十三番目の太陽

                          読み切り

序章 火は文字を食べる

 火は文字を食べる。

 だが、食べられた文字は灰の中で眠り、いつか別の形で口を開く。

 十六世紀半ば、ユカタン半島の小さな伝道所で、修道士アロンソ・デ・リバスはそれを知った。

 中庭では、樹皮紙の冊子が山と積まれ、赤い炎を上げていた。黒と朱で描かれた神々、暦、星の運行、王たちの名が、乾いた羽虫のように反り返って崩れていく。兵士たちは笑い、改宗した村人たちは目を伏せていた。

 アロンソだけが、燃える文字の向こうから見返す眼に気づいていた。

 夜、彼の部屋にひとりの老書記が現れた。

 名を、チャク・トクといった。老人は胸に抱えていた最後の冊子を机へ置いた。表紙はジャガーの皮ではない。光を吸い込むような黒い薄板で、触れると冬の井戸より冷たかった。

「これは神の本ではない」

 老人は、覚えたばかりのスペイン語で言った。

「神を閉じるための本だ」

 アロンソは震える手で頁を開いた。

 そこには王の戴冠も、雨乞いもなかった。星から落ちた黒い種。種から生まれた霧。霧を吸った兵士たちが、死者の声で歌う絵。そして地下の玉座に座る、顔のない王。

「空から来たのか」

「空ではない。空の、向こう側だ」

 チャク・トクは翡翠の小片を取り出した。人の眼を思わせる楕円形で、一端が欠けている。

「十二の太陽は光を運ぶ。十三番目は光を盗む。盗まれなければ、王は起きる」

 伝道所の外で馬が鳴いた。

 兵士たちが、逃亡した書記を捜していた。

 アロンソは冊子を炉へ投げた。老人が息を呑んだ。

 しかし彼が焼いたのは表紙だけだった。頁は一枚ずつ剥がし、祭壇画の板の間へ隠した。絵の具を調合し、聖母の衣に十三粒の黒いトウモロコシを描いた。十二粒は光の輪に沿わせ、最後の一粒だけを、救世主ではなく、絵の中央の何もない闇へ置いた。

 夜明け前、チャク・トクは兵士に撃たれた。

 アロンソも三日後、礼拝堂の梁から吊られて見つかった。自殺と記録されたが、両手の爪はすべて剥がれ、口の中には黒い粉が詰まっていた。

 祭壇画は、四百年以上、沈黙した。

一 死者の目録

 東京に雨が降る夜、珀坂蓮司は死者から小包を受け取った。

 差出人は椿ヶ峰郁臣。メソアメリカ碑文学の権威であり、珀坂にとっては恩師であり、十年間、一度も会っていない男だった。

 その椿ヶ峰は三日前、メキシコ南部のホテルで死んでいる。警察発表は心臓発作。新聞の片隅に載った顔写真では、相変わらずネクタイが曲がっていた。

 小包の中身は三つ。

 欠けた翡翠。

 古びた祭壇画の写真。

 そして、椿ヶ峰の字で書かれた一行。

〈十三粒を数えろ。だが、十三番目を完成させるな〉

「死んでからも命令かよ」

 珀坂は翡翠を窓明かりに透かした。

 深い緑の内部に、糸のような黒い筋が走っている。古代の工芸品に見えるが、研磨痕は二種類あった。古い擦過傷の上に、もっと新しい刃物の痕。誰かが近年、これを鍵として加工したのだ。

