十四回目の鐘が鳴る町

 宇宙人が僕の台所に落ちてきたのは、同窓会の案内状を千切って、買ってきたコロッケの油を吸わせていたときだった。

 まず天井が青く光った。

 次に、屋根の上で巨大な鍋でもひっくり返したような音がして、石膏の粉と断熱材と、ひどく機嫌の悪そうな女が降ってきた。

 女は僕の食卓に着地した。正確には、食卓に置いてあったコロッケ三個のうち二個を踏みつぶして着地した。

「朱村進、三十九歳、未婚。本人確認を要求します」

 黒い髪が水の中にいるみたいにふわふわと浮いている。琥珀色の瞳の奥で、細い光の輪が三つ、別々の速さで回っていた。銀色の服は宇宙服というより、デパートの包装紙を全身に巻いたように見えた。

「先に、うちの天井を確認してもらえますか」

「質問で質問に返すのは、低文明圏で交渉を遅延させる典型的手段です」

「低文明圏には敷金という制度があるんです」

「本人と確認しました」

 女は、ぺしゃんこになったコロッケを靴底からはがし、匂いを嗅いだ。

「油脂、芋、哺乳類の肉、焦燥、独居臭」

「最後の二つは成分じゃない」

「地球語では成分です」

 そう言って、彼女は胸元から一枚の紙を取り出した。

 黄ばんだ原稿用紙だった。

 右肩に、片目のついた風車の絵がある。三枚の羽根は長さがばらばらで、真ん中の丸に、黒い点が一つ。僕はその絵を知っていた。

 小学校六年生の夏、僕たち五人が作った秘密結社――「木曜星人対策本部」の印だった。

 紙には、子どもの字でこう書かれていた。

『二〇二六年七月十日 午後七時十三分

 星見台の鐘が十三回鳴る。

 空から花嫁が降りる。

 七尾坂の人は、一つだけ嘘を忘れる。

 進が花嫁に口づけすれば、世界はつづく。』

 最後に、僕の名前と、ソースで押した親指の跡があった。

「受理番号、地球辺境区七尾坂三一一号。婚姻ならびに局地的現実改稿の立会人として到着しました」

 女は言った。

「私はスケル。あなたの花嫁です」

「これは小学生の悪ふざけです」

「宇宙に悪ふざけという免責区分はありません」

「ありますよ。たぶん宇宙の半分くらいは、それでできてる」

「その認識だけは正確です」

 スケルは僕の皿から、無事だった最後のコロッケを取った。

「儀式は明日です。直ちに七尾坂へ向かいます」

「行きません」

「では、この周辺三百二十キロメートルの現実が、住民の多数決で書き換えられます」

「行きます」

 僕は、まだ油の染みた同窓会の案内状を見た。

『星迎え祭・特別同窓会

 忘れて、前へ。

 七月十日、七尾坂市立星見台にて』

 片目の風車が、印刷された紙の上で笑っていた。

 七尾坂は、海と山の間に置き忘れられたような町だ。

 新幹線は通らない。高速道路は町の手前で気が変わる。名物は潮風で錆びた自転車と、どの店で食べても少し甘い焼きそば。僕が十八歳で出ていったあと、人口は半分近くになったと聞いていた。

 ところが二十一年ぶりに降りた駅は、人であふれていた。

 駅前には片目の風車の旗が何百本も並び、商店街のシャッターには銀色の花嫁が描かれている。土産物屋では「十三の鐘まんじゅう」が売られ、子どもたちは風車の仮面をつけて走り回っていた。

 横断幕には、同じ言葉があった。

『忘れて、前へ。七尾坂・星迎え祭』

「人気の宗教ですか」とスケルが訊いた。

「僕らの落書きです」

「地球では、落書きが成長すると宗教になるのですね」

「だいたいそうです」

 スケルは東京からずっと、僕の古いレインコートを着ていた。銀色の服のままだと目立つからだ。もっとも、髪は相変わらず重力を無視して揺れ、駅の自動改札は彼女が通るたびに『皇族用航路を検索しています』と表示した。

