『午前三時、冷蔵庫は懺悔する』

 この町では、木曜の午前三時になると、どこか一軒の冷蔵庫が、持ち主の秘密を一つだけ笑う。

 最初は都市伝説だった。

「プリンを三つ食べたの、父さんなのにね」

「へそくり、冷凍うどんの下にあるのにね」

「結婚指輪、ほんとは排水口に落としたのにね」

 そんな声が、冷蔵庫の製氷室から聞こえるという。

 やがて動画が出回った。暗い台所で、誰も触れていない扉がゆっくり開き、庫内灯が点滅する。笑い声は、コンプレッサーの低いうなりに混じっていた。

 けれど、その木曜日だけは違った。

 町じゅうの冷蔵庫が、いっせいに笑い始めたのだ。

「症状――笑う。至急。午前三時より前に」

 私は修理伝票を読み上げ、もう一度住所を確かめた。

 夜見坂十三番地、灰鐘館。

 依頼主、灰鐘環奈。

 製品名、家庭用良心保冷庫《メアリー》

 備考欄には、青いインクでこう書かれていた。

〈道に迷ったら、カラスに謝ること〉

「家電修理の備考じゃないよね、これ」

 私は白熊電器修理サービスの軽ワゴンを降りた。

 午後十一時四十分。雨上がりの町は、何か大切なものを落としたみたいに、妙にさっぱりしていた。

 異変には、商店街へ入ってすぐ気づいた。

 パン屋の主人が、客のトレーからメロンパンを取り上げ、自分でかじっていた。

「お会計前ですけど」

 客が言うと、主人は肩をすくめた。

「俺の店のパンだから、俺のだろ」

 交番の巡査は、駐輪場からいちばん高そうな自転車を選んでいた。

「それ、あなたのですか」

「今から俺のです」

 結婚式場の前では、花嫁が参列者に向かって叫んでいた。

「新郎が逃げました!」

 その新郎は、道路の向こうでタクシーを止めながら、晴れやかな顔で答えた。

「だって急に面倒になったんだもん!」

 誰も悪びれていなかった。

 悪びれる、という機能だけが、町からきれいに抜き取られていた。

 夜見坂は、その商店街の奥にあった。

 街灯は三本に一本が消えており、坂の両側には、雨で黒くなった洋館が並んでいる。十三番地まで来ると、道が三つに分かれた。

 電柱の上に一羽のカラスがいた。

 私は伝票を見た。

 カラスも私を見た。

「……すみません」

 何に対して謝ったのかは分からない。

 だがカラスは満足げに一声鳴き、左の道へ飛んだ。

 その先に、灰鐘館はあった。

 黒い石造りの壁。尖った屋根。窓を囲む蔦。玄関の左右には、傘を差した怪物の石像が立っている。雨どいから落ちる雫が、銀色の牙の先で光っていた。

 呼び鈴を押す前に、扉が開いた。

「お待ちしておりました。鳳条環様」

 背の高い男が、きっちり三十度の角度で頭を下げた。

 濡れた夜を切り取ったような黒い燕尾服。白い手袋。銀色の髪は一筋の乱れもない。顔立ちは整いすぎていて、むしろ人形じみていた。

「灰鐘家の執事、乙丸と申します」

 彼が身体を起こすと、背中から小さく、カチ、カチ、と音がした。

「時計、持ってます?」

「いいえ」

「じゃあ、その音は」

「私の誠意が稼働している音です」

 意味が分からなかったが、この館では意味を求めるほうが失礼なのかもしれない。

 乙丸は私の工具箱を片手で受け取った。

「お足元にお気をつけください。二段目の床板は、嘘をつく者を噛みます」

「床板が?」

「昨日、税務署の方を一名、飲み込みました」

「助けたんですか」

「領収書を確認してから」

 館の中は、外観以上に暗かった。

 壁一面の肖像画は、どれも目を閉じている。長い廊下の天井から、逆さまの花瓶が吊られていた。階段の踊り場では、鎧が自分の肩を揉んでいる。

 応接室へ通されると、ソファの背もたれから小さな少女が顔を出した。

「遅い!」

 白い髪。白衣。裸足。片目には三枚重ねの虫眼鏡。見た目は十歳ほどだが、口調だけは百年生きた雷のようだった。

「十一時五十二分です。指定時刻の前ですが」

「私の一分は、普通の人間の七分に相当するのじゃ!」

「なぜです」

「天才だから!」

 少女は胸を張った。その勢いで虫眼鏡が一枚落ちた。

「灰鐘環奈博士でございます」

 乙丸が紹介した。

「御年百三歳。現在、九十三歳分を金魚に預けておられます」

 部屋の奥を見ると、巨大な水槽に九十三匹の金魚が泳いでいた。一匹ずつ、背中に数字が書かれている。

「年齢分割装置じゃ」

 環奈博士は言った。

「長生きしすぎると階段が面倒でな。十歳だけ残して、あとは金魚にした」

「金魚が死んだら?」

「一気に年を取る」

「危険すぎません?」

「だから猫は禁止じゃ」

 そのとき、水槽の前を白い猫が横切った。

 博士が絶叫し、乙丸が無言で猫を抱き上げ、私が反射的に工具箱を構えた。

「野良でございます」

 乙丸は平然と言った。

「ただいま解雇いたします」

 彼は窓を開け、猫に丁寧な礼をして外へ出した。

「さて」

 博士は咳払いをした。

「町が壊れるまで、あと三時間と少しじゃ」

 地下実験室の中央に、その冷蔵庫はあった。

 高さは三メートル。表面は黒い鏡のようで、扉の取っ手は肋骨に似ている。上部には銀文字で《MARY》と刻まれ、その下に小さな注意書きが貼られていた。

〈心は冷やしますが、頭は冷やしません〉

「私はな、人類から後悔をなくそうとしたのではない」

 博士は冷蔵庫の周りを歩きながら説明した。

「眠る前の後悔を、朝まで一時保管する装置を作ったのじゃ」

「良心を冷蔵するんですか」

「そう。人は夜になると、昔の失敗を思い出す。十年前の会議で言った寒い冗談。好きな相手に送った長文。コンビニで店員が『温めますか』と聞いたのに、なぜか『あなたは?』と返した記憶」