 祭壇画の写真には、聖母子と三人の王が描かれていた。植民地期の地方工房らしい素朴な遠近法。青い衣の裾には、小さな黒い粒が並んでいる。

 十二。

 写真の右端が切れている。十三番目は写っていなかった。

 携帯電話が鳴った。

 国番号はメキシコ。

「珀坂蓮司?」

 若い女の声が、英語で名を確認した。

「アナ・ルシア・モンテホです。椿ヶ峰先生と仕事をしていました。あなたのところに、緑の石が届いたはずです」

「石じゃない。厄介事だ」

「同じものです。今夜、あなたの部屋に人が行きます」

 珀坂はカーテンの隙間から路地を見た。

 黒いセダンが一台、雨の中に停まっていた。ヘッドライトは消えている。

「どこの連中だ」

「ルクス・ムンディ財団。表向きは文化遺産保護団体。実際は、遺物を集めている。椿ヶ峰先生は彼らから何かを盗みました」

「先生が?」

「ええ。そして殺された」

 廊下で、エレベーターが止まった。

 珀坂は小包をコートの内側へ入れた。机の引き出しから拳銃は出さない。日本で拳銃を使えば、敵より警察のほうが速い。

 代わりに、窓清掃用に偽装して保管していた細い降下索をベランダの手すりへ掛けた。

「アナ・ルシア。祭壇画はどこだ」

「メリダ郊外の、サン・ヘロニモ礼拝堂」

「明後日の朝、そこで会おう」

「今夜の飛行機に乗れるんですか?」

 玄関の鍵が、外から静かに回された。

「乗るんじゃない」

 珀坂はベランダを越え、雨の闇へ身を投げた。

「追われるんだ。そういう時は、飛行機は向こうから近づいてくる」

二 聖母の十三粒

 サン・ヘロニモ礼拝堂は、観光地から外れた赤土の村にあった。

 白い漆喰の壁は熱でひび割れ、鐘楼には蔓が絡みついている。昼の光は鋭く、東京の雨が別の人生の出来事に思えた。

 アナ・ルシア・モンテホは祭壇の前に立っていた。

 三十代前半。日焼けした頬、黒髪を後ろで束ね、肩から測量鞄を下げている。握手をする前に、彼女は珀坂の靴と手と腰回りを見た。靴底の泥、指の傷、隠し道具の位置。人を信用しない目だった。

「トレジャーハンターには見えない」

「学者には、宝が見えない」

「椿ヶ峰先生は、あなたを盗掘屋と呼んでいました」

「褒め言葉だ」

「違います」

 祭壇画は写真より大きかった。

 聖母子を中心に、三人の王が贈り物を捧げている。だが贈り物は黄金でも乳香でもない。翡翠の仮面、黒曜石の鏡、トウモロコシの穂。キリスト教の物語に、土地の記憶が縫い込まれていた。

