『午前零時のラブ・オール』

 喧嘩は、勝った方の言い分が正しくなる。

 テニスは、ボールが線の内側に落ちた方が正しくなる。

 県立黒鉄工業高校二年の綾森猛は、その二つを、だいたい同じようなものだと思っていた。

 午前零時。

 閉鎖された朝凪市民コートの得点板が、ひとりでに「LOVE-ALL」と灯るまでは。

「タケさん! 青耀の連中、もう来てます!」

 八田修平が息を切らして駆け込んできたとき、猛は校舎裏で三年生を二人、用務員室の古びたソファに並べて座らせていた。

 二人とも鼻にティッシュを詰めている。

 猛の右拳には血がついている。

 ただし、その血は猛のものだった。

「で?」

「で、じゃないっすよ。今夜、朝凪コートで決着つけるって。向こうは二十人。錦嶺冬牙も来るそうです」

 その名を聞いた瞬間、猛の拳がわずかに固くなった。

 ソファの三年生が、ひっと喉を鳴らす。

「帰れ」

 猛が言うと、二人は互いにつまずきながら逃げていった。

 八田は呆れた顔でその背中を見送った。

「あいつら、何やったんすか」

「一年から弁当代取ってた」

「で、タケさんが説教を?」

「話が長えから、一発ずつにした」

「合理的っすねえ」

 黒鉄工業では、猛は「鉄拳のタケ」と呼ばれている。

 授業中はほとんど寝ている。制服の袖はまくり、ネクタイは入学式の日に失くした。成績は学年の下から数えた方が早い。だが、弱い者から金を取る奴と、数を頼んで一人を囲む奴だけは許さない。

