午前零時の小鬼たち
――読み切り小説――
一 女神のまばたき
迷宮都市アステラには、午前零時がない。
夜、時計塔の長針が十二の直前まで来ると、街じゅうの灯がいっせいに細くなる。
風は止まり、犬は吠える途中で口を閉じ、酔客は乾杯の杯を宙に浮かせたまま瞬きをする。
そして次の瞬間、時計は午前零時一分を示している。
失われる一分間を、人々は〈女神のまばたき〉と呼んだ。
いつからそうなのか、なぜなのか、知る者はいない。少なくとも、知ろうとする者はいなかった。
迷宮都市には、もっと差し迫った謎がいくらでもある。
明日の家賃は払えるのか。
毒消しは一本で足りるのか。
地下七層の大ムカデは本当に焼くと食えるのか。
そして、迷宮の中で運命の相手に出会えるという酒場の噂は、本当なのか。
「本当ですか、それ」
銅札冒険者のルカ・ノインが真顔で尋ねると、時務官のミラ・セインは依頼書から目を上げた。
「何が」
「迷宮で、運命の出会いがあるって話です」
「ありますよ」
ルカの目が輝いた。
「借金取り、毒虫、遺族。だいたい一生忘れられない出会いになります」
「人間相手の、もう少し胸が高鳴るやつを想定してました」
「大ムカデも人によっては胸が高鳴ります。毒で」
朝の冒険者組合は、鎧のきしみと安酒の匂いと、昨夜の失敗談で満ちていた。
受付の奥では、迷宮から延びる巨大な鎖が天井を貫いている。鎖は街の中央に立つ時計塔へつながり、地下のどこかにある主錘によって時計を動かしているという。
その鎖が、昨夜から一度も震えていなかった。
シベムは依頼書を机に置いた。
「十三層の時計室を点検します。私は機構の確認。あなたは荷物持ちと護衛補助」
「十三層なら、僕の等級より三つ深いですよ」
「だから専門家を一人つけます」
背後で椅子が鳴った。
立ち上がった男は、英雄譚の挿絵に出てくるような姿ではなかった。
磨き上げた鎧も、魔力を帯びた大剣もない。灰色の革外套に、短い弩、鉄杭、細縄、石灰の袋、油壺、折り畳み式の小さな鋤。腰には使い込まれた鉈が一本。
エリオ・ヘイス。
小鬼退治ばかりを請け負うため、冒険者たちからは〈灰縄〉と呼ばれている。
「荷物を見せろ」
挨拶の代わりに、エリオは言った。
ルカが背嚢を開くと、彼は中身を一つずつ机へ放り出した。
予備の剣帯、磨き粉、香辛料、恋愛成就のお守り。
「最後のは何だ」
「運命の出会いに備えて」
「置いていけ」
「心の装備です」
「心は腹の足しにならん。乾パンを増やせ」
シベムが無表情のまま、恋愛成就のお守りを自分の鞄へ入れた。
「没収します」
「どうしてあなたが」
「危険物管理です」
エリオは鎖の止まった天井を見上げた。
「出るぞ。日没までに十三層へ着く。十一時五十九分を地下で迎えたくなければな」
二 弱いものの知恵
迷宮の第一層から第五層までは、古い王城の地下通路に似ている。
第六層から先は、誰も建てた覚えのない石段がねじれ始める。
第十層を越えるころには、壁と床の区別すら怪しくなる。
ルカは先頭のエリオを追いながら、背中の荷物が一段ごとに重くなるのを感じていた。
「小鬼って、本当に十三層にもいるんですか」
エリオは振り返らない。
「いる」
「上の層の巣は討伐済みだと」
「討伐済みの巣ほど調べろ。小鬼は空き家を好む」
「なぜ」
「人間が安心して入るからだ」
十二層へ続く細い回廊に、銅線が一本張られていた。
目の高さ。足元ではない。
ルカが得意げに指を差した。
「罠です」
「そうだな」
「解除します」
「待て」