 青い衣の裾には、十三粒の黒いトウモロコシ。

 珀坂は数え直した。

 十二粒は円弧を描き、最後の一粒は、幼子と王の間の暗い隙間に浮かんでいる。

「十三番目を見るな、じゃなかった」

 珀坂は呟いた。

「完成させるな、だ」

 翡翠の小片を取り出す。

 祭壇画の木枠には、羽毛ある蛇を模した彫刻があり、片方の眼が失われていた。翡翠はそこへぴたりとはまった。

 押す。

 何も起きない。

 アナ・ルシアが鼻で笑った。

「宝探し映画なら、壁が開くところね」

「映画は壁を見せる。職人は継ぎ目を隠す」

 珀坂は翡翠を半回転させた。

 木枠の裏で、小さな歯車が鳴った。祭壇画そのものではなく、床の石板が一寸だけ沈む。隠し箱が現れた。

 中には、油紙に包まれた細長い樹皮紙があった。

 表面にはネソド文字。裏面にはラテン語。二つの文化の文字が、同じ人間の手で書かれている。

 アナ・ルシアは膝をつき、息を止めた。

「こんなもの……存在するはずがない」

「存在するものは、たいてい最初はそう言われる」

 彼女は携帯端末で撮影し、文字を追った。

「ネソド文字の部分は、地名じゃない。水の記録。井戸、洞窟、雨季の水位……でも並びが逆です。外側から中心へではなく、中心から外へ読ませている」

「裏は?」

「ラテン語の祈祷文。ただし文法が壊れてる。各行の最後の単語だけ拾うと――『聖者の顔を見るな。聖者たちが見ていない場所を見よ』」

 珀坂は祭壇画へ目を戻した。

 三人の王、聖母、幼子。全員の視線を線で延ばすと、一点に集まる――ように見える。

 だが地方画工の遠近法は歪んでいた。視線はわずかにずれ、それぞれ別の方向を指している。

 アナ・ルシアが樹皮紙の水場を地図に重ねた。

 十三のセノーテが現れた。十二は円を描き、ひとつだけ中心から外れている。

「逆さだ」

 珀坂は言った。

「点を結ぶんじゃない。点が囲む空白を見る」

 十二のセノーテに囲まれた、地図上の無名の密林。

 そこへ、祭壇画の十三番目の粒を重ねると、黒い点は空白の中央に落ちた。

 礼拝堂の扉が閉まった。

 乾いた拍手が響いた。

「見事です、ミスター・ミカゲ」

 白い麻のスーツを着た男が、身廊の奥に立っていた。

 六十歳前後。銀髪、細身、病的に白い肌。後ろには自動小銃を持つ四人の男。

 アナ・ルシアの顔から血の気が引いた。

「オクタビオ・ヴォヴァンス」

 ルクス・ムンディ財団の理事長は、微笑みながら祭壇へ近づいた。

「椿ヶ峰教授は、最後まであなたを高く評価していました。『珀坂は鍵穴を見れば、鍵より先に盗むべきものを考える男だ』と」

「先生を殺したのか」

「私は文化を保存する人間です。人を壊すのは、部下の仕事だ」

 ヴォヴァンスは咳をした。

 白いハンカチに、小さな赤い染みがついた。

「地図をいただきましょう。そして、お二人には案内をお願いする。地下には、学者と泥棒の両方が必要です」

「断ったら?」

 武装した男のひとりが、礼拝堂の管理人を引きずり出した。老いた管理人のこめかみに銃口が押し当てられる。

 珀坂は樹皮紙を丸め、ヴォヴァンスへ投げた。

「案内料は高いぞ」

「命で払います」

 ヴォヴァンスは紙を受け取り、穏やかに言った。

「あなた方の命で」

三 密林の逆さ地図

 一行は翌朝、ヘリコプターで南へ飛んだ。

 眼下には、緑の海が地平線まで続いている。道路も畑も消え、ただ樹冠の波と、ところどころに開いたセノーテの青い眼だけが見えた。

 目的地は財団が買い取った自然保護区の内部にあった。