「進!」

 声に振り返ると、赤い取材腕章をつけた女が、人混みをかき分けてきた。

 森下アヤだった。

 小学生のころ、男子より速く走り、男子より強く殴り、男子より早く初恋の相手を決めていた。僕はその相手ではなかった。二十六年たった今も、目だけは昔と同じように、こちらの嘘を一枚ずつ剥がすような光をしている。

「本当に来たんだ。案内状、三回無視したくせに」

「四回目はコロッケの下敷きにした」

「最低」

「天井から事情が降ってきたんだ」

 スケルが一歩前へ出た。

「妻です」

「違います」

「明日から妻です」

「もっと違います」

 アヤは僕とスケルを見比べ、遠慮なく吹き出した。

「東京に出て、とうとうそういう業者に引っかかったの?」

「違う。これは宇宙行政の事故だ」

「たいていの結婚も似たようなものよ」

 彼女は笑ってから、急に声を低くした。

「進。あの印、覚えてるよね」

「もちろん」

「市は、百年前の星迎え伝説から見つかった印だって発表してる。でも、あれは私たちが描いた。そうちゃんが考えた観光企画にしても、やりすぎだと思わない?」

 そうちゃん。

 真鍋壮一。

 木曜星人対策本部のリーダーで、いまは七尾坂市長だった。

「同窓会には来る?」

「そのために来た」

「それと、案内状の裏。『五人、全員集合』って書いてあったでしょ」

「五人?」

 僕が訊き返すと、アヤの表情が止まった。

「進、私たち、何人だったっけ」

「四人だろ。僕と、アヤと、そうちゃんと、ゴン」

「そうだよね。四人だよね」

 彼女はそう言いながら、鞄から一枚の写真を出した。

 古びたポラロイド写真だった。

 星見台のフェンスの前に、十二歳の僕たちが並んでいる。僕、アヤ、壮一、太ったゴン。四人とも片目の風車を描いた段ボールのバッジを胸につけている。

 けれど、僕とアヤの間には、不自然な隙間があった。

 そこだけ、人の形に白く焼けている。

 写真の裏には、五人分の筆圧で、こう書かれていた。

『木曜星人対策本部 全員集合』

「この写真を見るたび、誰かの名前が喉まで出かかるの」とアヤは言った。「でも、思い出そうとすると、頭の中で鐘が鳴る」

 隣で、スケルが黙って写真を見ていた。

 彼女の左の耳たぶが、青く光っていた。

 東京からの道中で知ったことが一つある。

 スケルは嘘をつくと、耳が光る。

「知ってるんだな」と僕は言った。

「機密です」

「耳」

「これは感情照明です」

「何の感情?」

「殺意」

 青い光が、少し強くなった。

 同窓会は、廃校になった七尾坂第二小学校の体育館で開かれた。

 壁には僕たちの卒業制作が残っていた。色あせた海、色あせた山、色あせた将来の夢。その下に、祭りのための巨大なスクリーンが置かれ、市長の真鍋壮一が演説していた。

「七尾坂には、忘れなければ進めない悲しみがあります」

 そうちゃんは、子どものころから人前で話すのがうまかった。缶蹴りのルールを説明するだけで、全校集会みたいになった。三十九歳になった彼は、白いシャツの袖をまくり、穏やかな笑顔を浮かべている。テレビで見る地方の若手政治家、そのままだった。