エリオは石灰をひとつかみ、床へ薄く撒いた。
白い粉は、銅線の手前で不自然に途切れた。そこだけ床板の隙間から、かすかな風が吹き上げている。
「見つけやすい罠を一つ置く。解除しようと立ち止まった場所に、本当の罠を置く」
彼は壁から鉄杭を抜き、床板の端へ落とした。
板が沈み、回廊の両側から錆びた槍が突き出した。
ルカの喉の高さを、槍先が横切った。
「弱いものは、力比べをしない」エリオは銅線を切った。「力のある相手に、考えさせない方法を考える」
回廊の奥で、赤ん坊の泣き声がした。
ルカは反射的に一歩出た。
エリオの腕が胸を押さえた。
「耳を貸すな」
「でも」
「十二層に赤ん坊がいる理由を三つ言え」
「さらわれた。置き去りにされた。それから……」
「小鬼が真似ている」
泣き声が、笑い声に変わった。
天井の亀裂から小さな影が落ちる。
一匹、二匹、五匹。
灰色の皮膚。尖った耳。錆びた刃物。
だが最初に飛んできたのは刃ではなく、泥を詰めた壺だった。
「目を閉じろ!」
壺が割れ、刺激臭のある粉が舞う。
エリオは外套で顔を覆いながら弩を撃った。矢は泣き声を上げていた小鬼の喉へ刺さる。
シベムが短杖を床へ打ちつける。
青白い輪が広がり、二匹の足が石に貼りついた。
残る三匹がルカへ殺到した。
小さい。
だから剣を振り下ろしにくい。
低い。
だから盾の下へ潜り込む。
一匹の刃が膝を狙う。
ルカは剣を捨て、背嚢を前へ落とした。小鬼が荷物へ突っ込んだところを、背嚢ごと壁へ蹴りつける。
二匹目が横から跳ぶ。ルカは剣帯を引き抜き、腕に巻きつけ、そのまま床へ叩き落とした。
三匹目は、シベムの背後にいた。
ルカが叫ぶより先に、エリオの鉈がその首筋へ食い込んだ。
戦いは一分も続かなかった。
終わったときには、回廊に荒い呼吸と薬品の匂いだけが残っていた。
ルカは倒れた小鬼を見た。
身体つきは子どもほどしかない。握っていた刃物も、台所用の小刀を研ぎ直しただけのものだ。
「小さいのと、幼いのは違う」
エリオは死骸の口を開き、奥歯の裏を調べた。
そこから薄い真鍮板を引き抜く。
板には、ルカの知っている文字が刻まれていた。
〈赤鹿亭 三号室〉
「街の宿の札だ」
「小鬼は名前を盗む」エリオは札を布に包んだ。「物の名、人の名、声。呼ばれても返事をするな。自分の名前を口にするな」
「名前を盗んで、何をするんです」
「人間のふりをする」
シベムが真鍮板を見つめていた。
「ずいぶん上手な字ですね」
「だから厄介なんだ」
エリオは死骸を回廊の隅へ寄せ、油を一滴ずつ垂らした。
「弱いまま賢いものほど、始末が悪い」
三 十三層の町
十三層へ降りる扉には、鍵穴がなかった。
代わりに、扉の中央へ時計の文字盤が埋め込まれている。
針は十一時五十九分を指したまま止まっていた。
シベムが銀色の音叉を取り出し、文字盤へ触れさせる。
澄んだ音が石壁の奥へ染み込み、扉が左右に割れた。
その先にあったのは、迷宮ではなかった。
町だった。
低い家々。石畳。広場。酒場。組合。
どれもアステラの町並みに似ている。ただし、ひどく小さい。子ども向けの玩具を、泥と骨で作ったようだった。
広場には数十匹の小鬼がいた。
一匹が樽に見立てた頭蓋骨を運び、別の一匹が布切れを広げて露店を作っている。
組合らしき小屋では、尖った耳の小鬼が木片を札のように配っていた。
酒場の前では二匹が肩を組み、声にならない声で歌っている。
暮らしている。
ルカがそう思った瞬間、背筋が冷たくなった。
広場の端を歩く一匹が、赤い布を首に巻いていた。
