前から地の底に逆さに吊られている」

 源造は、削られた文字を親指でなぞった。

「十三年前、小夜の兄――桐里朔が選ばれた。夕子は儀式を止めようとした。地下の鐘へ入り、朔の名を取り戻そうとして……鐘に呑まれた」

 小夜が顔を上げた。

「兄……?」

 目の奥に、古い光景がよみがえったようだった。

 雨の日。黄色い傘。小さな自分の手を引く、少年の背中。

「朔兄……」

 名前を口にした途端、工房の奥で何かが泣いた。

「私、兄がいた。ずっと、夢の中の人だと思ってた」

「だから今回、お前が選ばれた」

 源造の声は低かった。

「忘れられた名を思い出す者は、空鐘様にとって傷になる。十三年前に取りこぼした記憶を、今度こそ食い尽くすつもりだ」

「じゃあ地下の鐘を壊せばいい」

 朝陽が言う。

「できん。あれを壊せば、町を押さえているものまで解ける」

「本当に町を守ってるのか?」

「何?」

「さっきの化け物は、守り神の顔じゃなかった。忘れられた人間を腹に詰めて、もっと名前を欲しがってた」

 朝陽は青銅片を奪い返す。

「守ってるんじゃない。育ってるんだ。俺たちが忘れるたびに」

 源造は答えなかった。

 その沈黙を、小夜が破った。

「地下へ行く道を教えて」

「ならん」

「私は今夜までに消える」

「一人で済むなら――」

 乾いた音がした。

 小夜の平手が、源造の頬を打っていた。

 透けた手だった。それでも老人の顔は横を向いた。

「一人で済む、じゃない」

 小夜の声は震えていた。

「一人が消えたら、その人を好きだった人の中にも穴が空く。何を失くしたかもわからない穴が。町中が穴だらけになるまで続けて、それを平和って呼ぶの?」

 源造の足元に、涙が一滴落ちた。

 消えかけた少女の涙だけは、床に残った。

 夕凪神社へ続く石段は、六百六十六段あると言われている。

 実際に数えた者はいない。途中から、上った段と下りた段の数が合わなくなるからだ。

 午後五時四十分。

 朝陽と小夜は、赤い鳥居をくぐった。

 源造は工房に残った。地下への道は教えない、と最後まで言い張ったが、朝陽の青銅片に付着した黒い泥が、山へ向かって細い筋を引いていた。

「お爺さん、来ないかな」

「来ない」

「即答」

「あの人は昔から、決めたことを曲げない」

「朝陽もそっくりだよ」

「どこが」

「眉間」

 小夜は笑った。

 その顔の左半分が、もう薄かった。

 石段の左右には、赤い前掛けをつけた地蔵が並んでいる。どれも顔を削られ、胸に小さな札を抱えていた。札には何も書かれていない。

 一段上るたび、背後で足音が増えた。

 一人分。二人分。十人分。

 振り返ってはいけない、と町の子どもは教えられる。

 小夜が小声で言った。

「後ろ、何人いると思う?」

「数えるな」

「百人くらい?」

「数えるなって」

「私たちが知ってる人数より、多いね」

 足音の中に、子どもの草履、杖、ハイヒール、裸足が混じっている。誰も息をしていない。

 五時五十分。

 二人は拝殿へ着いた。

 扉は開いていた。

 中には祭壇がなく、畳の中央に四角い穴が口を開けている。冷たい風が地下から吹き上がり、何百枚もの白い紙札を天井へ舞い上げていた。

 札には、途中まで書かれた名前がある。

「桐里 朔」

 小夜が一枚をつかんだ。

 墨の文字が血のように滲む。

 ほかにも、古い名、新しい名、外国人らしい名、幼い字で書かれた名が、床一面を埋めていた。

「こんなに……」

「十三年に一人じゃない」

 朝陽は札を拾い上げる。

「儀式を見た人。止めようとした人。忘れられた人を思い出した人。全部、食われたんだ」

 穴の底から、鐘の音がした。

