午前一時の再配達
黒田実が最初の不在票を見つけたのは、四十歳の誕生日の翌日だった。
残業を終え、日付が変わる少し前に帰宅すると、集合ポストの奥に薄灰色の紙が一枚、斜めに差し込まれていた。
宅配会社のロゴはない。紙は古い診察券のようにざらつき、触れるとわずかに冷たかった。
差出人――未選択物保管局 第零集配所。
品名――二〇〇九年四月七日の返事。
保管期限――あなたが後悔をやめるまで。
再配達時間――午前一時から午前一時十五分。
「悪趣味だな」
黒田は呟き、紙を二つ折りにして上着のポケットへ押し込んだ。
二〇〇九年四月七日。
忘れようとして、忘れられなかった日付だった。
その日、駅前の喫茶店で、秋穂は黒田に訊いた。
――一緒に来ない?
海沿いの町に小さなデザイン事務所を開く。仕事はまだほとんどない。貯金もない。それでも、二人なら何とかなる気がする。
秋穂はそう言って笑った。
黒田は「考えさせてくれ」と答えた。
翌日、会社で正社員登用の話を受けた。三日後、秋穂には「行けない」とメールした。
返事はなかった。
数年後、共通の知人から、秋穂がその町で結婚したと聞いた。子供もいるらしい。
黒田は会社に残った。昇進はしなかったが、解雇もされなかった。暮らしは安定していた。静かで、清潔で、誰にも迷惑をかけない人生だった。
ただ、ときどき、夜中に冷蔵庫の音を聞きながら思うことがあった。
あのとき「行く」と答えていたら。
部屋に入り、コンビニ弁当を電子レンジに入れたところで、ポケットの中から電話の呼び出し音がした。
スマートフォンではない。
不在票だった。
薄灰色の紙そのものが、震えながら鳴っていた。
裏面に、さっきまではなかったはずの電話番号が浮かび上がっている。
黒田はしばらく迷った末、その番号をスマートフォンに入力した。
呼び出し音は一度も鳴らなかった。
『未選択物保管局です』
女の声だった。近くで囁いているようにも、深い井戸の底から聞こえるようにも感じられた。
「こんな紙、入れたのはそちらですか」
『はい。長期保管中のお荷物がございます』
「頼んでません」
『ご注文品ではありません。お客様がお選びにならなかった品です』
「二〇〇九年四月七日の返事って、何なんです」
『文字どおりでございます』
電子レンジが鳴った。
黒田はびくりとして振り返った。液晶表示には、なぜか「01:07」と出ていた。壁の時計はまだ午前零時十二分だった。
「受け取らなかったら?」
『引き続き保管いたします』
「じゃあ、そうしてください」
『承知いたしました。保管料はこれまでどおり、現在の人生から自動的に差し引かれます』
「保管料?」
『最近、思い出せなくなった固有名詞はございませんか』
黒田は笑いかけて、笑えなかった。
母がよく口ずさんでいた歌の題名が、どうしても出てこなかった。
歌詞も旋律も覚えている。夕食を作りながら、母が鼻歌で繰り返していた曲だ。だが、題名だけが、切り取られたようになくなっている。
『使わなかった休日、連絡を取らなくなった友人、顔を思い出せない恩人。保管料には、そういったものから順に充当されます』
「待ってください」
『再配達をご希望の場合は、午前一時までに不在票を玄関扉へ貼ってください』
電話は切れた。
電子レンジの液晶は「00:13」に戻っていた。
午前零時五十九分。
黒田は玄関扉の前に立っていた。
不在票は貼っていない。捨ててもいない。靴箱の上に置き、念のため、その上に灰皿を載せてある。
ばかばかしい。
そう思いながら、彼は扉を見つめていた。
午前一時七分。
インターホンが鳴った。
モニターには、灰色の制服を着た配達員が映っていた。
男か女か、若いのか年老いているのか、判然としない。顔ははっきり映っているはずなのに、目を離した瞬間、どんな顔だったか思い出せなくなった。
黒田は扉を開けなかった。
「貼ってませんよ」
インターホン越しに言った。
『はい』
「再配達は頼んでない」
『不在票を保管された時点で、仮受付となります』
「勝手だな」
『選ばれなかったものは、いつまでも従順とは限りません』
黒田は息を止めた。
扉の向こうから、段ボール箱の中を爪で引っかくような音がした。
かり、かり、かり。
『お荷物が傷み始めています』
「中身は何です」
『二〇〇九年四月七日に、お客様が口にしなかった返事です』
「そんなもの、今さら受け取ってどうなる」
『お確かめください』
「あなたは何者なんです」
少し間があった。
『配達員です』
「それ以前は?」
扉の向こうで、制服の布が擦れる音がした。
『受取人でした』
黒田はチェーンをかけたまま、扉を数センチ開けた。
灰色の手袋をした手が、細長い箱を差し出した。靴箱ほどの大きさで、表面に黒田の住所と名前が印刷されている。