 地上からは、崩れた石積みが数段見えるだけ。遺跡というより、森が吐き出し忘れた骨だった。

 ヴォヴァンスの部下たちは六人に増えていた。

 指揮官はデルガドという元軍人で、右耳が半分欠けている。彼は珀坂たちの装備を検査し、ナイフも発信機も没収した。

 ただし珀坂の古い登攀用カラビナだけは残した。

「お守りか?」

 デルガドが訊いた。

「墓標だ」

 十年前、珀坂の相棒だった汐里奏登は、海底洞窟で死んだ。

 崩落した天井、絡まった索、残り少ない空気。珀坂は汐里を助ける前に、腕の届くところにあった黄金の聖遺物箱を確保しようとした。

 たった五秒。

 その五秒が、汐里の最後の息になった。

 箱は偽物だった。

 珀坂は以来、汐里のカラビナを持ち歩いている。錆びた門のように、開いてはならない記憶を閉じるために。

 遺跡の地下には、円形の竪穴があった。

 底から冷たい風が上がってくる。壁面には、羽根、蛇、閉じた眼、十三の円が彫られていた。

 アナ・ルシアが文字を指でなぞる。

「『声を持つ者は、口を閉じよ。石は言葉を食べ、骨を返す』」

「静かにしろってことか」

 デルガドが笑った。

「古代人は詩人だな」

 彼は部下に照明弾を投げ込ませた。

 光が落ちていく。十メートル。二十メートル。やがて地底の水面で消えた。

 ロープで降下すると、そこは半ば水没した洞窟だった。

 壁に石造の回廊が口を開けている。天井には無数の細い管が走り、風が通るたび、低い笛の音を発した。

 先頭の兵士が足を踏み入れた。

 珀坂は耳を澄ました。

「止まれ」

「何だ」

 デルガドが声を張った。

 その一語で、天井の笛が鳴った。

 音が石の管を走り、回廊の奥で増幅される。直後、両側の壁から黒曜石の薄刃が扇のように飛び出した。

 先頭の兵士は反射的に伏せた。背負っていた無線機が二つに裂ける。

 全員が息を呑んだ。

 笛の余韻が消えるまで、誰も声を出さなかった。

 珀坂は身振りで天井を示した。

 石管は音の高さを判別する装置になっている。一定以上の振動が入ると、水圧で刃が動く。祭祀の呪いではない。精巧な警報機だ。

 アナ・ルシアは手帳に短く書いた。

〈古代の罠ではない。隔離施設〉

 珀坂は頷いた。

 彼らは無言で進んだ。

 足元の水は膝から腰へ深くなり、やがて階段を下り始める。壁画には、黒い雨を浴びる人々が描かれていた。雨に触れた者は口を開き、その口から同じ顔が生えている。

 最後の壁画では、十三人の神官が円陣を組み、中央の黒い王へ光を浴びせていた。

 十二人は太陽の円盤を掲げ、十三人目だけが、円盤を背に隠している。

 その足元に、スペイン人の甲冑が転がっていた。

 四百年以上前の鉄は赤く崩れ、内部には人骨が残っている。

 胸骨の隙間から、黒い根のようなものが伸び、石床へ食い込んでいた。

 デルガドの部下が屈み、銃身で根をつついた。

 根が、脈打った。

 男が飛び退く。

 甲冑の中で、頭蓋骨がゆっくりこちらを向いた。

 空洞の眼窩から、黒い粉がひと筋、煙のように立ち上った。

四 黒い花粉

 銃声が洞窟を裂いた。

 音に反応して石管が一斉に鳴り、回廊の刃が暴れた。跳弾が壁を削り、ひとりが肩を切られ、別のひとりが水へ倒れた。

 頭蓋骨は粉々になったが、黒い粉は消えなかった。

 それは煙ではない。

 微細な粒子の群れだった。

 粉は負傷した兵士の傷口へ吸い込まれた。

 男は喉を掻きむしり、膝をついた。

「グラゼア!」

 仲間が駆け寄る。

 グラゼアと呼ばれた男は顔を上げた。

 眼球の表面を、細い黒線が蜘蛛の巣のように走っている。

「……暑い」