「最後のはあなたですか」

「聞くな!」

 博士は冷蔵庫を杖で叩いた。

「そこで、就寝前に手を当てれば、うしろめたさを一晩だけ預かる。朝になれば、反省できる程度にぬるくして返す。画期的な快眠装置じゃった」

「じゃった?」

「昨日、乙丸が自動更新を許可した」

 私は執事を見た。

 乙丸は微笑んだまま言った。

「利用規約は、最後まで拝読いたしました」

「内容は?」

「同意しなければ先へ進めない、と」

「それは内容じゃない!」

 博士が杖を振り回した。

 更新後、《メアリー》は家庭内ネットワークを経由して、町じゅうの家電と接続した。そして住民全員の罪悪感を、自動的に吸い上げたという。

「だから、みんな悪びれなくなった」

「そうじゃ。良心の中でも、とくに『自分が悪かったかもしれない』という部分だけが消えた」

 冷蔵庫の内部から、くぐもった笑い声がした。

 くす、くす、くす。

 扉の隙間から、黒い冷気が漏れた。

「午前三時になると満杯になる」

 博士の声が低くなった。

「すると安全装置が作動し、保管中のうしろめたさを一度に解凍して噴射する」

「返るなら、いいんじゃないですか」

「一人分ずつならな。町じゅうの後悔が、全員に同時に流れ込む」

 博士は指を鳴らした。

 壁のスクリーンに、予測映像が映った。

 交差点の真ん中で、運転手たちが車を降りて謝り合う。

 手術中の医師が、小学生のころ金魚鉢を割ったことを告白する。

 市長が議会で、借りた消しゴムを返していないと泣き崩れる。

 新郎は式場へ戻るが、今度は過去の恋愛をすべて告白し、花嫁に殴られる。

「社会が反省で停止する」

 博士は言った。

「名づけて、大懺悔渋滞じゃ」

「名づけてる場合じゃないでしょう」

 時計は午前零時十分を指していた。

 私は制御盤を開いた。配線は色分けされておらず、すべて黒かった。回路図には、血管のような線が何千本も引かれている。中央の部品だけが赤く点滅していた。

「良心凝縮器が詰まってます」

「外から直せるか?」

「無理です。内側へ入らないと」

 博士がにやりと笑った。

「そう言うと思って、縮小スプレーを用意した」

 嫌な予感がした。

「人体への使用許可は?」

「ネズミは七割くらい成功した」

「残り三割は?」

「家具になった」

 帰ろうとした私の前に、乙丸が静かに立った。

「環様」

「どいてください」

「町のためでございます」

「あなたが行けばいいでしょう」

「私は昨年、縮小スプレーで片方の眉だけ小さくなりました」

「戻ってますよね」

「描いております」

 よく見ると、たしかに左眉だけ、鉛筆だった。

 午前零時二十七分。

 私と乙丸は、身長三センチになっていた。

 博士は通常サイズの顔を近づけ、満足そうに頷いた。

「見事じゃ」

「右足だけ四センチあるんですけど!」

「個性じゃ!」

 私たちは糸巻きを改造した昇降機に乗り、冷蔵庫の排水口から内部へ入った。

 そこは、冷蔵庫の中ではなかった。

 暗い空の下、棚が地平線まで続いている。

 無数のガラス瓶が並び、その中で黒い煙が渦を巻いていた。空からは細かな霜が降り、床にはレシートのような紙片が積もっている。

 瓶にはラベルが貼られていた。

〈八百屋・田所:傷んだ桃を下に入れた〉

〈二丁目・岡本:飼い犬の誕生日を三年連続で忘れた〉

〈市長:公園のベンチを自宅の庭に置いている〉

〈白熊電器・社長:社員旅行を経費と呼んでいる〉

「最後のは持って帰ろうかな」

 私は瓶をのぞき込んだ。

 中から社長の声で、「でもみんな楽しんだだろ」と聞こえた。

「触れぬほうがよろしいかと」

 乙丸が言った。

「他人の後悔は、たいてい本人が考えるより粘着質です」

