千の風を飼う家と、雲喰い谷の囁き

一 町が沈む朝

 その朝、雨は空へ降っていた。

 石畳の水たまりから銀色の雫がつぎつぎと浮かび、屋根を越え、鐘楼を越え、雲の裏へ吸いこまれていく。浮島ミルネラが高度を失った日にだけ起きる、逆さ雨だった。

 十四歳のエルネは、迷子捜索団の見張り台から町を見下ろしていた。

 ミルネラは、空海に浮かぶ逆さ山の上に築かれている。上町には白い尖塔と庭園があり、山腹には商店と工房がへばりつき、いちばん下の根町には、縄ばしごと傾いた家々が風に揺れていた。

 今朝は、その根町のさらに下を、灰真鍮社の測量艇が何度も旋回していた。艇腹から垂れた赤い旗には、大きな黒字でこうある。

 ――六日後、危険区域を切り離す。

「危険区域って、あたしたちの家のことだよね」

 ジャジャが言った。十二歳。髪を自分で短く切るので、いつも片側だけ長い。腰には拾った鍵を百本ほどぶら下げているが、開く錠前は三つしかない。

「正確には根町の三分の一」と、ピムが折りたたみ望遠鏡をのぞきながら答えた。「島の浮力があと二百七十丈落ちたら、下側の重量を捨てないと、ミルネラ全体が雲底に沈む。灰真鍮社の計算は、たぶん正しい」

「正しいからって、パン屋を落としていい理由にはならない」

 キケエが言った。十四歳。丸い肩に大きな鞄を背負い、中には非常用のパンを入れている。非常事態でなくても食べる。

 エルネは返事をしなかった。

 赤い旗の真下に、母の薬草湯屋が見えた。青い煙を吐く小さな煙突。その隣はキケエの家のパン窯。斜め向かいには、ピムの叔父がやっている修理店。ジャジャは家を持たず、あのあたりの屋根裏を転々としていた。

 六日後には、全部が空海へ落とされる。

「暁の冠を探そう」

 ジャジャが言った。

 ピムが望遠鏡を下ろした。

「まだその話?」

「こんなときこそ、その話でしょ。昔の王様が雲喰い谷に隠した宝。島ひとつ持ち上げられるほどの黄金。見つければ、根町を切らなくて済む」

「昔話だよ」

「地図ならある」

 エルネが言った。

 三人が振り向いた。

 見張り台の床板は、昨夜から一枚だけ浮いていた。エルネはしゃがみ、錆びた釘を小刀でこじった。板の下から、油布に包まれた細長い筒を取り出す。

 迷子捜索団の本部は、もともと気象観測塔だった。誰も使わなくなって四十年。古い壁の隙間には、鳥の骨、壊れた温度計、乾いた空虫など、たいがい役に立たないものしか入っていない。

 だが、その筒は真鍮製で、蓋には星を囲む七つの風車が刻まれていた。

 エルネは昨夜、逆さ雨を防ごうとして床板を直し、偶然見つけたのだ。中に入っていたのは、薄い半透明の皮紙だった。

 彼女がそれを広げると、褪せた青い線が迷路のように走った。地図だ。中央には黒い渦。その周囲に、山、森、歯車めいた遺跡、そして冠の絵。

 右下には署名がある。

 セルマ・セルカ。

 ピムが息を呑んだ。

「雲路学者のセルマ・セルカ? 雲喰い谷で消えた人だ」

「その夫なら、まだ町にいる」とキケエが言った。「坂のいちばん上の、歩く家のじいさん」

 ジャジャの目が輝いた。

「決まり。宝の地図と、伝説の探検家の夫と、切り離される町。冒険に必要なものが全部ある」

「あと六日しかない」とピムが言った。

「だから今日出る」

「雲喰い谷まで普通の飛行艇で四日」

「普通じゃない家なら?」

 エルネは地図の左端を指でなぞった。そこには、翼の生えた家が描かれている。

 その下に、小さな文字があった。

 ――あらゆる風を知る家だけが、風の死ぬ場所を越えられる。

 さらに、黒い渦のそばには、別の文が記されていた。

 ――谷は借りた声で話す。答えるな。名を教えるな。約束するな。

 見張り台の外で、町を切り離すための警告鐘が鳴った。

 低く、重く、まるでミルネラそのものが歯を食いしばっているような音だった。

二 千風荘

 ガルム・セルカの家は、坂の上で四本の脚を畳んでいた。

 三階建ての古い木造家屋で、屋根は継ぎはぎの銅板、窓は形も色もばらばら。壁には折りたたまれた帆布の翼が張りつき、煙突の周囲には大小のガラス瓶が何百本も吊られている。