ルカのものと同じ結び方だった。
その小鬼は、歩きながら三歩ごとに右肩を回す。
背嚢の紐が食い込むとき、ルカ自身が無意識にする癖だった。
「見るな」とエリオが言った。
「でも、あれは」
「似せているだけだ」
町の中央には、時計塔が立っていた。
アステラの時計塔と同じ形。
ただし塔のてっぺんは天井へ突き刺さり、その先から巨大な鎖が垂れている。鎖こそ、街の組合で見たものだった。
鎖の根元に、一人の少女が座っていた。
小鬼ではない。
年は十七、八。白い髪を短く切り、煤けた作業着を着ている。
顔立ちはシベムによく似ていた。いや、似ているどころではない。同じ顔を数年だけ若くしたようだった。
「遅かったね」
少女は立ち上がった。
「昨日は、もう少し早く来たのに」
エリオが弩を構える。
「人の形をしていても近づくな」
「待って」少女は両手を見せた。「あなたが撃つ場所は知ってる。右の目、喉、膝。それから逃げ道を潰す」
「なら避けろ」
「八千百二十七回も見れば、覚えるよ」
少女はルカを見た。
「おかえり、ルカ」
「僕を知ってるのか」
「返事をするな!」
エリオの警告と、ルカの言葉が重なった。
広場の小鬼たちが、一斉にこちらを向いた。
ざらついた声が、あちこちから湧く。
ルカ。
ルカ。
ルカ・ノイン。
自分の名前が、何十もの口で転がされる。
赤い布を巻いた小鬼が、笑った。
その笑い方まで、ルカに似ていた。
少女は悲しそうに息を吐いた。
「また答えた。あなたは毎回、最初に同じ間違いをする」
「お前は何者だ」
シベムが音叉を構えた。
少女は彼女へ視線を移した。
「私は、あなた」
「答えになっていません」
「最初のミラ・セイン。時計が私を選ばなかった夜の、あなた」
シベムの顔から血の気が引いた。
「小鬼の言葉です」
「そうだよ」
少女は笑った。
「私たちはみんな、小鬼だから」
四 借り物の名前
エリオの弩が鳴った。
少女は身をひねったが、矢は肩を貫いた。
白い作業着に黒い血がにじむ。
黒い。
人間の血の色ではない。
少女は苦痛に顔を歪めながら、鎖の根元にある小扉へ手を伸ばした。
「真実を見たいなら、中へ」
「動くな」
「あと二時間で、外から人間が来る。時計を巻き直したら、また全部忘れる。そうなったら、町は焼かれるまで夢を見たまま」
エリオが二本目の矢をつがえる。
そのとき、広場の向こうから鐘が一度だけ鳴った。
小鬼たちが騒ぎ始める。
町の家々から、さらに無数の影が這い出した。
「囲まれる」シベムが言った。
「時計室へ入るぞ」エリオは少女へ鉈を向けた。「案内しろ。妙な動きをしたら首を落とす」
小扉の先は、巨大な機械室だった。
歯車の一枚一枚が家ほどあり、振り子は暗闇の奥まで伸びている。
壁には無数の真鍮板が並んでいた。
宿の札。
店の看板。
墓碑。
そして、人の名前。
ルカ・ノイン。
同じ名が刻まれた板だけで、二十七枚あった。
「何だ、これ」
「昨日のあなた。一昨日のあなた。その前のあなた」
少女が肩の矢を折った。
「時計は、毎晩ひとつの町を選ぶ。一番争いが少なく、一番人間らしく振る舞えた町を。選ばれなかった私たちは、十三層の下へ落とされる」
「町を選ぶ?」
「私たちは眠るたびに、いくつもの明日を作らされる。誰が生きるか、誰が死ぬか、誰が誰を疑うか。時計は一番都合のいい結果だけを上へ戻す。それ以外は、小鬼として捨てる」
シベムが首を振った。
「そんなはずはありません。時計塔は街ができる以前からあります」
「街ができる以前に、巣があった」