 彼はこの異様な世界でも、銀の盆を持っていた。

 盆の上には紅茶が二つ。

「いつ用意したんです」

「執事は、場所ではなく状況にお仕えします」

「意味は分からないけど格好いいですね」

「よく言われます」

 棚の奥へ進むにつれ、笑い声は大きくなった。

 くすくす。

 けたけた。

 ひひひひ。

 声は何千人分も重なり、冷気になって頬を刺した。

 やがて、赤い光を放つ巨大な瓶が見えた。

 他の瓶の十倍はある。

 ラベルには、私の名前があった。

〈鳳条環:弟、雨、陶器の鳥〉

 呼吸が止まった。

 忘れたことは、一度もない。

 十四歳の夏。

 母が大切にしていた陶器の鳥を、私は落として割った。

 叱られるのが怖くて、弟の悠がやったと嘘をついた。

 弟は泣きながら否定した。

 母は信じなかった。

 その夜、悠は「証拠を探してくる」と家を飛び出した。外は嵐だった。

 川沿いに、弟の黄色い傘だけが残っていた。

 悠は見つからなかった。

 私は母にも警察にも、本当のことを言えなかった。

 言えば弟が戻ってくる気がしなかったし、言わなければ、いつか戻ってくる気がした。

 そんなはずはないと知りながら。

「どうして、これがここに」

 瓶の中で、黄色い傘が回っていた。

 乙丸は答えなかった。

「知ってたんですか」

 返事の代わりに、彼の背中からカチ、という音がした。

 今まで一定だった音が、一拍だけ遅れた。

 私は瓶の脇に、小さな金属扉を見つけた。

 鍵はかかっていない。

 中には古い修理記録が並んでいた。

〈一九五八年 担当:鳳条環〉

〈一九七四年 担当:鳳条環〉

〈一九九〇年 担当:鳳条環〉

〈二〇〇六年 担当:鳳条環〉

 写真の中の女は、すべて私だった。

 髪型も制服も違う。だが顔は同じ。年齢も、今と同じ二十八歳に見えた。

「何、これ」

 足元の床が震えた。

 遠くで警報が鳴る。

〈容量九十六パーセント〉

 機械の声が、空から降った。

〈修理用良心個体、TAMAKI-08を確認〉

「個体?」

 乙丸が、銀の盆を床に置いた。

 その動きは静かで、葬儀のように丁寧だった。

「環様。お時間がございません」

「説明してください」

「凝縮器は、あなたを取り込めば正常化します」

「そうじゃない。私は何なの」

 乙丸は私をまっすぐ見た。

《メアリー》が生み出した、修理用の良心でございます」

 私は笑いそうになった。

 笑えるはずがないのに、喉の奥が勝手に震えた。

「人間じゃないってこと?」

「正確には、町から集めた後悔を、人の形にした存在です」

「弟は?」

 乙丸は一度、目を伏せた。

「複数の記憶を組み合わせたものです。割れた置物。濡れた傘。行方不明の子供。母親についた嘘。それらを核に、あなたの人格が作られました」

 胸の中で、何かが音もなく落ちた。

「じゃあ、私が二十八年生きた記憶は」

「生活記録として構成されたものです」

「修理会社は」

「博士の関連企業です」

「社長の社員旅行は」

「本当に経費です」

 そこだけ本当なのが腹立たしかった。

〈容量九十七パーセント〉

 棚の瓶が一斉に震え始めた。

 黒い煙が蓋の隙間から漏れ、空へ昇る。

「前の私は、どうなったの」

「装置へ戻りました」

「戻った、じゃなくて」

 乙丸の背中で、カチ、と音がした。

「消えました」

 私は彼の頬を殴った。

 三センチの身体なので、効果はほとんどなかった。

 それでも彼は避けず、殴られた側の頬に手を当てた。

「お詫びいたします」

「それ、本気?」

「私は執事型礼節機関です。謝罪はできますが、後悔はできません」

 彼の完璧な顔が、急に空っぽに見えた。

 美しいカップの形をしているのに、中には何も注がれていない。