 そのせいで味方も多いが、敵はもっと多かった。

「朝凪コートは、明日から青耀スポーツ開発のもんになる。フェンス張って、会員制の育成施設にするって話です」

 八田が言った。

「知ってる」

「なら今夜、止めるしかないっす。あそこ取られたら、近所のガキも、じいさんばあさんも使えなくなる」

「知ってるって言ってんだろ」

 猛は壁に立てかけてあった鉄パイプを手にした。

 だが、二歩進んでから止まった。

 用務員室の窓際に、一本の古いテニスラケットがあった。

 ガットは黄ばみ、フレームの塗装は半分剥げている。グリップの底には、不器用な文字で二つの頭文字が彫られていた。

 K&T。

 綾森猛と、錦嶺冬牙。

「それ、持ってくんすか」

「持ってかねえ」

「昔、テニスやってたって本当なんですね」

「やってねえ」

「いや、ラケットに名前が」

「八田」

「はい」

「今からお前を三年の隣に座らせてもいいんだぞ」

 八田は口を閉じた。

 猛は鉄パイプだけを持って、夜の街へ出た。

 朝凪市民コートは、海沿いの工業地帯と住宅街の境目にあった。

 錆びた金網。

 ひび割れたアスファルト。

 二基ある照明塔は三年前から壊れたまま。

 それでも休日になれば、小学生が短いラケットを振り、老人たちがゆっくり球を打ち合った。

 猛と冬牙が初めて会ったのも、このコートだった。

 七歳の猛は、飛んできたボールを素手でつかみ、七歳の冬牙に投げ返した。

 七歳の冬牙は、それをラケットで猛の額に打ち返した。

 次の瞬間には取っ組み合いになり、その三十分後には一緒にアイスを食べていた。

 二人はダブルスを組んだ。

 猛はどんな球にも食らいついた。

 冬牙はどこへ打てば相手が崩れるかを、最初から知っていた。

 十三歳の夏、二人は県大会で優勝した。

 その一週間後、冬牙は名門・私立青耀学院の特待生になった。

「お前と組んだ六年、練習にもならなかった」

 冬牙はそう言った。

 猛は返事の代わりに、冬牙の頬を殴った。

 冬牙は倒れなかった。

 代わりに、二人のラケットをネットポストへ叩きつけた。

 それ以来、猛はテニスをやめた。

 冬牙は全国大会へ進んだ。

 そして今夜、二人は同じコートを挟んで、別々の二十人を背負って立っていた。

 黒鉄工業側には、作業着、学ラン、革ジャン。

 青耀学院側には、白いジャージと揃いのウインドブレーカー。

 その中央で、錦嶺冬牙は白いテニスバッグを肩にかけていた。

 背が伸びていた。

 髪は短く整えられ、頬には昔、猛がつけた傷が薄く残っている。

「鉄パイプか」

 冬牙が言った。

「ラケットよりは素直だ」

「お前には似合っている」

「お前には、そのお坊ちゃん服がお似合いだぜ」

 両陣営から、低い笑いが起きた。

 冬牙の後ろにいた女子マネージャー、桐橋真琴が一歩出る。

「話し合いましょう。施設の契約には、地域開放の条項が——」

「真琴」

 冬牙が止めた。

「今さら紙切れを見せても、こいつは読まない」

「読めねえみたいに言うな」

「読めるのか」

「漢字による」

 黒鉄側から笑いが起きた。

 青耀側の何人かまで吹き出した。

 冬牙の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 それを見て、猛は無性に腹が立った。

「決めようぜ。ここで」

 猛は鉄パイプを地面へ放った。

「どっちが朝凪コートから消えるか」

 冬牙もテニスバッグを下ろした。

「望むところだ」

 二人が同時に一歩踏み出した、そのときだった。

 ばちん。

 誰も触れていない照明塔が点いた。

 真昼のような白い光が、ひび割れたコートを照らした。

 金網の外にいた全員のスマートフォンが、一斉に黒い画面になった。

 そして、古い得点板に文字が浮かんだ。

 LOVE-ALL。

「……電気、止まってるはずだよな」

 八田がつぶやいた。

 審判台に、一人の男が座っていた。

 いつ現れたのか、誰にも分からなかった。

 真っ黒なスーツ。

 真っ黒なネクタイ。

 顔だけが、ボールのように青白い。

 年齢は、老人にも若者にも見えた。

「朝凪コートでの争いは、球で決めていただきます」

 男は、乾いた声で言った。

「一ゲーム。デュースあり。勝者は、この場所の明日を一つだけ決められる。敗者は、その決定に二度と逆らえない」

「誰だ、てめえ」

 猛が問う。

「主審です」

「見りゃ分かる。名前を聞いてんだよ」

 男は薄く笑った。

「試合が終われば、名前など必要ありません」

 コートの門が、ひとりでに開いた。

 猛の足元へ、一本のラケットが滑ってくる。