差出人の欄は空白だった。
『受領印を』
隙間から伝票とペンが差し込まれた。
「受け取るだけなら、何も変わらないんでしょうね」
『受け取るだけでは、何も変わりません』
「開けたら?」
『開封は、お客様の意思と見なされます』
「何の意思です」
『選び直す意思です』
黒田は伝票を見た。
受領欄の下に、小さな文字が並んでいた。
――本品の開封により生じる人物、記憶、関係、履歴その他一切の置換について、当局は責任を負いません。
「返品は」
『二十四時間以内であれば可能です』
箱の中から、また音がした。
今度は爪ではなかった。
遠くで誰かが笑っていた。
女の笑い声と、子供の笑い声。
黒田はペンを取った。
箱の中には、真鍮の鍵が一本入っていた。
白い札に「203」と書かれている。
それだけだった。
配達員はすでに消えていた。
黒田は鍵を掌に載せた。古びた見た目に反して、まだ人肌ほどの温かさがあった。
203。
かつて秋穂と暮らしていたアパートの部屋番号だった。
学生時代、二人は家賃の安い木造アパートで半同棲をしていた。窓枠が歪んでいて、冬になると隙間風が吹いた。狭い流し台で肩をぶつけながら料理をし、床に座って将来の話をした。
取り壊されたと聞いている。
黒田は鍵を握り、玄関扉の前に立った。
自分の部屋は五〇二号室だ。鍵穴の形も違う。
それでも、真鍮の鍵は抵抗なく差し込めた。
回すと、扉の向こうで、何か大きなものが裏返る音がした。
黒田は扉を開けた。
「おかえり」
秋穂が立っていた。
四十歳になった秋穂だった。
髪は短くなり、目尻に細い皺があった。右手には布巾を持ち、左手の薬指には銀色の指輪が光っている。
黒田の部屋は消えていた。
玄関の向こうには、広くはないが明るい家が続いていた。壁に家族写真が並び、廊下の奥から味噌汁の匂いがする。
「どうしたの?」
秋穂が眉をひそめた。
「顔、真っ青だよ」
黒田は答えられなかった。
廊下の奥から、十歳くらいの女の子が走ってきた。
「お父さん、遅い!」
女の子は黒田の腹に抱きついた。
その瞬間、知らない記憶が頭の中へ流れ込んだ。
少女の名は莉子。
好きな食べ物はオムライス。算数が苦手で、絵を描くのが好き。二年前の運動会で転び、それでも最後まで走った。熱を出した夜には黒田の手を握って眠った。
すべて知っている。
だが、そのどれにも覚えがなかった。
「お父さん?」
莉子が見上げた。
黒田は震える手で、娘の頭に触れた。
「ただいま」
そう口にした途端、胸の奥に空いていた穴へ、温かいものが一気に流れ込んできた。
それは幸福によく似ていた。
最初の二日間、黒田は夢の中にいた。
秋穂は本当に海沿いの町で事務所を開いていた。黒田は会社を辞めてついて行き、事務と営業を手伝ったらしい。数年後、二人は結婚し、莉子が生まれた。
家の中には、その証拠がいくらでもあった。
結婚式の写真。莉子を抱く黒田。海辺で笑う三人。秋穂が描いた店のロゴ。家族旅行の切符。冷蔵庫に貼られた学校の予定表。
黒田のスマートフォンには、秋穂と莉子からのメッセージが何年分も残っていた。
彼の中にも、この人生の記憶があった。
ただし、それらは自分の記憶というより、外国映画の字幕に似ていた。状況を説明してくれるが、匂いも手触りもない。
三日目になると、夢の継ぎ目が見え始めた。
事務所の経営は苦しかった。黒田が黙って作った借金があり、秋穂はそれをまだ許していなかった。二人は半年ほど前から別々の部屋で寝ていた。
「最近のあなた、変」
夕食のあと、秋穂が言った。
「前より優しい。でも、知らない人みたい」
黒田は笑ってごまかした。
幸せな人生が、必ずしも幸せな日々だけでできているわけではない。
そんな当たり前のことに、彼は少し安堵した。
これなら本物になれる気がした。借金は返せばいい。秋穂とは話し合えばいい。莉子の父親として、失った時間を埋めればいい。
問題は、家族写真だった。
どの写真にも、余計なものが写っていた。
最初は光の反射だと思った。
海辺の写真では、黒田の背後に男の肩だけが写っている。運動会の写真では、テントの柱の陰から、半分の顔が覗いている。結婚式の集合写真では、黒田と秋穂の間に、誰かの指が一本だけ残っている。
写真を見るたび、その部分は少しずつ大きくなった。
四日目の夜、莉子がスケッチブックを持ってきた。
「見て」
家族三人の絵だった。
秋穂と莉子と黒田が手をつないでいる。
その外側に、黒いクレヨンで塗りつぶされた男が立っていた。
「これは誰?」
黒田が訊くと、莉子は不思議そうに首を傾げた。
「前のお父さん」
「前の?」
「写真の中にいる人」
喉が乾いた。
「名前、分かる?」
「しんじ」
秋穂が台所から振り返った。