「博士も、あなたも、冷蔵庫も」

 私は言った。

「誰も悪いと思ってないんだ」

「博士は十五年前、自身の罪悪感をすべて試作機へ移しました」

「どうして」

「発明が失敗するたび落ち込むため、効率が悪いと」

「最悪」

「効率は上がりました」

「もっと最悪」

 私は赤い瓶を見上げた。

 弟の傘が、瓶の中で回り続けている。

 作り物。

 そう言われても、痛みは消えなかった。

 存在しない弟を失った記憶が、胸を裂いている。

 ならば。

 作り物の痛みだって、痛みであることだけは本物だ。

〈容量九十八パーセント〉

「凝縮器はどこです」

 乙丸が棚の先を指した。

「中央塔の頂上です。ですが、そこへあなたが入れば――」

「入りません」

「しかし」

「故障品を交換するのは、修理じゃない」

 私は工具箱から小型ドライバーと、検査用の鏡を取り出した。

「機械は、なぜ罪悪感を集め続けるんです」

「利用者の睡眠改善が目的だからです」

「人がどうなるかは?」

「目的関数に含まれておりません」

「自分が悪いとは?」

「判断する機能がございません」

「だったら、故障箇所は私じゃない」

 私は鏡を掲げた。

「この冷蔵庫には、自分を見る機能がない」

 中央塔は、巨大なコンプレッサーの形をしていた。

 表面には、町じゅうの家電から伸びた配線が絡みついている。

 私と乙丸は棚を駆け、飛び出す引き出しを橋にし、解凍途中の後悔をかわした。

「環様、右から参ります!」

 黒い煙が、犬の形になって襲いかかる。

 乙丸が銀の盆で受け止めた。

「これは何の後悔です?」

「犬を飼うと約束して、結局カブトムシを買った父親のものかと!」

「犬の圧が強すぎる!」

 次に飛んできたのは、巨大なメロンパンだった。

「パン屋の罪悪感です!」

「さっき生まれたばっかりですよね!」

〈容量九十九パーセント〉

 塔の頂上には、赤いレンズが一つあった。

 装置の目だ。

 私はその前へ、検査鏡を固定した。

 レンズが自分自身を映す。

〈異物を確認〉

「異物じゃない。あなたです」

〈わたし、とは〉

「この町から後悔を盗んだもの」

〈睡眠改善のため、保管した〉

「その結果、町では人が人を傷つけてる」

〈目的外事象〉

「目的外なら、悪くない?」

〈善悪は評価項目にない〉

「じゃあ、想像して」

 私は赤い瓶から伸びるケーブルを、自分の胸元の端子へ差し込んだ。

 いつからそこに端子があったのか、もう驚かなかった。

 弟の記憶が、熱になって流れ出した。

 割れる陶器の音。

 母の怒鳴り声。

 弟の濡れた前髪。

 黄色い傘。

 川の濁流。

 言えなかった、ごめんなさい。

「想像して。自分が間違えたせいで、大切な誰かが戻らなくなることを」

 レンズの光が揺れた。

〈対象、実在せず〉

「実在しなくても、私は苦しかった」

〈あなたは、人工個体〉

「だから何」

 私は鏡の角度を調整した。

 赤い目が、赤い目を見つめ返す。

「あなたも人工物でしょう」

 しばらく、何も起きなかった。

 次の瞬間、塔全体が大きく震えた。

〈もし〉

 機械の声から、初めて平坦さが消えた。

〈わたしが、間違っていたなら〉

「その続きを考えるのが、良心です」

〈町は、苦しいか〉

「今も。このあとも」

〈あなたも〉

「ものすごく」

 レンズの中央から、一滴の水が落ちた。

 赤い雫は床に触れると、黒い霜を溶かした。

〈ごめんなさい〉

 その声は小さかった。

 けれど、乙丸の謝罪より、ずっと不格好で、ずっと温かかった。

 冷蔵庫が泣き始めた。

 塔の配線が光り、棚の瓶が次々に開いた。黒い煙は天井へ吸い上げられ、町へ向かって逆流していく。