 瓶の中では、風が眠っていた。

 砂漠の熱風は赤く渦巻き、氷海の風は白い霜をまとい、花畑の風には黄色い花粉が舞っている。一本一本に札がついていた。

 〈南端岬・結婚三日目〉

 〈雷鯨の背・セルマが帽子をなくした日〉

 〈西の青浜・帰りたくなくなった夕方〉

 旅の記録を、風そのものにして保存してあるのだ。

「きれい」

 エルネが思わず言うと、玄関の内側から声がした。

「売らんぞ」

 扉が開き、痩せた老人が現れた。白い眉毛は荒れた雲のようで、片脚には金属製の補助具をつけている。手には長い箒。

「見物料も取る。子どもは倍だ」

「ガルム・セルカさんですね」

「違う。ガルム・セルカは死んだ。ここにいるのは機嫌の悪い亡霊だ」

「亡霊さん、暁の冠を探すのを手伝ってください」

 ジャジャが地図を突きつけた。

 ガルムの顔から、冗談めいた不機嫌さが消えた。

 彼は地図を奪うように受け取り、しばらく何も言わなかった。指先が、セルマの署名に触れた。

「どこで見つけた」

「旧観測塔の床下です」

「燃やせ」

 ガルムは地図を押し返した。

「これは宝の地図じゃない」

「じゃあ、何です?」

「死人の間違いだ」

 彼は扉を閉めようとした。エルネが靴先を挟んだ。

「六日後、根町が切り離されます」

「知っている」

「暁の冠には、島を持ち上げる力があるって」

「噂だ」

「噂でも行きます。あなたが来なくても」

 ガルムは、彼女を長いこと見た。

「地図を読めるのか」

「町の配達地図なら全部、頭に入っています」

「町の道は昨日と同じ場所にある。雲喰い谷の道は、歩くたびに歩いた者の後ろへ移る」

「それでも行く」

「勇敢と無謀の違いは、帰ってきたかどうかだけだ。お前たちは無謀のまま死ぬ」

 扉が閉まった。

 ジャジャは鍵束を鳴らした。

「説得、失敗」

「方法を変えよう」とピムが言った。

 その日の午後、四人は千風荘の床下に潜り込んだ。

 計画は単純だった。地図にある「家が知る風」を一本だけ借りる。最悪でも、雲喰い谷の入口まで小型帆走艇で行き、そこで瓶を開ければ無風域を越えられる、とピムは考えた。

 ただし、千風荘の床下は家の床下というより、船の機関室だった。

 梁の間を銅管が走り、歯車が回り、瓶から延びた細い管が中央の巨大な風箱に集まっている。壁には色分けされたレバーが並んでいた。

「どれが東風?」とキケエ。

「青い札じゃない?」とジャジャ。

「青は高度調整。東風は方位記号で――」

 ピムが言い終える前に、ジャジャが青いレバーを引いた。

 家が咳をした。

 次の瞬間、四本の脚が一斉に伸びた。

 千風荘は坂道を三歩駆け、隣家の洗濯物をかぶり、鐘楼の柵を蹴り飛ばし、そのまま崖から跳んだ。

 エルネたちは床下で宙に浮いた。

 帆布の翼が轟音とともに開く。屋根の風瓶が一斉に震え、煙突から緑色の風が噴き出した。

 家は空を飛んだ。

「誰だああああっ!」

 上階からガルムの怒鳴り声がした。

 千風荘はミルネラを一周し、灰真鍮社の測量艇をぎりぎりでかわし、雲喰い谷の方角へ向かう下降気流に乗った。

 ピムは計器を見て青ざめた。

「戻れない」

「なんで?」

「今使ったの、〈春の大上昇風〉。逆向きの瓶は空だ。次の旋回流まで三日」

 床板が開き、逆さまになったガルムの顔が現れた。

「お前たち」

 その声は怒りを越え、妙に静かだった。

「私の家を盗んだな」

「正確には」とピムが言った。「家ごと誘拐しました」

 ガルムはゆっくり箒を振り上げた。

 四人は機関室を逃げ回った。

三 風の死ぬ場所

 千風荘は、飛んでいるあいだも家だった。

 台所では食器棚が揺れ、居間の柱時計は律儀に時を打ち、二階の浴槽には半分ほど湯が残っていた。窓の外を翼魚の群れが泳ぐ以外は、少し床が傾いた古い家と変わらない。

 ガルムは四人を食卓に座らせ、腕を組んだ。

「引き返せる気流は三日後だ。それまでは、この家の規則に従え。一、勝手にレバーを引くな。二、勝手に瓶を開けるな。三、セルマの部屋に入るな。四、死にそうになったら、まず私に報告しろ」

「死んだあとでは?」とジャジャ。

「掃除代を遺言に書け」

 ガルムは地図を広げた。

「雲喰い谷の入口まで一日半。そこから先は風がない。千風荘なら越えられるが、私は谷へ降りない」

「どうして?」とエルネ。

「セルマが死んだ場所だからだ」

 風瓶がかすかに鳴った。

 ガルムは窓の外を見た。

「二十三年前、私たちは暁の冠を探した。セルマは谷へ入り、私は家を守った。三日待った。七日待った。最後に戻ってきたのは、彼女の声だけだった」

「声?」

「森の奥から聞こえた。助けて、と。けれどセルマは、危険なときほど助けを求めない女だった。だから行かなかった」

 キケエの顔が曇った。

「じゃあ、本物だったかもしれない」

「ああ」

 ガルムはそれだけ言った。

 夕方、ミルネラは遠い青灰色の点になった。

 エルネは屋根へ出た。風瓶の列の向こうで、ガルムが舵輪を握っている。片脚の金具を甲板に固定し、夜の風向きを読んでいた。

「怒ってますか」

「家を盗まれて喜ぶ老人を見たことがあるか」

「ありません」

「私もない」

 しばらく、翼の鳴る音だけが続いた。

「家を置いて、どこへ行くつもりだったんです?」

 ガルムは屋根の後ろに積んだ荷箱を見た。荷箱の上には、小さな銀の骨壺が紐で固定されている。

「西の青浜。セルマと、いつか最後の旅をしようと言っていた」

「最後の旅?」

「灰を撒きに行く。家も向こうで売る」

「この家を?」

「家は木と釘だ」

 エルネは、〈結婚三日目〉の風瓶を見た。

「そうは見えません」

 ガルムは答えなかった。

 夜半、見張りをしていたピムが叫んだ。

 前方に、黒い壁が立っていた。

 雲だった。ただし普通の雲ではない。星明かりを吸い、形を変えず、空の端から端まで広がっている。その中央に巨大な谷の裂け目があり、雲が滝のように落ちこんでは消えていた。