「明日の星迎え祭で、私たちは古い痛みに区切りをつけます。忘れることは、裏切ることではありません。未来を選ぶことです」

 拍手が起きた。

 会場の全員が、胸に片目の風車のバッジをつけていた。

 スケルは受付でもらったプリンを、すでに十七個食べていた。宇宙では乳製品が貴金属扱いらしい。十八個目に手を伸ばしたところで、壮一が僕たちに気づいた。

「進!」

 壇上から降り、昔と同じように両手を広げて近づいてくる。

「来てくれたか。うれしいよ」

「町じゅう、僕らの秘密基地みたいになってるな」

「使わせてもらった。怒ったか?」

「著作権料しだい」

「市の財政を知ってて言うなよ」

 壮一は笑い、スケルを見た。

 一瞬だけ、その顔から血の気が引いた。

「こちらは?」

「婚約者です」とスケル。

「災害です」と僕。

「進は昔から、変わった子に好かれたな」

 その言い方が、胸に引っかかった。

「昔から?」

「いや、言葉のあやだ」

 壮一の胸のバッジが、かすかに振動した。

 スケルの耳が青く光る。

 そのとき、体育館の明かりが一斉に消えた。

 暗闇の中で、スクリーンだけが白く光った。

 片目の風車が大きく映り、どこからともなく、子どもの声が流れた。

『みんなが同じ嘘を言ったら、ほんとになる』

 ざわめきが起きる。

『でも、ほんとになった嘘の外に、だれかひとり、置いていかれる』

 雑音。

 遠くで鐘の音。

 そして、少女の笑い声。

『進くんは、忘れないでね』

 僕の後頭部で、何かが割れた。

 夏草の匂い。

 錆びたフェンス。

 赤い長靴。

 僕の手を握る、小さくて冷たい指。

「たま、お」

 名前が、口からこぼれた。

 非常灯が点いた。

 壇上で壮一が、青ざめた顔をしていた。アヤは放送機材のそばに立ち、古いカセットテープを掲げている。

「市の展示室にあったタイムカプセルから、先に回収した」と彼女は言った。「そうちゃん。説明して」

 会場の視線が壮一に集まる。

 壮一はしばらく黙り、それからマイクを持った。

「古い悪ふざけです。祭りを妨害したい人間がいるようですが――」

『うそ』

 今度はスクリーンではなく、スケルが言った。

 彼女の髪が大きく持ち上がり、体育館の蛍光灯が一本ずつ破裂した。

「真鍋壮一。あなたは、この惑星の合意改稿装置を不正に起動しようとしている」

「何者だ」

「婚姻立会人」

「そこは重要じゃない」と僕は言った。

 壮一は、僕を見た。

 昔、秘密基地で敵役を決めるときと同じ目だった。

「進。星見台へ来い。全部、思い出させてやる」

 星見台は、町を見下ろす丘の上にある。

 もとは気象観測所で、戦後に時計塔が増築された。僕らのころには閉鎖され、フェンスには『立入禁止』と書かれていた。もちろん、立入禁止は十二歳の子どもにとって、『秘密基地に最適』という意味だった。

