午前四時の投票所

               一一時四十七分

 雨は降っていたが、道路は冷えなかった。濡れたアスファルトから、昼間に吸い込んだ熱が、古い血の匂いと一緒に戻ってきた。

 私は灰浜市の外れで、他人の車を持ち主より先に見つけ、持ち主の許可なしに運ぶ仕事をしている。正確には債権回収会社の下請けだったが、やることは昔の馬泥棒と変わらない。封筒に入っていた前金は八万円。指示は一行だけだった。

〈ホテル・ディデン、駐車場十二番。黒のクラウンを午前零時までに回収〉

 ホテル・ディデンは、海沿いの旧道に残った廃墟だった。十年前の高潮で一階まで水につかり、そのあと営業をやめたと聞いている。ネオンは「ANEMO_E」と一文字欠けていた。歯の抜けた笑い方に見えた。

 駐車場十二番にクラウンはなかった。

 代わりに、玄関の自動ドアだけが開いていた。

 私は封筒をポケットに入れ、ロビーへ入った。湿った絨毯、腐った花、古い香水。フロントの奥で、真鍮の呼び鈴が一度鳴った。

 誰もいなかった。

 振り返ると、自動ドアが閉じていた。ガラスの向こうで雨が白く跳ねていた。私はドアを叩いた。三度目で、背後から甘い匂いがした。花ではない。病院で嗅いだことのある匂いだった。

 そこから先は、切れている。

午前零時

 目を覚ますと、私は宴会場の椅子に座っていた。

 手首に、黒い金属の輪がはまっていた。時計より厚く、内側に四つの小さな穴がある。引っ張ると、皮膚の下で針が動く感触がした。

 同じ椅子が九脚、円になっていた。私を含めて九人。全員の手首に同じ輪があった。

「ふざけるな。私は市議会の人間だぞ」

 最初に声を上げたのは、腹の出た男だった。宍戸英臣。選挙ポスターで見た顔だった。灰浜市の再開発を十五年仕切っている。

「市議会の人間だから呼ばれたんじゃないですか」

 眼鏡の女が言った。野見佐和子。地方紙を辞めたあと、企業犯罪の記事をネットに書いている記者だった。

 ほかにも見覚えのある顔があった。元刑事の小松辰男。警備会社を経営する権藤修。医療過誤の裁判で名前を見た看護師の舞原恵子。学校法人の元教師、椎名正樹。企業弁護士の木戸雅文。

 最後の一人だけ、誰も知らなかった。

 三十歳前後の女だった。黒いワンピースを着て、濡れた髪を肩につけている。胸元に、古いホテルの名札があった。

〈真宮 栞〉

「あなた、ここの人?」

 舞原が訊いた。

「そう見えますか」

 女は言った。

 そのとき、天井のスピーカーが鳴った。女の声だった。若くも老いても聞こえた。録音特有の、息のない声だった。

『ホテル・ディデンへようこそ。今夜、この場所は投票所として営業いたします』

 権藤が椅子を蹴った。扉へ走り、取っ手を引いた。開かなかった。体当たりを二度してから、手首の輪に指をかけた。

『腕輪を破壊しようとすると、投薬が始まります』

 権藤の手が止まった。

『午前零時三十分より、三十分ごとに投票を行います。各客室の電話から、退場させたい宿泊者の番号を入力してください。最多得票者はチェックアウトします。同数の場合、同数となった全員がチェックアウトします。棄権は、ご自身への一票として数えます』

 壁のスクリーンに、私たちの顔と番号が映った。

 一番、宍戸。

 二番、小松。

 三番、権藤。

 四番、木戸。

 五番、舞原。

 六番、椎名。

 七番、野見。

 八番、真宮。

 九番、片桐。私だった。

『投票時刻より前に死亡者が出た場合、その回の投票は終了します。暴力は禁止いたしません。午前四時、最後に残った一名の腕輪だけが外れます』

 木戸が立ち上がった。

「契約も同意もない。一方的な危害予告は犯罪だ。通信手段を確保して、警察に――」

『外線は午前四時まで接続されません』

「運営者は誰だ」

『支配人です』

「名前を聞いている」

『投票所に、支配人の名前は必要ありません』

 音が切れた。

 宴会場の扉が開いた。廊下の両側に九つの客室が並び、それぞれのドアに番号が光っていた。

 小松が私たちを見回した。

「まず落ち着け。あれが本当に毒を入れるとは限らん。脅しだけかもしれない」

「じゃあ、あんたが切ってみろよ」

 権藤が言った。

 小松は答えなかった。

 私は手首の輪を眺めた。内側の穴から、薬品の匂いがした。脅しだけではないと思った。思ったが、怖いとは感じなかった。喉が渇いていたので、椅子の下に置かれた水を飲んだ。