 雲喰い谷。

 谷に近づくにつれ、風が弱くなった。

 翼が垂れ、風見鶏が止まり、空を泳いでいた翼魚たちが一斉に引き返す。

 ガルムは屋根の瓶を三本開けた。

 〈赤砂海・昼〉の熱風が右舷へ。

 〈氷鐘湖・夜〉の冷気が左舷へ。

 〈ミルネラ・秋祭り〉の香ばしい風が後方へ。

 三つの風が帆を膨らませ、千風荘を黒雲の中へ押しこんだ。

 音が消えた。

 翼の軋みも、瓶の鳴る音も、キケエの腹の音さえ聞こえない。

 エルネは自分の心臓だけを、耳ではなく歯の根で感じた。

 やがて黒雲が裂けた。

 その向こうに、円形の谷があった。

 谷底は森に覆われ、木々の枝はすべて内側へ曲がっている。中央には、口を開けたような真っ黒な穴。周囲の崖には、何千もの銀色の筋が走っていた。

 地図と同じだった。

 ただし、地図には描かれていないものがあった。

 谷の上空に、灰真鍮社の測量艇が浮かんでいた。

 赤い旗を掲げ、千風荘を待ち伏せていた。

「追跡標をつけられていたな」

 ガルムが舌打ちした。

 測量艇の拡声角から声が響いた。

『こちら灰真鍮社監督官ベルク。無許可の遺跡探索、および会社資産となりうる地図の持ち出しを確認した。停船せよ』

「地図は会社のものじゃない!」とエルネが叫ぶ。

『六日後には君の町も会社のものではなくなる。抵抗は無意味だ』

 測量艇の側面が開き、三本の捕縛鉤が放たれた。

「伏せろ!」

 ガルムがレバーを叩く。

 千風荘は〈雷鯨の背〉の突風を吐き、横転するように急旋回した。二本の鉤をかわしたが、三本目が左翼に刺さる。

 帆布が裂けた。

 家が傾き、家具が一斉に壁へ滑った。屋根瓦が谷へ降り注ぐ。

 ピムが機関室から叫んだ。

「揚力が足りない!」

「森へ降りるしかない!」

「降りないって言ったじゃないですか!」

「墜ちるよりは降りるほうがましだ!」

 千風荘は木々の梢を削り、三本の巨木をへし折り、最後に柔らかな銀苔の斜面へ腹から突っこんだ。

 皿が割れ、柱時計が十三回鳴った。

 静寂の中で、誰かが囁いた。

「おかえり、ガルム」

 それは、家のどこから聞こえた声でもなかった。

 森じゅうが、女の声でそう言った。

四 借りものの声

 千風荘の左翼は折れ、二階の窓が三枚割れていた。

 幸い、全員生きていた。

 不幸なのは、測量艇も少し離れた場所へ着陸したことだった。

「先に冠へ着く」

 ガルムは補助具の留め金を締めながら言った。

「取るんですか?」とエルネ。

「取らん。会社に取らせない」

「でも町が」

「谷で見つかるものが町を救うとは限らない」

「じゃあ、ここまで来た意味は?」

「生きて帰れば、意味はあとから考えられる」

 ガルムは杖代わりの帆桁を持ち、セルマの地図を首から提げた。

「規則を増やす。森で声を聞いても返事をするな。知っている声でもだ。特に、知っている声なら」

 森の木は黒く、樹皮が濡れた耳のようにひだを作っていた。葉はなく、枝先に透明な袋がぶら下がっている。風がないのに袋は膨らみ、縮み、そのたびに遠い話し声が漏れた。

「市場の値切り声だ」とピム。

「こっちは赤ん坊」とキケエ。

「聞くな」とガルム。

 一行は地図の青線をたどった。

 道は確かに、歩くたび後ろへ移った。振り返ると、踏み固めた苔が立ち上がり、木々が根を引きずって道を塞ぐ。エルネは腰紐から白墨を出して印をつけたが、印のほうが樹皮の上を這い、別の木へ逃げていった。

「地図が役に立たない」

「地図を見るな」とガルムが言った。「水を見ろ」

 銀色の小川が、斜面を上へ流れていた。

 セルマの地図には、青線の横に小さく〈川は出口から生まれる〉とある。

 彼らは上り流れる水を逆にたどった。

 しばらくすると、ジャジャが立ち止まった。

「待って」

「どうした?」

「クルルがいる」

 森の奥で、小さな鈴が鳴った。

 クルルは、ジャジャが昔飼っていた屋根狐の名前だった。三年前、嵐の日に空へ飛ばされ、戻らなかった。

 鈴がもう一度鳴る。

 黒い木の間に、白い尾が見えた。

「クルル?」

 ジャジャが一歩踏み出した。

 ガルムが彼女の口を塞いだ。

 白い尾が止まった。

 木々の透明な袋が一斉に膨らむ。

「ジャジャ」

 今度は、クルルの声ではなかった。

 ジャジャ自身の声だった。

「こっち。鍵がある。ぜんぶ開く鍵」

 彼女は青ざめた。

 声はピムに変わった。

「君なら機械の仕組みを理解できる。失敗しない頭をあげる」

 キケエの母親の声になった。

「焼きたてだよ。帰っておいで」

 そしてエルネの声になった。

「空白のない地図をあげる。誰も迷わない地図を」

 エルネは歯を食いしばった。

 子どものころから、地図の余白が嫌いだった。道の途切れた先、誰も帰ってこなかった場所、わからないまま残されたもの。父が小さな運搬艇ごと空海へ消えたときも、役所の地図には赤い点が一つ打たれただけだった。