 用務員室に置いてきたはずの、K&Tのラケットだった。

「ふざけんな」

「殴り合いを望むなら、ご自由に。ただし——」

 主審が指を鳴らした。

 猛は冬牙へ殴りかかった。

 次の瞬間、猛は自分側のベースラインに立っていた。

 冬牙も反対側のベースラインにいる。

 間にあったはずの十メートルを、拳は一ミリも進んでいなかった。

「このコートの中では、ラケット以外による攻撃は、すべて最初の位置へ戻されます」

 主審は言った。

「便利な世の中になったな」

 猛は吐き捨てた。

 冬牙がバッグからラケットを抜く。

「逃げるのか、猛」

 昔と同じ呼び方だった。

 猛は足元の古いラケットを拾った。

「誰が逃げるかよ」

 両手でグリップを握る。

 四年ぶりだった。

 手のひらが、先に形を思い出した。

 冬牙の第一サーブは、照明の中へ消えた。

 高く上げたトスと白い光が重なり、ボールの輪郭が消える。

 次に見えたときには、猛の右横のラインが白い粉を噴いていた。

「フィフティーン・ラブ」

 主審の声。

 遅れて、金網が震える音がした。

「うそだろ……」

 八田が目を見開く。

 青耀側から歓声が上がった。

 その中で、真琴だけが困った顔をしていた。

「錦嶺先輩、今のサーブ……名前、なんでしたっけ」

 冬牙が振り返る。

「白夜だ。お前がつけた」

「私が?」

 真琴は首をかしげた。

「すみません。そんな話、しました?」

 冬牙の眉が動いた。

 猛は鼻で笑った。

「格好つけて技に名前なんかつけるからだ」

「次は、お前の記憶から消してやる」

 二本目。

 またボールが光へ溶けた。

 だが今度は、猛が先に走った。

 見えてからでは遅い。

 なら、冬牙の肩と手首を見る。

 昔、何千本も見た動きだった。

 猛のラケットがボールを捉える。

 鈍い金属音。

 返球はネットを越えたが、アウトへ大きく飛んだ。

「アウト。サーティー・ラブ」

 青耀側の歓声が、さっきより小さい。

 真琴が冬牙のスポーツドリンクを見て言った。

「これ、誰のですか?」

 冬牙は答えなかった。

 ボトルには「TOGA」と書かれていた。

 だが、真琴はそれを初めて見る物のように持っている。

 得点板の「30」が、一瞬だけ別の文字に見えた。

 MAKOTO。

 その名前の一部が、黒く塗りつぶされて消えた。

 猛にも、冬牙にも、それが見えた。

「何しやがった」

 冬牙が審判台をにらむ。

「得点を記録しただけです」

「得点じゃねえだろ」

 猛が言った。

 主審は笑った。

「試合を続ければ、お分かりになります」

 冬牙の三本目のサーブ。

 今度の猛は、ベースラインから二歩下がった。

 光の中ではなく、地面に落ちる影を見る。

 ボールが来る。

 猛は腰を落とし、短いスイングで叩いた。

 まともなフォームではない。

 拳を振り抜くときと同じ、腰と肩を一気に回す打ち方。

 ボールはネットすれすれを走り、冬牙の足元へ突き刺さった。

 冬牙のラケットがわずかに遅れる。

「フィフティーン・サーティー」

「よっしゃあ! 出た、タケさんの舗装路リターン!」

 八田が叫んだ。

「今つけただろ、その名前」

「必殺技は名前があった方が盛り上がるんすよ!」

 猛は思わず笑った。

 だが八田は、すぐに妙な顔をした。

「……あれ。俺、なんでこの人をタケさんって呼んでんだ?」

 笑いが消えた。

「八田」

「すんません。顔は知ってるんすけど……どこで会いましたっけ」

 猛の胸の奥を、冷たいものが通った。

 一年前。

 三年生六人に囲まれていた八田を、猛は一人で助けた。

 殴られ過ぎて立てなくなった猛を、八田は背負って病院まで運んだ。

 その夜から、八田は猛の後ろを勝手についてくるようになった。

 八田の目から、その夜が消えている。

 得点板の「15」が、HATTAの文字に変わり、一部を黒く失った。

「点を取った方が、払うのか」

 冬牙がつぶやいた。

「ご明察」

 主審が拍手を一度だけした。

「得点とは、相手から奪うものではありません。自分から差し出すものです」

「何をだ」

「あなたを、あなたにしているものを」

 猛は審判台へラケットを投げようとした。

 だが冬牙の声が飛んだ。

「よせ! ラケットを失えば試合続行不能だ。棄権扱いになる」

「それがどうした」

「棄権すれば、相手に残りの得点が加算されるかもしれない」

 主審の笑みが深くなった。

 冬牙の読みは当たっているらしい。

「だったら、さっさと終わらせる」

 猛は構えた。

「俺が勝って、全部払う」

「勝手に決めるな」