 夜の坂道を、僕、アヤ、スケル、壮一の四人で上った。

 祭りの準備で、塔には無数の電球が巻かれている。丘の下では、町じゅうのスピーカーが同じ音楽を流していた。明るく軽快で、何かを考える隙間を与えない曲だった。

「ゴンは?」と僕は訊いた。

「三年前に死んだ」と壮一は答えた。「肝臓だ。最後まで、五人目の名前を思い出そうとしてた」

「たまおだ」

「そうだ。黒木玉緒」

 名前を聞いた瞬間、記憶がまた戻った。

 転校してきた少女。

 季節外れの赤い長靴。

 給食のプリンを、宝石みたいに眺める癖。

 自分は遠い星から来た、と真顔で言うので、クラス中から「宇宙人」と呼ばれていた。

 夏休みが終わる前に、故郷の星へ帰らなければならないとも言っていた。

 僕だけは笑わなかった。

 信じたわけではない。ただ、彼女が嘘をつくとき、左の耳たぶが青く光るのを知っていたからだ。

 僕はスケルを見た。

「玉緒」

 彼女は前を向いたまま歩いた。

「その呼称は、現地滞在用の仮名です」

「給食のプリンを七個盗んだ」

「貴重資源の保護です」

「僕の自転車の後ろに乗って、月まで競争しろって言った」

「低重力圏への移動訓練です」

「泣くと鼻水が出た」

「それは別人です」

「耳が青い」

「……感情照明です」

 アヤが立ち止まり、息を呑んだ。

「玉緒なの?」

 スケルは答えなかった。

 壮一が、星見台の鉄扉に手を当てた。片目の風車のバッジが光り、何十年も錆びついていた扉が、音もなく内側へ開いた。

 地下へ続く階段が現れた。

「一九九九年八月十二日」と壮一は言った。「俺たちはここへ入った。玉緒に連れられて」

「違う」と、僕の口が勝手に言った。「僕が連れてきた」

 赤い非常灯。

 壁に並んだ銀色の管。

 奥にあった、大きな赤いボタン。

 『押すな』と書いてあった。

 だから僕は、押した。

 思い出した瞬間、膝から力が抜けた。

 地下の装置は、観測所の機械ではなかった。

 玉緒は止めようとした。僕は笑って、宇宙人なら止めてみろと言った。赤いボタンを押すと、丘の下で地面が割れた。町の古いガス管と、地下に不法投棄されていた薬品が一斉に爆発した。

 火の柱が上がった。

 窓ガラスが空へ飛んだ。

 僕らは、塔の上から、七尾坂が燃えるのを見た。

 死者は、三千人を超えた。

 そのはずだった。

「玉緒は、この装置を使った」と壮一は言った。「町じゅうのラジオとテレビに声を流して、『爆発は起きなかった』と言わせた。生き残った人間は、みんな同じ言葉を繰り返した」

 階段の先に、巨大な空洞があった。

 中央に、黒い鐘が浮かんでいる。

 鐘の表面には、数え切れないほどの文字が流れていた。日本語、英語、見たことのない記号。そして、子どもの筆跡で描かれた片目の風車。

「合意改稿装置」とスケルが言った。「観測文明が、未成熟惑星の社会形成を調査するために残したもの。十分な数の知性体が、同じ虚偽を同時に選択すると、周囲の現実をその虚偽に整合させます」

「願いが叶う機械?」とアヤ。

「いいえ。多数決で、少数派を世界の外へ捨てる機械です」

 スケルの声は、いつもの皮肉を失っていた。

「一九九九年、爆発はなかったことになった。死者は生者へ戻り、建物も元へ戻った。しかし、改稿前の現実を知り、なお虚偽に同意しなかった者が一人いた」

「玉緒」と僕は言った。

「私は、この町の現実から排除された。戸籍も、写真も、家族の記憶も消えた。あなたたちの記憶だけは、印に残した保護信号のおかげで完全には消えなかった」

 壮一が黒い鐘を見上げた。

「そして今夜、もう一度使う」

 空洞の壁に、映像が浮かんだ。

 二年前の豪雨。

 崩れる山。

 濁流に呑まれる住宅。

 ニュース映像の中で、壮一が泥だらけになって叫んでいる。

「市は、土砂災害の危険を知っていた」とアヤが言った。「避難指示が遅れた。亡くなった十二人の中に……」

「妻と息子がいた」

 壮一の声は静かだった。

「俺が予算を削った。俺が『この程度の雨なら大丈夫だ』と言った。俺が殺した」

 彼は振り返った。

「明日、町の全員が『あの日、土砂崩れは起きなかった』と言う。家族は戻る。十二人全員、戻る。何が悪い」

「代わりに、誰かが外へ捨てられる」と僕は言った。

「一人だ」

「一人だぞ」

「三千人を救うために、玉緒は一人で消えた。十二人を救うために、今度は一人。数は合う」

「人間を割り算に使うな」

 僕の声は、思ったより大きく響いた。

 壮一の顔が歪んだ。

「東京へ逃げたお前に何がわかる。俺は二十六年、この町で毎朝、何もなかった顔をして生きてきた。市長になって、町を守ると言い続けて、最後には自分の家族も守れなかった。忘れて前へ? そんな言葉、信じてるわけないだろ。忘れたふりをしなきゃ、人は朝起きられないんだ」

 誰もすぐには答えられなかった。

 黒い鐘の中で、低い音が鳴った。

 一回。

 地上の時計塔が、試運転を始めたのだ。

「明日の午後七時十三分」とスケルが言った。「十三回目の鐘で、住民の音声が同期されます。私は装置を停止します」

「できるのか」

「そのために来ました」

「花嫁として?」

「現実から排除された者は、同じ場所へ戻れません。ですが、婚姻契約は二名を一つの法的単位として扱う。あなたが子どものころ提出した契約が、私をここへ引き戻す通行証になった」