 〈推定遭難地点〉

 その先は、何も描かれていない。

「答えるな」

 ガルムの声が震えていた。

 森は最後に、セルマの声で囁いた。

「どうして来てくれなかったの」

 ガルムの手から帆桁が落ちた。

「私は、まだここにいるのに」

 木の幹が縦に割れた。中に、人ひとりが通れる暗い空洞が開く。奥で誰かが泣いていた。

 ガルムが一歩、空洞へ近づく。

 エルネは彼の上着を掴んだ。

 老人は振り払おうとした。強い力だった。

 そのとき、キケエが鞄から固い輪パンを取り出し、ガルムの頭を叩いた。

「すみません!」

 ガルムはよろめき、我に返った。

「なぜパンで殴る」

「手近にあったので!」

 ピムが携帯工具の発条を鳴らした。高い金属音に、木々の袋がしぼむ。

「この森、一定の音を嫌がるみたいだ」

 ジャジャは鍵束を両手で振った。百本の鍵が騒々しく鳴り、囁きが乱れた。

 一行は走った。

 森が彼らの名を呼ぶ。

 母の声、父の声、自分の声、まだ会ったこともない老いた自分の声。

 誰も答えなかった。

 やがて木々が途切れ、石造りの小屋が見えた。

 扉には、星を囲む七つの風車。

 セルマ・セルカの調査小屋だった。

五 セルマの最後の地図

 小屋の中は、二十三年前のままだった。

 机の上に乾いたインク壺。壁一面の地層図。棚には音を保存する蝋筒が並び、隅には片方だけの長靴があった。

 ガルムは長靴の前で立ち止まった。

「これは、私が直すと言って忘れたやつだ」

 彼は笑った。ほんの一瞬だけ、若い人の顔になった。

 ピムが蝋筒再生機を見つけた。手回しの把手を回すと、漏斗から砂嵐のような音が流れ、そのあと女の声がした。

『調査三十一日目。谷の中心部に人工構造を確認。通称〈暁の冠〉は黄金ではない。七つの太陽石を連結した封鎖機構と思われる』

 ガルムが目を閉じた。

 セルマの声は明るく、早口だった。

『谷は生物ではない。少なくとも、谷だけではない。銀脈は神経に似る。森は感覚器官。中央孔の下には――』

 音が途切れた。

 ピムが別の蝋筒をかける。

『仮説。私たちの世界が生まれる前、星間を渡る何かの一部がここへ落ちた。それは肉体を持たず、声と記憶の形で増える。聞いた者の中に自分を写し、名を得て、名を扉にする』

 ジャジャが鍵束を押さえた。

『封鎖機構は弱っている。太陽石の角度がずれ、谷の外へ囁きが漏れ始めた。冠を動かすには、七方向から異なる風を同時に送りこむ必要がある。通常の飛行艇では不可能』

 全員の視線がガルムへ向いた。

 彼は何も言わなかった。

 最後の蝋筒には、赤い印がついていた。

 再生機を回す。

『ガルムへ』

 老人の肩が跳ねた。

『これを聞いているなら、私は帰らなかったのね。先に謝る。あなたはきっと、待つことしかできなかった自分を責める。でも、来ないで。谷が私の声を使っても、来ないで』

 ガルムは机に手をついた。

『暁の冠は宝ではない。鍵よ。外すための鍵ではなく、閉めるための鍵。千風荘を使えば直せる。床下の配風盤は、私が少し改造しておいた。怒らないで。どうせあなたは説明書を読まないから』