 冬牙の目が鋭くなる。

「このコートを残すのは俺だ」

「会員制にする奴が言うな」

「契約書を読んでいないのか」

「漢字によるって言ったろ」

「馬鹿が!」

 冬牙のサーブが飛ぶ。

 今度は光へ上げない。

 体の正面へ来る、重いフラットサーブ。

 猛は避けずに打ち返した。

 衝撃で、古いラケットのフレームがきしむ。

 ボールは高く浮いた。

 冬牙が跳ぶ。

 夜空を背に、ラケットが振り下ろされた。

 叩きつけられたボールは猛のコートで跳ね、肩の高さまで一気に伸びる。

 猛は後ろへ転がりながらラケットを合わせた。

 返球は冬牙の頭上を越え、ぎりぎりベースラインへ落ちた。

「サーティー・オール」

 黒鉄側から大歓声が上がる。

 猛のポケットで、スマートフォンが鳴った。

 母親からだった。

「もしもし」

『……どちらさまですか』

 声は確かに母親だった。

「おふくろ。俺だ」

『番号をお間違えじゃないですか』

 通話が切れた。

 画面に並んでいた家族の写真から、猛だけが消えている。

 母親と妹の間に、不自然な空白があった。

 猛はスマートフォンを握りつぶしそうになった。

「猛」

 冬牙がネットの向こうから呼ぶ。

「止めるなら、今だ」

「止めたら、お前が勝つ」

「勝つのは俺だ。最初からそのつもりだ」

「ふざけんな。格好つけるのはガキの頃から変わってねえな」

「お前にだけは言われたくない」

 二人は同時に笑った。

 笑ったことに、互いが驚いた。

 主審が不愉快そうに指を鳴らす。

「プレーを」

 次のラリーは二十七往復続いた。

 冬牙の球は、同じ場所へ二度来ない。

 深いトップスピンで猛を下げ、短いスライスで前へ引きずり出す。左右に振り、呼吸を奪い、最後に逆を突く。

 猛は技術では完全に劣っていた。

 だが、倒れなかった。

 靴底が裂けても走る。

 膝を擦りむいても滑り込む。

 体勢を崩せば、転びながら打つ。

 冬牙が完璧な組み立てで空けた場所へ、猛は完璧ではない執念で戻ってくる。

「しつこいぞ!」

「喧嘩で一番大事なのはな!」

 猛はラケットを振り抜いた。

「相手が先に嫌になるまで、立ってることだ!」

 ボールがネットポストの外側を回り込み、冬牙側のサイドラインへ落ちた。

「フォーティー・サーティー。ゲームポイント、綾森」

 得点板に「40」が灯る。

 同時に、黒鉄側から猛の名を呼ぶ声が消えた。

「誰だ、あいつ」

「うちの学校か?」

「知らねえけど、すげえな」

 八田まで、猛を見て首をかしげている。

 それでも拳だけは握り、声を張った。

「名前知らねえけど、負けんなよ!」

 猛の喉が熱くなった。

 勝てば、朝凪コートは残せる。

 その代わり、自分を覚えている者は、もう誰もいなくなる。

 それでいい、と猛は思った。

 昔から、殴られる役は自分でいいと思ってきた。

 八田が笑えるなら。

 妹が学校で肩身の狭い思いをしないなら。

 近所の子供たちが、ここでラケットを振れるなら。

 自分の名前くらい、安い。

「来い、冬牙」

 猛は構えた。

「終わらせる」

 冬牙は、ゆっくり首を振った。

「終わるのは、お前じゃない」

 白夜サーブ。

 猛は光の中へ踏み込んだ。

 ボールを捉える。

 だが、冬牙はすでにネットへ走っている。

 返球を空中で切る。

 ボールは勢いを失い、ネット際へ落ちた。

 猛は飛び込んだ。

 届かない。

「デュース」

 猛はアスファルトへ倒れ込んだ。

 冬牙が一点を取った瞬間、青耀学院の横断幕から「錦嶺冬牙」の名が消えた。

 真琴は、見知らぬ相手を見る目で冬牙を見ている。

「あなた……青耀の選手ですか?」

 冬牙は答えず、猛へ手を差し出した。

「立て」

 猛はその手を払って、自分で立った。

「契約書の地域開放条項って、何だ」

「平日の午後と休日の午前は、今まで通り無料開放する。設備は青耀が直す」

「最初からそう言え」

「言おうとした。お前が説明会の責任者を殴った」

「あいつ、近所のばあちゃんを『利用率に入らない』って笑ったんだぞ」

「だからといって殴るな!」

「じゃあ、笑った口をどう止めんだよ」

「言葉で止めろ!」

「俺は漢字によるんだよ!」

 また、二人は笑った。

 今度は、笑いながら泣きそうになった。

 次の一点を、冬牙が取った。

「アドバンテージ、錦嶺」

 その瞬間、真琴の手帳から、冬牙と撮った写真が消えた。

 青耀の選手たちは、コートの中の男が誰なのか分からなくなった。

 それでも真琴は、胸を押さえた。

「知らない人なのに……どうして、こんなに怖いんだろう」

 冬牙は聞こえないふりをした。