 僕は、黄ばんだ原稿用紙を思い出した。

「じゃあ、あの予言は」

「あなたが作った」

「どうして宇宙に届いた」

「紙の下に、私が送信板を敷いた」

「共犯じゃないか」

「十二歳でした」

「宇宙法に未成年者取消は?」

「ありません」

「宇宙は法整備からやり直せ」

 アヤが、こんな状況なのに笑った。

 壮一だけは笑わなかった。

「止めさせない」と彼は言った。

 壁の銀色の管から、白い光が走った。

 僕たちの胸の高さに、透明な壁が生まれる。壮一は向こう側へ下がり、地上へ続く別の扉を開いた。

「明日、町は家族を取り戻す。お前たちは、ここで見ていろ」

 扉が閉まった。

 透明な壁は、触れると子どものころの記憶を見せた。

 アヤが叩くと、運動会で転んだ場面が浮かんだ。

 僕が蹴ると、父親に初めて嘘をついた夜が映った。

 スケルが指先で触れると、何も映らなかった。代わりに壁全体が青く染まった。

「便利だな」と僕は言った。「反省会には向いてる」

「現実改稿装置の安全隔壁です」

「安全って、閉じ込められてるけど」

「安全には、たいてい誰かを閉じ込める機能があります」

 地上から祭りの音が聞こえた。

 日付が変わり、七月十日になっていた。

 アヤは鞄からカセットを出した。

「これ、まだ続きがある」

 携帯用の古いプレーヤーに入れ、再生する。

 十二歳の僕たちの声が流れた。

 笑い声。風の音。遠くの鐘。

『将来のぼくたちへ。木曜星人対策本部の最後の会議を始めます』

 子どもの壮一が言う。

『二十六年後、玉緒が地球へ帰る方法を決めます。進、意見は』

『大人になったら、ぼくが玉緒と結婚する』

『きもちわる』

『アヤ、うるさい』

『結婚したら、同じ家の人になるから。そしたら、玉緒は外じゃなくなる』

『進くん、意味わかって言ってる?』

 玉緒の声。

『わかってる。たぶん』

『たぶんじゃ困る』

『じゃあ絶対』

『絶対は、いちばん嘘になりやすい言葉だよ』

『それでも覚えてる』

『何を?』

『玉緒がいたこと』

 長い沈黙。

 それから少女が、泣きながら笑う声。

『じゃあ、約束。鐘が十三回鳴ったら、迎えに来る』

 テープはそこで終わった。

 僕は、透明な壁に背中を預けた。

「僕は忘れた」

「完全には」とスケルが言った。

「二十六年だぞ」

「私の時間では、七か月です」

「便利な時間だな」

「待つ側には長かった」

 初めて、彼女が僕をまっすぐ見た。

 琥珀色の瞳の奥で、光の輪が止まっていた。

「私は監査官ではありません。資格もありません。書類を盗み、航路を偽装し、ここへ来ました。あなたの契約がなければ、二度と地球の現実には入れなかった」

 耳たぶは光っていない。

「じゃあ、明日装置を止めるっていうのも」

「できます。たぶん」

「たぶんじゃ困る」

「あなたの文明の言い方を学びました」

 アヤが咳払いした。

「再会の空気を壊すようで悪いけど、壁を壊す方法は?」

「婚姻認証」

「具体的には?」

「原稿用紙に記載されたとおりです」

 僕とスケルは同時に黙った。

 アヤはにやりと笑った。

 小学生のころと同じ、ろくでもないことを思いついた顔だ。

「世界を救うためなら仕方ないんじゃない?」

「楽しんでるだろ」

「二十六年分」

「私は業務上、異論ありません」とスケル。

「君も少しは照れろ」

「顔面温度は一・八度上昇しています」

「それは照れてるのか」

「プリンの食べすぎです」

 そのとき、地上で花火が上がった。

 透明な壁が震える。

 僕は、スケルの肩に手を置いた。

 彼女の髪が、驚いた猫の尻尾みたいに逆立った。

「認証だけだ」と僕は言った。

「はい」