 キケエが小さく笑い、すぐ口を押さえた。

『家はたぶん壊れる。だから決めるのはあなた。私は、家より世界のほうが少しだけ大切だと思う。でもあなたが違う答えを選んでも、嫌いにはならない』

 短い沈黙。

『それから、いつか家が役目を終えたら、手放して。思い出は、木材の中に閉じこめると息ができない。西の青浜へ行って。私のぶんまで、水平線を見て』

 蝋筒はそこで終わった。

 ガルムは長いあいだ動かなかった。

 エルネは机の上に、同じ地図を見つけた。こちらは大きく、中央部が詳しい。冠の周囲には七つの穴があり、その上に千風荘の間取り図が薄く重ねられている。

「家そのものが、修理道具なんだ」

 ピムが言った。

「セルマさんは最初から、冠を直すために千風荘を改造した」

「じゃあ直せば、町も救える?」とエルネ。

「わからない」とガルム。

「でも冠は太陽石でできてる。島を浮かせる石と同じなら、動かしたときに上昇流が起きるかもしれない」

「かもしれない、だ」

「何もしなければ、根町は確実に落ちる」

 ガルムはセルマの蝋筒を手に取った。

「千風荘を谷の中心まで飛ばすには、左翼を直さなければならん」

 ピムがにやりとした。

「それなら、できるかもしれません」

 外で金属音がした。

 窓から覗くと、灰真鍮社の監督官ベルクと四人の作業員が森を抜けてくるところだった。背中には共鳴銃、肩には会社章。先頭の技師は、大きな円盤型の掘削器を引いている。

 ベルクが小屋へ向けて拡声角を上げた。

「地図と調査資料を渡せ。抵抗しなければ、子どもは町へ返す」

「町ごと捨てるくせに!」とジャジャ。

「私は契約を執行するだけだ」

「便利な言葉ですね」とエルネ。

 ベルクの顔が硬くなった。

「君たちの根町を切れば、上町の四千人は助かる。宝があれば全員助かる。私は確率の高いほうを選ぶ」

 ガルムは窓の留め金を外した。

「それで、冠を外す気か」

「太陽石七基。ひとつでも会社の浮力炉を二十年動かせる」

「外せば何が起きるか知っているのか」

「迷信に付き合う時間はない」

 森の奥から、女の声がした。

「ベルク監督官」

 ベルクの技師が振り返った。

「母さん?」

「返事をするな!」とガルムが叫んだ。

 遅かった。

 技師は「ここよ」と聞こえた方へ一歩進み、微笑んだ。

 その口から、何人もの声が重なって出た。

「ようやく、名前をもらった」

 森じゅうの透明な袋が膨らんだ。

 共鳴銃がひとりでに鳴り、石小屋の壁が砕けた。

六 冠への道

 混乱の中で、エルネたちは小屋の裏口から逃げた。

 ピムは地図を抱え、ジャジャは鍵束を振り、キケエは最後に机の下から食料袋を回収した。ガルムはセルマの蝋筒を上着の内側へ入れた。

「家へ戻るんじゃないの?」とエルネ。

「連中が先に見つける。冠へ直行する」

「家なしでどうやって直す?」

「先に壊されるのを止める」

 地図の青線は、崖の下へ続いていた。

 一行は上向きの川に沿って走り、やがて巨大な石の歯が並ぶ門へ着いた。門の先は、中央孔へ続く地下回廊だ。

 石の歯は噛み合い、隙間がない。

 ジャジャが鍵束を見た。

「ついに百本のうち四本目が役立つとき」

「鍵穴がない」とピム。

「気持ちの問題」

 エルネは地図を光に透かした。

 半透明の皮紙の裏に、逆さ文字が浮かぶ。

 ――口を開くのは、食べられないもの。

 キケエが袋から輪パンを出した。

「これは食べられる」

「なんで基準がパンなの」

 ピムは石の歯を調べた。歯の一本に、小さな風車模様が刻まれている。

「風だ。口では食べられない」

 ガルムが携帯風瓶を取り出し、模様へ吹きつけた。

 石の口が開いた。

 回廊の中では、重力が横向きだった。

 エルネたちは壁を床にして歩き、ときどき天井から流れてくる石屑をよけた。曲がり角を越えるたび重力の方向が変わり、キケエのパンが宙を漂い、ジャジャが一本ずつ回収した。

 途中、黒い池があった。

 水面には、彼ら自身が映っている。ただし、鏡像は少し先の動きをしていた。

 エルネの鏡像が振り向く。

 現実のエルネはまだ振り向いていない。

 鏡像の背後に、父が立っていた。

 灰色の飛行外套。笑うと片方だけ上がる眉。遭難した日のままの姿。

 父は口を動かした。

 ――エルネ。

 音は聞こえない。

 それでも彼女は、返事をしそうになった。

 父が池の中から手を伸ばす。

 その指は長く伸び、水面を越え、現実の足首へ触れた。

 冷たさが骨まで走った。

 エルネは小刀を抜き、手を切った。指は黒い水に戻った。

「走れ!」

 池から無数の顔が浮かび上がる。セルマ、ジャジャ、キケエの母、ピムの叔父、ベルク、まだ生きている町の人々。

 みんな口を開き、声のない叫びを上げた。

 一行は回廊を駆け抜けた。

 出口の先に、広大な空洞があった。

 谷の中央孔、その内側。

 空洞の壁は黒い岩ではなく、半透明の銀膜で覆われていた。膜の向こうを、星のような光がゆっくり流れている。足元には古代の環状橋が架かり、中央の虚空を七つの巨大な金色石が囲んでいた。