 まだ六時前なのに、一回。

 小夜の右足が消えた。

 彼女は倒れ、朝陽が腕をつかむ。触れた感触は、霧より薄い。

「時間がない」

 二人は穴へ下りた。

 石の階段は、地中へ向かって螺旋を描いていた。壁には古い絵が彫られている。

 海から黒い波が来る。

 人々が逃げる。

 一人の女が、家々の鏡や鍋や鈴を集め、巨大な鐘を鋳る。

 鐘の表面に、死者の名前を刻む。

 最後の絵で、町の人々は鐘を囲み、一人ずつ名を読み上げていた。

 怪物へ人を差し出す絵は、どこにもない。

「これが本当の儀式だ」

 朝陽は壁をなぞった。

「死んだ人を忘れないために、鐘を鳴らしたんだ。町を守ったのは生け贄じゃない。記憶だ」

 その先の壁だけ、後世に塗りつぶされていた。

 黒い漆の下から、乱暴に削られた文字が覗いている。

 ――鐘は死者を世に返すにあらず。

 ――名を人の胸へ返すものなり。

 小夜が息を吸った。

「誰かが意味を逆にした」

「忘れた方が楽だったんだ。悲しい名前も、都合の悪い名前も、鐘に食わせればいい。そうやって守り神を、名喰いの化け物に変えた」

「じゃあ、元の儀式をすれば」

「名前を全部、読み上げる」

 朝陽は床に落ちていた白札を束ねた。

「鐘を鳴らして、町に返す」

「何人いると思ってるの」

「知らない。でもやる」

「六時まで、あと七分」

「七分あれば、かなり喋れる」

 小夜は呆れ、それから笑った。

「無愛想なくせに、こういうときだけ前向き」

 階段の最下部に、巨大な扉があった。

 青銅でできた扉には、十三の手形が押されている。最後の一つだけ新しく、指先から黒い泥が流れていた。

 小夜が近づく。

 手形が彼女の手を引いた。

「小夜!」

 扉が開く。

 闇の向こうから、無数の腕が伸び、小夜をさらった。

 地下の空洞は、町が一つ入るほど広かった。

 天井から、逆さまの鐘が吊られている。

 高さは五階建ての校舎ほど。青銅の表面は黒く腐食し、削られた名前の跡が、無数の爪痕のように走っていた。鐘の口は上を向き、その底から、黒い根が地中へ伸びている。

 根には人が実っていた。

 目を閉じた子ども。

 制服姿の学生。

 作業着の男。

 赤ん坊を抱いた女。

 誰も顔がない。

 誰も名前がない。

 中央の根に、小夜が絡め取られていた。身体は胸から下が消え、輪郭が砂のようにこぼれている。

 鐘の内側から、あの怪物が這い出した。

 今度は工房で見たものより何倍も大きい。胴体は黒い縄と人の髪で編まれ、頭の鐘には、歯の代わりに無数の舌が垂れている。舌の一枚一枚に、名前が刻まれていた。

「桐里、小夜」

 怪物が名を舐める。

 小夜の制服から校章が消えた。

「返せ!」

 朝陽は木槌を構え、床を蹴った。

 怪物の腕をかいくぐり、膝へ叩き込む。青銅がへこみ、内側から子どもの泣き声が漏れた。

 反撃の腕が飛ぶ。

 朝陽は転がって避けた。床が砕け、黒い根が蛇のように襲いかかる。木槌で一本を折ると、根の中から白い札が噴き出した。

 名前だ。

 朝陽は札をつかみ、叫ぶ。

「浜口清次!」

 逆さの鐘が震えた。

 根に実った老人の顔が戻る。

 町のどこかで、誰かが「あっ」と声を上げた気がした。

 怪物がのけぞる。

「名前を呼ばれるのが嫌なんだな」

 朝陽は散らばる札を拾い、次々に読み上げた。

「三田村ハナ! 奥野譲! 小田桐美雪! 伊佐木蓮!」

 一つ呼ぶたび、鐘の表面に文字が浮かぶ。

 一つ呼ぶたび、怪物の身体から黒い縄がほどける。

 だが札は多すぎた。

 何百、何千。

 六時まで、あと三分。

 怪物が頭を振る。

 十三枚の舌が、鐘のように鳴った。