 八人が私を見た。

「よく飲めるな」

 椎名が言った。

「封がしてあった」

「そういうことじゃない」

 たぶん、そういうことではなかった。

               午前零時三十分

 零時十五分、スクリーンに一枚の写真が映った。

 十七歳くらいの少女が、海を背に立っていた。制服の襟が曲がり、カメラを嫌うように目を細めている。

〈奥村美奈 十七歳

 十二年前八月十七日 失踪〉

 椎名の顔から血の気が引いた。

 次に、学校の会議録が映った。

〈素行不良。虚偽の訴えを反復。校外の成人男性との交友を確認。自主退学を勧告〉

 署名欄に、椎名正樹とあった。

「違う」

 椎名は言った。

「何が」

 野見が訊いた。

「あの子は嘘をついていた。誰かにホテルへ連れていかれた、写真を撮られたって。証拠もないのに、名前だけ挙げた。相手は保護者会の会長だった。学校を守る必要があった」

 宍戸が静かに鼻で笑った。

「今さら私を見るな。保護者会の会長など何百人もいる」

「あなたの後援会の人間です」

 野見が言った。

 椎名は立ち上がり、真宮の肩をつかんだ。

「お前だろ。お前がやっているんだろ」

 真宮は抵抗しなかった。

「私は八番です」

「番号の話なんかしていない」

「投票所では、番号の話だけをしたほうがいい」

 権藤が椎名の腕をつかみ、引き離した。

「女に触るな。票が集まるぞ」

 椎名は笑った。笑いながら泣いていた。

 零時二十五分、各部屋のランプが点いた。

 私は九号室へ入った。ベッドと鏡と黒電話だけがある。壁紙には、海水につかった跡が腰の高さまで残っていた。

 受話器を取ると、女の声がした。

『退場を希望する番号を入力してください』

 ダイヤルには一から九までしかなかった。

 私は六を回した。

 椎名が嫌いだったわけではない。彼はすでに負けているように見えた。それだけだった。

 宴会場へ戻ると、スクリーンに票が表示された。

〈六番 五票

 八番 二票

 一番 一票

 九番 一票〉

 私への一票は、私自身のものではなかった。

 椎名の腕輪が赤く光った。

「待ってくれ。私は殺していない。追い出しただけだ。殺したのは別の――」

 小さな機械音がした。

 椎名は首筋を押さえ、椅子から落ちた。口を開いたまま、声が出なくなった。舞原が駆け寄って脈を取った。十秒ほどして、手を離した。

「死んでる」

 誰も動かなかった。

 私は空になった水の瓶を捨て、椎名の椅子の下にあった未開封の瓶を取った。

 また全員が私を見た。

 今度は、誰も何も言わなかった。

午前一時

 零時四十分、二枚目の記録が映った。

 救急搬送票だった。患者名は空欄。年齢推定十七歳。左鎖骨骨折、複数の裂傷、薬物反応あり。搬送元はホテル・ディデン付近。

 担当者の欄に、舞原恵子とあった。

「この子を診たのか」

 小松が訊いた。

 舞原は唇を噛んだ。

「二人いた」

 その言葉で、部屋の空気が変わった。

「どういう意味です」

 野見が訊いた。

「同じ夜に、若い女の子が二人運ばれてきた。一人は救急車、一人は黒い車で。黒い車の子はもう死んでいた。顔がひどく腫れて、身分証もなかった」

「生きていたほうは」

「夜明け前にいなくなった。病院の裏口から。私は鎮静剤を打ったはずなのに」

「死んだほうを奥村美奈として処理した?」

 舞原は宍戸を見た。

 宍戸は見返さなかった。

「警察がそう言った。家族も確認したことになっていた。私は書類に従っただけ」

「歯型は」

 野見が訊いた。

 舞原は答えなかった。

「違っていたんですね」

「カルテが差し替えられた。私は子どもがいた。仕事を失えなかった」

 小松が低い声で言った。

「余計なことをしゃべるな」

「あなたが持ってきたんでしょう、死亡確認の書類を」

「証拠があるのか」

「十二年も、毎晩あの子の歯を夢に見た。それじゃ足りない?」

 午前一時の投票結果は、五番が六票だった。

 舞原の腕輪が赤くなった。

 彼女は逃げなかった。真宮の前に座り込み、その顔を見上げた。

「あなた、生きていたほう?」

 真宮は答えなかった。

 機械音がした。

 舞原は横向きに倒れた。最後に、濡れた絨毯へ息を吐くように言った。

「前歯が、一本なかった」

 真宮は口を閉じたままだった。