 暁の冠。

 ひとつひとつが家ほど大きく、光を内側へ向けている。七条の光は中央で交わり、黒い点を縫いとめていた。

 黒い点は、遠くにあるようにも、目のすぐ裏側にあるようにも見えた。

 そこから声がした。

「小さい」

 声は空洞を震わせず、頭蓋骨の内側だけで響いた。

「お前たちの町。お前たちの命。お前たちの悲しみ。どれも、あまりに小さい」

 星明かりが銀膜の向こうで動く。

 エルネは気づいた。

 あれは星ではない。

 巨大な何かの、無数の目だった。

 こちら側を覗いている。

「名をよこせ」

 黒い点が脈打つ。

「お前たちを、なくならない声にしてやる」

 ガルムが携帯風瓶を投げた。

 瓶は黒い点へ吸いこまれ、音もなく消えた。

「返事は、なしだ」

 彼は冠へ向かって歩き出した。

 そのとき、背後で銃声がした。

 橋の欄干が砕けた。

 ベルク監督官が、三人の作業員とともに回廊から現れた。例の技師もいる。目を閉じ、笑っていた。

「動くな」

 ベルクは共鳴銃を構えた。

「太陽石を確保する」

「見てもまだわからんのか」とガルム。

「見えているから言っている。ひとつ外すだけだ。残り六つで封鎖は保つ」

「橋は七本の脚で立ってる。一本だけ抜いてみるか?」

 ベルクの顎が強張った。

「私の島も、二十年前に沈んだ」

 初めて、彼の声に怒り以外のものが混じった。

「誰も助けなかった。会社だけが生存艇を出した。私は、助かる人数を数える方法を覚えた。君たちの町のためにも石は必要だ」

「これは町を救う石じゃない」とエルネ。

「救うかどうかは、持ち帰ってから決める」

 技師が掘削器を起動した。

 円盤が唸り、冠の一角へ噛みつく。

 ガルムが飛びかかったが、作業員に押さえられた。

 ピムは工具を投げ、ジャジャは鍵束を鞭のように振り、キケエは食料袋で一人を殴った。

 だが、掘削器は止まらない。

 太陽石に亀裂が走った。

 空洞全体が息を吸った。

「ベルク」

 技師が監督官の声で言った。

「君は正しい」

 ベルクが振り向く。

 技師の閉じた瞼の下で、いくつもの目が動いていた。

「もっと多くを救える。冠を開ければ。名をくれれば。すべての沈んだ島を、声として戻してやる」

「黙れ」

「妹のリナも」

 ベルクの顔から血の気が引いた。

 太陽石が外れた。

 光の一本が消えた。

 黒い点が、花のように開いた。

七 世界の外の耳

 闇には奥行きがなかった。

 それは穴ではなく、色でもなく、この世界に開いた「不在」だった。

 冠の内側から銀色の糸が噴き出し、橋、壁、人の影へ絡みつく。糸に触れた作業員が口を開き、知らない言葉で笑った。

 銀膜の向こうの無数の目が、一斉に近づく。

 声があふれた。

 ミルネラの市場。

 沈んだ島の鐘。

 生まれる前の子ども。

 死んだ星の獣。

 まだ存在しない王。

 すべてが同時に囁いている。

「名を」

 エルネは両耳を塞いだ。しかし声は頭の内側にある。

 目の前に町が見えた。

 根町は切り離されていない。母の湯屋から青い煙が上がり、キケエの窯ではパンが焼け、ピムの修理店は忙しく、ジャジャには自分の部屋がある。

 父もいる。

 食卓で地図を広げ、余白を一つずつ埋めている。

「名をくれれば、これは本当になる」

 父が手を差し出す。

「お前が望む通りの過去を返そう」

 エルネは一歩進んだ。

 足元の橋が、父の家の床に変わる。

「エルネ!」

 誰かが彼女を呼んだ。

 返事をしそうになった。

 だが、その声はジャジャだった。本物のジャジャは、決して人を呼ぶときに丁寧な発音をしない。いつも「エルネ」ではなく「エンネ」と言う。

 エルネは立ち止まった。

 父の眉を見た。

 笑っているのに、両方とも同じ高さだった。

「あなたは父さんじゃない」

 口にした瞬間、闇が喜んだ。

「声を得た」

 しまった。

 銀の糸がエルネへ伸びる。

 ガルムが彼女を突き飛ばした。糸は老人の胸をかすめ、上着を裂いた。

「否定も返事だ! 黙って走れ!」

 彼らは回廊へ逃げた。

 背後で太陽石が次々と軋む。

 ベルクは呆然としていたが、作業員の一人が銀糸に引かれるのを見ると、共鳴銃を闇へ撃った。音の波が糸を弾く。

「撤退だ!」

「石を戻さないと!」とピム。

「家が要る」とガルム。

「測量艇で引ける」とベルク。

 エルネが彼を見た。

「信じていいんですか」

「今は、生き残る人数を増やす」

 それは謝罪ではなかったが、嘘でもなかった。

 一行は森へ戻った。

 谷全体が変わっていた。

 黒い木々の枝に、町の窓が実っている。窓の中で人々が食事をし、眠り、笑っていた。透明な袋は人の顔になり、通り過ぎる者の名を呼ぶ。

 千風荘の方角から、セルマの声がした。

「ガルム、家を守って」

 老人の足が止まった。

「今度こそ、私を置いていかないで」

 ガルムは震えた。

 エルネは何も言えなかった。

 セルマの声が続く。

「家を壊さないで。思い出を捨てないで」

 ガルムは、ふっと息を吐いた。

「偽物だな」

 声が止まる。

「セルマは、家を〈古いスープ鍋〉と呼んでいた。守れなんて一度も言わなかった」

 森のすべての顔が歪んだ。

 ガルムは杖を上げた。

「それに、あいつはさっき、手放せと言った」

 彼は走った。

 千風荘は銀苔に半分埋まっていた。

 ピムとベルクの作業員が左翼を応急修理する。折れた帆桁の代わりに測量艇の支柱を使い、裂けた帆には会社旗を縫いつけた。

 ジャジャは家中の窓を閉め、キケエは家具を釘で床へ固定した。