「契約の同意とは別」

「はい」

「目を閉じる?」

「宇宙では相手の逃走を防ぐため、開けます」

「地球では閉じてくれ」

 スケルは目を閉じた。

 唇が触れた瞬間、体育館の床にワックスをかけすぎた日の匂いがした。夏の秘密基地。赤い長靴。プリンの銀紙。忘れていた時間が、一気に胸へ戻ってきた。

 透明な壁が、盛大な音を立てて割れた。

 アヤが拍手した。

 スケルが目を開け、低い声で言った。

「二・三秒。地球平均より短い」

「統計を取るな」

「再認証を推奨します」

「逃げるぞ」

 七月十日、午後七時十三分。

 星見台の丘には、七尾坂の住民ほぼ全員が集まっていた。

 片目の風車の仮面。

 片目の風車の旗。

 片目の風車を映した何千台もの携帯電話。

 時計塔の下に、壮一が立っている。

 背後の巨大スクリーンには、亡くなった十二人の写真が映っていた。妻と、十歳の息子。壮一は二人の写真だけを見ていた。

 一回目の鐘が鳴った。

 黒い音が、空から落ちてくる。

 町じゅうの窓が震えた。

 二回。

 三回。

 住民の携帯電話に文字が表示される。

『あの日、土砂崩れは起きなかった』

 壮一がマイクを持つ。

「これは、失った人を取り戻すためです。皆さん、私と同じ言葉を」

 四回。

 五回。

 人々が読み上げ始める。

「あの日、土砂崩れは起きなかった」

 声は最初ばらばらだった。

 六回目で揃い始めた。

 七回目には、町そのものが喋っているように聞こえた。

 僕たちは地下から走り、群衆の後ろに出た。アヤが放送車へ向かう。スケルは時計塔の制御盤へ。僕は人の波をかき分け、壇上へ進んだ。

 八回。

 空が、古いフィルムのようにちらついた。

 土砂崩れの跡地に、消えた家々の輪郭が現れる。

 写真の中の十二人が、ゆっくりこちらを向いた。

 九回。

「やめろ、そうちゃん!」

 僕の声は群衆に呑まれた。

 壮一は僕を見つけた。

 泣いていた。

「もう少しなんだ、進」

 十回。

 スクリーンに、壮一の妻が映る。

 泥のついていない顔で、笑っていた。

 息子が手を振る。

 群衆の声が大きくなる。

「あの日、土砂崩れは起きなかった」

 十一回。

 スケルが制御盤へ手を差し込む。

 青い光が塔を駆け上がった。だが、町じゅうの風車の印が赤く光り、彼女の体を弾き飛ばした。

「住民の同意率、九十二パーセント!」とスケルが叫ぶ。「停止権限を超えています!」

 十二回。

 僕は壮一からマイクを奪った。

 彼は抵抗しなかった。

 目の前に、十二歳の僕が見えた。

 赤いボタンへ手を伸ばし、笑っている。

 その後ろで、玉緒が泣いている。

 僕は町へ言った。

「一九九九年八月十二日、星見台で爆発は起きた」

 群衆の声が揺れた。

「僕が装置を押した。僕が町を壊した。黒木玉緒という女の子が、みんなを救った。僕たちは生き返って、彼女だけを忘れた。そうちゃんも、アヤも、ゴンも、僕も知っていた。怖くて、ずっと黙っていた」

 スクリーンの映像が乱れる。

 写真の十二人の顔に、白い亀裂が走った。

「進、黙れ!」と壮一が叫んだ。「あと一回だ!」

「土砂崩れは起きた。十二人は死んだ。市は危険を知っていた。そうちゃんは判断を誤った。僕たちは、それを忘れちゃいけない」

「正しいことを言えば、人が戻らなくてもいいのか!」

 壮一の叫びは、鐘より大きかった。

 僕は答えられなかった。

 正しさは、墓の前ではいつも薄っぺらい。

「よくない」と僕は言った。「戻ってほしい。今すぐ戻ってきてほしい。僕だって、玉緒に二十六年返したい。でも、誰かを世界の外へ落として作る再会は、救いじゃない。次に悲しみが来たら、また誰かを捨てることになる」