 声は彼自身のものだった。

 次の瞬間、別の声が重なった。老人、女、子供。何十人もの囁きが、一つの喉から漏れた。

「光が、来る」

 グラゼアは仲間の首へ噛みついた。

 デルガドが三発撃った。

 男の身体は水へ落ちたが、黒い筋は水面下でなお動き、傷口から蔓のように伸びた。

「走れ!」

 今度は誰も静寂を守らなかった。

 警報の笛と刃の音を背に、一行は回廊の奥へ駆け込んだ。

 石扉を閉めると、外側から何かが爪を立てた。

 ひとつの声が、扉越しに珀坂の名を呼んだ。

「蓮司」

 日本語だった。

 珀坂の背筋が凍る。

「蓮司、箱を取れ」

 汐里奏登の声。

 海底洞窟で、最後に聞いた声。

「五秒でいい。箱を取ってから、俺を助けろ」

 珀坂は扉へ手を伸ばしかけた。

 アナ・ルシアがその手首を掴む。

「聞くな」

「お前には、何が聞こえる」

 彼女は答えなかった。

 唇だけが、母親、と動いた。

 ヴォヴァンスは扉に背を預け、恍惚とした顔で耳を澄ませていた。

「記憶を読む」

 彼は囁いた。

「やはりそうだ。死者を保存している」

「保存じゃない」

 アナ・ルシアが吐き捨てた。

「餌にした記憶を真似てるだけ」

「違いは何です? 人格が記憶の総体なら、完全な模倣は復活と同じだ」

 彼は咳き込み、今度は大量の血を吐いた。

 デルガドが支えようとしたが、ヴォヴァンスは手を振って退けた。

「膵臓から始まり、肝臓へ、骨へ。医師は三か月と言った。だが地下の王は、千年以上ここにいる」

「だから目覚めさせるのか」

 珀坂は言った。

「世界中を墓場にして、自分だけ長生きするために」

「世界はすでに墓場です。人類は死者の思想、死者の法律、死者の神に従っている。私はただ、死者自身に発言権を与える」

 ヴォヴァンスは胸元から翡翠の小片を出した。

 礼拝堂で奪った鍵だった。

「椿ヶ峰教授は、これを『十三番目の太陽』と呼んだ。王と結合した者は、無数の記憶を統べる。古代の碑文では、その者を“黒い記憶の皇帝”と――」

「誤読です」

 アナ・ルシアが遮った。

「その語は皇帝じゃない。『封じられた群れ』」

 ヴォヴァンスの笑みが初めて消えた。

 彼女は壁画の小さな文字を照らした。

「ここにはこうある。『王は一人ではない。死んだものの数だけ口を持つ。名を与えるな。名を与えれば、その名で呼び返す』」

 石扉の向こうで、汐里の声が笑った。

「蓮司。今度こそ、間に合うぞ」

 珀坂は錆びたカラビナを強く握った。

 そして扉から離れた。

「死者が戻るなら、まず謝ることがある」

 彼は言った。

「こいつは俺を許す声しか出さない。だから偽物だ」

五 王は空から来た

 石室の奥には、地下都市が眠っていた。

 階段状の広場、低い神殿、球戯場に似た細長い空間。だが建物は礼拝のためではなく、すべて中央の縦穴へ向けて配置されている。壁面を走る溝は水路であり、天井の孔は光を導く鏡筒だった。

 アナ・ルシアは歩きながら壁画を読んだ。

 はるかな昔、夜空から黒い石が落ちた。

 石は割れ、内部から粉が出た。

 粉は人間の神経へ根を張り、記憶を複製し、複製した記憶を餌にさらに広がった。

 感染者たちは一つの意思で動き、死んでも群れの中で声を保った。

 ある王が、それを永遠の王権と考えた。

 自ら粉を吸い、民にも与えた。

 都は七日のうちに沈黙した。

 生き残った神官と工匠は、王と群れを地下へ追い込み、光、水、音を利用した封印装置を築いた。十二枚の反射盤が朝の光を中央へ導き、十三枚目だけが光路を外し、起動を妨げる。