 衝撃波が朝陽を吹き飛ばす。背中から壁へ叩きつけられ、肺の空気が抜けた。木槌が手を離れ、闇へ転がる。

 怪物の指が朝陽の胸をつかむ。

「おまえも、忘れろ」

 視界が白く染まった。

 母の顔が消える。

 声が消える。

 夕焼けの台所で歌っていた人が、ただの光になる。

「やめろ……」

「忘れれば、痛くない」

 甘い声だった。

「喪った者を忘れれば、悲しみも消える。罪を忘れれば、眠れる。名を忘れれば、死者は最初からいなかったことになる」

 朝陽の中から、小夜との記憶が抜けていく。

 たい焼き。

 屋上。

 強がった笑い。

 空席。

 少女の名前が、喉の奥でほどけ始める。

「朝陽!」

 小夜の声がした。

 彼女は根に縛られたまま、残った右手で胸を叩いていた。

「私の名前、言って!」

 朝陽は口を開く。

 出てこない。

「何回でも!」

「……さ」

「もっと!」

「小夜!」

 怪物の指に亀裂が入る。

「桐里小夜!」

 朝陽は叫んだ。

「十五歳! 辛いものが苦手なくせに見栄を張る! 数学が得意って言うけど、昨日の小テストは三十三点! たい焼きは頭から食う! 猫に好かれたいのに毎回逃げられる!」

「最後のは言わなくていい!」

「うるさい! 俺が覚えてる! お前が忘れても、町中が忘れても、俺が覚えてる!」

 小夜の輪郭が光った。

 消えた左手が戻る。

 怪物の腕が砕け、朝陽は床へ落ちた。

 六時まで、あと一分。

 地上で一回目の鐘が鳴った。

 逆さの鐘が共鳴する。

 怪物が咆哮し、空洞の黒い根が一斉に朝陽へ迫った。

 そのとき、天井から太い綱が落ちてきた。

 根を薙ぎ払い、源造が滑り降りる。肩には、工房で最も大きな撞木を担いでいた。

「遅い!」

 朝陽が叫ぶ。

「年寄りに六百六十六段はきついんだ!」

 源造は撞木を振り回し、怪物の胸へ叩きつけた。

 ごおん。

 鐘の音が空洞を揺らす。

 怪物の胴から、一人の女がこぼれ落ちた。

 長い髪。やさしい目。朝陽とよく似た眉。

「母さん……」

 夕子は透き通った姿で立ち、息子の頬へ手を伸ばした。

 温かくはなかった。

 それでも、触れた場所に懐かしい歌がよみがえった。

「ごめんな」

 源造が、娘へ言った。

「十三年前、わしは町を選んだ。お前の言葉を信じなかった」

 夕子は首を横に振る。

 そして、逆さの鐘を指さした。

 鐘の頂上――本来なら底にあたる場所に、一文字だけ、削られず残っている。

 名。

 朝陽は気づいた。

「怪物にも、名前がある」

 小夜が根を引きちぎりながら叫ぶ。

「最初の守り神の名前!」

 地上で二回、三回、四回と鐘が鳴る。

 壁画の最初の女。

 死者の名を刻んだ鐘。

 忘却ではなく、記憶を守った神。

 朝陽は青銅片を握りしめた。

 削り跡の間に残った細い線を、指でなぞる。欠けた文字が、逆さの鐘に反射した光の中でつながっていく。

「名守……」

 怪物が初めて怯えた。

「言うな」

「夕名守」

「言うな!」

 怪物の舌が一斉に伸びる。

 源造が撞木で受け止めた。肩が裂け、血が飛ぶ。それでも老人は退かない。

「朝陽! 呼べ!」

 五回、六回、七回。

 小夜が朝陽の手を握った。

 今度は、はっきりと温かかった。

 二人で息を吸う。

「夕名守大神!」

 名前が、地下から地上へ突き抜けた。

 町中の窓が震えた。

 人々の頭に、忘れていた顔が戻る。

 八百屋の主人は包丁を落とし、幼いころに亡くした姉の名を叫んだ。

 バス停の老人は隣の空席を抱きしめ、戦争から帰らなかった友の名を呼んだ。

 小夜の母は夕食の皿を三枚並べたまま立ち尽くし、「朔、小夜」と泣いた。