少女は歯車の影から、白骨を引きずり出した。
巨大だった。
ルカの身長の倍はある。そう見えた。
革鎧は腐り、胸骨には錆びた剣が刺さっている。
首には真鍮の認識票が下がっていた。
少女が汚れを拭う。
〈LUCA NOIN〉
ルカは笑いかけた。
冗談だと思いたかった。
声が出なかった。
「大昔、この迷宮へ人間の探索隊が来た。その人たちは、未来を計算する魔法時計を持っていた。危険な道を選ばずに済むように、あり得た明日を見比べる道具」
「そして小鬼が奪った」エリオが低く言った。
「奪って、使い方を間違えた」
少女は壁の小さな鏡を外し、ルカへ向けた。
鏡の中に、人間はいなかった。
灰色の皮膚。
大きな耳。
黄色い目。
口元から覗く、細く尖った歯。
赤い布を首に巻いた、小鬼がいた。
ルカが右肩を回すと、鏡の小鬼も同じ動きをした。
「時計は、殺した人間の記憶を巣へ流した。言葉、家族、仕事、恥、夢。小鬼たちは夢の中で人間になった。泥の巣を石の町だと思い、自分たちを冒険者だと思い、正気に戻った仲間を小鬼と呼んで狩った」
エリオが鏡を鉈で叩き割った。
破片の一つ一つに、灰色の顔が映った。
「姿を変える術だ」
「違う。人間に見えていたほうが術だった」
少女が指を鳴らす。
機械室の灯が一瞬消えた。
暗闇の中で、ルカの身体が縮んだ。
背嚢が急に巨大になり、剣の柄が柱ほど太くなる。
隣のシベムも、エリオも、灰色の小さな影になった。
次の瞬間、灯が戻る。
人間の姿も戻る。
だが一度見てしまったものを、見なかったことにはできない。
「エリオ」
歯車の向こうから、幼い声がした。
小さな女の子が立っている。
茶色の髪。片方だけ赤い靴。
エリオの顔が凍った。
「兄ちゃん」
「答えるな」とルカは言った。
今度は彼が、警告する番だった。
少女はエリオを見つめた。
「あなたが覚えている村も、妹も、元は人間の記憶。巣を焼きに来た討伐隊の誰かが持っていた人生」
「黙れ」
「でも痛かったでしょう」
「黙れ」
「偽物の妹を失った痛みは、偽物?」
エリオの鉈が震えた。
赤い靴の子は一歩近づき、口を裂くように笑った。
人間の歯ではない。何列もの細い牙。
エリオは迷わず鉈を投げた。
刃が少女の胸へ刺さる。
小さな身体は歯車の間へ倒れた。
「記憶が借り物でも」
エリオは掠れた声で言った。
「いま噛みつこうとした牙は本物だ」
五 選ばれなかった者たち
機械室の外で、何か巨大なものが動き始めた。
町じゅうの小鬼が重なり、押し合い、互いの肩や背を踏み台にして、一つの塊になっている。
腕。脚。顔。名前札。
選ばれなかった何千もの昨日が、歯車の隙間から流れ込んできた。
声が重なる。
返せ。
上へ戻せ。
俺がルカだ。
私がシベムだ。
兄ちゃん。
母さん。
店を返せ。
顔を返せ。
明日を返せ。
エリオは石灰袋を歯で破り、床へ白い線を引いた。
「線を越えたら燃やす」
「全部、私たちですよ」シベムが言った。
「だから何だ」
「殺すんですか」
「お前を殺そうとするならな」
エリオは油壺を並べ、細縄で栓を結んだ。
一つ引けば、床へ油が広がる仕掛けだ。
「真実は免罪符じゃない。哀れさは武器を鈍らせる理由にもならん。だが――」
彼はルカを見た。
「何を守るかは、知ってから決めろ」
シベムは主機の前へ立った。
中央の鍵穴へ、銀の音叉を差し込む。
「時計を巻き直します」
「正気か」とルカが言った。
「止めれば、街の八千人が自分の姿を失う。言葉も、記憶も。外から人間が来るという話が本当なら、なおさらです」