 ガルムは機関室へ降り、配風盤の奥に隠された七本の金色レバーを見つけた。

「セルマめ」

 怒っているような、笑っているような声だった。

「二十三年も、こんなものを隠していたのか」

 ピムが配管図を広げる。

「七本を同時に開けば、全風瓶が空になります。圧力に家が耐えられない」

「知っている」

「屋根も壁も、たぶん床も剥がれる」

「知っている」

「じゃあ、僕たちはどこにいれば?」

 ガルムは台所を指した。

「食卓だ。あそこだけは船殻材で組んである」

「どうして食卓だけ?」

「セルマが、旅でいちばん大切な場所だと言った」

 ベルクが測量艇と千風荘を牽引索でつないだ。

 谷の中心から、黒い光が立ち上がる。森の木々が一斉に根を抜き、こちらへ歩き始めた。

 ガルムが屋根の舵輪へ立つ。

「千風荘、最後の飛行だ」

 家は四本の脚で地面を蹴った。

 測量艇が全力で引く。

 左右の翼が開き、継ぎはぎの帆に風が入る。

 千の風を飼う家は、囁く森の上へ舞い上がった。

八 千の風

 谷の中央孔は、巨大な喉になっていた。

 千風荘が近づくと、下から逆向きの落下が襲った。家具の釘が抜け、屋根瓦が空へ吸いこまれる。測量艇の機関が悲鳴を上げた。

 ベルクの声が伝声管から響く。

『牽引索がもたない!』

「もたせろ!」とガルム。

『命令するな!』

「ではお願いだ、もたせろ!」

 エルネは食卓の上に地図を広げた。

 半透明の皮紙。その下に、千風荘の床図。地図をランプに透かすと、七つの風路が冠の七穴と重なる。

「家を右に十二度!」

 彼女が叫ぶ。

 ガルムが舵を切る。

「下へ三丈! そのまま中央へ!」

 千風荘は中央孔へ飛びこんだ。

 外壁が銀糸に撫でられ、窓ガラスが一斉に白く曇る。その曇りに何千もの顔が浮かんだ。

 父。

 母。

 セルマ。

 エルネ自身。

 口々に名前を呼ぶ。

 ジャジャは鍵束を窓へ叩きつけた。

「うるさい!」

「返事をするな!」

「今のは独り言!」

 ピムが配風盤へ取りつく。

「第一風路、砂漠風!」

 キケエが赤いレバーを引く。

 屋根の瓶が百本開いた。

 灼熱の風が銅管を走り、家の右側から噴き出す。千風荘が回転し、冠の第一穴へ風を送りこむ。

 消えていた太陽石の溝が赤く光った。

「第二、氷海風!」

 青いレバー。

 白い霜が台所を覆う。鍋が凍り、キケエの眉毛が白くなる。

「第三、雷原風!」

 紫のレバー。

 雷が床を走り、柱時計が爆発した。

 冠が回り始める。

 黒い点から、声が降った。

「小さきものよ」

 食卓の上に、星空が開いた。

 世界が見えた。

 ミルネラも、空海も、雲喰い谷も、無限の暗闇に浮かぶ塵のひとつにすぎない。暗闇には、耳だけの神、口だけの月、眠りながら文明を夢見る獣たちが漂っている。

 そのひとつが寝返りを打てば、千の世界が消える。

「お前たちの家など、釘一本より小さい」

 ガルムが金色レバーを握った。

「だから何だ」

「守る価値はない」

「価値は、大きさで決まらん」

 老人は第四レバーを引いた。

 〈ミルネラ・秋祭り〉の風が吹いた。

 焼いた林檎、煤、花火、薬草湯、パン窯の香り。エルネの町の匂いが台所を満たした。

 根町の路地が見える。

 狭く、傾き、雨漏りし、冬は寒い。それでも、迷子になれば誰かが名前を呼んでくれる場所。

「家は木と釘だ」とガルムが言った。「だが、帰る場所は、誰かが待つと決めたところだ」

 第五レバー。

 〈西の青浜・帰りたくなくなった夕方〉

 潮の匂いを含む風が吹き、ガルムの白髪をなびかせた。

 第六レバー。

 〈雷鯨の背・セルマが帽子をなくした日〉

 笑い声のような突風が家を揺らす。

 千風荘の外壁が剥がれた。

 二階の寝室が空へ飛び、古い箪笥が闇に消える。屋根が半分なくなり、風瓶が星の群れのように舞った。

「最後!」とピム。

 七本目のレバーには札がなかった。

 ガルムが戸惑う。

「この風は何だ?」

 エルネは地図の隅を見た。

 セルマの小さな字。

 ――最後の風は、まだ誰も知らない場所で集めること。

「空です!」

「空?」

「未来のための瓶。中には何もない!」

 ピムが配管を叩いた。

「空だから吸える! 中央孔の風を、この家に通して逆向きに出すんだ!」

 ガルムは七本目を引いた。

 家じゅうの空瓶が、同時に息を吸った。

 黒い点から噴き出していた銀糸と囁きが、何百本もの銅管へ引きこまれる。瓶の中に、星のない闇が満ちた。

 ガラスが次々と割れる。

 千風荘は悲鳴を上げながら、吸いこんだ闇を冠の第七穴へ吐き出した。

 七つの太陽石が燃えた。

 外れていた石が浮かび上がる。

 だが、元の場所まで届かない。

「あと一丈!」とエルネ。

 牽引索が切れた。

 測量艇が上方へ弾かれ、千風荘は闇へ落ち始めた。

 ガルムが舵輪を離し、屋根から飛び降りた。

「じいさん!」

 彼は崩れる廊下を走り、家の先端へ取りついた。金属の補助脚を外し、それを太陽石の隙間へ差しこむ。

 全体重をかける。

「セルマ!」

 それは返事ではなく、叫びでもなく、長い旅の最後に名前を置くような声だった。

 太陽石が一寸動く。

 銀糸がガルムの腕へ絡む。

 エルネは食卓を固定していた縄を切り、端を腰に巻いた。もう一端をジャジャとキケエへ投げる。

「引いて!」

 彼女は傾いた床を滑り、ガルムの手を掴んだ。

「家が落ちるぞ!」

「家は木と釘なんでしょ!」

「今それを言うか!」

 ピムが最後の圧力弁を蹴った。

 千風荘の炉が破裂した。

 爆風が家を下から押し上げる。

 ガルムの補助脚が梃子になり、太陽石が定位置へ嵌まった。