「誰と話してるの?」
「莉子が、しんじって人を――」
「そんな人、知らないよ」
秋穂の返事は早すぎた。
その夜、午前一時七分。
寝室のクローゼットから、段ボールを引っかく音がした。
かり、かり、かり。
黒田はベッドを抜け出し、扉を開けた。
服の隙間に、男が立っていた。
四十代くらい。痩せた頬に無精ひげが生え、パジャマの肩には白い紙粉が積もっている。皮膚は長い間、陽に当たっていない人間の色をしていた。
男の胸には、配送伝票が貼りついていた。
品名――佐久間慎二。
「そこは」
男が言った。
声は、厚い箱の中から聞こえてくるようにくぐもっていた。
「そこは、僕の家だ」
黒田は後ずさった。
男はクローゼットから出ようとしたが、見えない壁に阻まれた。指先だけがこちら側へ突き出し、空気を掻いた。
「僕の妻だ。僕の娘だ。返してくれ」
「知らない。俺は……俺は、選ばなかった人生を受け取っただけだ」
「人生が空き家だとでも思ったのか」
佐久間は笑った。
怒っているのか、泣いているのか分からない笑いだった。
「誰も住んでいない場所なんて、どこにもない」
胸の伝票の端が剥がれ、床へ落ちた。
裏面に住所が書いてあった。
未選択物保管局 第零集配所。
黒田はそれを拾った。
「どうすれば戻せる」
「配達員に訊け」
「どこにいる」
「午前一時から、一時十五分までの間にしかない場所だ」
佐久間の身体が、クローゼットの暗がりへ引き戻され始めた。
「待ってくれ」
「急げ」
佐久間は爪を立て、扉の縁にしがみついた。
「娘が、僕の顔を忘れる前に」
扉はひとりでに閉じた。
翌朝、莉子の絵から、黒く塗られた男の顔だけが消えていた。
第零集配所は、湾岸の倉庫街にあった。
昼間、地図に示された場所には金網しかなかった。だが午前一時になると、金網の向こうに細い道路が現れた。
街灯は一本もない。
道路の先に、巨大な配送センターが立っていた。
建物の壁には窓がなく、無数の搬入口だけが黒い口を開けている。中からベルトコンベアの低い唸りが聞こえた。
受付には、白い制服の女が座っていた。
「返品ですね」
黒田が何も言う前に、女は伝票を差し出した。
「二〇〇九年四月七日の返事。開封済み。人物置換一名。関係置換二名。履歴改訂十七年分」
「佐久間という人を戻したい」
「返品期限は二十四時間です」
「四日しか経っていない」
「九十六時間です」
女は事務的に言った。
「お客様が空けた元の人生は、十一分後に別の方が受領されました」
受付のモニターに、黒田の古い部屋が映った。
見知らぬ男が、コンビニ弁当を食べながらテレビを見ていた。
年齢も顔も黒田にそっくりだった。だが髪は長く、右手に古い火傷の痕がある。
「誰です」
「別の黒田実様です」
「別の?」
「画家として成功された可能性からお越しです。名声と借金と三度の離婚に疲れ、『誰にも待たれていない静かな生活』をご希望でした」
モニターの中の男は、満足そうに味噌汁を啜っていた。
「俺の人生を、あいつが?」
「はい」
「返せと言ってください」
「受領済みの商品を、当局の都合で回収することはできません」
黒田はカウンターを叩いた。
「ふざけるな。俺は、選ばなかった人生を受け取れると聞いた。誰かを追い出すなんて聞いてない」
女は初めて、黒田の目を見た。
「『あなたが選ばなかった人生』というのは、広告上の表現です」
その瞳の奥で、荷札が何枚もめくれていた。
「人生は物ではありません。場所です。そして場所には、たいてい誰かがいます」
受付の背後で、巨大なシャッターが上がった。
倉庫の中に、箱が並んでいた。
小さな箱。大きな箱。棺ほどの箱。家ほどの箱。
すべてに人の名前が書かれている。
箱の内側から、囁き声や咳払いや、子供を呼ぶ声が聞こえた。
「ここにいるのは……」
「置換によって保管された方々です」
「出せないのか」
「空きがあれば」
「空き?」
「誰かが人生を手放せば、その場所へ戻せます」
黒田は佐久間の箱を見つけた。
箱の表面に小さな窓があり、その向こうで佐久間が膝を抱えていた。壁には、莉子が描いた絵が何枚も貼ってある。
絵の中の佐久間の顔は、どれも薄くなっていた。
「俺が今の人生を手放せば、佐久間は戻れるんですね」
「はい」
「俺はどこへ行く」
「お客様の元の人生には、すでに受取人がいます」
「じゃあ、別の人生へ?」
「空いている人生はありません」
女は一枚の書類を差し出した。
受取人抹消届。
「こちらへ署名いただければ、佐久間慎二様を復帰させることができます」
「抹消された俺は、どうなる」
「置換で生じた空白を返済していただきます」
「意味が分からない」
「配達員として」
黒田は、最初の夜に来た灰色の人影を思い出した。
――それ以前は?