「続ければ、毎晩八千人分の捨てられた自分が増える」
「上の八千人は生きられる」
「下の八千人も、生きてる」
シベムの手が止まった。
白髪の少女が、黒い血を押さえながら笑う。
「選ばれた私は、いつも同じことを言う」
「あなたは何をしたんです」
「最初の夜、止めようとした。だから時計は、止めない私を選び直した。私は下へ捨てられた」
「では、あなたが正しい保証もない」
「ないよ」
少女は即答した。
「時計の外へ出た明日には、保証なんて一つもない」
外の塊が白線を越えた。
エリオが縄を引く。
油が広がり、火花が落ちた。
炎の壁が立ち上がる。
合わさった小鬼たちは燃えながら前へ進んだ。
何百もの口が、別々の悲鳴を上げる。
焦げた腕が伸び、歯車へ爪を立てた。
ルカは主機を見上げた。
文字盤は十一時五十九分。
長針は十二の直前で震えている。
主機の脇には二本のレバーがあった。
一本には〈再演〉。
もう一本には〈廃棄〉。
どちらも、人間の文字で刻まれている。
「止めるレバーがない」
「未来を選ぶ機械だから」白髪の少女が言った。「選ばない、という使い方を想定していない」
巨大な腕が炎を越え、エリオを薙ぎ払った。
彼は歯車へ叩きつけられ、息を吐く。
シベムが音叉を抜こうとする。
その手首を、別のシベムの顔をした小鬼が掴んだ。
「返して」
小鬼の口から、シベムと同じ声が出る。
「私の机。私の朝。私の名前」
シベムは動けなかった。
ルカが背後から小鬼を引き離す。
噛まれた腕に激痛が走った。
小鬼の顔が、今度はルカ自身へ変わる。
「お前は昨日、ここで死んだ」
胸に深い傷のあるルカが笑う。
「時計が、死ななかったお前を選んだ。俺は捨てられた。どっちが本物だ?」
ルカは答えられなかった。
胸傷のルカが首へ噛みつこうとする。
エリオの短弩が、そのこめかみを射抜いた。
「考えるのは後だ!」
ルカは倒れた自分の顔を見た。
恐怖も、怒りも、死にたくないという願いも、全部わかった。
同じだったからだ。
ルカは剣を抜き、主機の歯車へ走った。
「再演でも廃棄でもないなら、壊すのか」とエリオが叫ぶ。
「いいや」
ルカは回り始めた歯車の間へ剣を差し込んだ。
「一分を返す!」
刃が砕けた。
主機が唸り、長針が跳ね返る。
シベムが意図を悟り、音叉を時計の軸へ打ち込んだ。
白髪の少女も反対側から歯車を押す。
「時計を止めるんじゃない」ルカは叫んだ。「選ぶ前に、先へ進ませる!」
「そんなことをしたら、何が残るかわからない!」
「何が残るかを、時計に決めさせるよりましだ!」
炎の向こうから、選ばれなかった者たちが押し寄せる。
エリオは立ち上がった。
鉈を拾い、白線の中央に立つ。
「三十数える」
「短くないですか」
「長く生きたいなら急げ」
一。
二。
三。
鉈が振るわれる。
石灰が目を焼き、鉄杭が足を止め、細縄が喉を締める。
エリオは一歩も退かなかった。
十二。
シベムの手から血が流れる。
白髪の少女の肩の傷が裂ける。
二十一。
ルカは折れた剣の柄を、歯車の奥へ押し込んだ。
二十八。
主機の軸がひび割れた。
二十九。
長針が、十二を越えた。
三十。
迷宮都市アステラに、初めて十二の鐘が鳴った。
六 町の本当の姿
鐘の音は、世界の皮を剥いだ。
石の時計塔は、錆びた鉄屑へ戻った。
組合の大広間は、巨大な盾を壁に立てかけた泥の小屋になった。
石畳は骨と陶片を敷き詰めた通路へ変わる。
夜空は消え、はるか頭上に青く光る茸の天井が現れた。
町の人々が悲鳴を上げた。
皆、小鬼だった。
パン屋の老女も。