 冠が閉じた。

 闇は、無数の声を一つに重ねて叫んだ。

「お前たちは忘れられる!」

 ガルムはエルネの手を握った。

「それでいい」

 七条の光が中央で交わった。

 黒い点が針の先ほどに縮み、消えた。

 次の瞬間、暁の冠から光の波が広がった。

 銀膜を通り、岩を通り、森を通り、谷を通り、雲の底へ。

 千風荘は、光の中でばらばらになった。

九 食卓の船

 エルネが目を開けると、空を飛んでいた。

 正確には、台所の床だけが飛んでいた。

 船殻材で組まれた四角い床。中央には食卓。端には半分になった流し台と、取っ手の曲がった鍋。ジャジャ、ピム、キケエ、ガルムが縄に絡まり、みな生きている。

 床の下では、金色の上昇流が渦巻いていた。

 ベルクの測量艇が近づき、救助索を投げる。

 彼らが乗り移ると、食卓の船はゆっくり谷へ戻っていった。

 ガルムは手を伸ばしたが、届かなかった。

「さよなら、古いスープ鍋」

 食卓は雲の光に溶けた。

 谷の森は静かになっていた。

 透明な袋はしぼみ、借りものの声は消えている。中央孔の上には七色の光柱が立ち、雲を押し上げていた。

 ベルクは操縦席で、しばらく無言だった。

「会社へ戻れば、私は規則違反で解任される」

「石を持ち帰らなかったから?」とジャジャ。

「測量艇を壊したからだ」

 艇の後部は半分なく、会社旗は千風荘の翼として消えていた。

「根町を切る命令は?」とエルネ。

「上昇流がミルネラまで届けば、中止になる。届かなければ……」

「届きます」

「地図にそう書いてあるのか」

「いいえ」

 エルネは窓の外を見た。

「でも、届くほうへ道を描きます」

 帰路、雲喰い谷の黒雲は消えていた。

 空海の底から、無数の黄金の風が立ち上がっている。沈みかけた小島が一つ、また一つと高度を戻し、翼魚の群れが光の柱を泳いだ。

 ミルネラが見えたのは、出発から五日目の夕方だった。

 島は警告線ぎりぎりまで沈んでいた。

 根町の下では、切断用の巨大な鋸が梁に当てられている。灰真鍮社の作業員が、最後の命令を待っていた。

 そのとき、黄金の風が島の底へ届いた。

 ミルネラが震えた。

 鐘楼の鐘が、誰も引いていないのに鳴る。

 島は一丈、上がった。

 二丈。

 十丈。

 逆さ雨が、今度は雲から町へ降り始めた。

 人々が屋根へ飛び出し、叫んだ。鋸は梁から外れ、作業艇は慌てて退避する。母の薬草湯屋の煙突から、青い煙が勢いよく噴いた。

 測量艇が広場へ着陸すると、エルネの母が真っ先に駆けてきた。

 叱られると思った。

 実際、頬を一度叩かれた。

 そのあと、息ができないほど抱きしめられた。

 キケエは家族と泣き、ピムは叔父に工具の使い方を二時間叱られ、ジャジャは町中の屋根から「帰ったぞ」と叫んだ。

 ガルムは誰にも迎えられなかった。

 彼は広場の端で、千風荘があった坂を見上げていた。

 エルネは隣に立った。

「西の青浜へ行くんですか」

「家がなくなった」

「飛行艇を借りればいい」

「灰を撒いたあと、帰る場所がない」

 エルネは旧観測塔を指した。

 町の切断計画が中止になり、迷子捜索団の本部も残ることになった。だが塔は広すぎて、四人では掃除が追いつかない。

「部屋、余ってます」

「子どもの秘密基地に老人が住むのか」

「元・伝説の探検家なら、ぎりぎり許可します」

「私は機嫌の悪い亡霊だ」

「家賃は風瓶一本で」

 ガルムは鼻を鳴らした。

「高いな」

十 余白に描くもの

 三か月後、旧観測塔の屋根には小さな翼がついた。

 千風荘ほど立派ではない。翼は古い会社旗とパン袋を縫い合わせ、機関はピムが三回爆発させ、脚はジャジャが拾った街灯を使い、キケエは食卓だけを頑丈に作った。

 ガルムは毎日、文句を言いながら働いた。

 塔の一階は薬草湯の分室、二階は修理工房、三階は地図室になった。屋根裏には、迷子捜索団改め〈空路探検団〉の札が掛かっている。

 ベルクは灰真鍮社を解任されたあと、ミルネラの浮力監督官になった。本人は「一時的な職だ」と言い続けているが、子どもたちは誰も信じていない。

 雲喰い谷については、地図上に大きな赤い円を描いた。

 〈立入禁止。声に返事をしないこと。絶対に掘らないこと。〉

 その下に、ジャジャが勝手に書き足した。

 〈ただし、世界が終わりそうなら空路探検団へ相談。〉

 ある晴れた朝、ガルムは銀の骨壺を持って屋根へ上がった。

 新しい小型飛行艇の初飛行だった。

 エルネたちは全員、食卓を囲んで座る。中央にはキケエの焼いた輪パン。舵の横には、千風荘からたった一本だけ残った風瓶が括りつけられていた。

 札には、こうある。

 〈まだ知らない場所〉

 ガルムは瓶の栓を抜いた。

 中は空だったはずなのに、やわらかな風が吹いた。

 砂漠の熱、氷海の冷たさ、秋祭りの匂い、西の青浜の潮気。そのすべてがほんの少しずつ混じり、その中に、誰かの笑い声が聞こえた気がした。

 ガルムは骨壺を開けた。

 銀色の灰が風に乗り、朝日にきらめきながら、西へ流れていく。

「行ってこい、セルマ」

 今度は、森も谷も返事をしなかった。

 風だけが、翼を膨らませた。

 新しい家は、ぎこちなく屋根から離れた。町の尖塔をかすめ、鐘楼の上を越え、空海へ出る。

 エルネは膝の上に真新しい地図を広げた。

 ミルネラの西側には、まだ大きな余白がある。

 以前なら怖かった。

 今は、そこへ一本目の線を引く。

 線の始まりには、丸を描いた。

 その横に、小さく書く。

 ――帰ってこられる場所。

 家は千の風の名残を翼に受け、まだ誰も知らない空へ進んでいった。

(了)