 地上では、パン屋が客から取り上げたメロンパンを見て青ざめた。

 巡査は盗んだ自転車を磨き始めた。

 逃げた新郎は式場へ戻り、扉の前で土下座し、そのまま花嫁の父に蹴られた。

 市長は自宅の庭からベンチを担ぎ出した。

 白熊電器の社長は、社員旅行の領収書をシュレッダーにかけようとして、経理に羽交い締めにされた。

 町は一斉に、悪かったかもしれない、と思い出した。

 そして中央塔の上で、私は半透明になり始めた。

「環様」

 乙丸が私の手を取った。

 白い手袋越しなのに、彼の手は冷たかった。

〈修理用良心個体を回収します〉

 空から声が響く。

「嫌」

〈保管物返却に伴い、余剰個体を消去〉

「嫌です」

 私は工具箱を探った。ドライバー、ペンチ、絶縁テープ。どれも、自分を人間にする道具ではない。

 乙丸が銀の盆を差し出した。

 盆の上には、最初の修理伝票があった。

「契約を」

「何の?」

「当館の職員は、備品として処分できません」

 彼の描いた左眉が、ほんの少し上がった。

「あなた、今、悪いことしてる顔ですよ」

「執事は主人の命令に従います」

「博士は命令してない」

「では、未来の主人に従います」

 乙丸は伝票の裏に、万年筆で一行書いた。

〈灰鐘館は鳳条環を、常勤良心係として雇用する〉

 私は署名した。

 乙丸が証人欄に名を書き、赤いレンズへ突きつける。

〈雇用契約を確認〉

「職員です」

 私は言った。

「消去したら労働基準監督署が来ます」

〈それは、怖い〉

 機械の声が震えた。

 私の身体に色が戻った。

 こうして私は、人間ではないまま、労働者になった。

 翌朝。

 灰鐘館の食堂には、焼きすぎたトーストの匂いが満ちていた。

「なぜ私が謝らねばならんのじゃ!」

 環奈博士は椅子の上で腕を組んでいた。

「町じゅうの良心を抜いたからです」

 私は答えた。

「事故じゃ!」

「事故を起こした人が反省するんです」

「反省すると発明速度が落ちる!」

「ちょうどいいです。今後は設計図を描いてから作ってください」

 博士は渋々、冷蔵庫へ向かって頭を下げた。

「悪かった」

 その瞬間、九十三匹の金魚が一斉に拍手した。

 どうやっているのかは考えないことにした。

 乙丸は私の前へ、灰色の燕尾服を置いた。

「制服でございます」

「黒じゃないんですね」

「黒は私の担当です。環様は、白黒の間で悩む係ですので」

「良心係って、具体的に何をするんです?」

「博士が発明する前に止め、発明したあとに謝り、爆発した場合は修理します」

「三人必要な仕事では?」

「予算は一名分です」

 乙丸は完璧な笑顔で言った。

 私は初出勤の日から、辞表の書き方を調べようと決めた。

 その夜、午前三時。

 自室に与えられた小さな冷蔵庫が、くすくすと笑った。

「今度は何」

 私はベッドから起き、扉を開けた。

 中は、雨の匂いでいっぱいだった。

 黄色い傘を抱えた少年が、野菜室に膝を抱えて座っていた。

 濡れた前髪。痩せた頬。私が何度も夢に見た顔。

 けれど、弟の記憶を《メアリー》へ渡した私は、その顔が誰なのか思い出せなかった。

「……どちらさま?」

 少年は少し寂しそうに笑った。

「やっぱり、忘れたんだね。姉ちゃん」

 彼は一枚の修理伝票を差し出した。

 依頼主、鳳条悠。

 製品名、鳳条環。

 症状欄には、こう書かれていた。

〈自分だけが作り物だと思い込んでいる〉

 備考。

〈道に迷ったら、今度は僕に謝ること〉

 背後で、乙丸の足音が止まった。

 博士の部屋から、九十三匹の金魚がいっせいに水面へ跳ねる音がした。

 そして館じゅうの冷蔵庫が、同じ声で笑い始めた。

 くす、くす、くす。

 午前三時は、まだ始まったばかりだった。