威張り屋の金札冒険者も。
毎朝、広場を掃いていた少年も。
それぞれが灰色の皮膚と尖った耳を持ち、借り物だった人間の服を身体に合わせて縫い直していた。
だがパン屋の老女は、転んだ子どもを起こした。
金札冒険者は、崩れた梁を支えた。
掃除の少年は、泣いている妹の手を握った。
姿が変わっても、誰が何をするかは変わらなかった。
ルカは自分の手を見た。
節くれ立った小さな指。鋭い爪。
腕には、さきほど噛まれた傷と、覚えのない古い傷が重なっている。
昨日死んだ自分の記憶が、胸へ流れ込んできた。
暗い回廊。
腹へ刺さる槍。
誰にも看取られず、時計が十一時五十九分を指したまま止まる光景。
ルカは膝をついた。
「僕は、一度死んでた」
「一度で済んだと思うな」
隣でエリオが咳き込んだ。
彼もまた、小鬼だった。
片目が白く濁り、外套は人間用の手袋を切り開いて作ったものだった。
「俺は四十三回、妹を失ったらしい」
「平気なんですか」
「平気に見えるか」
エリオは笑った。
ルカが彼の笑い声を聞いたのは、それが初めてだった。
シベムは白髪の少女を抱えていた。
二人はもう同じ顔ではない。
シベムの右目は青く、少女の右目は金色だった。
「名前を返す」と少女が囁いた。
「要りません」
「私の名前でもある」
「では半分ずつにしましょう」
シベムは少女の手を握った。
「私はシベム。あなたは?」
「ずっと零番と呼ばれてた」
「ひどい名前ですね」
「あなたの冗談よりはまし」
「それなら、エル。零の最初の音です」
「勝手に決めないで」
「嫌なら明日変えましょう」
エルは目を閉じた。
わずかに笑っていた。
遠くで、低い衝撃音が響いた。
一度。
二度。
三度。
迷宮の外壁を、何かが叩いている。
エリオが顔を上げた。
「人間だ」
町の端にある門――人々が地上への出口だと思っていた場所――が、外側から破られた。
眩しい光が差し込む。
その光の中へ、人影が立った。
巨人に見えた。
だが違う。
あれが人間の本当の大きさなのだ。
鉄兜。長槍。油壺。火矢。
迷宮の巣を焼くための装備。
「ゴブリンの巣だ!」
人間の声が、洞窟を揺らした。
「建物を真似ている。人語を使う個体もいるぞ。声に惑わされるな!」
エリオが鉈を構えた。
ルカはその前へ立った。
「退け」
「罠を張るんですか」
「相手は俺たちより大きく、数も装備も上だ。力比べはしない」
「僕たちを小鬼として殺しに来た人たちに、同じことをする?」
「では、どうする」
ルカは答えを知らなかった。
時計はもう、最も安全な明日を選んでくれない。
正解の札も、再演のレバーもない。
だからルカは、折れた剣を地面へ置いた。
七 一分間の町
人間たちの先頭に、一人の女騎士がいた。
銀の胸当て。煤けた赤い外套。
ルカの首に巻かれた布と、同じ色だった。
女騎士は剣を抜き、町を見渡す。
泣く子ども。
怪我人を運ぶ者。
崩れた家から荷物を引き出す者。
小さな身体で武器を構える者。
「整列しろ!」女騎士が命じた。「油を前へ。巣の奥から焼く」
人間たちが壺を並べる。
ルカは両手を上げ、一人で門へ歩いた。
「止まれ!」
槍先が喉へ向く。
ルカは人間の言葉で言った。
「ここは巣じゃない。町です」
何人かが息を呑んだ。
別の者が怒鳴る。
「声真似だ! 近づけるな!」
「小鬼は名前を盗む。返事をするな!」
聞き覚えのある警告だった。
女騎士の目が、ルカの胸元で止まった。
そこには、白骨から外した真鍮の認識票が下がっている。
〈LUCA NOIN〉
女騎士の顔が変わった。