 八回、九回、十回。

 怪物の黒い縄がほどけ、内側から青い光があふれる。

 顔のない人々に、次々と顔が戻る。

 十一回。

 夕子が朝陽へ微笑んだ。

「ずっと、覚えてた」

 朝陽は言った。

 十二回。

 彼女の唇が動く。

 ――知ってる。

 夕子の姿は光になり、鐘の文字へ溶けた。

 地上の音が止まる。

 町全体が、息を止めた。

 怪物はまだ残っていた。

 胸の中心に、黒い穴が開いている。そこから、最後の舌が伸びた。

 舌には何も刻まれていない。

 名を失った神自身のための空白だった。

「十三回目は、誰かを消す鐘じゃない」

 朝陽は転がっていた木槌を拾った。

「忘れた名前を、帰す鐘だ」

 小夜が隣で木槌に手を添える。

 源造が撞木を構える。

 三人は、逆さの大鐘を同時に打った。

 十三回目。

 ――ごおおおおおん。

 今度の音は、骨の内側ではなく、町にいる全員の胸で鳴った。

 怪物の黒い身体が裂ける。

 中から現れたのは、白い髪の小さな子どもだった。古い装束をまとい、泣き腫らした目で、朝陽たちを見上げている。

「わたしを……覚えているか」

 朝陽は答えた。

「ああ」

 小夜も頷く。

「忘れない」

 子どもは、ようやく笑った。

 その姿は無数の白い鳥となり、逆さの鐘の口から地上へ飛び立った。

 黒い根が崩れ、顔を取り戻した人々が光へ変わる。光は一つずつ、白札に吸い込まれていった。

 やがて大鐘は、三百年ぶりに正しい向きへ回転した。

 地の底へ、静かに着地する。

 朝陽は小夜の手を握ったまま、力が抜けて座り込んだ。

「いるか」

「いるよ」

「名前は」

「桐里小夜。十五歳。数学は――」

「三十三点」

「それは忘れていい!」

 小夜の拳が朝陽の肩を叩いた。

 今度は、ちゃんと痛かった。

 それから一か月、町は泣き続けた。

 忘れていた家族を思い出した者。

 墓すら作れなかった友を弔う者。

 自分が誰かを忘れていたことに、初めて気づいた者。

 夕凪神社の境内には、名を記すための石碑が建てられた。白札から読み取れた名は二千三百十四。読み取れないものも多く、石碑の最後には、空白のままの欄が残された。

 空白もまた、誰かがいた証だと、源造が言った。

 神社の鐘は新しく鋳直された。

 表面には消されたすべての名と、中央に大きく「夕名守大神」と刻まれている。

 毎日夕方六時、鐘は十三回鳴る。

 今度は町中の人が、声に出して数える。

「十、十一、十二、十三」

 十三回目のあと、誰かが必ず、忘れたくない名を一つ呼ぶ。

 月曜日の朝。

 担任は出席簿を開き、窓側の後ろから二番目を見た。

「桐里小夜」

「はい」

 小夜が返事をする。

 教室の全員が、当たり前のように彼女を見た。

 朝陽は頬杖をついたまま、こっそり息を吐く。

 放課後、小夜は彼の机へ紙袋を置いた。

「はい。たい焼き」

「借金の返済?」

「私が払ったって言ったでしょ。これはお礼」

「何の」

「覚えててくれた」

 小夜は窓の外を見た。

 山の鐘楼が、夕日に黒く浮かんでいる。

「人って、いつかは忘れるよね。声とか、顔とか。大事だった気持ちまで薄くなる」

「だから鐘があるんだろ」

「朝陽は、私のこと忘れない?」

「数学三十三点は一生忘れない」

「そこじゃない!」

 たい焼きが飛んできた。

 朝陽は片手で受け止め、尻尾からかじる。

 小夜が「あ、そっちから食べる派なんだ」と笑った。

 そのとき、遠くで一回目の鐘が鳴った。

 二人は並んで数え始める。

 夕焼けの町を、一つずつ、名前が帰ってくる。

 十二。

 そして――十三。