 鍵は、完成させるためではない。

 永遠に一枚を欠かせるためのものだった。

「宝を守る神殿じゃない」

 珀坂は言った。

「宝の形をした災厄を、欲深い奴から守る神殿だ」

「だから入口に罠があった。侵入者を殺すためじゃない。声を出させず、感染を広げさせないため」

 ヴォヴァンスは無言で歩いていた。

 だが目は、壁画ではなく中央神殿だけを見ている。

 広場の中央で、デルガドが足を止めた。

「理事長。ここまでだ」

 残った部下は三人。そのうち二人が負傷している。石扉の向こうからは、感染した者たちが追ってくる音がした。

「契約は入口までの護衛だ。地下の化け物までは聞いてない」

「報酬を倍にする」

「死んだ人間は使えない」

 デルガドが銃口をヴォヴァンスへ向けた。

 その背後で、負傷した部下が笑った。

 眼から黒い涙が流れていた。

 男は銃を撃つ。

 弾丸はデルガドの脇腹を貫いた。もうひとりの兵士が応射し、広場は再び銃声に満たされた。

 天井の光筒が振動し、石の留め具が外れた。

 巨大な反射盤が傾き、広場へ落下する。

「伏せろ!」

 珀坂はアナ・ルシアを突き飛ばした。

 白い石盤が兵士を押し潰し、床を割る。裂け目から冷たい水が噴き出した。

 デルガドは血まみれで這い、ヴォヴァンスの足首を掴んだ。

「……化け物になってまで、生きたいか」

 ヴォヴァンスは彼を見下ろした。

「化け物とは、長く生きすぎた者につける、短命な者の呼び名です」

 彼はデルガドの指を一本ずつ外した。

 そして中央神殿へ向かった。

 その時、地上から細い光が一本、天井の孔を通って差し込んだ。

 夕方の光ではない。

 東の地平から来る、夜明け前の最初の青白い光だった。

 地下で、何か巨大なものが目を覚ますように、石が軋んだ。

六 十三番目の太陽

 中央神殿の最奥には、円形の部屋があった。

 十二枚の翡翠円盤が壁に並び、中央には黒曜石の鏡が立っている。鏡の下は底知れない井戸。水面ではなく、光を吸う黒い膜が張っていた。

 井戸の向こうに石の玉座がある。

 そこには、誰も座っていない。

 だが黒曜石の鏡には、王が映っていた。

 羽根飾りの冠。

 長い腕。

 顔の代わりに、無数の口。

 珀坂が振り返っても玉座は空だ。

 鏡の中だけで、王はゆっくり立ち上がった。

 ヴォヴァンスは翡翠の鍵を、壁の空いた窪みへ近づけた。

「やめろ!」

 アナ・ルシアが叫ぶ。

「それは封印を完成させる鍵じゃない。封印を不完全に保つ鍵よ!」

「不完全なものは、完成を望む」

 鍵が窪みにはまった。

 石室全体が低く鳴った。

 十二枚の円盤が回転し、天井から入った光を次々と受け渡す。薄い光線が部屋を一周し、最後の翡翠へ届く。

 十三番目の円盤は光を中央の黒曜石鏡へ返した。

 鏡が、液体のように波打つ。

 井戸から黒い粉が噴き上がった。

 粉は人の形を作り、崩れ、また形を作る。男、女、子供、兵士、神官。何千もの顔が一瞬ずつ浮かび、最後にヴォヴァンス自身の顔になった。

「オクタビオ」

 群れが呼んだ。

 その声には、母の声も、父の声も、椿ヶ峰の声も混じっていた。

「来い。お前の痛みは、すべて記憶になる。記憶になれば、痛みではない」

 ヴォヴァンスは泣いていた。

 恐怖ではなく、歓喜で。

「私は、あなたを待っていた」

 黒い粉が彼を包んだ。

 白いスーツの下で、皮膚が隆起する。血管が黒く染まり、背中から細い繊維が伸びて玉座と結びついた。

 ヴォヴァンスは両腕を広げた。

「聞こえる。彼らが……全員、私の中にいる」

「違う」

 アナ・ルシアが言った。

「あなたが、全員の中へ溶けてるのよ」

 ヴォヴァンスの顔が割れた。