「猛。十三歳のときのことを覚えているか」

「忘れるかよ」

「俺が青耀へ行く前、お前に言った言葉だ」

「練習にもならなかった、だろ」

「あれは嘘だ」

 冬牙の声が震えた。

「特待の条件に、朝凪との関係を切ることがあった。お前は喧嘩沙汰が多かった。青耀は、お前と組み続けるなら俺を取らないと言った」

「だから俺を捨てたのか」

「違う」

 冬牙は歯を食いしばった。

「お前の家に金がないことを知っていた。お前まで青耀を目指せば、母親が無理をする。俺が先に嫌われれば、お前は諦めると思った」

 猛は黙った。

「馬鹿か、お前」

「お前にだけは言われたくない」

「俺が何年、お前を殴る想像して寝たと思ってんだ」

「実際、一度殴っただろう」

「足りねえ」

「なら試合の後にしろ」

 猛はラケットを構えた。

「試合の後なんか、俺たちにあるのかよ」

 冬牙は答えなかった。

 アドバンテージからの一点。

 冬牙が勝てば、冬牙の願いが通り、冬牙はすべてのつながりを失う。

 猛は冬牙のサーブを、渾身の力で打ち返した。

 ラケットのフレームが、ついに割れた。

 ボールは異様に低く、一直線に冬牙の足元へ飛ぶ。

 冬牙はぎりぎりで拾った。

 猛は折れかけたラケットで、もう一度叩く。

 互いの球が速くなる。

 冬牙が角度をつける。

 猛が飛びつく。

 猛が深く打つ。

 冬牙が背面で返す。

 ボールは白い火花のようになった。

 冬牙の最後の返球がネットに触れ、わずかに軌道を変える。

 猛は逆を突かれながら、ラケットの先だけを伸ばした。

 ガットの端に当たったボールが、ふわりと浮く。

 冬牙側のコートへ落ちた。

「デュース」

 得点板が震えた。

 主審が、初めて舌打ちした。

「無駄です。何度デュースを繰り返しても、いずれどちらかが勝つ」

「勝った方が、全部忘れられるんだな」

 猛が聞く。

「正確には、勝者が最後の愛を支払うのです」

 主審は楽しそうに答えた。

「テニスでは、ゼロをラブと呼ぶ。実に正直な数え方でしょう。人は何かを得るたび、ゼロにあった愛を使っている」

「悪趣味だな」

「勝利とは、そういうものです」

「違う」

 冬牙が言った。

「勝利は、相手がいるから成立する」

「同じことです」

「同じじゃねえよ」

 猛は割れたラケットを肩に担いだ。

「相手が消えたら、ただの独り勝ちだ」

 主審の笑顔が消えた。

「プレーを続けなさい」

 ボールが冬牙の手元へ戻る。

 冬牙は猛を見た。

 猛も冬牙を見た。

 言葉は要らなかった。

 昔、ダブルスを組んでいた頃。

 二人は作戦を決めるのが苦手だった。

 冬牙は説明が長く、猛は途中で聞くのをやめる。

 だから最後には、いつも目だけで決めた。

 ——次は、真ん中。

 冬牙がサーブを打った。

 猛は打ち返す。

 冬牙は、猛が最も取りやすい高さへ返した。

 猛も、冬牙の正面へ返す。

「何をしている」

 主審が言った。

 二人は答えない。

 左右へ振らない。

 逆を突かない。

 相手の届かない場所へ打つはずの競技で、二人は相手が必ず届く場所へ打ち続けた。

 十回。

 百回。

 千回。

 時計の針は午前零時一分から動かない。

 金網の外の仲間たちも、声を出さなくなった。

 時間そのものが止まり、瞬きさえ忘れている。

「無意味です」

 主審の声だけが響く。

「このコートからは出られない。ラリーは永遠に続く。疲労は積み重なる。いずれミスをする」

「だったら」

 猛は息を切らしながら笑った。

「ミスる前に、ぶっ壊す」

 次の球を、猛はネット中央へ高く上げた。

 冬牙が走る。

 猛も走る。

 二人はネットを挟み、同時に跳んだ。

「センターは——」

 冬牙が叫ぶ。

「二人のもんだ!」

 二本のラケットが、ネットの真上で一つのボールを同時に叩いた。

 爆発のような音がした。

 ボールの表面が裂けた。

 黄色い球は、二つの半球になって飛んだ。

 一つは猛側のサービスライン内へ。

 もう一つは冬牙側のサービスライン内へ。

 まったく同時に落ちた。

 主審が口を開く。

「ポイント——」

 声が出ない。

 得点板が猛烈な速さで切り替わった。

 ADVANTAGE KAMI。

 ADVANTAGE MIKAGE。

 GAME KAMI。

 GAME MIKAGE。

 WINNER。

 LOSER。

 WINNER。

 LOSER。

 白い線が、地面から糸のように浮き上がる。

 ネットが波打つ。

 照明塔の光が黒く染まる。

「同点はない!」

 主審が初めて叫んだ。