 壮一が僕の胸ぐらをつかむ。

「じゃあ俺は、どうやって明日の朝を迎える」

「忘れないまま迎えるんだ」

 それは残酷な言葉だった。

 だから僕は、彼と一緒に泣いた。

 十三回目の鐘が鳴った。

 世界から、音が消えた。

 町が二つに重なっていた。

 土砂崩れの起きた七尾坂。

 起きなかった七尾坂。

 道の上に家が立ち、家の中を濁流が流れ、死んだ人と生きた人が同じ場所で互いを通り抜けた。

 黒い鐘が、空に浮かんでいる。

『同意率、八十八・四パーセント』

『改稿不成立』

『不整合解消のため、記憶保持者一名を排除します』

 機械の声が、全員の頭の中で響いた。

 風車の印が回り始める。

 群衆の視線がスケルへ集まった。

 彼女の体が、端から透けていく。

「またか」とスケルは、小さく言った。

 僕は彼女の手をつかんだ。

 冷たかった。十二歳の夏と同じだった。

「婚姻契約は二人を一つにするんだろ」

「進、離して」

「業務上、異論はないんじゃなかったのか」

「これは業務ではありません」

「じゃあ何だ」

「個人的に、あなたを失いたくない」

 耳たぶが、青く光っていた。

「嘘だな」

「はい」

 僕は黄ばんだ原稿用紙を取り出した。

 最後の行の下に、いつの間にか新しい文字が浮かんでいる。

『花嫁が戻るとき、迎えた者は町を出る』

 十二歳の玉緒が書いた、小さな字だった。

「知ってたのか」

「読み落としました」

「耳」

「故障です」

 僕は原稿用紙に、自分の名前を書いた。

 朱村進。

 今度はソースでも鉛筆でもなく、アヤから借りた油性ペンで。

「進!」とアヤが叫ぶ。

 僕はスケルを抱き寄せた。

「二回目は平均より長くする」

「比較対象が少なすぎます」

 口づけた瞬間、十四回目の鐘が鳴った。

 時計塔に、十四回目を鳴らす仕組みはない。

 それでも鳴った。

 一度目の夏に忘れられた少女のため。

 二度目の夏に忘れられる男のため。

 音は町を通り抜け、海の向こうへ消えた。

 目を開けると、朝だった。

 星見台の丘には、祭りの旗が散らばっていた。

 土砂崩れで失われた人々は戻らなかった。けれど、スクリーンには一九九九年の事故記録が映り、町の人々は、黒木玉緒の名前を口にしていた。

「玉緒ちゃんを、どうして忘れてたんだろう」

「第二小にいた子だ」

「プリンが好きだった」

「変な長靴を履いてた」

 人々の記憶の中に、彼女が戻っていた。

 壮一は塔の下に座り、妻と息子の写真を抱いていた。

 アヤがその隣にいた。

 僕は二人へ近づいた。

「そうちゃん」

 壮一は顔を上げた。

 礼儀正しい、知らない人を見る目だった。

「どちらさまですか」

 アヤも僕を見た。

「取材の方? すみません、いまは市長に質問しないで」

 胸の奥に、冷たい穴が開いた。

 僕はスマートフォンを出した。

 連絡先から、七尾坂に関係する名前が消えていた。卒業写真の僕の場所は白く焼け、写真の裏には四人分の名前しかない。

 木曜星人対策本部は、壮一、アヤ、ゴン、玉緒の四人で作られたことになっていた。

「僕が外へ出たのか」

 スケルだけが、丘の端に立って僕を見ていた。

「局地現実からの排除です。町の境界を越えれば、行政上の記録は一部戻ります。ただし、七尾坂の人々はあなたを思い出せない」

「ずいぶん局地的な死刑だな」

「宇宙行政は、名称を穏やかにするのが得意です」

 僕は笑おうとした。

 うまくいかなかった。

 丘を下りる前に、アヤが僕を呼び止めた。

「あの」

 振り返る。

「どこかで、会いました?」

 僕は答えかけた。