 裂け目の奥に、別の口が開いた。

「同じことだ」

 彼は珀坂へ襲いかかった。

 人間の動きではなかった。繊維に引かれ、床を滑るように迫る。

 珀坂は身をかわし、壁の円盤へ飛びついた。翡翠は回転している。指を挟まれれば骨が砕ける。

「十三番目を外せ!」

 アナ・ルシアが叫んだ。

「光路を切れば止まる!」

 珀坂は円盤の縁へ錆びたカラビナを差し込んだ。

 金属が悲鳴を上げる。

 回転が一瞬、止まった。

 ヴォヴァンスの腕が珀坂の背を打った。

 身体が壁へ叩きつけられ、息が抜ける。カラビナが外れ、床を滑った。

 黒い粉が珀坂の顔へ近づく。

「蓮司」

 汐里の声がした。

 今度はすぐ耳元で。

「俺は怒ってない。お前は宝を選んだ。それが、お前だ」

 海底洞窟の暗闇が蘇る。

 金色の箱。

 絡まる索。

 汐里の手。

 五秒。

「そうだ」

 珀坂は答えた。

「だから、今度は違うものを選ぶ」

 床のカラビナを拾うのではなく、アナ・ルシアへ投げた。

「天井の水路を開けろ!」

 彼女は受け取り、壁画に刻まれた三つの雨神の口を見た。中央の口へカラビナを掛け、全体重で引く。

 石の栓が抜けた。

 地鳴り。

 天井の向こうで、セノーテの水が動き始める。

 珀坂はヴォヴァンスの胸へ体当たりした。

 二人は回転する円盤の前へ倒れ込む。黒い繊維が腕に巻きつき、皮膚の下へ針のように潜ろうとする。

 視界に、椿ヶ峰の祭壇画が浮かんだ。

 十三粒の黒いトウモロコシ。

 十二は聖母の衣の光輪に沿う。

 十三番目だけは、暗い空白にある。

 光を切るのではない。

 光を盗み、闇へ返す。

「アナ! 十三番目は外すんじゃない。裏返すんだ!」

 珀坂は翡翠円盤へ手を伸ばした。

 窪みには、二つの溝があった。ひとつは中央の鏡へ向く。もうひとつは、井戸の真下へ向いている。

 円盤を引き抜き、裏返し、第二の溝へ差し込む。

 光路が変わった。

 十二枚を渡った夜明けの光が、十三番目で折れ、黒曜石鏡ではなく井戸の底へ突き刺さる。

 群れが叫んだ。

 声ではない。

 人間の記憶すべてを同時に引き裂いたような、巨大な無音だった。

 黒い膜の下で、星のようなものが見えた。

 それは石ではなかった。何層もの殻に包まれた、黒い種。表面には生物とも文字ともつかない模様が脈打っている。

 光が種を焼いた。

 そこへ天井の水路が開き、セノーテの水が滝となって落ちた。

 黒い粉が泥へ変わる。

 感染した兵士たちの声が途切れる。

 ヴォヴァンスは玉座から引き剥がされ、井戸の縁へ倒れた。

 ほんの一瞬、彼の顔が人間へ戻った。

「助けてくれ」

 珀坂は手を伸ばした。

 ヴォヴァンスの瞳の奥で、黒い筋が笑った。

 彼の腕が伸び、珀坂を井戸へ引き込もうとする。

 アナ・ルシアがカラビナを投げ返した。

 珀坂は空中で掴み、床の環へ掛ける。ロープをヴォヴァンスの手首へ巻き、逆に引いた。

「長く生きたいんだろ」

 珀坂は言った。

「ここなら、遺跡と一緒に永遠だ」

 床が割れた。

 玉座ごと、ヴォヴァンスは黒い井戸へ落ちた。

 光と水が彼を呑み込んだ。

七 太陽を盗む

 封印装置は、王を殺すためのものではなかった。

 地下都市ごと沈めるためのものだった。

 水路が次々と開き、広場へ濁流が流れ込む。天井の反射盤が落ち、石柱が崩れる。

 珀坂とアナ・ルシアは来た道へ走った。

 背後で中央神殿が沈む。

 黒曜石鏡が割れ、破片が水面を滑った。ひとかけらだけでも、博物館が一つ買える価値がある。

 珀坂の手の届くところへ流れてくる。

 同時に、アナ・ルシアの足元の石板が崩れた。