「それを、どこで手に入れた」
ルカは認識票を外し、地面へ置いた。
「昔、ここへ来た人から」
「お前たちが殺したのか」
「僕ではない。でも、僕たちの祖先が殺した」
女騎士の剣先が震える。
「その名を口にするな」
「僕は彼ではありません」
「黙れ」
「彼は最後に、姉さんのスープを思い出していた」
女騎士の顔から、怒りが消えた。
代わりに、もっと深い痛みが現れた。
「冬になると胡椒を入れすぎる。焦がした鍋を、井戸の裏へ隠した。彼はそれを見つけたけど、父さんには言わなかった」
「黙れ!」
「これは盗んだ記憶です。返せと言われても、どこへ返せばいいかわからない。けれど、その記憶で僕は笑って、怖がって、誰かを助けたいと思った」
ルカは喉へ突きつけられた槍を見た。
「あなたの弟を殺した罪が、僕たちの町から消えるとは言いません。僕たちの中に、いまも人を殺したい者がいることも否定しません。そちらにも、僕たちを全部焼きたい人がいる」
背後で、エリオが油壺を数えている。
シベムはエルを抱いたまま、人間たちの配置を見ている。
誰も無防備ではない。
誰も完全には信じていない。
それでもルカは、両手を下げなかった。
「一分だけ、話を聞いてください」
女騎士は認識票を見た。
ルカを見た。
町を見た。
背後の兵が言う。
「隊長、時間を与えれば罠を」
「わかっている」
「弟さんの声に惑わされては」
「この声は弟じゃない」
女騎士は剣を下ろした。
「だから、こいつが何者なのかを聞く」
彼女は人間たちへ振り返る。
「火を止めろ。一分だけだ」
エリオが小さく息を吐いた。
「短いな」
「あなたがくれた時間と同じです」
「長く生きたいなら、急げ」
ルカは思わず笑った。
町の中央で、壊れた時計が一度だけ音を立てた。
午前零時。
誰にも選ばれなかった一分が、始まった。
終章 明日
その一分で、平和が決まったわけではない。
人間の中には、最後まで町を巣としか呼ばない者がいた。
町の中にも、人間を餌としか見ない者がいた。
話し合いの三日目には殴り合いが起き、七日目には一人が逃げ、九日目には裏切り者が出た。
十日目、人間の隊長セラ・ノインは、町の門に二つの看板を掛けた。
人間の文字で、〈アステラ〉。
小鬼の文字で、同じ意味の名。
どちらが本物かと問う者に、彼女は答えた。
「読めるほうを使え」
エリオは町の外周へ罠を張り直した。
今度の罠は人間を殺すためではなく、互いの武器を預けさせるための仕掛けだった。
シベムとエルは壊れた時計を解体し、未来を選ばない普通の時計へ作り替えた。
ルカは冒険者を続けた。
ただし今度の迷宮は、町の上に広がっていた。
人間の村。
知らない空。
本物の雨。
選ばれなかった明日が、いくらでも続く世界。
初めて地上へ出る朝、ルカは門の前でシベムに尋ねた。
「結局、迷宮で運命の出会いはありましたかね」
「ありましたよ」
「誰と」
「自分の本当の顔と」
「胸が高鳴る種類じゃない」
「大丈夫です。私とも会いました」
「それは、胸が高鳴るほうですか」
「毒かもしれません」
シベムは、昔没収した恋愛成就のお守りを差し出した。
小鬼の手に合わせて、紐が短く結び直されている。
「危険物管理は?」
「返却期限です」
ルカが受け取ると、遠くで十二の鐘が鳴った。
時計は一分も飛ばさなかった。
迷宮の底に生まれ、借り物の名で築かれた町は、その瞬間、初めて誰にも選ばれずに存在していた。
それが正しい明日だったかどうかは、誰にもわからない。
わからないからこそ、明日だった。
了