 そのとき、アヤの胸の風車のバッジが、一度だけ回った。

 彼女は眉を寄せた。

「変ね。あなたを見ると、頭の中で鐘が鳴る」

「たぶん、耳鳴りです」

 僕は言った。

「お大事に」

 一年後、七尾坂の星迎え祭は、名前を変えて続いていた。

『忘れず、前へ。七尾坂・記憶祭』

 一九九九年の事故と隠蔽は公表され、星見台の地下装置は封鎖された。壮一は市長を辞め、災害対応の責任を問う裁判で証言した。アヤの記事は全国賞を取り、亡くなった十二人の慰霊碑と、黒木玉緒の小さな像が丘に建てられた。

 像の手には、プリンが一個握られている。

 造形した人は、理由を知らなかったという。

 僕は祭りの日、観光客に混じって町へ戻った。

 スケルも一緒だった。

 地球監査局の身分を本当に取得し、いまは各地に埋まった「合意改稿装置」の回収をしている。僕はその報告書を書く仕事をしている。

 宇宙にも謝罪文は多い。

 むしろ宇宙だからこそ多い。

「地球側担当者の過失により、小惑星帯の配置が一部変更されましたことを、深くお詫び申し上げます」

「それ、君が蹴った隕石だろ」

「低重力下の不可抗力です」

「監視映像では助走してた」

「文章を柔らかくしてください」

 僕たちは星見台の丘へ上った。

 僕を知る人は誰もいない。

 それでも、不思議と去年ほど苦しくなかった。

 時計塔が鳴り始める。

 一回、二回。

 町の人々が、静かに数える。

 十三回で、誰も拍手をしなかった。

 みんな空を見上げ、もう一度待った。

 十四回目。

 子どもが祖母に訊いた。

「どうして十四回なの? 星迎えは十三の鐘なんでしょ」

 祖母は考えてから答えた。

「昔ね、この町は大事な誰かを忘れたらしいの。でも、誰を忘れたのかも忘れちゃった。だから最後の一回は、その人が帰る道を間違えないように鳴らすんだって」

 僕は時計塔を見上げた。

「機械に十四回目の機能はないんだろ」と訊いた。

「ありません」

「じゃあ、どうして鳴る」

「人間は、ときどき装置よりしつこい」

 スケルが僕の手を握った。

「ところで、重大な連絡があります」

「嫌な予感しかしない」

「一年前の婚姻契約ですが、正式受理されていません」

「そうなのか」

 胸のどこかが、少しだけ軽くなり、少しだけ沈んだ。

「署名欄が地球式で、星間法上の発光性が不足しています」

「よかった。じゃあ僕らはまだ――」

「本日、再提出します」

 丘の向こうから、銀色の円盤が一機、二機、三機と現れた。

 空いっぱいに増えていく。

 円盤の窓から、角の生えた者、三つ目の者、クラゲのような者たちが手を振っている。駅前の自動改札が遠くで一斉に鳴り、『皇族婚礼航路を設定しました』と町じゅうへ宣言した。

「親族です」とスケルは言った。

「何人いる」

「近い親戚だけで八千四百」

「七尾坂の人口より多い」

「プリンは用意しましたか」

「してない」

「外交問題です」

 町の人々は、祭りの余興だと思って歓声を上げた。

 スケルは僕に、銀色に光る婚姻届を差し出した。

 僕は受け取り、今度こそ細かい字まで読んだ。

 最下段に、見覚えのない条項があった。

『本契約の当事者は、互いが存在したことを、宇宙の終了まで忘れない。』

「絶対は、いちばん嘘になりやすい言葉じゃなかったか」

 スケルの耳たぶが、青く光った。

「だから、二人で本当にします」

 十四回目の鐘の余韻の中で、僕は署名した。

 その夜、七尾坂の人々は、空に月が二つあるのを見た。

 誰も驚かなかった。

 この町では、忘れていたものが帰ってくるのは、もう珍しいことではなかったからだ。