               午前一時三十分

 野見は私に、トイレまで来るよう目で合図した。

 女子トイレの鏡は半分割れていた。彼女は蛇口をひねった。赤茶色の水が出た。

「片桐さん。あなた、あの事件の関係者?」

「知らない」

「本当に?」

「写真の女には見覚えがない」

 嘘ではなかった。少なくとも、そのときはそう思っていた。

 野見は小さな記録カードを私の手に押し込んだ。

「私が死んだら、二階の事務室で見て。端末が生きていれば開く」

「どうして私に」

「ほかの連中は、全員わかりやすく悪い顔をしてる」

「私も悪い顔かもしれない」

「あなたは、悪いかどうかに興味がない顔をしてる。そういう人は、たまに約束を守る」

「約束はしていない」

「だから、たまにでいい」

 宴会場へ戻ると、権藤が真宮を壁際に立たせていた。片手に、厨房から持ち出した肉切り包丁があった。

「支配人を呼べ」

「声は聞こえているでしょう」

「お前があの声を出している」

「私の声に聞こえますか」

「録音なら、誰の声でも出せる」

 宍戸が権藤を制した。

「傷をつけるな。こいつが仕掛けを止められる可能性がある」

「止める気があるなら、もう止めてる」

 野見が言った。

 権藤が振り向いた。

「記者さんは何を知ってる」

「あなたが十二年前、ディデンの警備責任者だったこと。防犯映像を全部持ち出したこと。翌月、宍戸さんの会社から独立資金を受け取ったこと」

「記事にしたか?」

「しなかった」

「なら仲間だ」

「ええ。だからここにいる」

 権藤は笑った。

「反省してる人間は、死ななくていいと思ってる?」

「いいえ。反省は、支払いじゃない」

 権藤の顔から笑いが消えた。

 彼は野見へ歩き、包丁の柄で殴った。一度目で彼女は膝をついた。二度目で、こめかみから血が出た。

 小松が止めようとしたが、権藤は包丁を向けた。

「投票前に一人死ねば、この回は終わる。規則どおりだ」

 野見は床に倒れた。まだ息をしていた。

 権藤は彼女の首を踏んだ。

 骨の折れる音は、小さかった。

 天井から女の声がした。

『死亡を確認しました。午前一時三十分の投票を終了します』

 権藤は包丁についた血をカーテンで拭いた。

「ほらな。合理的にやればいい」

 私は野見のそばへ行った。目は開いていたが、私を見てはいなかった。手の中に、もう一枚の小さなカードがあった。

 権藤には見えないように取った。

午前二時

 三枚目の記録は、示談契約書だった。

 奥村家に二千万円。名目は学校法人からの見舞金。守秘義務、告訴権の放棄、関係者への接触禁止。作成者は木戸雅文法律事務所。

「適法な和解だ」

 木戸は言った。

「遺体が別人でも?」

 小松が訊いた。

「当時、私はそう知らされていない。弁護士は依頼人から提供された事実に基づいて業務を行う」

「便利な仕事ですね」

 真宮が言った。

 木戸は初めて彼女を正面から見た。

「君が誰であれ、この仕組みを設置した者は複数の殺人罪に問われる。今ここで解除すれば、情状は考慮される」

「誰に?」

「裁判所に」

「ここが裁判所でないことは、私も知っています」

「では、何だ」

「投票所です」

 木戸は苛立ったように舌打ちした。

「全員、聞け。感情で票を入れるな。ここにいる八番は、明らかに運営側だ。今度こそ八番へ集める。票を分散させれば、次は誰が死ぬかわからない」

「票を集めたら、八番が死ぬかもしれない」

 私は言った。

「それが目的だ」

「仕掛けを止められる人間も死ぬ」

 木戸は言葉に詰まった。

 宍戸が笑った。

「弁護士先生。論理が一周している」

「あなたが私に指図できる立場か」

「少なくとも、あなたより票は持っている」

 午前二時の結果は、四番が三票、八番が一票、一番が一票、二番が一票、三番が一票、九番が一票だった。

 木戸はスクリーンを見つめた。

「三票で人を殺すのか。過半数ですらない。こんなものは投票ではない」

『最多得票です』

「異議を申し立てる。集計の根拠を開示しろ。投票者の――」

 機械音がした。

 木戸は胸を押さえ、前へ倒れた。眼鏡が床を滑り、椎名の椅子の脚に当たって止まった。

「最後まで仕事の話だったな」

 権藤が言った。

 私は、自分が誰に票を入れたか言わなかった。

 四番だった。