「勝者と敗者が必要だ! どちらかが、すべてを得て、すべてを失わなければ——」

「知るかよ」

 猛は言った。

「俺たち、昔からダブルスなんだ」

 得点板が最後に一度だけ光った。

 LOVE-ALL。

 主審の顔に、細い亀裂が走った。

 白い顔が、古いボールのように割れる。

 黒いスーツが崩れ、中から無数の消えかけた名前が飛び出した。

 誰かの息子。

 誰かの友人。

 誰かのライバル。

 誰かがかつて愛した、無数の勝者たちの名前。

 それらは夜空へ昇り、光の中で消えた。

 最後に残ったのは、二つだった。

 KAMISHIRO TAKERU。

 MIKAGE TOGA。

 二つの名前は絡み合い、一本の白い線になって、コートの中央へ落ちた。

 そして、すべての光が消えた。

 翌朝。

 八田修平は、朝凪市民コートの前で目を覚ました。

 周りには、黒鉄工業と青耀学院の生徒が四十人ほど倒れている。

 全員、なぜここに来たのかを覚えていなかった。

 コートの中には、折れた古いラケットと、白いラケットが一本ずつ落ちていた。

「誰のだ、これ」

 八田が拾う。

 古いラケットの底には「K&T」と彫られていた。

 だが、その文字が誰を指すのか分からない。

 胸の奥だけが、ひどく痛んだ。

「ねえ」

 青耀の女子マネージャーが、破れた書類を拾い上げた。

「これ、施設の契約書。地域開放の条項がある」

「じゃあ、コートなくならねえのか」

「でも、このままだと会員制の時間が長すぎる。修正案も挟まってる」

 修正案は、二種類の字で書かれていた。

 一つは、几帳面で細い字。

 もう一つは、漢字をところどころ間違えた、乱暴な字。

 最後のページには、こうあった。

 ——朝凪コートは、誰か一人の勝ち場所じゃない。

 ——下手でも、金がなくても、やり直したくなった奴が来られる場所にする。

 八田は、その文章を何度も読んだ。

「これ書いた奴、頭悪そうだな」

「でも、悪い人じゃなさそう」

 女子マネージャーが言った。

 二人は顔を見合わせた。

「じゃあ、直すか」

「契約を?」

「コートを。ついでに契約も」

 黒鉄と青耀の生徒たちは、その日から一緒に動いた。

 なぜそこまで必死になるのか、誰にも説明できなかった。

 ただ、朝凪コートを失くしてはいけないという気持ちだけが残っていた。

 署名が集まった。

 市が動いた。

 青耀スポーツ開発は計画を変更した。

 一年後、朝凪市民コートは全面改修され、無料開放の時間が大幅に増えた。

 入口には、新しい名が掲げられた。

 LOVE ALL COURT。

 その下の小さな記念プレートには、こう刻まれた。

 ——この場所を守った、名もなき二人のプレーヤーに捧ぐ。

 十年後の夏。

 小学五年生の少年が、夕暮れのコートで一人、壁打ちをしていた。

 何度打っても、ボールがラケットの真ん中に当たらない。

 悔しくなって、ラケットを投げそうになった。

 そのとき、隣のコートから音がした。

 ぱん。

 ぱん。

 ぱん。

 二人の青年がラリーをしていた。

 一人は、袖をまくった黒い学生服。

 もう一人は、白いテニスウェア。

 古い格好だった。

 十年前どころか、ずっと昔の写真から抜け出してきたように見える。

 黒い学生服の青年は、滅茶苦茶なフォームで、どんな球にも食らいついた。

 白いウェアの青年は、相手が届くぎりぎりの場所へ、正確に返し続けた。

「すげえ……」

 少年は金網へ近づいた。

「ねえ、どっちが勝ってるの?」

 二人はラリーを止めない。

 黒い学生服の青年が笑った。

「ずっとデュースだ」

「終わらないの?」

 白いウェアの青年が答えた。

「終わらせないんだ」

「なんで?」

 ボールを打つ音が、夕暮れに響く。

 ぱん。

 ぱん。

 ぱん。

「勝ったら、一人になるからだよ」

 少年には、その意味が分からなかった。

 ただ、不思議とラケットを投げる気はなくなった。

「俺も入っていい?」

 二人は同時に少年を見た。

 ほんの一瞬だけ、ひどく懐かしそうな顔をした。

「ラケットは?」

「一本しかない」

 黒い学生服の青年が、足元の古いラケットを蹴った。

 金網の下を滑り、少年の前で止まる。

 グリップの底に、二文字が彫られていた。

 K&T。

「次はダブルスだ」

 少年が顔を上げる。

 隣のコートには、もう誰もいなかった。

 照明は消えている。

 ネットも揺れていない。

 ただ、得点板だけが、薄闇の中で白く灯っていた。

 LOVE-ALL。

 ゼロ対ゼロ。

 あるいは、まだ何も失っていないという意味だった。