――受取人でした。
「いつまで」
「あなたが後悔をやめるまで」
女はそう言った。
黒田は家へ戻った。
秋穂はリビングで眠っていた。テーブルには、離婚届が置かれていた。
黒田がいなくなれば、この紙も消えるのだろうか。
借金も、喧嘩も、偽物の記憶も。
莉子の部屋へ入ると、娘は目を覚ましていた。
「お父さん」
「起こしたか」
「ううん」
莉子は布団の中から、小さな紙を差し出した。
灰色の不在票だった。
宛名は莉子。
品名の欄には、こう書かれていた。
――忘れかけた父親の顔。
「これ、さっき枕の下にあった」
莉子が言った。
「受け取ったら、しんじのお父さん、帰ってくる?」
黒田は答えられなかった。
「しんじは、暗いところで寒いって」
莉子は目を閉じた。
「でも、お父さんも、いなくならないで」
その言葉は、黒田がこの人生で初めて、本当に受け取ったものだった。
受け取ってしまったからこそ、彼は手放すことを決めた。
午前一時十二分。
黒田は第零集配所の受付で、受取人抹消届に署名した。
ペン先が紙に触れた途端、自分の名前が何だったか分からなくなった。
秋穂の顔が消えた。
莉子の声が消えた。
二〇〇九年四月七日という日付だけが、焼き印のように胸の奥へ残った。
倉庫のどこかで、箱の蓋が開く音がした。
誰かが走り出す足音がした。
女が灰色の制服を差し出した。
「初回の配達です」
制服を着ると、身体が急に軽くなった。
受付の鏡に、自分の姿が映っている。
顔ははっきり見えるのに、目をそらした瞬間、どんな顔だったか思い出せなかった。
女から細長い箱を受け取った。
伝票を見る。
届け先には、見覚えのある住所が書かれていた。
宛名――黒田実。
品名――二〇〇九年四月七日の返事。
「これは」
声が震えた。
「過去への配達ですか」
「未選択物に、過去も未来もございません」
女は微笑んだ。
「あるのは、配達前と配達後だけです」
午前一時七分。
彼は、かつて自分が住んでいた扉の前に立っていた。
インターホンを押す。
『貼ってませんよ』
扉の向こうから、懐かしい声がした。
『再配達は頼んでない』
違う、と叫びたかった。
受け取るな。
箱を開けるな。
お前が欲しがっている人生には、もう誰かが住んでいる。
だが、喉から出たのは、決められた言葉だった。
「不在票を保管された時点で、仮受付となります」
内側の男が苛立った声を上げた。
『勝手だな』
「選ばれなかったものは、いつまでも従順とは限りません」
箱の中から、女と子供の笑い声がした。
それが誰の声だったのか、彼にはもう思い出せなかった。
扉が数センチ開いた。
『あなたは何者なんです』
「配達員です」
『それ以前は?』
彼は口を閉じようとした。
手にした箱を床へ叩きつけようとした。
しかし灰色の手袋は、正確な動作で伝票とペンを差し出した。
「受取人でした」
扉の隙間から、過去の自分の目が見えた。
迷いと、期待と、後悔に濡れた目だった。
彼は最後の力を振り絞り、首を横に振った。
受け取るな。
その意味が伝わったかどうかは分からない。
扉はゆっくりと閉じた。
廊下に、彼だけが残された。
胸元の端末が鳴り、次の配達先が表示された。
だが、彼は画面を見なかった。
扉の向こうに耳を澄ませていた。
しばらくして、ペン先が紙をこする音がした。
了