               午前二時三十分

 二階の事務室は、従業員用階段の奥にあった。

 私は権藤たちが口論している間に抜け出し、野見から受け取ったカードを古い端末へ差した。画面が何度か明滅し、一つの動画が開いた。

 日付は十二年前の八月十七日。

 十二号室。ベッドの上に、制服姿の少女が二人いた。一人は壁際で動かず、もう一人はドアを叩いていた。映像に音はない。

 宍戸が入ってきた。若いが、顔は同じだった。続いて権藤。二人は動かない少女をシーツで包んだ。

 ドアを叩いていた少女が、窓へ走った。二階の非常階段へ出る。権藤が追った。画面が切り替わり、駐車場のカメラになった。

 少女は裸足で雨の中を走り、旧道へ出た。

 そこを、灰色のセダンが通った。

 車は一度だけ速度を落とした。運転席の男が少女を見た。

 私だった。

 当時二十三歳。髪が長く、頬が痩せていた。だが、私だった。

 記憶は映像より遅れて戻った。

 雨。

 フロントガラスを叩く手。

 血のついた制服。

 開けて、と口が動いた。

 私はブレーキを踏み、顔を見た。

 それからアクセルを踏んだ。

 乗っていた車は、回収したことにして横流しする途中だった。警察を呼べば、車のことを説明しなければならない。翌月の家賃が払えなくなる。少女が本当に追われているのかもわからなかった。

 何より、面倒だった。

 映像の少女は、車を追って二歩走り、転んだ。私はバックミラーを見なかった。

「思い出したか」

 背後で権藤が言った。

 振り向くと、包丁を持っていた。

「カードを寄越せ」

「野見を殺す必要はなかった」

「必要かどうかは、生き残った人間が決める」

「便利だな」

「お前も同じ側だ。見て見ぬふりをした。今さら善人みたいな顔をするな」

「していない」

 権藤が踏み込んだ。

 私は事務椅子を蹴った。権藤の膝に当たり、包丁の先が机を削った。逃げようとしたが、背中をつかまれた。彼は強かった。警備会社を経営する前は、港で用心棒をしていたと聞いたことがある。

 首に腕が回った。息が詰まった。

 机の横に、消火器があった。

 私は留め金を外し、後ろへ振った。権藤のこめかみに当たった。腕が緩んだ。もう一度振った。権藤は床に倒れた。

 包丁が手から離れた。

 そこでやめてもよかった。

 私は三度目を振った。

 権藤の目が開いたまま止まった。

『死亡を確認しました。午前二時三十分の投票を終了します』

 スピーカーの声は、すぐ近くで聞こえた。

 私は消火器を床に置いた。手が震えていた。恐怖ではなく、力を入れすぎたせいだと思った。

「合理的にやればいい」

 死体に言った。

 返事はなかった。

午前三時

 残ったのは四人だった。

 宍戸、小松、真宮、私。

 小松は権藤の死体を見て、私から包丁を取り上げた。

「三回殴る必要があったか」

「数えていたのか」

「刑事だったからな」

「元、だろ」

 小松は包丁を自分のベルトへ差した。

「今夜が終われば、また必要になる肩書だ」

 真宮は二階の十二号室にいた。鏡の前に立ち、壁紙の継ぎ目を指でなぞっていた。

「何をしている」

 宍戸が訊いた。

「このホテルには、客用の廊下と、客を覗くための廊下がありました」

 真宮が鏡を押すと、壁ごと奥へ開いた。

 細い通路があった。片側にマジックミラーが並び、反対側には古い録画機とモニターが積まれていた。湿気で膨らんだ写真、客の免許証のコピー、日付と金額の書かれた封筒。

 そして、壁一面に宿泊カードが貼られていた。

 女の名前ばかりだった。たぶん半分は偽名だった。

 真宮は一枚をはがした。

〈真宮 栞 十九歳〉

 住所は存在しない町だった。筆跡は子どものように丸かった。

「その名前は誰だ」

 小松が訊いた。

「あなたが決めたんじゃないですか」

「何の話だ」

「病院から消えた少女を、無届けの診療所へ運んだ。身元を尋ねられて、このカードを渡した」

 小松の顔が変わった。

「お前……」

「思い出しましたか」

「生きていたのか」

「どちらが?」

 小松は答えなかった。

 真宮はカードを胸元の名札へ重ねた。

「奥村美奈が死んだことにする必要があった。だから、死んだ少女を美奈にした。生きていた少女には、ここに残っていた偽名を与えた。歯型も、カルテも、家族の確認も、全部あとから揃えた」