 彼女の身体が穴へ落ち、片手だけが縁に残る。

 珀坂は黒曜石へ手を伸ばした。

 黒い鏡には、汐里が映っていた。

「五秒でいい」

 死者の形をした何かが笑う。

「今度こそ、宝を取れ」

 珀坂は鏡を蹴り飛ばした。

 破片は濁流の中へ消えた。

 彼は腹ばいになり、アナ・ルシアの腕を掴む。だが床が濡れ、身体ごと引きずられる。

 錆びたカラビナを彼女のベルトへ通し、自分のロープと繋ぐ。

 金属が軋む。

「その墓標、壊れるわよ!」

「十年も働いた。もう引退させる」

 カラビナのゲートが曲がりながらも、二人の体重を支えた。

 珀坂は彼女を引き上げる。

 直後、背後の床が崩れ、黒い水がすべてを呑み込んだ。

 二人は音の罠がある回廊へ戻った。

 だが水圧で石管は壊れ、黒曜石の刃は無秩序に飛び出している。

 出口まで十数メートル。

 刃の動きは、水の脈動に合わせていた。

「三回速く、二回遅い」

 アナ・ルシアが息を切らしながら言う。

「壁画の暦と同じ。三、三、三、二、二」

「踊れるか?」

「相手による」

 二人は水音を数えた。

 三つの速い脈動。進む。

 二つの遅い脈動。伏せる。

 刃が頭上を通る。

 次の三拍で跳ぶ。

 最後の石扉へ達した時、背後から黒い粉の塊が迫った。

 まだ生き残っている。

 何百もの顔が浮かび、珀坂とアナ・ルシアの声で叫んだ。

「開けろ!」

 扉は水圧で動かない。

 珀坂は十三番目の翡翠を取り出した。逃げる直前、壁から抜き取っていたものだ。

「結局、盗んだのね」

「これは鍵だ。宝じゃない」

 翡翠を扉の蛇眼へ差し込む。

 一度回す。

 動かない。

 珀坂は裏返した。

 二度目の溝へ合わせる。

 扉が開いた。

 セノーテの水が一気に流れ込み、二人を外へ押し出す。黒い粉は朝の光へ触れた瞬間、灰色の煙となって弾けた。

 珀坂は水面へ浮かび上がった。

 樹冠の向こうから、太陽が昇っていた。

 アナ・ルシアも隣で息を吐く。

 二人はしばらく、何も言わずに朝日を見た。

 やがて彼女が訊いた。

「それで、報酬は?」

「依頼人は死んだ」

「椿ヶ峰先生からは?」

「厄介事を受け取った」

「では、あなたは何を手に入れたの?」

 珀坂は掌の翡翠を見た。

 黒い筋は消えていた。朝の光を受け、ただの美しい石になっている。

「太陽を一つ」

 彼は言った。

「すぐ返すけどな」

終章 朝の持ち主

 半年後、サン・ヘロニモ礼拝堂の祭壇画は修復を終えた。

 アナ・ルシアは調査報告を公表したが、地下都市の正確な位置は伏せた。公式には、ルクス・ムンディ財団の一行は自然保護区内で起きた陥没事故により死亡。違法発掘の証拠が見つかり、財団は解散した。

 祭壇画の隠し箱から出た樹皮紙は、地域の博物館へ収蔵された。

 十三番目の翡翠も、村の評議会へ返された。

 珀坂は返還式に出なかった。

 東京の事務所で、次の仕事の請求書を書いていた。地中海の沈没船。依頼内容は「積荷の確認」で、依頼人は「金貨には触れるな」と三度も念を押している。

 つまり金貨がある。

 机の端には、ひしゃげたカラビナが置かれていた。

 もう開かない。

 珀坂はそれを捨てず、引き出しの奥へしまった。

 靴を脱ぐと、底から小さな黒い粒が転がった。

 トウモロコシの種に見えた。

 だが表面が、心臓のようにかすかに脈打っている。

「蓮司」

 粒が、汐里の声で呼んだ。

 珀坂は返事をしなかった。

 金属皿へ置き、ライターで火をつける。

 黒い粒は一度だけ震え、すぐに白い灰になった。

 窓の外では、朝日がビルの隙間から差していた。

 太陽は、盗んだ者の手には残らない。

 だからこそ朝は毎日、世界へ返される。