 宍戸が言った。

「記憶のない女の妄想だ」

「記憶がないから、記録を集めました」

「誰が手伝った」

「娘をなくした人たちです。灰浜には、見つからない娘が多すぎる」

 小松が包丁を抜いた。

「止め方を言え」

「午前四時になれば止まります」

「お前が死んでもか」

「試しますか」

 投票開始のベルが鳴った。

 私たちはそれぞれの部屋へ入った。

 受話器を取る前に、私は野見の記録カードを電話台の端末へ差した。画面に、小松の署名が入った捜査報告書が出た。

〈奥村美奈の遺体確認済み。誘拐・監禁を示す証拠なし。家出後の事故死として処理〉

 私は二を回した。

 宴会場のスクリーンに、結果が出た。

〈二番 二票

 八番 一票

 九番 一票〉

 小松は宍戸を見た。

「私に入れたのか」

「私は九番だ」

 宍戸は言った。

「殺した男は、次も殺す」

 小松は私を見た。それから真宮を見た。

「二人で組んだな」

 真宮は黙っていた。

「俺だけが悪いと思うな。あの晩、お前を港へ捨てろと言ったのは――」

 機械音がした。

 小松は言葉の途中で膝をついた。包丁が床に落ちた。彼は真宮へ手を伸ばした。

「お前は、あの子じゃない」

「そうかもしれません」

 真宮は言った。

 小松は倒れた。

「でも、あなたが捨てた子です」

               午前三時三十分

 三人になると、ホテルは急に広くなった。

 死体はそのままだった。椎名は宴会場の入口。舞原はスクリーンの下。野見は廊下。木戸は椅子のそば。権藤は二階。小松は十二号室。

 宍戸はフロントの内側から、ウイスキーを見つけた。封を切り、グラスを使わず飲んだ。

「片桐君。話をしよう」

「話は嫌いだ」

「取引ならどうだ」

「もっと嫌いだ」

「八番を殺せば、この回の投票は終わる。次は君と私だ。私に票を入れなければ、君を外へ出す」

「最後に残るのは一人だ」

「仕掛けを作った者にしか知らない抜け道がある。私はこのホテルの所有者だった。図面も設備もわかる」

「なら最初から抜ければよかった」

 宍戸は笑った。

「君は頭が悪くない。だから、あの晩も止まらなかったんだろう」

 フロントのモニターに、十二年前の旧道の映像が映った。真宮が再生したらしい。

 灰色のセダン。

 雨の中の少女。

 運転席の私。

 宍戸は映像を見ながら言った。

「誰にでもある。巻き込まれたくない夜が。君は何もしていない。何もしなかっただけだ」

「そうだ」

「それを罪だと言い出したら、街の全員がここへ来ることになる」

「ホテルは広い」

 宍戸の笑いが止まった。

 真宮はフロントの外に立っていた。左手に宿泊カードを持っている。

「どうして止まらなかったんですか」

 彼女は私に訊いた。

「盗んだ車に乗っていた」

「それだけ?」

「仕事を失いたくなかった」

「それだけ?」

 私は少し考えた。

「面倒だった」

 宍戸が吹き出した。

「正直だ。やはり君は私たち側だ」

 真宮は、笑わなかった。

「みんな、最後は同じことを言いました。学校を守るため。子どもを養うため。依頼人のため。捜査のため。事業のため。自分には関係がない。面倒だった」

「理由を聞いたのは、あんただ」

「ええ。十二年間、理由があれば少しは違うと思っていた」

「違ったか」

「同じでした」

 午前三時二十五分、投票のランプが点いた。

 宍戸はウイスキーの瓶を投げた。真宮が身を引き、瓶は壁で割れた。宍戸は小松の包丁を拾っていた。

「八番が死ねば投票は終わる!」

 真宮へ突進した。

 私は宍戸の腕をつかんだ。止めるつもりだったか、自分が先に殺されると思ったのか、今でも区別がつかない。

 包丁が真宮の肩を切った。血が黒いワンピースへ広がった。

 宍戸は私の腹を蹴り、フロントへ回り込んだ。黒電話の受話器を取り、コードを引きちぎろうとした。投票に使うつもりだったのか、武器にするつもりだったのかはわからない。

 私は背後からコードを首へ回した。

 宍戸は肘で私の顔を打った。鼻の奥で何かが割れた。もう一度打たれた。私はコードを離さなかった。

 彼の靴が床を蹴った。真鍮の呼び鈴が落ち、澄んだ音を立てた。

 長い時間に思えたが、スクリーンの時計は一分も進んでいなかった。

 宍戸の体から力が抜けた。

『死亡を確認しました。午前三時三十分の投票を終了します』

 私はコードを離した。

 真宮は床に座り、肩を押さえていた。

「助けたんですか」

「次に殺されるのが私だった」

「そうですか」

「たぶん」

 彼女は少しだけ笑った。

「正直ですね」

午前四時

 三時四十分、ホテルの防火扉が下りた。

 私と真宮は、別々の客室に閉じ込められた。壁の通話口だけが開いていた。

『最終投票を行います。投票終了後、最多得票者の腕輪が作動します。同数の場合、双方がチェックアウトします』

 真宮の息が、通話口の向こうで聞こえた。

「真宮栞は、本当の名前か」

 私は訊いた。

「わかりません」

「奥村美奈なのか」

「それも、わかりません」

「記憶がない?」

「断片はあります。十二号室。窓。雨。道路。止まりかけた車。あなたの顔」

「死んだほうが美奈かもしれない」

「ええ。生きたほうが美奈かもしれない。真宮栞という女は、最初からいなかったのかもしれない」

「それで、誰の復讐をした」

 しばらく返事がなかった。

「名前をなくした女たちの」

 廊下の奥で機械が動いた。黒電話のランプが赤くなった。

「私に入れてください」

 真宮が言った。

「自分にも入れるのか」

「ええ。二票なら、あなたの腕輪は外れます」

「信じろと?」

「十二年前、私はあなたを信じました」

 私は笑った。声にはならなかった。

「悪い取引だ」

「今夜ずっと、悪い取引しかありませんでした」

 受話器を取った。

『退場を希望する番号を入力してください』

 八を回した。

 ダイヤルが戻る音を聞きながら、あの夜のことを思い出していた。少女が手のひらでフロントガラスを叩いた。私は顔を見た。確かに見た。見てから走り去った。

 午前四時、ベルが鳴った。

 スクリーンは見えなかった。だが、壁の向こうで真宮が小さく息を吐くのが聞こえた。

『八番 一票

 九番 一票』

 腕輪が赤く光った。

「自分に入れると言ったな」

「嘘です」

「そうか」

「怒らないんですか」

「怒る理由はある」

「でも、怒っていない」

「たぶん」

 機械音がした。

 手首に熱い針が入った。すぐに指先が冷たくなった。

 防火扉が上がった。私は廊下へ出た。真宮も八号室から出てきた。肩の傷からまだ血が流れていた。壁に手をつき、二歩歩いて座り込んだ。

 フロントの黒電話が鳴った。

 午前四時になり、外線が戻ったのだ。

 私は受話器を取った。指がうまく動かなかったが、三つの数字を回した。

『警察です。事件ですか、事故ですか』

 女の声がした。録音ではない。息をしている声だった。

「事件です」

『場所を教えてください』

「旧道のホテル・ディデン」

『けが人はいますか』

 宴会場を見た。床にいる人間は九人だった。立っている人間はいなかった。

「九人」

『あなたのお名前は』

「片桐透」

『犯人は近くにいますか』

 私は真宮を見た。

 彼女は壁にもたれ、目を閉じていた。

「ここにいます」

『危険ですか』

「もう、たぶん」

『安全な場所へ移動できますか。救急車を向かわせます。電話を切らないでください』

 受話器を耳に当てたまま、真宮の隣に座った。

「呼んだんですね」

 彼女が言った。

「ああ」

「今度は早い」

「十二年遅い」

 真宮は笑った。ほんの少しだった。

「間に合いますか」

「わからない」

「正直ですね」

 雨はやんでいた。割れた窓の向こうで、海と空の境目が白くなっていた。

 遠くでサイレンが鳴った。

 受話器の向こうでは、誰かが何度も私の名前を呼んでいた。私は答えようとした。

 今度は、面倒だったからではない。

 もう、声が出なかっただけだ。